花火大会の翌日である月曜日。文芸部の部室に向かいながら、侑は少しだけ緊張していた。

 紬との関係が変わったわけではない。特別な言葉を交わしたわけでもなく、祭りを楽しみ、隣で花火を見ただけだ。
 それでも侑の心境には少し変化があった。紬のことを、女の子として意識してしまっている。好きなのかもしれない、と思う一方で、次の恋には慎重でありたいと考える自分がいることにも、侑は気づいていた。

 紗枝と別れてから、まだ日が浅い。そして何より、紗枝を傷つけてしまったことも、侑の心に引っかかりを残している。
 自分では普通に恋愛をしているつもりで、紗枝に対しても好きだという気持ちは抱いていた。しかし侑の気持ちは、紗枝が向けてくれる気持ちと、釣り合いがとれていなかったのだ。
 もしも侑が次に誰かと付き合うことがあるならば、今度は相手を傷つけたくない。そのためには慎重に自分の気持ちと向き合わなければ、と侑は考えていた。

「………………朝日さんはどっちなんだろう」

 思わず漏れたひとりごとと共に、侑は部室へ向かう足を止める。

 紬が侑に好意を抱いてくれている。その考えは、思い上がりだろうか。
 言葉、表情、仕草、態度。小さなピースを組み合わせていくと、紬の恋心が浮かび上がってくるような気がするのだ。
 しかし侑の勘違いである可能性も大いにあり得る。
 紬を女の子として意識し、恋心として育ちつつある侑の気持ち。もしこれが恋なのだとしたら、紬も同じ気持ちだったら嬉しい。どうしてもそう考えてしまうせいで、紬の態度を都合のいいように解釈してしまっているのかもしれない。

 紬が侑に対してどんな気持ちを抱いているかは、結局本人に訊ねない限り分からないのだ。
 そして、もしも紬の気持ちを訊ねる日が来るとしたら、それは侑の抱く気持ちが恋だと確信したときになるだろう。
 二人の気持ちが恋であっても、そうではなかったとしても、どちらにせよ今の侑にできることは一つだけだ。

 小説家になる、という紬の夢が叶うように、手助けをする。それが今の侑にできることであり、やりたいことなのだ。


 文芸部の部室に着くと、珍しく紬はまだ来ていなかった。自由活動なので特に集合時間などは決めていないが、紬はいつも侑よりも先に部室にいる。
 時計を見ると九時半過ぎで、侑が到着した時間はいつもとほとんど変わらないようだった。
 夏休みでも授業があるときと同じ時間に起きているのだ、と紬は言っていた。アラームを五個セットしないと起きられない侑とは大違いだ。

 部室のカーテンを開け、エアコンをつける。侑はいつもの机で紬の小説ノートを開いた。入力作業を終えるときは、必ず次に入力するページに付箋を貼っているので、作業はすぐに始められる。
 紬はまだ来ないのかな、と気にしていたのは最初の十分程度で、その後の侑は入力作業に没頭していた。

「おはようございます……!」

 ガラガラ、と部室のドアが開き、紬の声が響く。侑は顔を上げ、おはようと挨拶を返す。それから時計に目をやると、もう十一時になろうとしていた。集中している間にかなり時間が経っていたらしい。額に汗が滲んでいることに気づき、侑はスポーツタオルで汗を拭った。

「朝日さんがこれくらいの時間って初めてじゃない? 珍しいね」
「すみません、遅くなっちゃって……。うちに乾燥機がないので、乾くのに時間がかかっちゃいました」

 紬は眉尻を下げて笑い、水色の紙袋を侑に差し出した。
 紙袋にはレディースファッションブランドのロゴが入っている。侑でも知っている有名なブランドで、学生向けの清楚なデザインの服を販売しているイメージがあった。花火大会のときに紬が着ていた服も、清楚な印象で、紬によく似合っていた。
 侑が紙袋を受け取って中身を確認すると、昨夜紬に貸したライトグレーのカーディガンが入っている。

「あ、もしかしてこれ乾かしてたの!? いつでもよかったのに」
「いえ、借りっぱなしだと悪いですから……」

 昨夜の花火大会は、紬の門限を守るため、最後まで見ることはできなかった。途中で切り上げることに紬は申し訳なさそうにしていたが、侑は一緒に過ごした時間が楽しくて満足していた。
 紬を家まで送る帰り道、「カーディガンは洗って返しますね」と紬が言った。侑はそのままでいいよ? と言ったのだが、紬は頑として頷こうとしない。じゃあお願いします、と侑が折れると、紬は嬉しそうに笑ったのだった。

 昨晩貸したものなのに、もう洗濯を終えて返ってくるなんて侑は想像していなかった。生真面目な紬は少しでも早くカーディガンを返却したくて、どうやら乾くのを待ってから学校に来たらしい。
 丁寧に畳まれたカーディガンを取り出すと、ほのかに甘い香りが侑の鼻をくすぐった。その香りには覚えがある。
 少し考えて、紬と同じ匂いだと気づき、侑は頰を赤らめた。

「真島くん……? どうかしました?」
「いや、なんでもない!」

 侑の顔が赤いことは、紬の目から見ても明らかなのだろう。恥ずかしさを誤魔化すように、なんでもないから! と侑が早口で紡ぐと、紬は首を傾げながらも納得してくれた。

「よかったらこれも。乾くの待ってる間に作ったので、苦手じゃなければ食べてください」

 そう言いながら紬がスクールバッグから取り出したのは、かわいらしくラッピングされた焼き菓子だった。
 マドレーヌ、いや、マフィンだろうか。侑はお菓子に詳しくないので種類は分からない。しかしきつね色の焼き色がついたカップケーキは、侑の目にはとてもおいしそうに見えた。
 
「え、いいの? ありがとう……! すごいうまそう!」
「人の手作り苦手だったら、無理はしないでくださいね」
「大丈夫、絶対食べるよ。ありがとう!」

 受け取ったカップケーキの袋からは、ふわりと甘い香りが漂う。カーディガンを入れた紙袋にまとめて入れなかったのは、お菓子の匂いが服につかないようにするためなのかもしれない。
 たったそれだけのことなのに、紬の優しさが垣間見れた気がして、侑の胸はとくん、と小さく音を立てる。

「朝日さんって何でもできるね。お菓子作りとかも得意なんだ」
「いえいえ、そんなことないですよ……! 私、運動はからっきしですし、勉強も理数系は壊滅的なので……」

 紬は恥ずかしそうに笑う。同じクラスではないので、侑は紬がどんな学校生活を送っているのか知らない。
 真面目な紬のことなので、きっと授業は真剣に受けているのだろう。でもたまには居眠りをしたりもするのだろうか。授業を受けながら睡魔と戦う紬の姿を想像して、侑は自然と笑みを浮かべていた。
 運動が苦手だと言うけれど、紬も他の女子のように、男子の体育を見学していたりするのだろうか。膝を怪我する前の侑ならば、少しはかっこいいところも見せられたのにな、なんてありもしないことを考える。

「朝日さんと同じクラスだったら楽しそうだよね」
「え…………? たぶんそんなことないですよ。私すごく地味ですし……。でも、クラスに真島くんがいたら、きっと楽しいですね」

 謙遜しながら紬が侑の考えていたことと同じことを口にしてくれる。それが社交辞令だったとしても、侑には嬉しく感じられた。

 叶うならば来年は、紬と同じクラスになってみたい。
 そんなことを考えながら、紬の語るもしも同じクラスだったら、という話に頷いていた。