顔が熱くて堪らないのは、きっと夏の暑さのせいだけではない。
 紬の手を取るために右手に持ち替えたかき氷を、侑は自分の頰に押し当てる。かき氷のカップは冷たくて気持ちいいが、手首に提げている屋台の戦利品が邪魔で、結局すぐにやめてしまった。

 女子グループのもとを離れてからは、お礼以外の言葉を交わさず歩いてきた。
 しかし原っぱに足を踏み入れてすぐに、紬が口を開いた。

「ま、真島くん…………あの、手、が……」

 繋ぎっぱなしです、と続くであろう呼びかけに反応し、侑は慌てて繋いでいた手を離した。

「…………ごめん」
「いえ、だ、大丈夫です……」

 辺りは薄暗くなってきて、紬の表情もはっきりとは確認できなかった。侑の目に映る紬は、嫌がっているようには見えない。どちらかといえば照れているような表情に見える気がするのは、そうであってほしいと侑が思っているからだろうか。

 少しの沈黙の後、紬が侑を見上げた。身長差のせいで必然的に上目遣いになる。しかし先ほどの女子にされたときと違って、不思議と侑の中に不快感は生まれなかった。
 言葉を交わさず、見つめ合う時間。先に音を上げたのは侑の方だった。

「あーーー、待って、顔見ないで。超恥ずかしい」

 恥ずかしさのあまり侑の口から紡がれたのは、ひどく情けない言葉だった。先ほどの自分の発言を思い返し、侑の脳内では反省会が始まってしまったのだ。

 紬に対する女子たちの態度が気に食わなかったのは確かだ。そんなに仲がいい訳ではなかったとしても、自分が男を捕まえるために、知り合いを邪魔者扱いするのは性格が悪すぎる。
 しかし、いくら腹が立ったからといって、侑もかっこつけすぎた。紬を口説いている最中だなんて言わずに、もっと普通に断ればよかったのだ。

 薄暗いせいで紬の表情がよく見えないと思ったのはつい先ほどのことなのに、今度は辺りの薄暗さに感謝することになった。
 きっと侑の顔は、真っ赤に染まっているに違いない。

「さっきのは忘れて。…………かっこつけすぎた。本当に、忘れていいから」

 取り繕う言葉も思い浮かばないので、侑は忘れてほしいと繰り返す。紬は目をまたたかせ、忘れませんよ、とやわらかく笑った。その声は祭りの喧騒にかき消され、侑の耳には届かなかった。しかし侑が聞き返しても、紬はなんでもないですと笑うだけだ。
 今は恥ずかしくて堪らないが、紬もそのうち忘れてくれるだろう。侑は自分にそう言い聞かせ、もう一つ大事なことを紬に伝えた。

「それと、もしさっきの女子がなんか嫌がらせとかしてきたらすぐに言ってね? 絶対逆恨みだし、全面的に俺のせいだから!」

 これはとても大事なことだった。
 同じ学校、同じクラスであっても、女子の間で行われるいじめや嫌がらせは、男には伝わらないことがある。
 さっきの女子四人組が紬とどういう関係なのかは分からないが、面倒ごとを持ち込んでこないとも限らないのだから。

 紬は少し笑って、大丈夫だと思いますよ、と楽観的な言葉を口にする。理由を訊ねると、あの人たちはプライドが高いので、と紬は答えた。

 ナンパしようとして男に振られた、というのは確かに不名誉なことかもしれない。紬の言う通り彼女たちのプライドが高ければ、わざわざナンパの失敗談は語らないだろう。

「うん、それならいいんだけど。でも何かあったらちゃんと教えてね」

 侑の言葉に頷いた後、紬はやわらかい声で呟いた。

「真島くんは、恋愛小説とか少女漫画に出てきそうです」
「えっ?」
「ヒーローみたいです」
「…………やっぱりかっこつけすぎ?」

 おそるおそる訊ねる侑に、紬は珍しく吹き出した。そして少し楽しそうに笑ってから、違いますよ、と紬は声を上げる。

「真島くんはかっこつけてるんじゃなくて、かっこいいんですよ!」

 薄暗いのがまた残念に思えるくらい、紬はとびきりの笑顔でそう言った。


 花火大会のメイン観客席となっているのは、川沿いの土手だった。紬が原っぱと言った通り、草花が広がっている。そのほとんどは花火を見たい人たちで埋め尽くされていた。

 かなり混み合っているが、二人分くらいのスペースなら確保できそうだ。途中で帰ることも考慮して、侑はなるべく端の方で腰を下ろす。紬はなかなか座らずに、バッグの中を漁っていた。そこでようやく侑は自分の気の利かなさに嘆くことになった。
 女の子は草の上に直接座ることに抵抗があるのだ。虫がいるかもしれないし、スカートも汚れてしまう。

「レジャーシートとか持ってくればよかったね」
「いえ! 私も全然思いつかなかったので……」
「あ、そうだ」

 侑は一度立ち上がって、着ていた半袖のカーディガンを脱ぐ。汗の匂いがしないことを確認し、侑は自分のカーディガンを紬に渡した。
 紬が首を傾げるので、「レジャーシート代わりに使って」と侑は笑った。

「そんな……! 悪いですよ!」
「大丈夫大丈夫。俺は元々サッカーやってたから、服汚れるのとか気にならないし」

 ちゃんと葉っぱや土を払うようにすれば、母が洗濯するときに困ることはないだろう。侑のカーディガンを受け取った紬は、少し迷った表情を浮かべ、「着てもいいですか?」とやけに小さな声で問いかけた。

「えっ、朝日さんが?」
「あ、あの、お尻の下に敷くのはさすがに申し訳なくて……! 真島くんのカーディガン、かなり大きめですし……」

 紬の言いたいことは侑にもなんとなく伝わった。グレーのカーディガンは裾が長めのデザインで、侑が着てもお尻が隠れるくらいだ。侑よりもずっと小柄な紬が着れば、スカートもほとんど隠れるかもしれない。

 朝日さんが嫌じゃなければいいよ、と答えたものの、紬がカーディガンに袖を通すときは、侑の心臓はうるさく騒いだ。
 膝丈のスカートはさすがに全て隠れず、カーディガンの下から紺色のスカートが見えている。紬がカーディガンに隠れるようにスカートを少し上にずらしたので、侑は慌てて目を逸らした。

 ようやく隣に紬が腰を下ろす。手元のかき氷を見るとかなり溶けてしまっていて、侑は残った氷を崩しながら食べた。溶けかけのかき氷を見て、紬はジュースみたいになっちゃいましたね、と笑う。

「花火、もうすぐ始まるだろうから、買ってきたやつ食べてよっか」
「そうですね、いっぱいありますから」

 たこ焼きに焼きそば、りんご飴。それから食べ歩きで半分くらいに減った唐揚げとフライドポテト。ビニール袋をシート代わりに、食べ物を広げていく。
 箸は二膳もらったので、二人は思い思いに手を伸ばしていった。一口食べるごとに紬がおいしいと笑う。そのせいだろうか、味の薄い焼きそばも、たこの小さいたこ焼きも、侑には不思議とおいしく感じられた。
 りんご飴を三分の一くらい食べたところで、紬の手が止まった。お腹がいっぱいになってしまったのか、紬は困ったような表情を浮かべている。

「……りんご飴って、食べ切れる人いるんですか?」
「まあ、りんご一つ分だから結構重いよね。ちなみに俺は一個食べ切れるよ」
「ええ……! 真島くんって細いのにたくさん食べますね……!」

 運動部で身体を動かしていたときほどではないが、侑は結構大食いだ。食べることは好きだし、食における好き嫌いもほとんどない。

「もし朝日さんが食べ切れないなら俺が食べるよ」

 何気なく口にした言葉に、紬は固まった。拍子に手からりんご飴が落ちそうになり、侑は慌てて手を伸ばす。反射的に伸びた侑の手が掴んだのは、りんご飴の持ち手ではなかった。りんご飴を持つ紬の手ごと、キャッチするような形になってしまっていた。

 数秒遅れて、紬が動揺した理由に侑も気づく。
 紬が口をつけたりんご飴。残りを侑が食べるということは、間接キスになってしまうのだ。
 
 紬が小さな声ですみません、と呟く。侑も動揺する気持ちを押し隠し、「俺もごめん」と返した。

 花火大会開始のアナウンスが流れる。辺りから拍手が起きて、侑はそっと手を離す。紬はりんご飴を持ち直し、何も言わずにもう一口りんごに齧り付いた。
 横から聞こえていた小さな咀嚼音は、まもなく花火の音にかき消された。

 大きな音と共に空に咲く、色とりどりの花。次々と空に上がる花火に、侑は思わず見惚れてしまった。しばらく見入ってから、隣にいる紬も楽しめているか気になり、侑は紬の横顔を盗み見る。紬はうっとりとした表情で花火を見つめていたが、やがて侑の視線に気づいて微笑んだ。

「きれいですね、花火」

 かけられた言葉は、ごく普通の感想だった。それなのに返す言葉がすぐに思いつかなかったのは、目を奪われてしまったからだ。
 ほとんど毎日会っている女の子。何度も笑顔は見ているはずなのに、いつもと違う雰囲気に見えるのは、花火に照らされているせいだろうか。

「うん、…………きれいだね」

 花火のことを指しているはずの言葉も、一度意識してしまえば、紬に向けた言葉のように思えてしまう。
 侑の心中を知らない紬は、控えめに笑って「真島くん」と侑の名前を呼ぶ。
 なに? と訊ねると、紬ははにかみながら小さく首を傾げた。

「りんご飴、やっぱり食べ切れないみたいなんです」
「…………うん」
「だから、お願いしてもいいですか…………? 食べかけですけど」

 花火をバックミュージックに、紬が言葉を紡ぐ。その声が少し震えている気がしたのは、侑の気のせいだろうか。
 うん、ともう一度頷いて、手を差し出す。りんご飴を受け取るときに再び二人の指先が触れ合ったが、今度は紬も落としたりしなかった。

 半分くらいまで減ったりんご飴。
 侑はなるべくそれに意識を向けないよう、再び花火に視線を戻す。次々に咲いて、儚く散っていく花火を眺めながら、侑はりんご飴を一口齧った。

 久しぶりに食べたりんご飴は、記憶の中のそれよりも、ずっと、ずっと、甘く感じた。