ブラブラ歩くと言っていた空に連れられてきたのは、私のマンションから徒歩2分のところにある小さな公園。8歳の誕生日、宇宙船が停まっていると騙された場所だった。

遊具はブランコと滑り台と2メートル四方の砂場があるだけ。遊具の奥にちょっとした広場があるシンプルな作りだ。その広場の中央に、【大声で騒いだりボール遊びをするのは禁止です。】と書かれた看板が立てられている。

「こんな看板、あったっけ?」
「いや、俺は初めて見た」

小学校を卒業したあとは公園で遊ぶ機会はめっきり減ったし、中学を卒業してからは地元にいることもなくなった。
それは高校がここから離れた距離にあるという理由もあるけど、変わってしまった自分を地元の友達に見られたくないから。

家からほど近い公園のちょっとした変化に気付かないくらい、私はこの周辺を歩くときは視線を下に向けているらしい。

平日の朝8時前の公園には、私と空以外誰もいない。しんと静まり返る公園は、なんだか少し寂しい気持ちになる。

「公園で騒ぐのがダメなら、今の小学生はどこで騒ぐんだろうね」

私たちはここでどれだけ大騒ぎをしただろう。
家から歩いて来られる公園とあって、小学生の頃は空や他の友達といつもこの公園で遊んでいた。

鬼ごっこやかくれんぼはもちろん、ブランコから誰が一番遠い場所まで飛び降りれるかを競争したり、砂場にもの凄く深い落とし穴を作ったりもした。

夏は水鉄砲を持ち寄ってはしゃいだし、冬はちょっと雪が降ったら、そこら中の雪をかき集めて雪合戦をした。

誰にも怒られたことはなかったけど、不快に思った人がいたからこういう看板が立てられたのだと思うと、なんだか今の小学生に申し訳ない気持ちになる。

「そのために宇宙船が来たんだろ。あの中なら防音は完璧だし、四次元だからめちゃくちゃ広い」
「なにその設定」
「必要だろ。美波がどれだけノーコンでも困らない」
「あっ、また人をバカにして」

むっと口を尖らせて空を睨むと、彼は噴き出すように笑う。
今まで通り普通に話せることにホッとした。
空の明るい表情につられるように、私の身体からも強張りや気まずさが抜け落ちていった。

「外野にパスしろって言ってんのに50センチ先の地面に思いっきりボール叩きつけたり、全然違う方に飛んでいったり。美波とドッジボールすると毎回腹筋がイカれたな。フォームも完璧ですげぇ速いボール投げそうなのに、どんだけ残念なんだって相手クラスも笑ってたぞ」
「失礼な。6年生の頃には結構マシになってたでしょ。ちゃんと球技大会で優勝したじゃん」
「まぁな。美波は負けず嫌いだから、ここでめちゃくちゃ練習したもんな」

そうだった。
私たちが通っていた小学校では、毎年秋に球技大会があった。とはいっても競技はドッジボールのみ。
低学年、中学年、高学年に分かれてトーナメントを行い、優勝チームを決める。

運動神経は悪くない方だという自負があるけど、球技だけは大の苦手。
毎年クラスの足を引っ張って悔しい思いをする負けず嫌いな私のために、空は大会が近くなるとこの公園で練習に付き合ってくれた。

「球技大会の話もだけど、宇宙船の話もよく覚えてるね。1番初めの嘘だっけ」

毎年、空はエイプリルフールを満喫していた。
そんなくだらない嘘をどうやって思いついたんだろうとツッコミたくなるようなことを、彼はめちゃくちゃ真面目な顔をして言う。

だから私もいつ嘘をつかれるのかと構えていたはずなのに、途中から『もしかしたら……』と、ありもしない設定に呑まれてしまうのだ。

「そういえば、急にエイプリルフール始めたよね」
「あぁ、それは美波が――」
「私?」
「……いや、なんでもない」

ふいっと視線を逸らされてしまったけれど、そんなふうに言われたら余計に気になる。今の話の流れだと、空がエイプリルフールに嘘をつき始めるきっかけがあったってこと?
記憶力のいい空と違って、私はそのへんの記憶は曖昧だ。

「なに? 気になるじゃん。私がきっかけだった?」
「別に。ただ、美波が自分だけ友達から誕生日を当日に祝ってもらえないってびーびー泣くから」
「え? あっ……」

そう言われて、私は数年前の記憶をうっすら思い出した。

小学校2年生の頃、クラスメイトが誕生日に学校でお祝いをされているのが羨ましくて、不満を漏らしたことがあった。私の誕生日は毎年春休み中だから、学校でプレゼントを貰った記憶がない。

今考えれば、そんな人は私の他にもたくさんいたんだろうけど、空は6月生まれだし、他の仲のいい子も長期休みとはかぶってなくて、当時の幼い私は『みんなズルい』と拗ねていた。
そう話した年の誕生日からだ。空が毎年家に来てくれるようになったのは。

直接誕生日プレゼントを渡すのが恥ずかしかった、8歳の空が考えた方法。
それがエイプリルフールを利用して私を怒らせることだったんだ。『お詫び』と言ってプレゼントを渡す口実をつくるために、毎年いろんな嘘をついて。
なんて素直じゃない、不器用な方法だろう。

「ふふっ」
「なんだよ」
「ううん。なんでもない」

胸の奥がくすぐったい。
毎年3月が終わる頃には決まってそわそわしていた。
今年も空は来てくれるかな。どんな嘘をつくのかな。どこに遊びに行くのかな。期待に胸を高鳴らせ、ずっと彼を待っていた。
誕生日の思い出は、空がついたユニークな嘘で埋め尽くされている。それらを思い出すと、つい頬が緩む。

「……その格好、はじめて見た時は別人かと思ったけど、そうやって笑ってると前の美波と変わんないな」

ふわふわとした楽しい気分が一転、空のひとことで現実に引き戻された。口角を上げていた表情筋が急に力を失っていく。

私だって、いまだに自分の外見に慣れない。
彩葉と心春から浮いてしまわないように、私のヘアメイクは日々進化している。今日はアイロンで毛先を巻いた髪をハーフアップにして、以前勧められて買ったコスメを駆使し、ピンクをメインにしたメイクだ。

今までよりも垢抜けた印象になっているとはいえ、鏡を見るたびに自分ではないようで落ち着かない。

でも、そんな心の内を空に悟られたくなかった。私は巻いた毛先を隠すように手で何度も梳く。

「どうせ似合ってないとか言うんでしょ」

自分でもわかってる。見た目だけ成長していたって、中身はなにひとつ変わっていない。ううん、それどころか、中学の頃の私よりも卑屈で嫌な人間になっている。

それなのに。

「いや。可愛いけど」

空の言葉に驚きすぎて、身体がビョンッとおかしな跳ね方をした。

コントのような二度見をしたあと、誰か他の人が喋ったのではないかと疑って周りをキョロキョロ見回す。当然だけど、公園にはやっぱり私と空以外は誰もいない。

「なに、その顔。あと挙動不審」

私が『可愛い』という言葉に過剰反応したせいか、空がほとほと呆れたような顔を作る。
けれど、サラサラの髪から覗く耳はほんのりと赤く色づいていて、それがさらに私の羞恥を煽る。

彼とはお互いに気を遣わないでなんでも言い合える関係性だったし、ちょっとした軽口をたたき合うのは日常茶飯事。

7歳の七五三で初めてお化粧をして振り袖を着た時も、中学生の頃に従姉妹のお姉ちゃんの結婚式にお呼ばれしてドレスを着た時も、『唇が赤すぎる』とか『馬子にも衣装だな』とか、空はそんな雑な感想しか言わなかった。

今まで、冗談でも『可愛い』なんて言われた覚えはない。
そりゃ私だって空に対して「カッコいい」「イケメン」なんて口に出して伝えたことはないけど。
でもだからといって、急に言われたら一体どうしたのかと驚くのが普通だと思う。

「いや、空だって十分変わったなって思って……」

私相手だけじゃなく、空が女の子に対して「可愛い」とか「付き合いたい」みたいなことを言っているのを聞いたことがない。

だからこそ、私たちは微妙なラインを保ったまま幼なじみとしての関係が続いていたのだ。

友達よりも近い距離感の幼なじみというものに対し、子供の頃はなにも疑問に思わなかった。けれど小学校高学年になってくると色んな知識や感情が入り混じるせいで、少しずつバランスが崩れていく。

特に女子はそういう関係性に敏感で、周囲から『空くんのこと好きなの?』『ふたりは付き合ってるの?』と聞かれることが増え、そういう感情を意識せざるを得なかった。

空は小学校の頃からモテていたから、一緒に登校するだけで向けられる好奇の目や下世話な噂話に本人も気づいていたはずだ。

実際に空がどう思っていたかはわからないけれど、私は意図的にそこを意識しないことで、絶妙な均衡を保っていた。

私の気持ちを伝えることで、幼なじみという大切な存在を失うのが怖かったから。

高校に入学して、もしかしたら空も変わったのかもしれない。
野球一筋で女子には興味ありません、みたいな顔をしていたのに、今では彼女がいたりするのかな。
私の知らない女の子に『可愛い』と言っている空を想像すると、胸の奥がチリッと焦げつく感覚がした。

「別に俺はなにも変わってない。見た目変えたのは美波だろ。……彼氏でもできたの?」
「えぇっ?」

やっぱり、空は変わった。私たちの間で、そんな話をしたことなんてなかったのに。

「……いないよ、彼氏なんて。なに、急に」
「それだけ外見変えてるから、そういう奴ができたのかと思って」
「そんなんじゃないよ。星凛と違って校則が自由だから」
「自由だからって派手にしなきゃいけないわけじゃないだろ。朝はギリギリまで寝てたいタイプのくせに」

空の言葉が小さな棘となって私の心に刺さる。
きっと空は、私が自分からすすんでこの格好をしているわけじゃないと見抜いてるんだ。

「しょうがないじゃん。だって周りはこういう子ばっかりなんだもん。こうしないとうちの学校の友達と馴染めないの。空にはわかんないかもしれないけど、女子の人間関係は色々大変なんだから」

自分で口にした言葉が、あまりにも言い訳じみていて愕然とする。
学校や周りの子のせいにして、すごく嫌な感じだ……。

空がなにか言いたげな視線を感じたけれど、早くこの話題から逃れたくてこれからの予定について尋ねた。まさかこの公園が目的地なわけではないだろう。

「それで、今日はどこに行くか決まったの?」
「あぁ、じゃあ行くか」

どこに行くのかを告げないまま、再び空は歩き出す。
私も今はなにも話したくなくて、そのまま彼についていった。


* * *

「運動会のダンスの練習かな、あれ」
「うん、そうだと思う」

公園からゆっくり歩いて10分ほど。ちょっと見ていきたいという空の提案で、私たちが通っていた小学校のすぐ脇にある緑道のベンチに座っている。

「当時も思ってたけど、5月末に運動会やるなんて鬼スケジュールすぎだよな」

げんなりした声で言う空に、私も当時を思い出して苦笑する。

私たちの通っていた小学校の運動会は、全学年が徒競走とダンスのプログラムをこなし、それに加えて5年生は組体操、6年生はソーラン節を披露する。
プログラムの最後は縦割りのリレーがあり、在校生も保護者も盛り上がる行事のひとつだ。

練習期間は通常授業が始まる4月中旬から5月末の約1ヶ月。その間にはゴールデンウィークがあるため、実際はもっと少ない。

まだあまり仲も深まってないうちに息を合わせてダンスを踊り、さらに高学年は組体操やソーラン節を披露しなくてはならない。いろんな意味でかなりハードだった。

それは空の言う通りだけど、フェンス越しに小学生が必死にダンスの振り付けを覚えているのをのんびり眺めているなんて、なにを考えているんだろう。
私に学校を休ませてまで付き合ってほしかったのって、こんなことなのかな?

彼の意図が読めないまま、私もただ子供たちがたどたどしく踊っているのをぼーっと見つつ、少しだけ視線を上へ向ける。

公園からここに移動するまでに、空を覆っていた雲がゆっくりと東へ流れていた。
雲の合間から太陽の光が差し、ところどころ青い空が覗いている。そよそよと頬を撫でていく春風が気持ちいい。

聞こえてくるのは去年流行ったアニメソングだ。知っている曲というのもあって特に退屈しないし、一緒にいるのが空だから、学校にいる時みたいに相手に合わせなきゃと気を張る必要もない。

無言が続いたって平気なのは、長年一緒にいたせいだろうか。
きっと彩葉と心春が相手だったら、なにかしゃべらなきゃと必死になって話題を探している気がする。

そう考えて、ハッとした。そういえば、今日学校を休むとふたりに連絡をしていない。

私は「ちょっとごめん」と空に断りを入れると、慌ててスクールバッグからスマホを取り出し、始業式の日につくったグループトークを開く。

【ごめん! 今日学校休むって担任に伝えてくれる?】

理由を書かない簡潔な文と、私の好きなもちっとフレンズのスタンプを送る。ごめんねと両手を合わせて謝っている、ぷっくりした輪郭にユーモラスな表情が魅力的な、ちょっとブサイクなパンダだ。

「友達?」
「うん。休むって連絡してなかったから」

すぐにふたり分の既読がつき、それぞれOKのスタンプが返ってきた。
ホッとするのと同時にちょっとした疎外感を覚え、言いようのない虚しさが胸の中に渦巻く。

学校を休む理由を聞かれなかったのはありがたいと思う。幼なじみが急に家まで訪ねてきたからって休む理由にはならないし、それが男子だと知られたらなんだか面倒なことになりそうだ。

だけど私が休んでいる間に、居場所がなくなるんじゃないかと思うと不安になる。
彩葉と心春はヘアメイクやファッションが好きという共通点があるから、私がいない方がふたりで盛り上がれるんじゃないかと、勝手に悪い想像をしてしまう。

「どんな人? 高校の友達って」

空は小学校の運動場を眺めたまま。
私もスマホをバッグにしまって視線を正面に戻す。

「ヘアケア命って子と、コスメオタクの子」

私が端的に答えると、空が声をあげて笑った。

「なにそれ。友達ディスってんの?」
「ディスってないよ。本人たちが言ってるんだもん。でも会えばわかるよ、めちゃくちゃオシャレで陽キャのオーラがすごいから」
「そういう見かけじゃなくて、性格的なこと聞いてんの」

空に指摘され、彩葉と心春の顔を思い浮かべる。
だけど、私がふたりと知り合ってまだ10日ほど。彼女たちについて知っていることといえば、さっき空に話したことがすべてだ。
ただその場を乗り切ろうと必死で、ふたりがどんな性格かなんて考えたこともない。

それは彩葉と心春だけじゃない。
1年生の頃に仲のよかった子たちのことだって、1年間一緒にいたにもかかわらず、どんな子かと聞かれても同じような情報量しか持っていないことに気がついた。

どれだけ薄い交友関係なんだろう。
小学校の時も中学校の時も親友と呼べる子がいたはずなのに、今はクラスが離れてしまえば連絡も取り合わない程度の関係しか築いてこなかった。

黙り込んだ私を見て、どの程度の付き合いか察したんだろう。空が「美波なら大丈夫」と根拠のない慰めを口にする。

「……大丈夫って、なにが」
「ちゃんと美波らしくいれば、そのふたりともうまくやれる」
「私らしく?」

沈みかけた気分の私に、空が「そういえば」となにかを思い出したかのようにぷぷっと笑った。

「美波、覚えてる? 5年の時の運動会」
「5年生って……あ、ソーラン節の練習で若菜たちとモメた時のこと?」

私が嫌そうに眉を寄せて答えると、空はますます面白がった。

「そうそう。新井が『ソーラン節なんてダサい、本気でやるなんてバカみたい』って言いだして、何人かの女子が新井の意見に乗っかって練習しなくてさ。それに怒ったお前が『ダサいって嫌々恥ずかしそうにやってる方がよっぽどダサい!』って喝入れて」
「……本当に、よく覚えてるね」

そんなこと、忘れてくれていいのに。どうして運動会にあれほど熱くなれたのか、今振り返ると疑問だ。
今の私は、どれだけ努力したって報われないことがあると知っている。
それなら適当に、それなりにこなしていた方が、ダメだった時のショックは小さい。

「いや、忘れないだろ。『ダサくないソーラン節なら一緒に頑張って練習してくれるんだよね』って新井たちに啖呵切ったくせに、帰りに『どうしよう……っ!』て泣きついてきたんだから」
「うぅ……」

そうだった。短い練習期間しかない中、みんなで頑張ろうとしているところに水をさされ、ついなんの考えもなく口走ってしまったんだ。

昔の私は猪突猛進とでも言えばいいのか、思いついたらすぐに口に出したり行動に移したりと、色々考えが足りていない子供だった。振り返ると恥ずかしい記憶ばかりだ。

「空が、プロのダンサーが舞台でソーラン節を踊ってる動画を見つけてくれたんだよね。それを見せたら若葉たちの態度も変わって、衣装の法被に合わせて女子は髪型を揃えようって提案までしてくれるようになったし」
「美波の熱意に動かされたんだろ。実際、運動会が終わったあとは新井とめちゃくちゃ仲良くなってたしな」

思い出に残る運動会にしたくて『みんなで頑張ろうよ』と言い出したのは私だった。
でも、動画を見つけてくれたのは空だ。

空は私の暴走をフォローするようにどうすべきかを一緒に考えてくれて、『これ見せてみたら?』と、私の言うところの〝ダサくないソーラン節〟の存在を教えてくれた。

担任の先生に頼み、空が見つけた動画をクラスのみんなで授業前に見て、こういうカッコいいソーラン節を目指そうと若葉たちを説得した結果、運動会は大成功を収めた。それ以来、若葉とは本音でなんでも言い合える仲になったのもいい思い出だ。

けれど、それは私の功績じゃない。

「私じゃないよ。空が私にアドバイスをくれたから、クラスみんなで一致団結できたんだもん」

イノシシみたいに闇雲に突っ走る私に、少し後ろから行くべき方向を教えてくれる。私にとって空は幼なじみであり、頼もしい相棒でもあった。

「そういえば、中学の修学旅行の時もそうだったね」
「修学旅行?」
「2日目に京都で自由行動があったでしょ? どこをどういうルートで回るか旅行のしおりに書かなきゃいけないやつ。授業で班ごとに話し合ってた時も、行きたい場所をぽんぽん挙げていくのは私で、どうしたらその場所を効率よく回れるかって考えてくれたのは空だった」
「あぁ、そうだったかも。3時間半しかないのに、清水寺と五重の塔と伏見稲荷大社の重軽石は全部見たいって言い出したんだ。全部違う方向なのに」

まるで昨日のことのように話しながら呆れた顔を向けられる。あの時も同じような表情だった。でもそんな顔をしながら、空は私の希望を叶えてくれた。

いつもそう。
空は直接的に優しいわけじゃないけど、いつもそうやって私を助けてくれていた。

(それなのに、どうして黙って引っ越しちゃったの……?)

今なら……聞けるかな。

あの頃、私は星凛に落ちて自暴自棄になっていた。
心配して家に来てくれた空にも素直になれなかったし、親友としてずっと仲良くしていた若葉とは今も一切連絡を取っていない。彼女も空と一緒で、星凛に合格したひとりだから。

卒業式に出席するために久しぶりに登校した時の、気まずそうな若菜の顔が忘れられない。一緒に通おうねと無邪気に約束していた頃には戻れなかった。

でも、空はこうして会いに来てくれた。わだかまりなく話せている今なら……。
あの時言い過ぎたことを謝って、この1年のことを聞いてみたい。

なぜ空が今日に拘っているかはわからないけど、いい機会かもしれない。
ケンカや引っ越しについてお互いに思っていることを言い合って、これまでのような関係に戻れたら私も嬉しい。

「ねぇ、空」
「あの駄菓子屋、まだやってんのかな」

意を決して私が口を開いたのと、空がなにか言ったのが同時だった。

「え? なに?」
「修学旅行の話で思い出した。小学校の裏手にある駄菓子屋あったろ」
「サクラ屋?」
「そう、サクラ屋。ちょっと行ってみないか?」

50代くらいのおばさんがひとりで切り盛りしていた小さな駄菓子屋は、この小学校に通っている生徒なら全員もれなくお世話になっているであろうお店だ。

駄菓子やジュース、アイスはもちろん、文房具やちょっとしたキャラクターグッズ、学校で必要な上靴やカラー帽子まで売っている。

遠足や修学旅行のおやつは必ずここで買っていたし、放課後にサクラ屋に集合して、友達とお揃いのシャーペンやメモ帳を買ったりしていた。

あんなに毎日のように入り浸っていたのに、中学に上がってからは全く行っていない。

「ちょっと行ってみたいかも」
「よし、決まり」

ゆっくり立ち上がった空に誘われるまま、私もベンチから腰を上げた。
子供の頃は私が行きたい場所を決めて、それに空が仕方なさそうについてくることが多かったのに、今日は立場が逆転している。

なんだか再会してからずっと振り回されている気がする。まぁ、嫌な気分なわけじゃないし別にいいんだけど。

本当は1年前のことを謝りたいと思ったけど、せっかく今のこの楽しい雰囲気に水をさすのはもったいないし、あの頃の気持ちを思い出すにはまだ傷が治りきっていない。空がこのまま元通りの関係に戻ろうとしてくれているのなら、わざわざ蒸し返さなくてもいいのかも。

そんな卑怯な考えが脳裏をよぎる。
結局私はあの日のことを口にしないまま、ふたりで小学校の周りをぐるっと周った。

そういえば、結局、空は今日何をしたいんだろう?
家の近くの公園に行って、小学校のフェンス越しに運動会の練習を見て、次は駄菓子屋さん。子供の頃の思い出の場所ばかりだ。

朝、私に〝空の日〟という嘘をついて遊びに行こうと言われたけれど、その目的も聞いてない。

『他の日じゃダメなんだ。どうしても今日、美波に一緒に来てほしい』

あの時の空の表情や私の手首を掴む力の強さが、なんだか必死に懇願しているように見えたから、学校をさぼってのこのこついてきてしまった。でも今までの言動を見ていると、ただ遊びたかっただけのような気がする。

今日じゃないとダメだって言うから、てっきりなにかサプライズみたいな仕掛けがあるのかもしれないと自惚れていた。そんな自分が恥ずかしい。

「あ、開いてるな」
「えっ、本当だ。まだ9時前だよ」

赤とクリーム色のひさしが目印のサクラ屋はレトロという言葉がぴったりな店構えで、お店の脇には緑色の電話ボックスがある。
店頭には所狭しと商品が置かれていて、小学生が自分で商品が取りやすいように、壁の低い位置にクジの景品やちょっとしたおもちゃが吊り下げられている。

ガラガラと音を立てて引き戸を開けると、店の奥から「いらっしゃい」とおばちゃんが出てきた。

「わ、変わってない」

お店の中も、おばちゃんも、あの当時のままだ。
小学校を卒業して4年。なんだか遠い昔のように感じるな、とつい声に出して呟くと、おばちゃんは声をあげて笑った。

「やぁねぇ。たった4年じゃなにも変わらないよ」

たった4年。おばちゃんはそう言った。

その4年間で小学校と中学校を卒業して、高校受験に失敗して、幼なじみと親友を失った。頑張っても報われないという世の中の不条理を知り、将来の夢に向かって走る意欲をなくした。
私には、この1年すらとても長く感じていたけれど、おばちゃんにとっては4年の月日は短いものだったんだろう。

おばちゃんだけじゃない。お母さんもよく言っている。
『今年もあっという間に過ぎちゃったわね』って。
私はそう思ったことはないけど、お父さんはお母さんの言葉に大きく頷いていた。

もしかしたら大人になると、時間の流れが早く感じるんだろうか。だとしたら、私はとても時間を無駄にしている気がする。

じっと考え込んでいた私の耳に、空の弾んだ声が届く。

「せっかくだし、駄菓子でも買ってくか」

それにつられるように、私もぐるりと店内を見回した。1本10円という格安スナック棒に、ひと口サイズのドーナツ。フルーツ味の小さなガムの箱、ポン菓子にチョコレートをコーティングしたお菓子、タバコの形をしたガム。

「ねぇどうしよう。全部懐かしくて買いたくなっちゃう」
「買えばいいだろ」
「ダメだよ。こういうのは200円までって決まってるんだから」
「遠足か。誰が決めたんだよ、そんなの」
「何言ってんの。日本国民全員にとって暗黙のルールでしょ」

バカバカしい会話をしながら駄菓子を真剣に吟味し、10円のお釣りも出ないように計算して買い物をする。
きっと算数は、うまく200円を使い切ることができるように習っているに違いない。

「はい、ありがとうね」

それぞれお会計を済ませ、変わらない笑顔で見送ってくれるおばちゃんに手を振ってサクラ屋を出た。

すると、空は店を出て早速何かを開けたらしい。ピリッとビニールの破れる音がした。

ガラガラと音を立てながら引き戸を閉めて空に向き直ると、彼は黄色い小さな玉が3つのったプラスチックの容器をずいっと差し出してくる。

「はい、選んで」
「えっ! やだよ!」

見覚えがある、なんてものじゃない。
私はこれに何度泣かされてきたことか。

「いいじゃん。久しぶりだろ」
「だって絶対私が当たるもん!」

空が差し出したのはレモン味のガム。3つセットになっていて、すべて同じ色、同じ形。だけどそのうちのひとつはものすごく酸っぱいという、ロシアンルーレット的な遊び要素のあるガムだ。

空はよくこのシリーズを買っていて、毎回私にひとつ選ばせる。
そして、なぜか私はいつもその酸っぱいガムを引き当てては悶絶する羽目になるのだ。
本当に意味がわからない。空はわずかに違う色とか形で酸っぱいやつを回避してるんじゃないかと思うくらい、当たった試しがないんだから。

「いいから。ほら選んで」
「ちょっ、急かさないでよ。じっくり見てから……」
「見てもわかんないだろ。直感だよ」
「待ってってば。うーん、いつもなんとなく端を取って失敗してた気がする……よし、真ん中!」

結局空に押し切られる形で私は真ん中のガムを取り、当の本人は「じゃあ俺はこっち」と適当に右側のものを手に取った。

「せーのっ」

掛け声とともに、ふたり同時に勢いよく口に入れて噛みしめる。
途端にレモンの強烈な酸味が口の中に広がり、舌や喉の奥からもじゅわっと唾液が噴出した。

「んんーっ! すっぱぁ……っ!」

もはや呂律も回らないほど酸っぱい。
なんで? なんでいつも私にばっかり……!

「あはははっ! ほんっと美波はハズさないな」
「んんーっ!」

反論できないほど酸っぱい。
え? こんなにキツイ味だった?
私が口元を押さえて悶えているのを、空は大爆笑している。途中、笑いすぎて思いっきり咽ていた。

「もう、最悪……っ!」
「はー、笑った。苦しいわ」

ケホケホと何度も咳き込み、目尻に涙まで浮かべている。
泣きたいのはこっちだというのに。

「絶対なにか仕込んでるでしょ。いっつも私ばっかり」
「そんなわけないだろ。俺、めちゃくちゃツイてるから」

そうだった。
空は昔からずば抜けて運がいい。
初詣でおみくじを引けば必ず大吉だし、席替えだって窓際の後ろの方ばかり。ここぞという時のじゃんけんでは負けなし、商店街のくじ引きで温泉旅行を引き当てたこともある。

「むぅ……」
「ほら、他のお菓子も食べたいし、どっか座ろ」
「どこで食べるの? さっきのベンチに戻る?」
「いや。こっち」

空は次の行き先を決めているらしく、迷いなく歩きだした。
緑道を端まで進み、さらに住宅街を10分ほど歩くと、緑が生い茂る大きな公園が見えてくる。

「……やば、暑い。ちょっと疲れた」

いつの間にかどんよりとした雲はなくなり、ふわふわとした白い雲だけが浮かぶ青空が広がっていた。

黒いパーカーを着ている空は息が切れた様子で、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

ぽかぽかと暖かいけど汗をかくほどじゃないし、駄菓子屋からここまで15分ちょっと。それも走ったわけじゃなく、喋りながらゆっくり歩いただけだ。

「空の高校の野球部って練習ぬるいの?」
「……なんで?」
「体力なさすぎでしょ。暑いならパーカー脱いだら?」

高校では運動部に入っていないから運動不足だと自認している私だって、そこまで疲労は感じていないのに。

「……部活はやってない。あと日焼けするから脱ぎたくない」
「女子か! っていうか、野球やめちゃったの?」

小学校の頃からジュニアチームに入っていたくらい野球が好きだったのに、部活に入ってないなんてビックリだ。理由を聞こうにも、疲れたといいながらどんどん先を歩いていってしまう。

まぁ、別にあとで聞けばいいんだけど。呼び止めてまで話すことではないし、私は結局そのままついていった。


たどり着いたのは、この近所では一番大きな交通公園。
敷地内には模擬道路があり、本物よりもかなり低い信号がついている。無料でゴーカートや自転車の貸し出しもあるし、サイクリングロードも充実している。

遠足や課外授業でもよく行ったし、大人数の時は宇宙船の公園よりもこの交通公園で遊ぶ方が多かった。遊具もアスレチックが充実していて、高学年になっても楽しめたのが大きい。

空は公園の奥側にあるベンチ目指して一直線に歩いていく。
平日の午前9時半。混んではいないけれど、ちらほらと遊んでいる親子や運動しているお年寄りの姿がある。

わくわく広場というモルモットと触れ合えるスペースには、まだ幼稚園にも行っていないくらいの小さな子が、お母さんと一緒に膝にモルモットをのせてキャッキャと楽しそうな声をあげていた。

「よし、食べるか」

ベンチに座るなり、空は薄いピンク色のビニール袋から駄菓子をバラバラと取り出した。

「結局これの正体って何なんだろうな」

小さいカップに詰められた、ヨーグルトのような謎のとろっとした白くて甘酸っぱいやつ。
子供の頃はヨーグルトだと思っていたけど、どうやら違うらしいと聞いたことがある。

「うまっ。正体不明だけど、うまっ」

特に正解を欲していないのか、質問しておきながら私の答えを待たずに食べ始めている。おいしそうに食べ進める空とは反対に、私は少し気まずい思いをしながら座っていた。

(空は、覚えてないのかな……)

このベンチに最後にふたりで座ったのは2年前。
中学3年生になる直前、私の14歳の誕生日だった。


『美波、知ってた? イチゴに醤油をかけたら桃の味がするらしい』

そんなの絶対嘘だ。
そう思ってたのに、空は真面目な顔を崩さない。

『プリンに醤油かけたらウニの味するって聞いたことない?』
『それは聞いたことあるけど……』
『だろ? それ系の色々調べたんだよ。あとはみかんと醤油と海苔でいくらになるとか、アボカドとわさび醤油でトロになるっていうのもあった。でも美波、ウニもいくらも好きじゃないだろ? だからイチゴで試してみようぜ』

そんな空の口車にのせられて、近くのスーパーでイチゴのパックと小さな醤油を買って、交通公園のベンチに座って試してみた。

まずは空がひと口食べてみる。

『どう?』
『すげぇ、ほんとだ! 言われてみれば桃だわ』
『えっ! 本当に?』

その日は4月1日、エイプリルフール。
絶対に嘘だと思ってたけど、もしかしたらこの話は本当で、いつもの嘘はこれからなにか言われるのかも。
そう思って、私も空と同じようにたっぷり醤油をかけたイチゴを頬張った。

『んんっ?! まっず……!』

吐き出したくなるのを抑え、ぎゅっと目をつぶって飲み込んだ。

なにこれ、不味すぎる。せっかく甘く美味しく育ったイチゴに謝りたいくらい、めちゃくちゃ不味い。
むせる私にペットボトルのお茶を差し出しながら、空は大爆笑している。

『もうっ! うそつきー!』
『あははっ、思いっきり食べたな! もう少し警戒しろよ』
『警戒してたよ! なのに空がそれっぽいこと言うから! よく平然と食べたね』

痩せ我慢をしていた空が、ゴクゴクと水を飲んで顔をしかめた。

『悪ぃ悪ぃ。いや、めっちゃ不味いな。吐くかと思った』
『こっちのセリフ。私を騙すのに全力すぎでしょ』
『さすがに美波だけに食わせんのはフェアじゃないからな。でも自滅寸前だった』
『なにそれ』

よくわからない理屈に笑ってしまう。
結局こうして懲りずに騙されては、一緒になって笑う。そんな笑顔の絶えない誕生日を、空は毎年プレゼントしてくれていた。

それからどんな話の流れだったか忘れてしまったけれど、進路についてふたりで話をした。

『えっ、空も星凛受けるつもり?』
『うん。この辺じゃ、あそこが一番強いから。あと近いからチャリで通えるし』

星凛の野球部は都立の中では強豪チームで、夏の東東京大会では準優勝したことがある。
野球部の空は自分の代で甲子園に行ってみたいと、珍しく熱く語った。

そんな空につられて、私も誰にも話したことのない夢を打ち明けた。

『私ね、将来お医者さんになりたいの』
『……医者?』
『そう。できれば小児科の先生になりたい。ほら、私小さい頃に1度入院したでしょ? あの時の優しい先生に憧れて、小さい子の病気を治すお医者さんになりたいなって』

小学2年生の頃、私は夏風邪を拗らせた。
高熱が出てなかなか咳が止まらず、喉の痛みから食事や水分も摂れないまま、結局急性肺炎になって1週間ほど入院することになった。

重篤な病気ではなく点滴での投薬ですぐに回復したけれど、当時はとにかく不安で仕方なかった。
そんな時、両親だけでなく主治医の女性の先生が優しく励ましてくれて、とても心強かったのを覚えている。
だから私も、そんなふうに誰かを勇気づけたり助けたりするお医者さんになりたかった。

そのためには大学の医学部に行かなくてはならず、たくさん勉強しなくちゃいけないこともわかってる。

それでもチャレンジしてみたい。
自分でも単純だと思うけど、白衣を着たスタイルのいい女医さんが活躍する人気ドラマも私の夢を後押しした。

長い白衣をなびかせ、病院内を颯爽と歩く自分。小さな体で病気と戦う子に寄り添い、病魔をやっつけ、『美波先生、ありがとう!』と退院していく子供に笑顔で手を振る未来予想図の中の私は、まるでヒーローのよう。

そんな妄想まであけすけに話してしまい、途端に恥ずかしくなった。

『美波が医者か』
『……無理、かな?』

初めて人に打ち明けたけど、やっぱり私がお医者さんになるなんて無謀だと思われたのかな。
俯いた私の頭に、空の大きな手が乗っかった。

『いいと思う。美波が色んな患者を救う姿、なんか想像できる』
『ほ、本当?』
『嘘ついたってしょうがないだろ。ヒーローっていうと、なんか違うかもしれないけど。なんだかんだ患者のために突っ走って、年配の師長から「しっかりしてください、美波先生」って小言言われるところまでセットで浮かんだわ』

まるで病院のドタバタコメディみたいに言われ、『ちょっとバカにしてるでしょ』と含み笑いの空を睨みつける。

『してない。いいと思うって言ったろ。美波みたいに明るい医者がいたら、患者だって救われる』
『そう、かな?』
『ああ。絶対』

笑いを引っ込めた空に力強く頷かれ、私は少しだけ自信を持てた。

『でも医学部って理系じゃなかった? もう少し数学頑張んないとヤバいかもな』
『うっ……が、頑張るもん』

痛いところを突かれた私が口を尖らせると、空は今度こそ声をあげて笑った。

『もうっ! それより空は? 将来何になりたいの?』

空は私よりも成績がいい。小学生の頃は宿題なんてサボりがちだったし、テストの点数だって私の方が勝っていたはずなのに、急に勉強に目覚めたのか5年生後半ぐらいからぐんぐん成績を伸ばし始めた。

中学2年生最後の期末テストで私は170人中11位だったけど、彼は4位。
空なら医者だって弁護士だって、どんな職業にもなれそうだ。

『プロ野球選手』
『えっ! 野球選手?』

確かに野球に夢中なのは見ててわかっていたけれど、まさか本気でプロを目指しているなんて知らなかった。

『あと宇宙飛行士』
『えっ?』
『刑事もカッコいいし、ゲームクリエイターも楽しそう』
『……ん? もしかして、まだ全然決まってないの?』
『決めきれないんだよ。やりたいことが多いし、可能性が無限すぎて?』

ニッと得意げに笑う。
たしかに空は部活で野球に打ち込んでいるけれど、プログラミングや英会話教室にも通っている。ミステリー小説を読むのも好きだと言っていたし、休み時間にはゲームの話でクラスの男子と盛り上がっている。

好奇心旺盛で、興味を持つと1度はチャレンジしてみたいんだと、以前話していた。
夢を決めきれないというのも納得だし、可能性が無限だというのも頷ける。自分で言うあたりが腹立たしいけれど。

『……でも、結局は普通の会社員かも』
『えっ?』
『就職して、そこそこ出世して、結婚して、家族みんなが健康に暮すっていうのが俺にとって理想の未来』
『なにそれ。女の子がよく言う〝お嫁さん〟みたいな?』

当然嘘、というか冗談だろう。
私が笑うと、空も『そんな感じ』と軽く笑った。

『まずは高校に受かって、甲子園かな』
『いいね。関西行ったことないから、楽しみにしてる』
『おい、観光じゃなくて俺を応援しろよ』

学校じゃあまり話さなくなっていた時期だけど、ふたりでいれば自然と会話が続く。
彼の隣が一番自分を飾らずに、私らしくいられる場所だった。

2年も前のことなのに、昨日のことのように思い出せる。
空が私の夢を肯定してくれたあの日、自分の夢を実現させるために頑張ろうと決意を新たにした。

だからここは、将来への希望で胸をいっぱいにしながら話していた場所。
空が覚えているかはわからないけれど、キラキラした思い出のあるこの公園のベンチは、今の私にとって居心地が悪いことこの上ない。

だって今の私は、あの頃とは別人だ。
髪を染め、メイクをするようになった見かけよりもずっと、中身が変わってしまった。

どれだけ努力したって無意味。自分に期待なんてしなければ、失敗した時に失望しなくて済む。そんな風に斜めに物事を考えるようになった。

たった1度高校受験に躓いただけで、うずくまったまま動けないでいる。
そんな自分が嫌で仕方ないのに、立ち上がり方がわからなくなってしまった。

ふと隣を見ると、彼はお菓子をビニール袋にまとめている。

「え、まさかもう全部食べたの?」
「全部ではないけど。満足した」

私はというと、ぼんやりと考え事をしていたせいで、最初に手に取ったイチゴ味のお菓子を爪楊枝で刺してちびちびと食べているだけ。プラスチックのお皿には半分以上残っている。

「それに醤油かけたら、桃の味になるかな」

私の手元を見て思い出したようにフッと笑った空の言葉に、私はぎゅっと胸が締めつけられた。

やっぱり、空はこの場所で話したことを覚えてるんだ。
中学2年生の私は、あんなに将来の自分の姿を想像して意気揚々と語っていたのに、今では努力なんてするだけ無駄だと適当に日々を過ごしている。

そんな今の私の体たらくを、空は知らないはずだ。なのに見透かされているような気がして、とても居心地が悪い。

1センチ四方のお餅のように弾力のあるピンク色のお菓子を爪楊枝で無意味にツンツン刺しながら、必死に話題を探す。

ううん。話題を探さなくても、空に聞きたいことはたくさんある。

今どこに住んでいるのか。なぜ急に引っ越したのか。
なにより聞きたいのは、どうしてひと言もないまま行ってしまったのか。

でもそれを聞きたいのなら、引っ越す直前のケンカについて謝る方が先だと思った。

「ねぇ、空」
「ん?」

1年前のあの日のことを謝ろうと決めたものの、言葉の続きが出てこない。

私は合格発表の次の日から、一切学校に行かなくなった。自由登校だったから行かなくてもよかったし、それで卒業できなくなるわけじゃない。
みんなは最後の思い出作りに登校しているようだったけど、私は誰の顔も見たくなかった。

部屋からも出ずに完全に引きこもり、両親もきっとお手上げだったと思う。当然、卒業式なんて出席する気もなかった。

若菜をはじめ友達はみんな心配してメッセージをくれたけど、合格確実と言われていた私が落ちた事実を知ると、どう慰めていいのかわからなかったのか徐々に連絡の頻度は減っていった。

そんな中、空だけは毎日のように家に来て私の部屋まで上がり込み、学校に来るように説得してきた。
心配してくれているのはわかってた。だけど、当時はその思いやりにすら苛ついていた。

空が何度来ようと、私はベッドで布団にくるまってずっと無視をしていたけど、ある日ついに感情が爆発してしまった。

『空に私の気持ちなんてわかんないよ! もうほっといて!』

ガバっと布団を剥いで起き上がると、空に向かって叫んだ。

『私の人生は終わったの!』

あまりにも稚拙で感情的な言葉だった。
でも当時の私にとっては本気で目の前が真っ暗に思えて、どうしたらいいのかわからないくらい不安だった。

『高校に落ちたくらいで終わるわけないだろ。甘ったれんなよ』
『星凛に受かった空に言われたくない! お父さんもお母さんも腫れ物に触るみたいな態度だし、友達には恥ずかしくて合わせる顔がないし、空とだって同じ高校に通えない! もうやだ、死んだ方がマシだよ……』

軽はずみに言っていい言葉ではないのはわかってる。医者を目指すと語っていた口で死を望む発言をするなんて、最低だと自覚もあった。

でもその時は吐き出さないとやっていられなかった。
『高校に落ちたくらいで』という空の呆れた口調に対する意趣返しの気持ちもあったのかもしれない。
一緒に通いたかった。空と一緒に高校生活を楽しむつもりだった。そんな気持ちまで蔑ろにされた気がして、言ってはならないひと言を口にしてしまった。

そんな私に対し、空は激怒した。

『ふざけんな!』

この時、初めて空が本気でキレているところを見た。
子供が癇癪を起こしたように喚く私以上に大きな声で、こちらを睨みつける。

『言っていいことと悪いことがあるだろ!』
『……っ、そ、そんなの知らない! もう全部嫌なのっ!』

耳を塞ぎ、首をブンブンと振る。
まさに悲劇のヒロインぶった私に、空はなにか言葉を探していたけれど、結局そのまま部屋を出ていった。

『……もういい。勝手にしろ』

それが最後の会話だった。
今も鮮明に思い出せる。空の怒りが滲んだ表情を。
そしてその怒りは持続することなく、徐々に呆れや失望、悲しみの色が濃くなっていって、私はすぐに自分の言動を後悔した。

思い出すだけで、胃がぎゅうっと引き攣れるように痛くなる。

「最後に会った日のこと、ちゃんと謝りたくて……。心配して来てくれてたのに……ごめんなさい」

空は黙って私の話を聞いている。だから私は話し続けた。

「自分だけ星凛に落ちて、その現実を受け止めきれなかった。悔しくて、恥ずかしくて、どんなに努力したって無意味なんだって思ったら、これまで頑張ってきたのが全部無駄だった気がした」
「今は、その気持ちはなくなった?」

静かに問われ、私は唇を噛んで下を向いた。

答えは、ノーだから。
私は1年も前の失敗から、いまだに立ち直れないでいる。

いっそ全部吹っ切って、もう医者を目指すのをやめようと思えれば楽なのに。
なにも考えずに高校生活を満喫するには、ひなた野高校は最適だ。

校則が緩くてオシャレもバイトもし放題だし、体育祭や文化祭などの学校行事に力を入れていてイベントごとがたくさんある。
友達と遊んだり彼氏をつくったりして、青春を思いっきり楽しめばいい。

なのに1年生の頃はこの学校を〝星凛よりも格下〟だと見下していて、なにをするにもやる気が起きなかった。
この場所にいるのがとても苦痛で、勉強も学校行事も人間関係も、周囲に合わせて適当に過ごしていた。

それなのに、いまだに真面目で優等生だった自分が中途半端に居残っていて、羽目を外しきれなかった。
そろそろ勉強しなくちゃいけないんじゃないかと焦っている今も、この環境のせいで落ち着いて勉強ができないと、努力をしない理由ばかり探している。

なんてみっともないんだろう。
2年生になり、彩葉と心春と過ごすのが思いの外楽しくて、勉強しない理由をふたりに押し付けている。
改めて自分を振り返り、最低だと感じた。

「あの日のことは謝らなくていい。俺も、怒鳴ったりしてごめん」
「空こそ謝らないでよ。あれは私の完全な八つ当たりだった」
「それでも、あんなに追い詰められてた美波に向かって『勝手にしろ』なんて言ったの、今でも後悔してる」

あの日の私の安易なひと言を、空はずっと気にしてくれていたらしい。
それは私に少しの喜びと罪悪感をもたらした。

けれど同時に、大きな疑問が浮かんでくる。
じゃあ、どうして今まで連絡をくれなかったの……?

その答えを空の口から聞きたくてじっと待っていると、彼はすくっと立ち上がった。
駄菓子の入った袋を斜め掛けしているショルダーバッグに入れ、私を見下ろす。

「もうそれ以上食べない?」
「え? あ、う、うん。今はいいかな」
「じゃあ行こう」
「行くって、どこに?」

私の質問には答えず、空は昔と変わらない笑顔でニッと笑った。


***

「ねぇ、本当に入る気?」
「当たり前だろ。そのために来たんだから」

信じられない。どうしてそんなに堂々としていられるんだろう。

「ちょ、ちょっと待ってよ」

怯む様子のない空がズンズン進んでいくのを、慌てて追いかけた。

私は今、休むと連絡をしたはずの学校の目の前にいる。
空が唐突に「美波の通ってる高校に行ってみたい」と言いだしたからだ。

自宅の最寄駅から電車に乗り30分。中途半端な時間だからか、いつもの通学と違って駅も車内も空いていたため、ふたりで並んで座席に座った。
到着した駅から歩くこと約3分。なぜかご機嫌な空と一緒にひなた野高校に着いた。

敷地面積が大きく、自由な校風が売りの私立高校。
隣を歩く空は黒いパーカーにグレーのパンツを履いているため、パッと見は制服の上に上着を羽織っているように見える。私は当然ちゃんと制服を着てるから、一緒にいれば違和感なく溶け込んで見えるはずだ。

在校生は700人を超えていて、制服も着崩している生徒が大半のため、正直うちの高校の生徒じゃない人が混じっていても誰も気付かないと思う。

だからといって、部外者である空が勝手に入っていいはずがない。
それなのに彼は何食わぬ顔をして校門をくぐり、そのまま校舎に入っていく。本物の生徒である私の方が、不審者のように周囲をキョロキョロしてしまう。

「ほら、美波が案内してよ」
「案内って言われても……」
「なんかいい感じの中庭とか、鍵が壊れててこっそり入れる屋上とかないの?」
「そんな漫画みたいなのないよ。屋上はそもそも入れないし」

時刻は11時15分。もうすぐ3時間目が終わってしまう。
あまり廊下をうろうろしていては、誰かに見咎められてしまうかもしれない。

「あっ、そうだ。こっち」

私は誰もいないであろう場所を思い出し、西棟の2階へ向かった。

うちの高校は創立20年と比較的新しい学校だ。
校舎の中央は1階から4階まで吹き抜けになっていて、窓が多く配置されているため、光を取り込んで校内でもとても明るい。

さらに特別教室や階段にはガラスが多用されていて、今まで通っていた小学校や中学校とは比べ物にならないほどオシャレな空間だ。なんていうか、ドラマの中に出てくる学校みたい。

「私立高校って感じだな」
「しぃっ! 静かにして」

普通の声で話しかけてくる空の神経の図太さにヒヤヒヤする。
私は極力小さな声で返事をした。

「でもわかる。私も、学校見て真っ先に私立っぽいって思った」

広い階段を上り、2階の一番奥まで廊下を進む。誰かにばったり出くわしたらどうしようという緊張感が、私を足早にさせた。

ようやく教室にたどり着くと、ホッと人心地つく。普段使っている教室と同じ配置なのに、人の気配がまるでなくて変な感じがした。
普段は滅多に使用されないため、特に施錠もされず扉は開いたままだ。

「ここ、空き教室?」
「そう。少し前はもっと生徒数が多くて12組まであったんだって。今は8組までしかないから、こっち側の校舎の教室はほとんど使われてないの。3階とか4階にある特別教室は普段から使うんだけど」
「へぇ」

空は窓側の後ろの席に座ると、隣の席のイスを引いた。

「ほら、美波も座って」

促されるまま隣の席に座る。
空は感触を確かめるようにイスを撫でたり、空っぽの机の中に手を入れたりしている。彼の奥の窓の外には校庭が見えた。

「うわー。懐かしいな、この感じ」
「そう? 何回も同じクラスになってるのに、隣の席になったことってあんまりないよね?」

小学校低学年の頃は覚えていないけど、少なくとも中学の頃に隣の席になったことはない。
だからなにをもって懐かしいと感じているのかわからないけど、空はとても満足そうに笑っている。

「あの黒板って電子のやつ?」

空が指したのは、緑色の黒板に重なるように置かれている大きなディスプレイ。いわゆる電子黒板というもので、基本的に使うのは普通の黒板だけど、数学の図形問題や地理の地図などの解説では電子黒板が活躍している。

そう話すと、空は新しいおもちゃを手にした子供のように目を輝かせた。

「すごいな、めっちゃいいじゃん。授業楽しそう」

他にも空は「窓デカ!」と外の景色を眺めたり、生徒に与えられるロッカーの大きさに感動したりと、室内をキョロキョロと見回している。

たしかに綺麗で広い学校だけど、教室なんてどこの高校も同じ感じだと思うのに、なぜか空はテンションが上って楽しそうだ。

「いい学校じゃん。なにが不満なの?」

学校に不満があるなんてひと言も言っていないのに、彼にはお見通しらしい。私は正直に本音を打ち明けた。

「……この学校じゃ授業をちゃんと聞いてる子なんて少数派なの。スマホ触ってたり、寝てる人だっている。先生が一生懸命電子黒板で授業してたって、そんな環境じゃどうにもならないっていうか」

どれだけ設備が整っていようと、私が求めていたのはそこじゃない。
もっとみんなが一生懸命で、お互いを高め合っていけるような、そんな環境に身を置きたかった。

そう口先だけでもごもごと言い訳をしたものの、後半はどんどん声が小さくなっていく。自分でも呆れてしまうほど他責思考の私に、空は一切容赦しなかった。

「だから、なに?」
「え?」
「みんなが授業中にスマホ触ってたら、美波は勉強できないの?」

私は答えられずに、ぎゅっと下唇を噛みしめる。

「そんなのまったく関係ない。環境も大事だけど、結局一番は自分のやる気と意志だろ」
「それは……」
「環境のせいでなにもできないと思ってるんなら、それは周りのせいじゃなくて美波自身の弱さだよ」

ズバッと正論で切られ、私は黙って視線を落とした。

そんなこと言われなくてもわかってる。
でも仕方ないじゃん。頑張ったって無駄になることだってあるんだって、身を持って知ってしまったんだから。

空は頭がよくて運動だってできる。おまけにイケメンでモテる。めちゃくちゃ頑張ったのにダメだったという絶望を味わったことがないから、そんなふうに言えるんだ。

「だって……一生懸命努力したって、報われないこともあるでしょ?」
「そりゃ誰だってあるだろ」
「それなのに、どうして頑張らないといけないんだろうって、わからなくなっちゃったの。だって、どれだけ努力しても実らないかもしれないんだよ?」
「実らなかったら、努力は無駄になんの?」

――……え?

空の質問に、私はゆっくりと顔を上げた。

「美波の言い方だと、結果が出ないなら頑張っても無駄ってことになる。努力してその目標に辿り着けなかったら、それまでの努力は全部無意味だって思ってんの?」
「だって、その目標のために努力するんでしょ? それに届かなかったら、なんのために――」

なんのために努力し続けたのかわからない。それに対する対価が見つからない。

「そう思うなら、やめればいい」
「そっ……そんな簡単に言わないでよ!」
「簡単だろ。周りのせいにせずに、堂々と努力するのをやめればいい」

強い眼差しが、他責思考しかできない私の心の弱さを見透かす。

頑張るなんて馬鹿らしいと思う一方で、適当に流れていく日々に焦りばかりが募っていた。
本当にこのままでいいのか不安で仕方ないけれど、それでも努力する意義を見失っている。

「それまでの苦労が全部無意味だって思うなら、すっぱり諦めて違う道を探せばいい。でも美波は違うだろ。本当はもっとちゃんと頑張りたいって思ってんじゃないの?」

正論に打ちのめされ唇を噛みしめる。
両親さえ、落ち込んでいた私に気を遣って何も言ってこなかった。
けれど空は真正面から私に向き合い、遠慮なく私の心の内側を覗こうとしてくる。

「高校受験では結果が伴わなかったから臆病になってるけど、美波は〝頑張ってるのをダサいって言う方がダサい〟っていうタイプだろ。それともなに、本当は一生懸命努力するのはダサいって思ってんの?」
「そんなこと思ってない」
「だったらいいじゃん、頑張れば。報われなくたって、失敗したって、努力したことに変わりはないし、1度失敗したって、もう1回チャレンジすればいいだろ。うじうじして、ずっと何かのせいにして、やらずに後悔するよりずっといいと思うけど」

さも簡単だと言わんばかりの言い草が、私の鬱々としていた思考をぐにゃりと溶かす。

「自分の分は、自分で頑張らないと。人のせいにしても誰も代わってくれないし、責任だって取ってくれないんだから」

努力は必ず報われるといった綺麗事を言うわけじゃなく、ただ淡々と事実を話す空の言葉が、ささくれだった心にじんわりと沁み込んでいく。

特別なことなんて何も言っていない。
言葉にしたら「そりゃそうだ」とあっさり流されてしまうような、当たり前の話。

だけど私はそんな簡単なことすら見失うほど、俯いて自分の殻に閉じこもっていた。

「大体、頑張らなくてもいいやって本気で思ってたら、そんなに悩んでないだろ」
「……うん」
「悩む前に何回だってぶつかりに行けよ。美波の得意技だろ、考えずに行動すんの」
「……ちょっと、人をイノシシみたいに」

口を尖らせて睨みはしたけれど、私はずっと空にそう言ってもらいたかったのかもしれない。

周りのせいにして、失敗に臆病になって、もう一度一生懸命頑張ってみようと踏み出す勇気が持てなかった。

ずんと心が沈み込んだまま、何度青空を見上げたって心は晴れなかった。

でも今は、分厚い真っ黒な雲がゆっくりと流れていくように、少しずつ私の心に光が差し込んでいる。

その理由は、きっと――――。