ぼくはまったく気乗りでなかった。街のほうについて、ドーナツ屋へ向かうとすでに同級生の逆井茉莉が店の前で暇そうに立っていた。
「遅いよ」
 そう言って茉莉に咎められ、ぼくはむっとした。
「まだ待ち合わせ時間になっていない」
「でも人を待たせてる」
 無茶苦茶だ、と腹を立てたが、ここで口論になったら面倒なことになる。ぼくらはドーナツ屋に入った。
「なんだか雰囲気変わったね」
 椅子につくなり茉莉が言った。
「そう?」
 少しぼくはびっくりしていた。なにかを勘づかれたような気がした。
「なんか、いつもぼーっとしているんだけど、そこになにか深みが増したような。なんちゃってね」
 茉莉は笑った。ぼくが少し怯えているのを察したのかもしれなかった。
「何も変わんないよ」
 ぼくは言った。
「はい、これ借りていたやつ」
 そう言って茉莉がテーブルに本を二冊置いた。
「べつに貸したわけじゃないよ、図書館に返してくれてもよかったのに」
「だって、テルくんから借りたんじゃん」
 ぼくが図書館で借りたて読んでいると、茉莉が興味を持って、それ読み終わったら貸して、とせがまれた。だったら図書館に返すから、次に借りればいい、と言うと、「そんなの面倒じゃん」とまた貸しをしろという。
 結局夏休みになったというのに、電話をかけてきて、返すからこいと言う。とてつもなく迷惑だった。
 そもそも、いま家から離れたくなかった。倫太郎は、「へー、女の子、テルのこと好きなんじゃん?」なんて興味もなさそうに言った。そう言われて、ちょっと落ち込んでしまった自分がいた。すぐ帰る、と言ってぼくは出かけたのだった。倫太郎のほうはまったく気にせず、「ゆっくりしてくれば。あ、なんかメシ買ってきて」とぼくを送り出した。
 なぜだろう。なんだか胸騒ぎがする。
 そばにいないと倫太郎がいなくなってしまうのではないか、と思ってしまう。
「ちょっと、なにぼーっとしてんの」
 茉莉が言った。
「いや、そんなことないよ」
「テルくんは、いっつもぼーっとしてるよね。心ここにあらず。わたしたちと違う世界に生きているみたい」
「そんな、みんなそうじゃない」
 だって、自分が見えているものと他の人が見えているものは違うに決まっている。同じものを見ていたとしても。同じ家に暮らしていても、兄たちとぼくは考え方も見え方も違った。
 倫太郎だってきっとそうだ。
 それだけ一緒にいても。だったら、できるだけ、たくさん、倫太郎と一緒にいなくちゃ。いくらそうしたって重ならないかもしれないけれど。
「またぼーっとして、一人の世界入ってるし」
「じゃないよ!」
 茉莉は言った。「みんなちゃんと、ゲンジツ見てる。テルくんは、なんだかいっつもここは自分の居場所じゃないんだーっ、とか思っていそう」
「そんなことないよ」
 ぼくは反論した。「悪いけど、みんななんかよりずっと、好きだよ」
「好き!」
 茉莉は驚いた顔をした。「誰?」
「ちがうよ、住んでいる村のこと」
「ふうん。まあ、みんななんもないって嘆いているけどさ。もしかしてテルくん。このあたりのことが好きなんじゃなくって、なんもなさすぎて、なにからも阻まれずに頭のなかで妄想できるから好きなんじゃない」
「なんだよそれ」
 と反論を試みようとしたけれど、できなかった。
 そうかもしれない、と。
 ほんとうはこの場所なんてなんにも好きでなくて、ただただぼーっとしていたいだけなのではないか、と。
「そういえばさ、幸せってなんだって思う?」
 唐突に茉莉が言った。
「なにそれ、宗教?」
「ううん。なんかね。借りた本にあったじゃない。『ほんとうのさいわい』って。テルくんにとっての『ほんとうのさいわい』とは?」
 茉莉は手を握り、僕のほうに向けた。マイクを持っている、つもりらしい。
「え、いきなりそんなこと言われてもわかんないよ」
「いきなりだからいいのよ。ぱっと思いついたことを言うの。考えたりすればするほど本質から遠ざかるものじゃない? 自分の考えって。まわりを気にしたりしてさ。馬鹿にされたらどうしようとか考えた時点で、ほんとうのことw隠しちゃう。で?」
 そのとき思ったのは、倫太郎の顔だったけれど、
「自分の住んでいる村かな」
 その背後にある景色を答えた。
「優等生かつ、郷土愛溢れている。まあテルくんらしいかもね。いまはなに読んでいるの?」
「おんなじ、宮沢賢治」
「読み終わったら貸して。電話してよ」
「面倒くさいな」
「だったらわたしが頃合いを見計らって電話するから、図書館に返さないでおいて」
 茉莉は立ち上がった。「よい夏休みを。学校ないとさびしいな」