9
スーツ姿の大きいほうのお兄ちゃんーー、サクちゃんとぼくは、電車に乗っていた。
「いつぶりだろ」
サクちゃんはぼくのことを不思議そうに見ていた。「テルが大きくなってなんか、年食ったって感じ」
「結婚の報告しにきた以来じゃない?」
サクちゃんは東京の大学を卒業して、そのままサラリーマンになって、会社の人と結婚した。式はあげなかった。東京で仲のいい友達を呼んでパーティーをする、と言っていたけれど、ぼくらは呼ばれなかった。
「ああ、そうか。じいちゃんは?」」
「元気。町内会の旅行とか行ってるし」
「はは。便りがないのは元気な証拠、ってか」
便りを出すのはそっちのほうではないか、と思った。でも、口答えするとゲンコで頭を叩くタイプの人なので、黙っていた。幼少期のトラウマをわざわざ蒸し返すこともあるまい。
「奥さんとキュウちゃんは元気?」
そして、三年ほど前に、子供が生まれたことを報告された。しかし、「遠くまで連れていくのは大変だから」と、おじいちゃんに初孫を見せてはいない。写真だけだ。
「そういやそうか、全然連絡してないしなあ」
奥さんの家族は東京に住んでいるから、よく会っていて、こっちを忘れてた、とサクちゃんは言った。
なんとなく、傷ついてしまった。
もうサクちゃんは東京の人、なのかもしれなかった。
「まだ駄菓子屋のばあちゃん元気か」
「うん、まだまだ元気」
「俺、餓鬼のときにチョコ一個くすねようとしてホウキで蹴られたなあ」
「うわ、最悪」
「でもその次にきたときも別にいつもと変わんなかったし、肝っ玉座ってるっていうか、懐かしいな」
なんとなくサクちゃんが楽しそうにしているので、まだ完全に忘れてはいないらしい。
「キュウちゃんに会いたいな」
「うるせえぞ」
そう言って取り出したスマホの待受は赤ちゃんの写真である。
「パパだね」
ぼくは言った。
「そりゃそうだろ。それに」
と一瞬口ごもり、サクちゃんは言った。「俺たちは早いうちに。テルなんてほんとうに小さいときに、親父も母ちゃんも死んじゃったんだ。あのときみたいにキュウをさせたくなんかないよ」
「そうだね。なんか、いいね」
ぼくは兄を頼もしく感じると同時に、寂しく思った。もうこの人は、ぼくの兄という立場よりも、甥っ子のキュウちゃんのパパであるわけだ、と。
新しい家族を作っている。
幡ヶ谷にあるサクちゃんのマンションにおじゃますると、奥さんの美鈴さんが笑顔で迎えてくれた。
「どうぞどうぞ、ゆっくりしてね、くたびれたでしょう」
ほとんど初めましてだというのに、ありがたかった。
リビングに入ると、甥っ子のキュウちゃんが、床に座りこみ、テレビを凝視していた。
「キュウちゃん」
ぼくが声をかけると、煩わしそうに振り向き、一瞬ぼくを見てからすぐにテレビに視線を戻した。
「ああ、テレビを止めないと、この子ずっと観てるから。キュウ、テルおじちゃんよ」
そう言って美鈴さんがやってきて、テレビを消すと、キュウちゃんがぐずり出す。「ほら、もっと遠くから観ないと」
と言って立ち上がらせ、抱き上げた。
ぼくはその、「お母さん」な姿をぼうっと眺めながら、じぶんが高校生にしておじちゃんとなった事実にいまさら衝撃を受けていた。
「キュウちゃん、ごめんね」
とぼくが可愛い甥っ子の頬に指で触れた。なんだか柔らかすぎて、こんな生き物がいたらすぐに好きになってしまうなあ、と思った。叔父の欲目でもなんでもなくて。
そのとき、美鈴さんがぼくの指をキュウちゃんの頬から離そうとして一歩引いた。
「テルくん、いまからご飯だから、手を洗ってきたら?」
失敗した、と思った。
なんとなく気まずい。そもそも外から帰ってきて、ほとんど見ず知らずのやつが赤ちゃんを触ったらさすがにいけないかもしれない。
手洗いから戻ってくると、キュウちゃんがぼくに興味を持ち始めた。
「てりゅちゃん、てりゅちゃん」
とそばに寄ってきて、「がっちゃーど、がっちゃーど」とおもちゃをぼくに見せてきた。
「仮面ライダー?」
とぼくが変身ベルトを手にすると、大喜びしながら変身音を鳴らした。
「ほらほら、いまからテルくんはご飯なんだから」
と美鈴さんが困った顔をした。
「いえ、いいんです、すごいねえ」
ぼくは楽しそうにしているキュウちゃんを見て、おじいちゃんに会わせてやりたいなあ、と思った。
血のつながった、こんなにかわいい赤ちゃんがいるんだから。
その様子を父であるサクちゃんがビールを飲みながら笑っている。いい家族だ。
しかし、ご飯を食べて、お風呂に入ったときだった。あ、そうだ、タオルどこにあるんだろう、と一瞬風呂の戸をあけたときに、声が聞こえた。
「どうするのよ、いきなりだし、布団がないわよ」
「そんなのなんだっていいよ」
「だって、うちに帰ってなにか言われたら、わたし嫌よ」
「言わないって、そんなの」
「なんできたの。家族以外を泊めるなんて、したくないのよ。そもそもなんなのかしらお義父さん、なんでうちで世話しないといけないの」
「弟だし、べつに適当でいいよ」
「お義父さん、わたしのこと嫌いだものね」
「そんなことないって」
「そうに決まってるわよ。ちょっと挨拶しただけで、結婚して、失礼だって」
「おい、やめろよ」
「それにテルくんて、病気なんでしょう」
「そんな大袈裟な」
「小さい頃に病院で診断してもらったんでしょう。キュウはまだ小さいし、心配よ」
聞き耳を立てていることに耐えられなくなって、ゆっくりと締めて、そのまま風呂に浸かった。
そうしないとなんだか冷えてしまいそうだった。
この家の厄介者だった。わかってはいたけれど。
しばらくしてから改めて、
「すみません、タオル貸してもらえませんか」
とぼくは声をかけた。
「あら、ごめんなさいね、置いておくわね」
と美鈴さんの明るい声が聞こえた。
なんだろう、優しい声であればあるほど、胸が痛くなった。
風呂からあがると、ぼくは
「あのう」
と切り出した。「ご飯とお風呂をご馳走になりました。明日帰るし、まだ小さいお兄ちゃんに会っていないので、今日はやっぱり小さいお兄ちゃんのところで泊めてもらおうかな、と思います」
そう告げると、一瞬美鈴さんが、さっきの会話を聞いたんではないか、と疑うような目をしたが、ぼくがただすまなさそうな顔をしていると、
「そうなの」
と笑った。
ほっとしているのと、なにか魂胆があるのではないか、という疑いが入り混じった歪な笑顔を浮かべた。
「まあ、テルは俺よか、リュウのほうになつていたもんなあ」
とサクちゃんも納得したような口振りだったけれど、どこか安心しているみたいだった。「あいつんち、阿佐ヶ谷だろ、一人で行けるか?」
「うん、大丈夫」
そう言ってぼくは立ち上がった。
美鈴さんに抱かれているキュウちゃんに、
「ばいばい」
とぼくは手を振った。
キュウちゃんは、
「またがっちゃーしよ」
と振り返してくれた。
スーツ姿の大きいほうのお兄ちゃんーー、サクちゃんとぼくは、電車に乗っていた。
「いつぶりだろ」
サクちゃんはぼくのことを不思議そうに見ていた。「テルが大きくなってなんか、年食ったって感じ」
「結婚の報告しにきた以来じゃない?」
サクちゃんは東京の大学を卒業して、そのままサラリーマンになって、会社の人と結婚した。式はあげなかった。東京で仲のいい友達を呼んでパーティーをする、と言っていたけれど、ぼくらは呼ばれなかった。
「ああ、そうか。じいちゃんは?」」
「元気。町内会の旅行とか行ってるし」
「はは。便りがないのは元気な証拠、ってか」
便りを出すのはそっちのほうではないか、と思った。でも、口答えするとゲンコで頭を叩くタイプの人なので、黙っていた。幼少期のトラウマをわざわざ蒸し返すこともあるまい。
「奥さんとキュウちゃんは元気?」
そして、三年ほど前に、子供が生まれたことを報告された。しかし、「遠くまで連れていくのは大変だから」と、おじいちゃんに初孫を見せてはいない。写真だけだ。
「そういやそうか、全然連絡してないしなあ」
奥さんの家族は東京に住んでいるから、よく会っていて、こっちを忘れてた、とサクちゃんは言った。
なんとなく、傷ついてしまった。
もうサクちゃんは東京の人、なのかもしれなかった。
「まだ駄菓子屋のばあちゃん元気か」
「うん、まだまだ元気」
「俺、餓鬼のときにチョコ一個くすねようとしてホウキで蹴られたなあ」
「うわ、最悪」
「でもその次にきたときも別にいつもと変わんなかったし、肝っ玉座ってるっていうか、懐かしいな」
なんとなくサクちゃんが楽しそうにしているので、まだ完全に忘れてはいないらしい。
「キュウちゃんに会いたいな」
「うるせえぞ」
そう言って取り出したスマホの待受は赤ちゃんの写真である。
「パパだね」
ぼくは言った。
「そりゃそうだろ。それに」
と一瞬口ごもり、サクちゃんは言った。「俺たちは早いうちに。テルなんてほんとうに小さいときに、親父も母ちゃんも死んじゃったんだ。あのときみたいにキュウをさせたくなんかないよ」
「そうだね。なんか、いいね」
ぼくは兄を頼もしく感じると同時に、寂しく思った。もうこの人は、ぼくの兄という立場よりも、甥っ子のキュウちゃんのパパであるわけだ、と。
新しい家族を作っている。
幡ヶ谷にあるサクちゃんのマンションにおじゃますると、奥さんの美鈴さんが笑顔で迎えてくれた。
「どうぞどうぞ、ゆっくりしてね、くたびれたでしょう」
ほとんど初めましてだというのに、ありがたかった。
リビングに入ると、甥っ子のキュウちゃんが、床に座りこみ、テレビを凝視していた。
「キュウちゃん」
ぼくが声をかけると、煩わしそうに振り向き、一瞬ぼくを見てからすぐにテレビに視線を戻した。
「ああ、テレビを止めないと、この子ずっと観てるから。キュウ、テルおじちゃんよ」
そう言って美鈴さんがやってきて、テレビを消すと、キュウちゃんがぐずり出す。「ほら、もっと遠くから観ないと」
と言って立ち上がらせ、抱き上げた。
ぼくはその、「お母さん」な姿をぼうっと眺めながら、じぶんが高校生にしておじちゃんとなった事実にいまさら衝撃を受けていた。
「キュウちゃん、ごめんね」
とぼくが可愛い甥っ子の頬に指で触れた。なんだか柔らかすぎて、こんな生き物がいたらすぐに好きになってしまうなあ、と思った。叔父の欲目でもなんでもなくて。
そのとき、美鈴さんがぼくの指をキュウちゃんの頬から離そうとして一歩引いた。
「テルくん、いまからご飯だから、手を洗ってきたら?」
失敗した、と思った。
なんとなく気まずい。そもそも外から帰ってきて、ほとんど見ず知らずのやつが赤ちゃんを触ったらさすがにいけないかもしれない。
手洗いから戻ってくると、キュウちゃんがぼくに興味を持ち始めた。
「てりゅちゃん、てりゅちゃん」
とそばに寄ってきて、「がっちゃーど、がっちゃーど」とおもちゃをぼくに見せてきた。
「仮面ライダー?」
とぼくが変身ベルトを手にすると、大喜びしながら変身音を鳴らした。
「ほらほら、いまからテルくんはご飯なんだから」
と美鈴さんが困った顔をした。
「いえ、いいんです、すごいねえ」
ぼくは楽しそうにしているキュウちゃんを見て、おじいちゃんに会わせてやりたいなあ、と思った。
血のつながった、こんなにかわいい赤ちゃんがいるんだから。
その様子を父であるサクちゃんがビールを飲みながら笑っている。いい家族だ。
しかし、ご飯を食べて、お風呂に入ったときだった。あ、そうだ、タオルどこにあるんだろう、と一瞬風呂の戸をあけたときに、声が聞こえた。
「どうするのよ、いきなりだし、布団がないわよ」
「そんなのなんだっていいよ」
「だって、うちに帰ってなにか言われたら、わたし嫌よ」
「言わないって、そんなの」
「なんできたの。家族以外を泊めるなんて、したくないのよ。そもそもなんなのかしらお義父さん、なんでうちで世話しないといけないの」
「弟だし、べつに適当でいいよ」
「お義父さん、わたしのこと嫌いだものね」
「そんなことないって」
「そうに決まってるわよ。ちょっと挨拶しただけで、結婚して、失礼だって」
「おい、やめろよ」
「それにテルくんて、病気なんでしょう」
「そんな大袈裟な」
「小さい頃に病院で診断してもらったんでしょう。キュウはまだ小さいし、心配よ」
聞き耳を立てていることに耐えられなくなって、ゆっくりと締めて、そのまま風呂に浸かった。
そうしないとなんだか冷えてしまいそうだった。
この家の厄介者だった。わかってはいたけれど。
しばらくしてから改めて、
「すみません、タオル貸してもらえませんか」
とぼくは声をかけた。
「あら、ごめんなさいね、置いておくわね」
と美鈴さんの明るい声が聞こえた。
なんだろう、優しい声であればあるほど、胸が痛くなった。
風呂からあがると、ぼくは
「あのう」
と切り出した。「ご飯とお風呂をご馳走になりました。明日帰るし、まだ小さいお兄ちゃんに会っていないので、今日はやっぱり小さいお兄ちゃんのところで泊めてもらおうかな、と思います」
そう告げると、一瞬美鈴さんが、さっきの会話を聞いたんではないか、と疑うような目をしたが、ぼくがただすまなさそうな顔をしていると、
「そうなの」
と笑った。
ほっとしているのと、なにか魂胆があるのではないか、という疑いが入り混じった歪な笑顔を浮かべた。
「まあ、テルは俺よか、リュウのほうになつていたもんなあ」
とサクちゃんも納得したような口振りだったけれど、どこか安心しているみたいだった。「あいつんち、阿佐ヶ谷だろ、一人で行けるか?」
「うん、大丈夫」
そう言ってぼくは立ち上がった。
美鈴さんに抱かれているキュウちゃんに、
「ばいばい」
とぼくは手を振った。
キュウちゃんは、
「またがっちゃーしよ」
と振り返してくれた。