倫太郎がぼくをじっと見つめた。
「なんだよ」
 ぼくが笑うと、
「なんも変わってねえな」
 としみじみと言った。
「成長はしてなかったかもしれない」
「ああ、すごく懐かしいよ」
 倫太郎が目を瞑った。とてもくたびれているように見えた。
「ごめん、急にきて」
「いや、嬉しいよ、ほんとうに」
 目を開けることなく、言った。「なあ、あのときの事件は、テルには見えたのか」
「見えた時は遅かった。見えてすぐに、起こった」
 ぼくはいたたまれなかった。
 自分が倫太郎のお母さんを救えなかったこと、そして倫太郎の人生をこんなふうに歪ませたことが自分の責任のようにも思えた。
「そばにきてくれ」
 倫太郎がいい、ぼくは隣に座った。
 二人で黙って、座っていた。自分は、謝りたかったんだ、と改めて思った。
 倫太郎がぼくの手に触れた。ぼくは倫太郎と手を握った。
「へへ」
 気恥ずかしくなり、ぼくが笑うと、
「なんできたんだよ」
 とまじめな口調で倫太郎が言った。そしてぼくの首に顔を埋めた。
「なに、どうした」
 ぼくが握っていないほうの手で、倫太郎の頭をぽんぽんと叩いた。
 これまで我慢してきたのが、急にやってきた昔を知っている人のせいで崩れてしまったのかもしれない、と思った。だから、
「ごめん」
 とぼくは言った。
 謝ってばかりいるな、と思った。
「なんか、村の匂いがするな」
 倫太郎が鼻を押し付けたまま言った。
「田舎者だからなあ」
「二人っきりのとき、よく一緒にこんなふうにしてたな」
「あれはーー、うん、ぼくが、寂しかったからだ。ごめん」
「俺だって、寂しかったよ」
 そういって倫太郎は顔をあげて、「でももう村には戻れない。そもそも村のことを考えていたら、生きてらんなかったしな」
 と言った。困った顔をしていた。
「うん、わかる」
「さっきお前がきたって聞いて、びっくりした。なんで今日なんだって思ったよ」
「今日?」
「明日、夜に婚約者に会うことになってるんだ」
「婚約者って、ぼくらまだ高校生だよ」
「もう決まってんだよ。有無も言わさず。悪い人間じゃないのもわかっているし、この世界で生きていくのには、結婚するのも悪いことじゃない」
 倫太郎がもとの倫太郎に一瞬戻ったような気がしたのに、やっぱり倫太郎は、自分とは違う世界の住人なのだ、と思った。
 なんとなくぼくらは、ソファに横になって、ぴったりとくっついた。それは昨夜の木戸さんとの安心感とは違う、もう少し切実な抱擁だった。
「そもそもが、レンの……だった。でも、あいつはもうだめだから、俺が」
「ちょっと待って、どういうこと」
 ぼくはびっくりして聞き返した。
「レンと昔から婚約が決まっていたんだ、でも、あいつは家を飛び出して、しょうもないことになってしまったから、俺が代わりになった。でも、これで、俺はここにいる資格をやっと手に入れたって思うんだ」
 倫太郎は言った。どこか決意めいたものを感じた。
 ぼくは高い真っ白な天井を見た。
 これは、復讐みたいなものだろう、と思った。
 母を愛人にして、おかしくさせ、そしてすっかり人生が歪んでしまったことへの。それはべつに、誰かが止めるものでもない。ぼくがあの村でずっといたいと思うように、人はできるだけ、枠のなかで生きたほうがいい。その枠は広くても小さくてもいい、自分お生きる場所の果てを、自分がちゃんとわかっているならば。
「おめでとう」
 ぼくは言った。
 それで倫太郎が不幸になるとしたら。
 友達であり、ずっと好きだった相手だから止めるべきなのかわからなかった。倫太郎の人生は理不尽すぎた。
 人の人生が理不尽なのは当たり前のことかもしれないけれど、度が過ぎるほどに。でも、そのなかで、倫太郎はなんとかやり抜こうとしているのではないか。
 だったら、祝うべきだろう。
 もう抱きしめてやることのない母親のかわりに、ぼくは倫太郎を抱きしめた。
 なにかもっと、言葉をかけてやれたらいいのに、と思ったけれど、なにも浮かんでこなかった。こんなときに、不用意に口にしてしまったら、きっとなにもかもがだいなしになってしまうような気がした。
 このままだと泣いてしまいそうな倫太郎の顔が目の前にあった。しばらくぼくらは見つめ合って、そして、顔を近づけた。
 しばらくして離してから、照れ臭くなり、
「久しぶりだね」
 と言った。「小さい頃は、なんかやたらと抱き合ったり、硬くなったのさわりっこしたりしてたもんね」
「でも、最後まで俺らしなかったよな」
 倫太郎は言った。「やらせてくんなかった」
「いやだって、そもそも使い道的に違うしさあ」
 ぼくがそっぽを向いて言うと、
「そんなの関係ねえし」
 と倫太郎が言った。
「いま、する?」
 恐る恐るぼくは訊ねた。
「いましたら、多分、よくある結婚前の一発みたいなキモいオッサンがするみたいなことになるな」
「たしかに」
「それに、もしいま、そうなったら、これからどうすりゃいいんだよ」
 倫太郎が起き上がった。「近くに親もいるのに」
「たしかに」
 ぼくも起き上がって、言った。「すごいね」
「なにが」
「いや、ぼくだったらとりあえず流されると思って」
 なんだかとぼけた会話をしてしまっていた。
「うん、もうテルとこんなことできないかと思うと、死ぬほど辛いけれど、しないよ」
「そうか」
「なに残念がっているんだよ」
 倫太郎が笑った。
「倫太郎」
「なんだよ」
「よかった、会えて」
 心から言えた。そして、二人で抱き合っていたとき、わかった。
 倫太郎のことを想ってきたことは、いま、レンに塗り替えられていると。
「俺も」
 と倫太郎は庭のほうへ向かい、窓をあけると、
「お母さん、テルがきたよ!」
 大きな声で叫んだ。