5
海っていうのは、実際に見てみると、想像以上に広い、と言っていたのは誰だったのか、とぼくは思った。
「でかっ!」
金持ち、豪邸、という言葉の想像以上にでかい。門は堅牢で、その先にある屋敷は果てしなく遠い、だがとてつもなく大きいのがだけはわかる。そのこまで向かうのに、どれだけ時間がかかるのか、わからない。
「じゃ、行っておいで」
と気軽にテツさんが呼び出しボタンを押した。
「え、心の準備が」
「友達に会うのに準備なんて野暮なもんはいらんだろ」
『どちら様ですか』
スピーカーから声が聞こえてきた。
「あ、あの、倫太郎くんいますか、友達の出口です」
テツさんに背中を押され、ぼくは言った。
まったく返事が来ない。
「あれ」
「不審者だと思って通報されたかなあ」
テツさんがのんきに言った。
「は?」
ちょっと待ってよ、と言おうとしたときだ。
『どうぞ』
という声がして、門がゆっくり開いていく。
「待っててあげるから、言っておいで」
テツさんが励ますほうに言った。「いいかい、素直にごめんねって言えばいい」
いや、テツさんに言った事情は実は嘘なんです。しかもレンじゃなくて、倫太郎って言っちゃったよ、心の準備が。
門が開いた。
邸内は緑に溢れていて、そして途中では裸体の女の石像があった。持っている壺からばしゃばばしゃと滝のように水が落ちている。
いや、こんな漫画みたいな金持ちの家に入るのなんて、初めてだし、そもそも現実味がなさすぎる。
ありとあらゆるところで花が咲いている。草原と呼んでもいいくらいの庭にのほうで、車椅子に乗った人が遠くで見えた。
ぼくが頭を下げて挨拶しても気づかない。
そして屋敷の前に立つと、ドアが開いた。
そこには、訝しげな表情を浮かべた、倫太郎がいた。
「ひさしぶり」
ぼくが言うと、倫太郎は、
「どうぞ」
と奥へ入っていった。
「なんでここにきたんだ」
やたらと広い部屋に通され、どかとソファに座った倫太郎に訊ねられた。ぼくがうまく答えられないでいると、「座れよ」と促した。
お手伝いさんらしき人が、紅茶とケーキを持ってきた。
「いただきます」
とぼくは言ってみたものの、手をつけることができなかった。
「どうした、食わないのか」
「うん、おいしそうだね」
ぼくはケーキを口に入れた。おいしい、なんだかたまに食べる甘いものとはちょっと違う、複雑で計算された、高い味だった。
「久しぶりだな」
倫太郎が足を組んだ。
ぼくは倫太郎をじっくりと見た。この部屋にしっかりと馴染んでいる。面影はある、けれど、どこかすっかり変わり果てた、というか別人になってしまったみたいに見えた。
「うん。元気にしてた?」
ぼくは言った。
「まあな、テルは……あんま変わってないな」
「そうだね、うん」
ぼくはなんとなく笑った。同い年なのに、なんだか年上になってしまった友達と話しているみたいに緊張した。年齢なんて、成長には関係ないのかもしれない、と思った。
「まあ、あそこにずっといりゃそんなもんか」
「そうだね、あんまり変わってないし」
「ふうん」
倫太郎の目は、どこか遠くを見ているようだった。むしろ、朧げな過去を思い出すことができず苛立っているようだった。
「倫太郎は、なんか、すごいねえ、ばりっとしちゃって」
ぼくは妙に謙って、お世辞を言ってしまった。
「大学どうするんだ、東京か?」
「いや、まだ決めてない。倫太郎は」
「いちおう慶應。エスカレートで」
「そうなんだ」
なにからなにまで、違うなあ、と思った。
ずっと、倫太郎と自分は、きっと住む世界が違ってしまったんだ、もう会うことはない、と思っていたのに不思議だった。
かといって、実際に会ってみると、その生き方の違い、は距離とか都会と田舎の違いなんてものではなかった。そんなものだらまだマシだった。
「東京、なにしにきたの」
「うん、ちょっと人を探しに」
お前の義理の兄貴のレンを、と言ったらどんな顔をするだろうか、と思った。素直に、言ってみるべきか、迷った。
「そうか、よかった。俺に会いにきたとかだったら、申し訳ないけどそんなに相手にできないし、そもそも突然すぎたもんな。それに、俺、住んでいるとこ教えたっけ?」
「いや、それは」
検索したら、と白状しようとしたとき、
「まあ、バレバレか、どうせ」
と立ち上がった。
ぼくは紅茶を飲んだ。高いんだろうなあ、と思った。なんてお茶、と聞いても、自分はこれから先飲む機会があるのか。味わった方がいいかな、と思ったけれど、なんとなく、緊張してしまいただ飲み干してしまった。
「ほら、母さん」
と倫太郎が言った。
「えっ」
あのとき亡くなったのかと思った。ぼくはびっくりして立ち上がり、倫太郎のいる窓のほうへ向かった。
庭の先に、車椅子があった。
「あの人が」
さっき通りかかったとき、誰かわからなかった。
「どこまで知ってんの?」
倫太郎が窓を見たまま言った。
「なにも」
「あのとき母さんは一命をとりとめた。で、俺たちはこの本家に入った。刺した本妻は……自分であんなことやっといて精神をおかしくして病院行き。離婚して、で、母さんが本妻におさまると思いきや、母さんのほうもすっかり病んじまって使い物になんない、ってんで、いまいるのは新しい嫁さん」
「それ、現代の話?」
ぼくは思わず言ってしまった。失礼すぎたけれど、そんなことを気にすることもできないスケールだ」
「親父みたいなのは、そばに妻を置いておかないと決まりがわるいからな。それに血筋も悪くないってんで、俺たちもせっかくここにきても日陰の身ってわけだ。このままじゃなかったことにされると俺は焦ったよ。毎日地獄だったね、ここにいるためには、これまでのことは全部なしにして、この世界の常識を叩き込み、そして、兄弟を追い抜くことが必要だった。そうしないと、俺と母さんも、なかったことにされるってね」
倫太郎が厳しい表情で語った。
兄弟。その言葉に、ぼくは息をのんだ。
「追い抜くって」
ぼくは訊ねた。
「つまり、いかれた前の妻の子供よりも、自分が優秀であるとみんなにわからせることが必要だったんだな。ひどかったぜ、最初の扱いなんて。完全に小公子とかああいうやつ。そばに母親がいたって、どうしようもない。なにせショックでぜんぜんしゃべれなくなっちまったしな。でも考えてみたら、うちの親父も相当な鬼畜だな。最初の女房の罪を隠蔽して、母さんをいちおう置いてやるものの、ほぼ幽閉状態。そんでもって外交用の妻を娶るとかさ」
聞けば聞くほど、それは令和の話か、と思った。
ほんとうの金持ち、なんならポケットマネーで宇宙にもいける、とさっきテツさんが冗談めかして言っていたけれど、宇宙どころか、常識をはるかに超えている。グロい。
「まず初めにいたやつを完膚なきまでに倒して、そして親戚連中を黙らせる。こんどはもうすぐ生まれるいまの女房のガキをどうにかしないといけない」
倫太郎は座った。
そしてフォークを手にして、ケーキにザクザクと刺して、そしてそのまま刺したままのケーキを口に運んだ。
野蛮な食い方だったけれど、嫌味でも貧乏くさくもなかった。
どちらかといえば、身の上話をしたことで、怒りが起きて、それをぶつけているように見えた。
「弟ができるんだ」
ぼくは言った。
「まあ、厄介だな。血筋がいい。後を継がすなら、あっちのほうが有利だ。これからいろいろ立ち回らないといけない。失敗は許されない」
無表情でケーキを食べ終え、倫太郎はソファに身体を沈めた。
「ケーキ、おいしかった」
「おれは味がしないんだ」
倫太郎が言った。「ここにきてから味覚がいかれてる。だからうまいものを、うまそうに食う演技ばっかりうまくなった」
「なんで、病院に行ったの?」
「精神的なものだろ。そんなことを訴えて、自分の立場が悪くなっても困るから言わない。とく面倒もないし」
「そんな」
なんだそれは。どう考えても倫太郎だっておかしくなっているではないか。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
「なに」
「さっきのケーキと、母さんが作ったケーキ、どっちがうまい?」
まるで、「生きるべきか死ぬべきか」と問うているみたいな真剣さだった。
「ぼくは、倫太郎のお母さんのケーキが一番好きだよ」
「だよな、だったらべつに、どうでもいいんだ」
と倫太郎は言った。
海っていうのは、実際に見てみると、想像以上に広い、と言っていたのは誰だったのか、とぼくは思った。
「でかっ!」
金持ち、豪邸、という言葉の想像以上にでかい。門は堅牢で、その先にある屋敷は果てしなく遠い、だがとてつもなく大きいのがだけはわかる。そのこまで向かうのに、どれだけ時間がかかるのか、わからない。
「じゃ、行っておいで」
と気軽にテツさんが呼び出しボタンを押した。
「え、心の準備が」
「友達に会うのに準備なんて野暮なもんはいらんだろ」
『どちら様ですか』
スピーカーから声が聞こえてきた。
「あ、あの、倫太郎くんいますか、友達の出口です」
テツさんに背中を押され、ぼくは言った。
まったく返事が来ない。
「あれ」
「不審者だと思って通報されたかなあ」
テツさんがのんきに言った。
「は?」
ちょっと待ってよ、と言おうとしたときだ。
『どうぞ』
という声がして、門がゆっくり開いていく。
「待っててあげるから、言っておいで」
テツさんが励ますほうに言った。「いいかい、素直にごめんねって言えばいい」
いや、テツさんに言った事情は実は嘘なんです。しかもレンじゃなくて、倫太郎って言っちゃったよ、心の準備が。
門が開いた。
邸内は緑に溢れていて、そして途中では裸体の女の石像があった。持っている壺からばしゃばばしゃと滝のように水が落ちている。
いや、こんな漫画みたいな金持ちの家に入るのなんて、初めてだし、そもそも現実味がなさすぎる。
ありとあらゆるところで花が咲いている。草原と呼んでもいいくらいの庭にのほうで、車椅子に乗った人が遠くで見えた。
ぼくが頭を下げて挨拶しても気づかない。
そして屋敷の前に立つと、ドアが開いた。
そこには、訝しげな表情を浮かべた、倫太郎がいた。
「ひさしぶり」
ぼくが言うと、倫太郎は、
「どうぞ」
と奥へ入っていった。
「なんでここにきたんだ」
やたらと広い部屋に通され、どかとソファに座った倫太郎に訊ねられた。ぼくがうまく答えられないでいると、「座れよ」と促した。
お手伝いさんらしき人が、紅茶とケーキを持ってきた。
「いただきます」
とぼくは言ってみたものの、手をつけることができなかった。
「どうした、食わないのか」
「うん、おいしそうだね」
ぼくはケーキを口に入れた。おいしい、なんだかたまに食べる甘いものとはちょっと違う、複雑で計算された、高い味だった。
「久しぶりだな」
倫太郎が足を組んだ。
ぼくは倫太郎をじっくりと見た。この部屋にしっかりと馴染んでいる。面影はある、けれど、どこかすっかり変わり果てた、というか別人になってしまったみたいに見えた。
「うん。元気にしてた?」
ぼくは言った。
「まあな、テルは……あんま変わってないな」
「そうだね、うん」
ぼくはなんとなく笑った。同い年なのに、なんだか年上になってしまった友達と話しているみたいに緊張した。年齢なんて、成長には関係ないのかもしれない、と思った。
「まあ、あそこにずっといりゃそんなもんか」
「そうだね、あんまり変わってないし」
「ふうん」
倫太郎の目は、どこか遠くを見ているようだった。むしろ、朧げな過去を思い出すことができず苛立っているようだった。
「倫太郎は、なんか、すごいねえ、ばりっとしちゃって」
ぼくは妙に謙って、お世辞を言ってしまった。
「大学どうするんだ、東京か?」
「いや、まだ決めてない。倫太郎は」
「いちおう慶應。エスカレートで」
「そうなんだ」
なにからなにまで、違うなあ、と思った。
ずっと、倫太郎と自分は、きっと住む世界が違ってしまったんだ、もう会うことはない、と思っていたのに不思議だった。
かといって、実際に会ってみると、その生き方の違い、は距離とか都会と田舎の違いなんてものではなかった。そんなものだらまだマシだった。
「東京、なにしにきたの」
「うん、ちょっと人を探しに」
お前の義理の兄貴のレンを、と言ったらどんな顔をするだろうか、と思った。素直に、言ってみるべきか、迷った。
「そうか、よかった。俺に会いにきたとかだったら、申し訳ないけどそんなに相手にできないし、そもそも突然すぎたもんな。それに、俺、住んでいるとこ教えたっけ?」
「いや、それは」
検索したら、と白状しようとしたとき、
「まあ、バレバレか、どうせ」
と立ち上がった。
ぼくは紅茶を飲んだ。高いんだろうなあ、と思った。なんてお茶、と聞いても、自分はこれから先飲む機会があるのか。味わった方がいいかな、と思ったけれど、なんとなく、緊張してしまいただ飲み干してしまった。
「ほら、母さん」
と倫太郎が言った。
「えっ」
あのとき亡くなったのかと思った。ぼくはびっくりして立ち上がり、倫太郎のいる窓のほうへ向かった。
庭の先に、車椅子があった。
「あの人が」
さっき通りかかったとき、誰かわからなかった。
「どこまで知ってんの?」
倫太郎が窓を見たまま言った。
「なにも」
「あのとき母さんは一命をとりとめた。で、俺たちはこの本家に入った。刺した本妻は……自分であんなことやっといて精神をおかしくして病院行き。離婚して、で、母さんが本妻におさまると思いきや、母さんのほうもすっかり病んじまって使い物になんない、ってんで、いまいるのは新しい嫁さん」
「それ、現代の話?」
ぼくは思わず言ってしまった。失礼すぎたけれど、そんなことを気にすることもできないスケールだ」
「親父みたいなのは、そばに妻を置いておかないと決まりがわるいからな。それに血筋も悪くないってんで、俺たちもせっかくここにきても日陰の身ってわけだ。このままじゃなかったことにされると俺は焦ったよ。毎日地獄だったね、ここにいるためには、これまでのことは全部なしにして、この世界の常識を叩き込み、そして、兄弟を追い抜くことが必要だった。そうしないと、俺と母さんも、なかったことにされるってね」
倫太郎が厳しい表情で語った。
兄弟。その言葉に、ぼくは息をのんだ。
「追い抜くって」
ぼくは訊ねた。
「つまり、いかれた前の妻の子供よりも、自分が優秀であるとみんなにわからせることが必要だったんだな。ひどかったぜ、最初の扱いなんて。完全に小公子とかああいうやつ。そばに母親がいたって、どうしようもない。なにせショックでぜんぜんしゃべれなくなっちまったしな。でも考えてみたら、うちの親父も相当な鬼畜だな。最初の女房の罪を隠蔽して、母さんをいちおう置いてやるものの、ほぼ幽閉状態。そんでもって外交用の妻を娶るとかさ」
聞けば聞くほど、それは令和の話か、と思った。
ほんとうの金持ち、なんならポケットマネーで宇宙にもいける、とさっきテツさんが冗談めかして言っていたけれど、宇宙どころか、常識をはるかに超えている。グロい。
「まず初めにいたやつを完膚なきまでに倒して、そして親戚連中を黙らせる。こんどはもうすぐ生まれるいまの女房のガキをどうにかしないといけない」
倫太郎は座った。
そしてフォークを手にして、ケーキにザクザクと刺して、そしてそのまま刺したままのケーキを口に運んだ。
野蛮な食い方だったけれど、嫌味でも貧乏くさくもなかった。
どちらかといえば、身の上話をしたことで、怒りが起きて、それをぶつけているように見えた。
「弟ができるんだ」
ぼくは言った。
「まあ、厄介だな。血筋がいい。後を継がすなら、あっちのほうが有利だ。これからいろいろ立ち回らないといけない。失敗は許されない」
無表情でケーキを食べ終え、倫太郎はソファに身体を沈めた。
「ケーキ、おいしかった」
「おれは味がしないんだ」
倫太郎が言った。「ここにきてから味覚がいかれてる。だからうまいものを、うまそうに食う演技ばっかりうまくなった」
「なんで、病院に行ったの?」
「精神的なものだろ。そんなことを訴えて、自分の立場が悪くなっても困るから言わない。とく面倒もないし」
「そんな」
なんだそれは。どう考えても倫太郎だっておかしくなっているではないか。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
「なに」
「さっきのケーキと、母さんが作ったケーキ、どっちがうまい?」
まるで、「生きるべきか死ぬべきか」と問うているみたいな真剣さだった。
「ぼくは、倫太郎のお母さんのケーキが一番好きだよ」
「だよな、だったらべつに、どうでもいいんだ」
と倫太郎は言った。