倫太郎が出ていった、あの事件は、のどかな集落では、ありえない出来事だった。
 そもそも倫太郎はお母さんと二人暮らしをしていた。話によると、急に幼い男の子を連れた女がふらりとやってきて、小さな空き家で暮らし始めたという。
 だからといって新参者を阻害する、みたいな田舎のあるあるみたいなこともなく、倫太郎のお母さんも人当たりのいい人だったし、小さい子供ーー倫太郎はかわいいし、ということで、すぐに集落に溶けこんだ。
 ぼくも、小学校にあがったときには年の離れた二番目の兄貴が山の向こうの大学に進学して、おじいちゃんと二人暮らしをしていたし、同い年ということですぐに仲良くなり、ずっと学校が終わると遊んでいた。
 お母さんは上品な人で、倫太郎の家にあがるとジュースとケーキを出してくれた。倫太郎はその手作りケーキをあたりまえのように頬張っていたけれど、年寄りと暮らしている僕からすれば、とても貴重なもののように思えた。
「たくさんあるからいくらでも」
 と倫太郎のお母さんはおかわりを出してくれた。
 倫太郎の家にはときどき、おじさんがやってきた。
「お父さん」
 と倫太郎は言っていたので、離れて暮らしているのか、タンシンフニンとかなのかな? ととくに気にもせずにいた。お父さんがやってくるときは、放課後遊ぶこともせず、倫太郎は走って帰っていった。やっぱりたまにしか会えないのは寂しいもんだよな、と思っていた。
 事件が起こった夜のこと。
 もう布団に入っていたとき、どんどんと家のドアを叩く音がした。それはもうとにかく強いもので、なにか緊迫したものが感じられて、怖かった。
 おじいちゃんが開けたとき、倫太郎が立っていた。
「お母さんが、お母さんが」
 倫太郎の家に駆けつけ、おじいちゃんが先に入った。前で待っているあいだ、やっぱり自分も入ろうとしたときだ。おじいちゃんが出てきて、「お前は家に帰っていろ」とぼくに怒鳴った。
「なんで?」
 そんな理不尽な。なにが起きているんだと無視して入ろうとするのを、おじいちゃんが追い払った。
「いいから、早く」
 倫太郎は家から出てこなかった。
 あとから大人たちの噂話でわかったことは、倫太郎のお母さんはお妾さんで、倫太郎はその相手の子供だった。そして、あるとき男のほんとうの奥さんがやってきて、倫太郎のお母さんを包丁で刺した、という。
 おめかけ? ほんとうのおくさん? ほうちょう? さす?
 お母さんを刺したあとで、そのほんとうのおくさんは自分で刺しておいて急に怖くなったらしく、救急車を呼んだ。
 お母さんが血を流して倒れ、そしてその刺したやつがそばにいる。倫太郎はどうしたらいのかわからず、一番よくしてくれているぼくのおじいちゃんを呼んだらしかった。

 車窓のまっくらな景色を見ながら、あのときのことを、思い出していた。
 ぼうっとしているぼくを、木戸さんが伺っているのがわかった。
「ごめんなさい」
 ぼくは言った。
「とにかく、駅についたらパトカー呼んでもらうから、帰るぞ」
 隣で腕をくんだまま、木戸さんが言った。
 おまわりさんと、サンダルばきの高校生。これって人から見られたら、万引きで捕まったとか家出少年の保護とかって思われるのかな、と考えたら、笑えてきた。
「なににやにやしてんだよ」
「いや、別に、はい」
 終点についたら、木戸さんから逃げて、なんとか東京まで行かなくちゃ、と思った。財布の中にキャッシュカードは入っているはずだし、ICカードの残額も結構あるはずだ。なんとかやれる。
「どこに行きたかったんだ?」
 木戸さんが訊ねた。
「それ言ったら、見逃してくれます?」
「逃さねえよ。まさかここに赴任してきて初めてとっ捕まえたのがテルちゃんとは。大事にはしないでやるから。それに、じいちゃんだって心配するだろ。いま電話しろよ」
「電車の中だし」
「俺たちしかいないだろ。許す」
 木戸さんは威厳をこめたつもりらしかったが、どこか抜けている。
「東京に行きたい」
「日を改めて行けば。そんな近所のコンビニまで行くみたいな格好で行くもんじゃないだろ。コンビニねえけど。東京行くならもうちっとカッコつけて」
「いますぐ行かなくちゃ」
 ぼくは木戸さんを見た。
 真剣そのものって顔をしていたからだろうか、一瞬木戸さんが怯み、
「そんな顔してもダメ」
「行く」
「ダメったらダメ」
 と問答になってしまった。
 しばらくぼくらは何も話さずそっぽを向いていた。
 まもなく到着するところで、
「だったらじいちゃんが許したらいい」
 と木戸さんが妥協案を出した。
 旅行から帰ってきたら孫が急に東京に行く、なんて言い出して、止めるに決まっている。そもそも一度も一人で旅行なんてしたことないのに。
「はい」
 と答えたけれど、従うつもりなんてなかった。
 町に出たら、どうしようか。とにかくどこかに隠れて、朝になったら新幹線の停まる駅まで、と思案していると、
「絶対逃さない」
 と木戸さんに腕を強く掴まれた。
「痛い」
 と言っても緩めようとしない。手はとても熱かった。