「まさか晴彦が浴衣でデートなんてね」
「わ、笑うなよ。僕だって信じられないんだから」
 花火大会当日。浴衣の着方を知らない僕は、恥をしのんで母親へ着付けを依頼した。
 黒地の地味な男性用浴衣ではあるが、着てみると意外としっくりくる。
 もう少し僕の背が高ければ、陽菜世先輩の隣に並んでいても堂々としていられるのに。と思ったときには、身支度が済んでしまっていた。
「これでよし。ちゃんとエスコートするのよ?」
「わかってるよ……! そんなに心配しなくてもいいって……! ちゃんとどうするか決めてるから! ってか母さん、絶対についてこないでね!」
「はいはいわかったわかった、そんな野暮なことしないわよ」
「本当かなぁ……」
 高校生になったとはいえ、兄弟のいない僕に対して両親は過保護っぽいところがある。
 自作曲をアップロードしている動画サイトのチャンネル登録者の一番目は、お恥ずかしながらこの母なのだ。うかつに恥ずかしい曲を上げられない環境に置かれたからこそ、今の自分がある。……と、思うことにしている。
「今日は私もお父さんも、昔の友達の家で花火を観ながら一杯やることにしてるの。夜遅くなるかもだから、ご飯も彼女と一緒に食べちゃいなさい」
 そう言って母はお小遣いとして五千円札を渡してくる。津田梅子が描かれた新札になっているあたり、つい最近口座からおろしてきたのだろうか。
「い、いいの? 臨時とはいえ、こんなにくれること滅多にないじゃん」
「いいの。おとなしく貰っておきなさい。彼女に寂しい思いさせちゃだめよ?」
「う、うん……」
「ふふふ……なんだか晴彦、変わったわね」
「そうかな……?」
「そうよ。あなたのことはずっと昔から見ているんだもの、ちょっと変わっただけでもすぐにわかるわ」
「自分では自覚ないんだけど……」
「自分ではわからないものよ。ちゃんといい方向に変わっているとお母さんは思ってるから、そのままでいてちょうだい」
 母親からの妙な褒められ方にどう反応していいかわからず、僕は「はーい」と生返事をした。
 そうこうしているうちに陽菜世先輩との約束の時刻が迫ってきた。ただでさえ今日は街の中がごった返すので、いつもより三倍くらい時間に余裕を持たないと大変なことになる。

 慣れない雪駄を履いて街へと繰り出す。
 夏の三河は日本一、いや世界一の猛暑と言っても過言ではない。ピークが過ぎたとはいえ、昼間の熱気を蓄えた街は容赦なく僕の体力を削っていく。
 これは陽菜世先輩と合流できたらすぐさま冷たいものでも補給しないとやっていられないなと考えているうちに、僕は待ち合わせ場所である東岡崎駅の南口にたどり着いた。
 花火のメイン会場は駅の反対側――北口からすぐそこにある乙川という川の河川敷だ。
 そちらは人でごった返すので、僕はあえて比較的混んでいない南口を待ち合わせ場所にした。
 ハンディタイプの扇風機くらい持ってくれば良かった。暑くて茹だりそうだ。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
 これ以上待つならば帰ろうかなと思いかけた刹那、改札の向こうから陽菜世先輩がやってきた。
 僕は彼女の浴衣姿を見て絶句する。
 もちろん、とても良いものを見たという意味で。
「い、いえ、僕もさっき来たばかりなので……」
「ほんと? ハル、もう汗だくだよ? 結構前からいたんじゃない? そんなに楽しみだった?」
「……わかってるなら訊かないでくださいよ」
「ごめんごめん。とりあえず水分補給しよ、そこのコンビニで飲み物を買おう」
 すぐに駅の改札近くにあるファミリーマートに入る。そのとき、とても自然に陽菜世先輩が僕の右手を握ってきた。
 もう何度か二人きりで出かけているのに、この瞬間ばかりはいつもドキッとする。陽菜世先輩も最初は恐る恐るだったくせに、最近は慣れてきたのか僕の反応を伺うくらいには余裕がある。
 経験値としては似たようなものなはずなのに、なんだかずるい。
 ファミリーマートで水を買ってすぐに流し込む。
 思ったより消耗していたのか、五百ミリリットルのペットボトルはすぐに空になった。
 改めて陽菜世先輩の姿を見る。
 彼女の浴衣は意外にも寒色系で、濃い青色主体の涼しげな柄だった。長い髪はお団子にしてまとめていて、いつもは見えない首すじがあらわになっている。
 噂では聞いていたが、本当に男というのは浴衣姿の女性のうなじにドキッとしてしまうのだなと、なぜか感心してしまっていた。
 いつもはしゃいでいて子どもっぽい陽菜世先輩は、不思議と大人びて見えてしまう。
「どしたの? 見惚れてた?」
「べ、別にそういうわけじゃ……」
「たくさん見ておきなよ? こういう時に見ておかないと損だし」
「損って……確かに先輩は今回が――」
 いらないことを言い出しそうになった。その言葉の先を言わせないよう、陽菜世先輩が人差し指を僕の唇に当てて制する。
「ダメだよ、それ以上は」
「す、すみません……」
「はい。というわけで、早速屋台で何か買おうよ。インスタで話題になってるたこ焼きとフライドポテト、気になってるんだよね」
「えっ、でも場所を確保したほうが……」
「実はね、とっておきの場所があるんだ。だから食べたいものを先に買っておいて、ゆっくりそこで花火を観よ」
 どうやら陽菜世先輩には穴場スポットに心当たりがあるようだった。人混みのなかでそんなに都合の良い場所があるのか疑問だったけど、彼女が言うのならそうなのだろう。
「わかりました。とりあえずその、インスタで話題のたこ焼きでも探しましょう。ちなみに、なんて名前のたこ焼きやさんなんですか?」
「ええっと、なんだったっけ……」
 陽菜世先輩はスマホを巾着袋から取り出して調べ始める。
「あれー、見つからないなあ。いいね押しといたのに……」
「なにか手がかりないんですか?」
「うーん、岡崎で有名なYoutuber御用達のラーメン屋さんが激推ししてるってことだけ……」
「なんですかその推薦の推薦みたいな……」
 有名人やインフルエンサーが紹介して知名度を得た人たちが更に別の人達を紹介していく。
 一体どこまでインフルエンスする力があるのかというのはさておき、評判の広まり方というのはたしかにそんなもんだよなと、僕は軽くため息をついた」
「あっ、あったあった、これだこれだ。今日は桜城橋に出店してるって。早く行こう」
 陽菜世先輩は再び僕の手を取り、今度は強めに引っ張る。
「そ、そんなに慌てなくても」
「だって早く行かないと売り切れるかもしれないじゃん」
「……わかりましたよ。転ばないでくださいね、ただでさえ歩きにくいんですから」
「大丈夫大丈夫、こう見えて運動神経は悪くないっ――」
 完璧な前フリとともに陽菜世先輩はバランスを崩す。
 このまま転んでしまったらせっかくの浴衣に汚れがついてしまうと思い、僕はとっさに陽菜世先輩を抱きかかえた。
 彼女のその身体は思っていたよりも柔らかく、そしてびっくりするほど細かった。
 そういえば、頑なに陽菜世先輩は肌を出すことを躊躇っていたのを思い出す。
 その理由が何となくわかった。多分、病気の影響でやせ細りかけている自分の姿を見られたくなかったのだ。
 本当にもうすぐ死んでしまうのかと疑うくらい陽菜世先輩が元気なのは、それなりに彼女が無理をしていたからだと、僕は胸の奥が少し痛くなった。
「……あ、ありがとう」
「大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫」
 目があって、余計に気まずくなった。
 とにかく気を取り直してたこ焼きを買いに行かなければと思い、今度は僕のほうから彼女の手を取って歩き出した。

 目的のたこ焼きは、案外あっさり買うことができた。
 みんな花火大会の場所取りに夢中で、屋台で買い物をする余裕などなかったのかもしれない。
 ついでに陽菜世先輩のお目当てだったフライドポテト、市内の有名店が販売しているからあげや汁なし担々麺などを購入すると、先程母親からもらった津田梅子のお札はあっという間に小銭と一枚の北里柴三郎になった。
「買いましたね、こんなに食べ切れるかな……」
「大丈夫大丈夫。美味しいものはいくらでも食べられるから」
「でもこのラインナップ、全然甘いものがないですよね? 買わなくていいんですか?」
「それは食後のお楽しみってことで、食べ終わったらまた買いに行こう」
「……めっちゃ食べる気満々だ」
 日は傾き始めている。そろそろ花火大会の始まりを告げる狼煙が上がる頃だ。
 陽菜世先輩の言う『とっておきの場所』とやらに僕は案内される。
 てっきり河川敷のなかにいい場所があるのかと思っていたが、彼女の言われるがままについていくと、そこは川沿いにあるタワーマンションの一室だった。
「せ、先輩? ここって……」
「ん? ウチだけど?」
「ええっ!? 先輩の家で観るんですか?」
「うん。そのほうが良くない? ここ高いから見やすいし、人混みも気にしなくていいし、なにより涼しいし。特等席中の特等席だよ?」
「た、確かに……」
 陽菜世先輩の言う通り、花火を観るならここは邪魔の入らない最高の場所だ。
 しかし屋内で観るのなら、せっかく着た浴衣が無駄になってしまう気がしないでもない。それに、陽菜世先輩の家族だっているだろうから、僕はちょっと気を使ってしまいそうでもある。
「大丈夫だよ、うちの両親は友達のお店に飲みに行ってるから。今はいないよ」
「それってつまり……」
「うん、二人きりってこと」
 いろいろな可能性が頭の中をよぎったが、ヘタレの僕に限ってそんなことはないだろうと考えを振り切った。
 とにかくお腹が空いてしまっているし、涼しくて邪魔の入らない場所で花火が観られるならこれ以上ないのだ。純粋に、今日のイベントを楽しむことにしよう。余計な
「ハル、顔真っ赤」
「えっ!? あっ! そ、そんなつもりはっ……!」
「うっそー。めっちゃ動揺してるじゃん。そんなに期待してたの?」
「せ、先輩っ!」
 あははと笑う先輩。この人には敵わないなと、僕は肩をすくめる。
 部屋に入ると、リビングには大きな窓があった。花火の見える場所としては、これ以上ないポジションだ。
 僕と陽菜世先輩はベランダに出て、置いてあったテーブルに買ってきたものを広げる。
 お腹が空いていたのでそれをつまみながら談笑していると、やがて空が暗くなってきて開始時刻の十九時を迎えた。
 開幕を告げるスターマインが小気味よいリズムで爆ぜる。爆心地に近いこともあって、その音は今まで見てきた花火に比べてとてつもなく大きかった。
「どう? 迫力あるでしょ?」
「はい……。めちゃくちゃ近いです……花火が」
 ベランダに置かれている二人がけのベンチに座る僕と陽菜世先輩。
 こんなに密着することなど今までなかったので、正直花火よりも彼女のことが気になって仕方がない。
 花火が爆ぜる音なのか、僕の心臓の鼓動なのかよくわからなくなってしまいそうで、だんだん頭に血が登っていくのが自覚できた。
 多分顔は真っ赤だ。暗さと花火の光で、陽菜世先輩にそれがバレていないのが救いかもしれない。
 花火大会は進んでいく。
 柳のように光が垂れてくる、大きな打ち上げ花火が数発上がる。
 フィナーレ前の少ししっとりとした時間帯。なんとなく物寂しさを感じたのか、陽菜世先輩が隣りに座る僕に寄りかかってくる。
「……最後の花火、だね」
 先輩がそうつぶやく。『最後』という言葉はなるべく言わないようにお互い意識していたが、それでもやはり出てきてしまう。
 仕方がない。正真正銘、陽菜世先輩にとってはこれが最後の花火になってしまうのだから。
 まともに返す言葉が見つからなくて、僕はすっとぼけた返事をする。
「……何かの歌の歌詞みたいですね」
「ふふっ、確かに」
「フジファブリックの『若者のすべて』、ですね」
「これで、何年経ってもハルが私のことを思い出してくれるかなって」
「そんな歌詞の引用をしなくても、僕はずっと先輩のこと覚えてますよ」
「……本当?」
「はい。嘘はつきません」
 本心から出た言葉だった。でも陽菜世先輩はなぜか泣き出してしまいそうで、僕はそんな彼女を見たくないなと思って抱きしめた。
「ははっ……。ハルにぎゅーってされるの、なんか恥ずかしいね」
「……じゃあ、もうちょっと恥ずかしさを味わっておいてください」
「言うようになったじゃん。なんか今のちょっとかっこいいかも」
「……先輩が僕を変えてくれたんですよ。春先のあの日、部室で先輩に会わなかったら、僕は今でも引っ込み思案の陰キャラなままでしたから」
「……そうかもね。ちゃんと変わってくれて、よかった」
 僕は一旦抱きしめていた腕の力を緩める。先輩はぷはーっと深呼吸をしたあと、再び僕の胸へ飛び込んできた。
「……最初にハルを見たときはね、似てるなーって思った」
「それは、昔の先輩とってこと?」
「うん。でも、いざ付き合い始めると、全然似てないなって」
「……まあ、似てはいないかもしれないですけど」
「ハルはね、口下手だし引っ込み思案だけど、ちゃんと自分を持ってる。闇雲に動く私と違って、まっすぐ目標に向かって行動できる」
「……そんなこと、ないですよ」
「あるよ。だって、こんなに私のわがままに付き合ってくれるんだもん。逃げずに、ちゃんと向き合ってくれる。多分、私がハルのことを好きなのは、そういうところに惹かれたのかなって」
「た、大したことなんてしてないですよ」
「ハルはそう思ってないかもしれない。こんなに向き合ってくれるのか私は不思議だったし、それで不安になることもあった。どうしてなのかな?」
「そ、それは、先輩のことが……好きだから……でふ」
 緊張して最後の大事なところを噛んでしまうあたり、なんとも僕らしい。
 そういうやらかし癖のある僕を、ちゃんと許容してくれるから陽菜世先輩は素敵だなと思う。
「好きって言われるの、初めてな気がする」
「そ、そうでしたっけ……? いちばん大切なことなのに僕、恥ずかしがって言ってなかったら本当にごめんなさい」
「ううん、大丈夫。今ので全部吹き飛んだ」
 胸元でクスッと笑う陽菜世先輩の吐息が少しくすぐったい。
「……あのね、正直なこと言うと、好きになってくれるなんて思ってなかったんだ」
「ど、どうして?」
「だって私、もうすぐ死んじゃうんだよ? 全部の思い出が、今日みたいに『最後の』思い出になっちゃう。それに……」
「それに?」
「百パーセント悲しい思いをさせる。下手をしたら、傷つけちゃうこともある……。人が死ぬって、そういうことだから」
 陽菜世先輩の中で葛藤があったのだろう。
 死が迫っているから現世にやりたいことを残したくない。それが彼女の大きな原動力。
 でも、それは一人ですべて実行できるわけではなく、必ず協力してくれる人が必要だ。
 人と関わるということは、死によって別れが訪れる。そこには大なり小なり悲しみが生まれる。深く踏み込んだ関係になればなるほど、その悲しみ、その傷は大きくなる。
「だから打ち明けたとき、ハルに絶対嫌われると思ってた。だって、私のやっていることは、とっても自分勝手だったし」
「そんなことないですよ。先輩は……僕に原動力をくれたので、むしろ感謝しているんです。だからそんなことで気に病まないでください。僕は、先輩がくれたものに対して恥じないように生きていくって、決めたので」
「……ばか」
 陽菜世先輩はそれ以上何も言わず、ぎゅっと僕に抱きついてきた。
 フィナーレの花火が、捲し立てるように爆ぜて光る。
 僕は何も言わず、彼女の細くなってしまった身体を一生懸命抱きしめた。
 花火大会のすべてのプログラムが終了して、辺りは再び暗闇に包まれる。
 再び上目遣いで僕を見つめる陽菜世先輩は、両手で僕の顔を引き寄せてきた。
「……もっとハルのこと知りたい。私から渡せるもの、全部受け取ってほしい。……いいかな?」
「……はい」
 唇に柔らかい感触を覚える。もちろん、僕もそれに応える。
 そういえばこの家には僕ら二人しかいない。
 そんなこと考えた頃には、僕はもう陽菜世先輩に夢中になっていた。

 再び目が覚めた頃には、形だけ大人になった僕と、すやすや寝息を立てる陽菜世先輩がいた。