季節は一つ進んで夏になった。
期末テストを間近に控えた僕は、陽菜世先輩の部屋で勉強会をしようということになって、バンドメンバー皆で集まった。
もちろん勉強はするのだけれども、それは半分建前。
夏休み明けに控えている文化祭で何をやるかという相談が本当の目的である。
オリジナル曲だけでライブをするのか、それともコピー曲を交えて演るのか、それならどの曲を選ぼうかとか、話し合う内容はそんなところだ。
そして僕と陽菜世先輩はこのタイミングで余命のことと、僕ら二人の関係について凛や金沢先輩に打ち明けた。
「……ごめんね、本当はもっと早く伝えるべきだったのかもしれないけど、みんなコンテストに集中していたから、こんなこと言ったら邪魔になるかなと思って」
陽菜世先輩の口からすべてを洗いざらい話したあと、やっぱり皆何を言っていいのかわからず黙り込んでしまった。
結構な長さの沈黙の後、一番最初に言葉を発したのは金沢先輩だった。
「正直びっくりした。驚きすぎてちょっと受け入れがたいところもある。でも、去年からの陽菜世の変わりっぷりを見ていたら、正直納得というか、わかるなあって思うところもある」
この中で一番長い時間陽菜世先輩と関わってきたのは金沢先輩だ。彼が不思議に思っていたことがこれでようやく頭の中でつながったようで、なぜか安堵に似たような表情をしていた。
「俺がもし陽菜世の立場だったら、確かに焦ると思う。そう遠くない未来に死んじゃうってわかってしまって、ダメな自分のまま消えていくとか嫌だもんね」
「紡……」
「余命宣告っていうのは凄くショックだよね。それでも、ずっと前を向き続けた陽菜世はすごいと思う。打ち明けることも辛かったと思うんだ。だから陽菜世が精一杯生きようとしているのに、俺らがしょんぼりするのは違うんじゃない?」
まるで自分にムチを入れて言い聞かせるかのように、金沢先輩はそう言った。
彼の言うとおりだと僕も思う。
陽菜世先輩に残された時間は少ない。でも、一人でやり遂げられないことはたくさんある。
一番近くにいる僕たちが、陽菜世先輩と一緒に前を向かないでどうするのか。
「あ、あの」
「ハル? どうしたの?」
「い、いえ、今更なんですけど、次の文化祭が多分僕たちの集大成になるというか、大きなゴールと言うか……。と、とにかく僕は、陽菜世先輩のために、全身全霊を尽くしたいと思ってます。だ、だからその……」
泣きたくもないのに、僕の瞳からは涙が出ている。
男のくせに、真面目な話をしているのに、かっこ悪く泣きべそを僕はかいてしまっていた。
「……文化祭、最高の舞台にしましょう」
そう言うと、みんなは賛同してくれた。
こんな気持ちのこもった言葉が自分の口から出てくるなんて思いもしなかった。
陽菜世先輩に出会う前までの僕なら、多分目の前のことから逃げて、何も見なかったことにしていたと思う。
何もできなかった僕を、陽菜世先輩が変えてくれた。そして、彼女によって変わった自分がやっとうまく起動し始めた、そんな瞬間だった。
「じゃあ決意も固まったということで、勉強会を再開しようか。テストで赤点とってバンドができなくなるようじゃ、本末転倒だしね。特に、晴彦」
「そ、そうですね、頑張らないと。僕、成績もそんなに良くないので……言い出しっぺのくせにカッコ悪いとこ見せられないです……」
ハハハと皆が笑ってくれて、少し僕は救われた気分になった。
※※※
期末テストを終え、夏休みに突入した。
懸念されていた僕の成績はなんとか及第点を超えて、補習や部活動禁止のような制裁を受けずに済んだ。
案外やればできるものだなと、答案用紙が返却されたときにそんな感じで自嘲していたをの思い出す。
「ハル、このあとちょっといい?」
夏休み初日のバンド練習後、陽菜世先輩が声をかけてきた。
このあとの予定もないし、大切な陽菜世先輩の頼みとあれば断ることなど絶対ない。
「いいですよ。どこかにお出かけですか?」
「うん、そんな感じ。じゃあ着替えたら岡崎駅集合で」
「えっ? 駅ですか? しかも岡崎駅って、一体どこに行くんですか?」
「それは内緒」
陽菜世先輩はウインクをしてくるが、絶妙に上手くできていない。
片目だけつぶろうとして、もう片方もつられてつぶってしまいそうになっている。
そんな不器用なウインクが、逆に可愛く見えてしまう。
僕は一度家に帰り、着替えてからJRの岡崎駅へ向かう。
ちなみにこの街の中心駅はJR岡崎駅ではなく名鉄の東岡崎駅で、そっちのほうには繁華街や岡崎公園があって賑わっている。
一方でJRの岡崎駅前には特にこれと言って高校生が出かけるようなスポットはあまりない。強いて言えばイオンモールが近くにあるが、陽菜世先輩がイオンモールに行きたいのであれば間違いなく現地集合になるはずなので、ここに呼び出されるということは何か別の企みがあるということだ。
改札前のコンコースでぼーっと待っていると、すぐに陽菜世先輩がやってきた。
夏らしく涼しそうなコーディネート――彼女が好きなバンドのロゴがついた白いTシャツとネイビーのマーメイドスカートの組み合わせだった。とても似合っている。
「ごめんごめん、待った?」
「いえ、全然。僕もいま来たところなので」
「よかったー、ハルっていつも集合時間より早く来るから、めっちゃ待たせてたらどうしようかなって……」
走ってきたせいもあって陽菜世先輩の肌はうっすら汗ばんでいた。
細い首すじに夏の日差しがあたって、少しキラキラとしている。
「どうしたの? ぼーっとして」
「えっ……? あっ、いや、先輩、似合ってるなって……」
僕がつい本音を言ってしまうと、陽菜世先輩は急に恥ずかしがりだした。
「ちょっ、ハルがそんなこと言うなんて思ってなかったから、びっくりしちゃった……」
「ご、ごめんなさい、悪気は全然なくて」
「悪気って、悪いこと言ってないのに変なこと言うね?」
「た、確かに……」
あははと苦笑いをしていると、そろそろ電車が来る時刻になろうとしていた。
僕はTOICAを、陽菜世先輩はmanacaを自動改札にタッチしてホームへ踏み入れると、まるで見計らったかのようなタイミングで新快速が入線してきた。
恋人の関係になってちょっとだけ陽菜世先輩に踏み込めるようになった気がする。
でもまだ、知らないことばかり。
残された時間の中で、もっと陽菜世先輩を知りたい。
ふと気がつくと、僕は彼女の手を握っていた。
「ははっ……なんか照れるね、これ」
「そう……ですね、思ってたより緊張します」
「そんなこと言ってるけど、ハルはいつも緊張してるじゃん。今更変わらないんじゃない?」
「変わりますよっ! 全然違うんですからっ……!」
「ふーん。ってか、早く乗らないと電車行っちゃうよ?」
「そ、そうですね、乗りましょう」
手を繋いだまま電車に乗り込む。
近隣に空いている席がなかったので、目的地までずっと立ち乗りしながら僕たちは手を繋いだままだった。
岡崎駅を出て豊橋方面に電車は進む。途中で海が見えてきて、車内アナウンスとともに減速が始まると目的地の蒲郡駅はもうすぐだ。
「やっぱ快速だとあっという間だねー」
「そうですね。それで……蒲郡まで来ましたけど、どこに行くんですか?」
蒲郡は名所や観光地がたくさんある街なので、出かけるにはピッタリだとは思う。でも、交通手段があるかといえばちょっと微妙なところ。
タクシーを使うほどお金に余裕があるわけではないので、陽菜世先輩は目的地へどう行こうとしているのだろうか。
「それはねー、あれに乗って水族館に行きます」
彼女の指差した先にはレンタルサイクルのスタンドがあった。
確かにこれならリーズナブルだし、いろいろなところに行ける。おまけに電動アシスト機能があるから、それほど疲れない。
「なるほど、水族館……」
「ハル、静かなところのほうが好きかなって」
「そこまで考慮してもらって……なんかすみません」
「いいのいいの。あの水族館、面白いって噂だったから……見ておきたくてさ」
妙な間のところで「死ぬ前に」という言葉を陽菜世先輩は言いそうになったのかもしれない。
意気地無しで行動力もないくせに、僕はそういうところばかりすぐ気がついてしまう。
もっと陽菜世先輩のために寄り添えたらな、と思っているうちに、僕らは自転車を漕いで竹島水族館へと辿りついていた。
この水族館は規模としてはかなり小さいほうだ。ゆっくり見ても一時間あれば大体の展示物は見終える。
それでもこの水族館が人気なのは、独特な展示やユーモアの効いた解説があるからだろう。入館料も安い。
入場券を買って館内に入ると、タカアシガニという深海に生息する足の長いカニが僕らを出迎える。
「ねえハル」
「どうしました?」
「水族館に来るとさ、泳いでいる魚介類を見て『美味しそう』って感じることない?」
「ええっ……さすがにそんなこと考えたことなかったです」
「そうなの? 私結構そういうのあるんだけど」
「意外と食いしん坊なんですね、先輩」
僕からそんなことを言われると思っていなかったのか、陽菜世先輩の顔が少し赤くなる。
不覚にも可愛いと思ってしまった僕も、多分顔が赤い。
「自覚なかったなあ……このタカアシガニだって、なんだか美味しそうじゃない?」
「そ、そうですか……? まあでも、言われてみるとタラバガニっぽいというか……」
「でしょ? ほら、ハルだって食いしん坊じゃん」
「先輩と一緒にしないでくださいよ! カニはともかく、僕はあそこにいるグソクムシなんかはさすがに美味しそうには見えないです!」
「そ、それは私だって美味しそうには見えないし! なんでも食べるわけじゃないんだから!」
と、痴話喧嘩のようなとりとめのない話をしながら順路通りに水族館の中を進む。
チンアナゴとか、ウツボの軍団とか、熱帯魚などの水槽を眺めているうちに、僕らはとある生き物の展示の前で足を止めた。
「クラゲだ、それもたくさんいるね」
「そうですね。照明と相まって、なんだか幻想的です」
水槽の中のクラゲは、LEDライトから放たれる何色もの光によって照らされながら漂っている。
透明で、今にも消えてしまいそうな儚さがあって、でも確かにそこに存在している、不思議な生き物だ。
「ねえハル知ってる? クラゲの生態」
「あいにくあんまり生き物には詳しくなくて」
「クラゲには色々な種類がいるんだけど、その中でもベニクラゲっていうのは特徴的なんだよね」
「特徴的……ですか?」
「そう、どんな特徴があると思う?」
それっぽい答えを導き出そうと僕は足りない頭で考えてみる。
「ベニクラゲって言うくらいだから、……赤いとかですか?」
「そのまんますぎじゃん。もうちょっと考えなよね」
「すみません……」
陽菜世先輩にダメ出しを食らうとは思っていなかったので、適当に考えたことをちょっぴり後悔する。
「実はベニクラゲってね、不死の生き物って言われてるの」
「不死……ですか?」
「そう。老いたベニクラゲはポリプっていう状態になって、何度も生命をやり直すんだよ」
僕は陽菜世先輩のその薀蓄に、どうリアクションをしていいかわからなかった。
余命半年の彼女が不死のベニクラゲに対して憧れを抱いている……というわけではなさそうだが、どこか物憂げに見えた陽菜世先輩のその横顔は、何か胸騒ぎがする。
「先輩は、やっぱりその……」
「ん? どうしたの?」
「い、いえ、なんでもないです……」
「大丈夫。私はもう、あと少しで死んじゃうことはちゃーんと受け入れたから。生き延びたいなんて、思っていないよ」
「……」
「そんな辛気臭い顔しないでよ。せっかくのデートなんだし」
再び陽菜世先輩は僕の手を握る。
確かによくよく考えてみたらこれは紛れもないデートだ。別れるつもりなどないのに、嫌な気持ちへ自ら足を踏み入れる必要などない。
「ほら、そろそろアシカショーが始まるみたいだよ。見に行こうよ」
「そ、そうですね。そうしましょう……」
上手い具合に先輩が助け舟を出してくれたので、僕は変に考えすぎずに済んだ。
小さな水族館の小さなスタジアムで、一日三回行われるというアシカショーが始まる。
エサをおねだりするアシカの動きは愛らしくて、ショーが終わる頃にはすっかりさっきのクラゲの話など忘れてしまっていた。
ちなみにあとから知ったのだけれども、ここのアシカショーに出てくるのはアシカではなくオタリアらしい。違いがよくわからない。
帰り道、蒲郡駅の目の前にあるショッピングモールでアイスクリームを食べて二人で談笑していた。
病気のこととか、陽菜世先輩がいなくなってからのこととか、そういう話題は避けた。ただ単純に好きな音楽の話をするだけで、十分楽しかったから。
ふと、隣のテーブルに小学校にもまだ通ってなさそうな小さな女の子二人の姉妹と、そのお母さんが座った。
近くでお祭りがあるのだろうか? その姉妹は二人揃って浴衣を身にまとっていた。
それを見た陽菜世先輩が、何かを思い出したようにこう切り出す。
「そういえばさ、来月の頭の土曜日ってヒマ?」
「来月の頭の土曜……八月三日ですかね? 確かバンドの練習は……」
「入れてないはずだよ。その日は……ほら、街中が混むじゃん」
そう言われて僕は八月三日に何があるのか思い出した。
東海地方でも有数の花火大会、『岡崎城下家康公夏まつり花火大会』がある。通称『岡崎の花火』というやつだ。
その日は街の中心部が多くの観光客でごった返す。
人混みが得意ではない僕は、好んで花火大会の会場に近づいたことはない。
いつも自宅のベランダから遠巻きに花火を眺めるくらいしかしていなかった。
「もしかして先輩、花火大会に行こうとかそういうやつですか?」
「そうそう。せっかくだし行こうよ。いい思い出になるかも」
その「いい思い出」という言葉に少し気後れしたけれど、結局のところは陽菜世先輩が花火大会に行きたいということである。
彼女の希望であれば、僕には断る理由などない。
「行きましょう。その日、ちゃんと予定開けておきます」
「ありがと。ってか、他に予定入ってくる可能性あったんだ。ハルなのに」
「……それ、馬鹿にしてます? まあでも、確かに先輩の言うとおりなんですけど」
「ほらね」
陽菜世先輩は仕方がないなあと笑いながら、カップの中に残っているクッキークリームのアイスを、プラスチック製でピンク色をしたスプーンで口に運んだ。
帰り際、ショッピングモールの二階で僕は浴衣を買わされた。似合わない感じがすると言って逃げる僕を、陽菜世先輩は上手いこと丸め込んだ。
まあ、彼女が喜んでいるなら悪くない買い物か。財布の中身はかなり心もとない状態になってしまったが。
期末テストを間近に控えた僕は、陽菜世先輩の部屋で勉強会をしようということになって、バンドメンバー皆で集まった。
もちろん勉強はするのだけれども、それは半分建前。
夏休み明けに控えている文化祭で何をやるかという相談が本当の目的である。
オリジナル曲だけでライブをするのか、それともコピー曲を交えて演るのか、それならどの曲を選ぼうかとか、話し合う内容はそんなところだ。
そして僕と陽菜世先輩はこのタイミングで余命のことと、僕ら二人の関係について凛や金沢先輩に打ち明けた。
「……ごめんね、本当はもっと早く伝えるべきだったのかもしれないけど、みんなコンテストに集中していたから、こんなこと言ったら邪魔になるかなと思って」
陽菜世先輩の口からすべてを洗いざらい話したあと、やっぱり皆何を言っていいのかわからず黙り込んでしまった。
結構な長さの沈黙の後、一番最初に言葉を発したのは金沢先輩だった。
「正直びっくりした。驚きすぎてちょっと受け入れがたいところもある。でも、去年からの陽菜世の変わりっぷりを見ていたら、正直納得というか、わかるなあって思うところもある」
この中で一番長い時間陽菜世先輩と関わってきたのは金沢先輩だ。彼が不思議に思っていたことがこれでようやく頭の中でつながったようで、なぜか安堵に似たような表情をしていた。
「俺がもし陽菜世の立場だったら、確かに焦ると思う。そう遠くない未来に死んじゃうってわかってしまって、ダメな自分のまま消えていくとか嫌だもんね」
「紡……」
「余命宣告っていうのは凄くショックだよね。それでも、ずっと前を向き続けた陽菜世はすごいと思う。打ち明けることも辛かったと思うんだ。だから陽菜世が精一杯生きようとしているのに、俺らがしょんぼりするのは違うんじゃない?」
まるで自分にムチを入れて言い聞かせるかのように、金沢先輩はそう言った。
彼の言うとおりだと僕も思う。
陽菜世先輩に残された時間は少ない。でも、一人でやり遂げられないことはたくさんある。
一番近くにいる僕たちが、陽菜世先輩と一緒に前を向かないでどうするのか。
「あ、あの」
「ハル? どうしたの?」
「い、いえ、今更なんですけど、次の文化祭が多分僕たちの集大成になるというか、大きなゴールと言うか……。と、とにかく僕は、陽菜世先輩のために、全身全霊を尽くしたいと思ってます。だ、だからその……」
泣きたくもないのに、僕の瞳からは涙が出ている。
男のくせに、真面目な話をしているのに、かっこ悪く泣きべそを僕はかいてしまっていた。
「……文化祭、最高の舞台にしましょう」
そう言うと、みんなは賛同してくれた。
こんな気持ちのこもった言葉が自分の口から出てくるなんて思いもしなかった。
陽菜世先輩に出会う前までの僕なら、多分目の前のことから逃げて、何も見なかったことにしていたと思う。
何もできなかった僕を、陽菜世先輩が変えてくれた。そして、彼女によって変わった自分がやっとうまく起動し始めた、そんな瞬間だった。
「じゃあ決意も固まったということで、勉強会を再開しようか。テストで赤点とってバンドができなくなるようじゃ、本末転倒だしね。特に、晴彦」
「そ、そうですね、頑張らないと。僕、成績もそんなに良くないので……言い出しっぺのくせにカッコ悪いとこ見せられないです……」
ハハハと皆が笑ってくれて、少し僕は救われた気分になった。
※※※
期末テストを終え、夏休みに突入した。
懸念されていた僕の成績はなんとか及第点を超えて、補習や部活動禁止のような制裁を受けずに済んだ。
案外やればできるものだなと、答案用紙が返却されたときにそんな感じで自嘲していたをの思い出す。
「ハル、このあとちょっといい?」
夏休み初日のバンド練習後、陽菜世先輩が声をかけてきた。
このあとの予定もないし、大切な陽菜世先輩の頼みとあれば断ることなど絶対ない。
「いいですよ。どこかにお出かけですか?」
「うん、そんな感じ。じゃあ着替えたら岡崎駅集合で」
「えっ? 駅ですか? しかも岡崎駅って、一体どこに行くんですか?」
「それは内緒」
陽菜世先輩はウインクをしてくるが、絶妙に上手くできていない。
片目だけつぶろうとして、もう片方もつられてつぶってしまいそうになっている。
そんな不器用なウインクが、逆に可愛く見えてしまう。
僕は一度家に帰り、着替えてからJRの岡崎駅へ向かう。
ちなみにこの街の中心駅はJR岡崎駅ではなく名鉄の東岡崎駅で、そっちのほうには繁華街や岡崎公園があって賑わっている。
一方でJRの岡崎駅前には特にこれと言って高校生が出かけるようなスポットはあまりない。強いて言えばイオンモールが近くにあるが、陽菜世先輩がイオンモールに行きたいのであれば間違いなく現地集合になるはずなので、ここに呼び出されるということは何か別の企みがあるということだ。
改札前のコンコースでぼーっと待っていると、すぐに陽菜世先輩がやってきた。
夏らしく涼しそうなコーディネート――彼女が好きなバンドのロゴがついた白いTシャツとネイビーのマーメイドスカートの組み合わせだった。とても似合っている。
「ごめんごめん、待った?」
「いえ、全然。僕もいま来たところなので」
「よかったー、ハルっていつも集合時間より早く来るから、めっちゃ待たせてたらどうしようかなって……」
走ってきたせいもあって陽菜世先輩の肌はうっすら汗ばんでいた。
細い首すじに夏の日差しがあたって、少しキラキラとしている。
「どうしたの? ぼーっとして」
「えっ……? あっ、いや、先輩、似合ってるなって……」
僕がつい本音を言ってしまうと、陽菜世先輩は急に恥ずかしがりだした。
「ちょっ、ハルがそんなこと言うなんて思ってなかったから、びっくりしちゃった……」
「ご、ごめんなさい、悪気は全然なくて」
「悪気って、悪いこと言ってないのに変なこと言うね?」
「た、確かに……」
あははと苦笑いをしていると、そろそろ電車が来る時刻になろうとしていた。
僕はTOICAを、陽菜世先輩はmanacaを自動改札にタッチしてホームへ踏み入れると、まるで見計らったかのようなタイミングで新快速が入線してきた。
恋人の関係になってちょっとだけ陽菜世先輩に踏み込めるようになった気がする。
でもまだ、知らないことばかり。
残された時間の中で、もっと陽菜世先輩を知りたい。
ふと気がつくと、僕は彼女の手を握っていた。
「ははっ……なんか照れるね、これ」
「そう……ですね、思ってたより緊張します」
「そんなこと言ってるけど、ハルはいつも緊張してるじゃん。今更変わらないんじゃない?」
「変わりますよっ! 全然違うんですからっ……!」
「ふーん。ってか、早く乗らないと電車行っちゃうよ?」
「そ、そうですね、乗りましょう」
手を繋いだまま電車に乗り込む。
近隣に空いている席がなかったので、目的地までずっと立ち乗りしながら僕たちは手を繋いだままだった。
岡崎駅を出て豊橋方面に電車は進む。途中で海が見えてきて、車内アナウンスとともに減速が始まると目的地の蒲郡駅はもうすぐだ。
「やっぱ快速だとあっという間だねー」
「そうですね。それで……蒲郡まで来ましたけど、どこに行くんですか?」
蒲郡は名所や観光地がたくさんある街なので、出かけるにはピッタリだとは思う。でも、交通手段があるかといえばちょっと微妙なところ。
タクシーを使うほどお金に余裕があるわけではないので、陽菜世先輩は目的地へどう行こうとしているのだろうか。
「それはねー、あれに乗って水族館に行きます」
彼女の指差した先にはレンタルサイクルのスタンドがあった。
確かにこれならリーズナブルだし、いろいろなところに行ける。おまけに電動アシスト機能があるから、それほど疲れない。
「なるほど、水族館……」
「ハル、静かなところのほうが好きかなって」
「そこまで考慮してもらって……なんかすみません」
「いいのいいの。あの水族館、面白いって噂だったから……見ておきたくてさ」
妙な間のところで「死ぬ前に」という言葉を陽菜世先輩は言いそうになったのかもしれない。
意気地無しで行動力もないくせに、僕はそういうところばかりすぐ気がついてしまう。
もっと陽菜世先輩のために寄り添えたらな、と思っているうちに、僕らは自転車を漕いで竹島水族館へと辿りついていた。
この水族館は規模としてはかなり小さいほうだ。ゆっくり見ても一時間あれば大体の展示物は見終える。
それでもこの水族館が人気なのは、独特な展示やユーモアの効いた解説があるからだろう。入館料も安い。
入場券を買って館内に入ると、タカアシガニという深海に生息する足の長いカニが僕らを出迎える。
「ねえハル」
「どうしました?」
「水族館に来るとさ、泳いでいる魚介類を見て『美味しそう』って感じることない?」
「ええっ……さすがにそんなこと考えたことなかったです」
「そうなの? 私結構そういうのあるんだけど」
「意外と食いしん坊なんですね、先輩」
僕からそんなことを言われると思っていなかったのか、陽菜世先輩の顔が少し赤くなる。
不覚にも可愛いと思ってしまった僕も、多分顔が赤い。
「自覚なかったなあ……このタカアシガニだって、なんだか美味しそうじゃない?」
「そ、そうですか……? まあでも、言われてみるとタラバガニっぽいというか……」
「でしょ? ほら、ハルだって食いしん坊じゃん」
「先輩と一緒にしないでくださいよ! カニはともかく、僕はあそこにいるグソクムシなんかはさすがに美味しそうには見えないです!」
「そ、それは私だって美味しそうには見えないし! なんでも食べるわけじゃないんだから!」
と、痴話喧嘩のようなとりとめのない話をしながら順路通りに水族館の中を進む。
チンアナゴとか、ウツボの軍団とか、熱帯魚などの水槽を眺めているうちに、僕らはとある生き物の展示の前で足を止めた。
「クラゲだ、それもたくさんいるね」
「そうですね。照明と相まって、なんだか幻想的です」
水槽の中のクラゲは、LEDライトから放たれる何色もの光によって照らされながら漂っている。
透明で、今にも消えてしまいそうな儚さがあって、でも確かにそこに存在している、不思議な生き物だ。
「ねえハル知ってる? クラゲの生態」
「あいにくあんまり生き物には詳しくなくて」
「クラゲには色々な種類がいるんだけど、その中でもベニクラゲっていうのは特徴的なんだよね」
「特徴的……ですか?」
「そう、どんな特徴があると思う?」
それっぽい答えを導き出そうと僕は足りない頭で考えてみる。
「ベニクラゲって言うくらいだから、……赤いとかですか?」
「そのまんますぎじゃん。もうちょっと考えなよね」
「すみません……」
陽菜世先輩にダメ出しを食らうとは思っていなかったので、適当に考えたことをちょっぴり後悔する。
「実はベニクラゲってね、不死の生き物って言われてるの」
「不死……ですか?」
「そう。老いたベニクラゲはポリプっていう状態になって、何度も生命をやり直すんだよ」
僕は陽菜世先輩のその薀蓄に、どうリアクションをしていいかわからなかった。
余命半年の彼女が不死のベニクラゲに対して憧れを抱いている……というわけではなさそうだが、どこか物憂げに見えた陽菜世先輩のその横顔は、何か胸騒ぎがする。
「先輩は、やっぱりその……」
「ん? どうしたの?」
「い、いえ、なんでもないです……」
「大丈夫。私はもう、あと少しで死んじゃうことはちゃーんと受け入れたから。生き延びたいなんて、思っていないよ」
「……」
「そんな辛気臭い顔しないでよ。せっかくのデートなんだし」
再び陽菜世先輩は僕の手を握る。
確かによくよく考えてみたらこれは紛れもないデートだ。別れるつもりなどないのに、嫌な気持ちへ自ら足を踏み入れる必要などない。
「ほら、そろそろアシカショーが始まるみたいだよ。見に行こうよ」
「そ、そうですね。そうしましょう……」
上手い具合に先輩が助け舟を出してくれたので、僕は変に考えすぎずに済んだ。
小さな水族館の小さなスタジアムで、一日三回行われるというアシカショーが始まる。
エサをおねだりするアシカの動きは愛らしくて、ショーが終わる頃にはすっかりさっきのクラゲの話など忘れてしまっていた。
ちなみにあとから知ったのだけれども、ここのアシカショーに出てくるのはアシカではなくオタリアらしい。違いがよくわからない。
帰り道、蒲郡駅の目の前にあるショッピングモールでアイスクリームを食べて二人で談笑していた。
病気のこととか、陽菜世先輩がいなくなってからのこととか、そういう話題は避けた。ただ単純に好きな音楽の話をするだけで、十分楽しかったから。
ふと、隣のテーブルに小学校にもまだ通ってなさそうな小さな女の子二人の姉妹と、そのお母さんが座った。
近くでお祭りがあるのだろうか? その姉妹は二人揃って浴衣を身にまとっていた。
それを見た陽菜世先輩が、何かを思い出したようにこう切り出す。
「そういえばさ、来月の頭の土曜日ってヒマ?」
「来月の頭の土曜……八月三日ですかね? 確かバンドの練習は……」
「入れてないはずだよ。その日は……ほら、街中が混むじゃん」
そう言われて僕は八月三日に何があるのか思い出した。
東海地方でも有数の花火大会、『岡崎城下家康公夏まつり花火大会』がある。通称『岡崎の花火』というやつだ。
その日は街の中心部が多くの観光客でごった返す。
人混みが得意ではない僕は、好んで花火大会の会場に近づいたことはない。
いつも自宅のベランダから遠巻きに花火を眺めるくらいしかしていなかった。
「もしかして先輩、花火大会に行こうとかそういうやつですか?」
「そうそう。せっかくだし行こうよ。いい思い出になるかも」
その「いい思い出」という言葉に少し気後れしたけれど、結局のところは陽菜世先輩が花火大会に行きたいということである。
彼女の希望であれば、僕には断る理由などない。
「行きましょう。その日、ちゃんと予定開けておきます」
「ありがと。ってか、他に予定入ってくる可能性あったんだ。ハルなのに」
「……それ、馬鹿にしてます? まあでも、確かに先輩の言うとおりなんですけど」
「ほらね」
陽菜世先輩は仕方がないなあと笑いながら、カップの中に残っているクッキークリームのアイスを、プラスチック製でピンク色をしたスプーンで口に運んだ。
帰り際、ショッピングモールの二階で僕は浴衣を買わされた。似合わない感じがすると言って逃げる僕を、陽菜世先輩は上手いこと丸め込んだ。
まあ、彼女が喜んでいるなら悪くない買い物か。財布の中身はかなり心もとない状態になってしまったが。