翌日、キャパシティ五百五十人を公称する名古屋のライブハウス、『クラブオットー』には、大勢の観客が詰めかけていた。
それもそのはず。このコンテストの主催は中高生の視聴者が多いYouTube番組。おまけに土曜日の夕方で入場無料ともなると、たくさんのティーンエイジャーが集まってくる。
うちの高校の学園祭でもこんなに人は集まらないだろう。ましてや身内ノリではなくほとんどが赤の他人。きちんと観客の心をつかめるバンドでないと、盛り上げるのは難しいだろう。
ライブに関しては素人の僕でも、それくらいは簡単にわかる。
「いやー、すんごい人だね。ざっとどれくらいだろ?」
控室にて、陽菜世先輩が呑気にそんなことを言う。
「わ……わからないですけど、ここは満杯で五百五十人らしいので、半分だとしても三百人弱はいるかなと」
「三百人……かあ……!」
「先輩、ワクワクしてますよね?」
「もちろん。でも、こう見えて結構緊張してる」
「そうなんですか?」
「まあね。こんなに多くの人を前にして演ることなんて、多分これが最初で最後な気がするから」
ちょっと弱気な陽菜世先輩の言葉に、僕は違和感を覚えた。
最初で最後なんて言葉を、彼女が言うとは思えなかったから。
「先輩、ここで勝ち上がったら日本武道館ですよ? 今日より全然お客さんの数が多いんですから、慣れておかないと」
僕がフォローを入れるようにそう言うと、また少しだけ妙な間があった。しかし何事もなかったかのように陽菜世先輩は「そっか、そうだった」ととぼけた返事をしてきた。
その妙な間のことも、ライブが終わったら教えてくれるのだろうか。僕は不思議に思いながら生音でエレキギターを弾いて指先のウォームアップをする。
しばらく経って出演順が近づいてきたところで、陽菜世先輩が皆を呼び寄せた。
「よーし、出番前だし気合入れようか」
「気合入れるって……何をするんです?」
「そりゃもう円陣でしょ。手のひらをみんなで重ね合わせて、『おー!』ってやるやつ」
「あ、ああ、なるほど、確かに部活っぽいですね」
「でしょ。初陣を飾るわけだし、気持ちを切り替えるのにもいいかなって」
その陽菜世先輩の意見に反対する人はいなかった。
僕らは自然に円陣を組み、中央で皆の手のひらを重ねる。
陽菜世先輩の手の上に僕の手、その上に凛、金沢先輩という順。
僕と同じくウォームアップをしていた凛の手はそれなりに温かかった。しかし、それに対してこのときの陽菜世先輩の手が妙に冷たかったことが、なぜか僕の脳裏にこびりついてしまった。
「絶対武道館行くぞー!」
「「「おー!」」」
元気な陽菜世先輩の掛け声で気持ちが高まってくる。それと同時に、ライブが終わったあとに彼女が打ち明けてくれることについて、僕は一抹の不安を抱いたまま。
いけない、演奏に集中しなくては。
邪念を振り払うように頬をパチパチと叩き、僕は出番の迫るステージへと向かった。
※※※
ステージに上ってからの記憶は曖昧だった。
すごく緊張していたはずなのに、不思議と固くならず自然だったと思う。
ただ、自分の頭で考えていたように身体は動かず、どんな演奏をしたかどうかすら覚えていない。
上手くいったのか、そうでなかったのか、自分自身で判断がつけられないくらい、夢心地というか、意識が朦朧としていた。
全組の演奏が終わって結果発表を迎えた。しかし、僕らは日本武道館に行けるほどの得点を審査員からも会場のお客さんからも叩き出すことはできず、あえなく二次選考で敗退という結果になった。
精根尽き果てた僕ら四人は、悔しがることもせずただただ勝者に拍手を送るだけだった。
すべてのイベントが終わり、帰り際にまた来年頑張ろうと凛が言ったので、僕は気持ちを新たにすることにした。
そこで今日は解散にするはずだった。みんな疲れていたし、休みが明けたらそろそろ期末テストだって始まる。早めに切り替えて、来年に向けて万全の体制で挑めるようにしたほうがいい。と、頭の中では理解しているつもりだった。
でもやっぱり自分の作った曲で敗退したことが尾を引いていた。悔しいような気持ちもあるし、まだ夢を見ているのではないかという結果を信じきれていないところもあって、僕はなんだか帰る気になれずにいた。ふらふらとほっつき歩いた後、僕は会場近くの公園のベンチに座ってボーっとしていた。
日は傾き始めて、すっかり夕暮れ時だった。
「よっ、一丁前にたそがれちゃってどうしたの?」
突然現れたのは陽菜世先輩だった。何も考えられず、頭の中が空っぽ状態だった僕は、完全に不意を突かれた形だ。
「せ、先輩……!? 帰ったんじゃなかったんですか?」
「帰ろうかと思ったんだけどなんか名残惜しくてねー。この辺をうろうろしてたらハルを見つけちゃってね」
「そうなんですね……」
「ハルこそ何してるの?」
「僕は……なんというか、ずっと気分がふわふわしていて現実味がないというか……」
コンテストの二次選考ライブ審査が終わってしまったという実感が湧かない。寝て覚めたらもしかしてまたライブの日の朝に戻っているのではないかと思うくらい、何もした感じがしない。
「そうだよねえ、私もなんだか不思議な感じだもん。これで終わっちゃったんだなって」
「やっぱり先輩もそんな感じなんですね」
「うん。多分、明日とか明後日になったら実感が湧いてくるのかも」
そう言って陽菜世先輩はコンビニかどこかで買ってきた水のペットボトルを取り出し、封を開けた。
夕焼けと水を飲む陽菜世先輩の姿はどこかフォトジェニックで、全くカメラを嗜まない僕ですらその姿をフレームに収めたくなった。
ずっと彼女の姿を見ているのはさすがに気まずくなりそうなので、何か話す話題がないか僕は頭を巡らせる。すると、とあることを思い出した。
「そういえば先輩、昨日の話覚えてますか?」
「あー、うん、……覚えてるよ」
「どうして今先輩は武道館に行きたいのか、それと、どうして引っ込み思案だった昔の先輩はこんなにも変われたのか。教えて下さい」
陽菜世先輩はひとつため息をついた。
昨日の帰り道、ライブが終わったら教えてくれると言っていたけれども、彼女の様子を見るにあまり言いたくはなさそうに見える。
「ははは……これを言うの、ちょっと勇気いるなあ……」
「無理だったらいいです……僕の勝手なお願いなので」
「ううん、いつかは言わなきゃいけないことだし。それに、ハルには最初に言っておかなきゃいけないと思うし」
その言葉を受け止めて僕は妙な胸騒ぎがした。表現するのが難しいけれど、知らないうちに僕は大切なものを失ってしまったのではないかと思ってしまう、どこかソワソワした気持ち。
陽菜世先輩のことをもっと知りたい。でも、知ってしまうとぽっかり穴が空いてしまうかもしれない、たとえようのない恐怖感。
時間を止めたかった。しかし、陽菜世先輩の口から、真実が解き放たれてしまう。
「……実はさ、あと半年くらいで死んじゃうらしいんだよね。私」
いつも元気な陽菜世先輩が、泣きそうになりながら少し喉を絞めるようにして出した言葉。
その残酷な事実は、なぜか僕の中にすっと入り込んできた。
「嘘みたいだよね。今でもこんなにピンピンしてるのに、あと半年しか生きられないって」
「……本当、なんですか?」
「うん……本当。お医者さんが言ってたし、病名は長ったらしくて覚えてないけど、ちゃんと診断書もある」
何と返していいのかわからなかった。
このバンドの発起人で、ずっと輪の中心にいる陽菜世先輩。
僕はそんな陽菜世先輩に出会って、少しずつ人生がいい方向に変わってきたところだった。
なんなら、今の僕の世界の中心には陽菜世先輩がいる。
もし陽菜世先輩がいなくなってしまったら、バンドはどうなってしまうのだろう。彼女がいないとダメな僕は、どうなってしまうのだろう。
色々なことが頭を駆け巡った。考え手も仕方がないことだらけなのに、こういうときだけ頭の回転は早い。
「もしかして陽菜世先輩……余命宣告をされたから、自分を変えようと……?」
「……そうだね、その通りだよ。いざ死ぬって言われたとき、私は陰キャラで友達もいなくて、おまけになんにも成し遂げてないなって思ったんだ」
「なんにも成し遂げてないって……そんなの、みんなそうですよ、大概の高校生は、みんな」
「うん。普通はそう。だってみんな可能性の塊なんだもん。だけど私は違う。今すぐ行動をしないと、本当に私は灰になって消えちゃうなって思ったんだ。だからやれることをやってみた。後悔しないように」
陽菜世先輩は死を恐れたのではない。何もせず、何も残すことができずに消えていき、自分が存在しなかったのと同じになってしまうことを恐れた。
だから彼女は自分で自分を変えた。
引っ込み思案な性格を捨てて無理矢理でも明るく振る舞うようになった。さらには外見を良くして友達を作り、紡や凛とバンドを組んだ。そして最後には僕を巻き込んで、なんとかコンテストに出場し、二次選考のライブまでこぎつけた。
普通の行動力ではここまでやることすらなかなかできないだろう。それでも、彼女はやれるところまでやってのけた。涙ぐましい努力と、死に直面した陽菜世先輩にしかわからない焦りのようなものがそうさせたのだ。
「『自分の作ったものを形に残したい』って言っていたのは、そういうことだったんですね……」
「そうだね。……まあ結局、曲はハルにお願いすることになっちゃったから、達成できてはいないんだけど」
陽菜世先輩はすべてを悟ったような、妙に晴れやかな笑みを浮かべていた。
言うべきことを打ち明けて、憑き物が取れたのだろう。
「でももうチャンスもないからさ、これで精一杯頑張ったってことにしようかなって思ってる。一応、私が歌った音源は残ってるわけだし、武道館ではないけどクラブオットーでライブができたわけだし」
まるで陽菜世先輩は自分自身を納得させるため、そう言い聞かせているように聞こえた。
本当なら武道館に行って、自分の作った曲を思いっきり歌いたかったはずなのだ。
もっと自分が頑張っていれば、もしかしたら叶えられたかもしれない。そう思うと、急に悔しさが心の奥から湧き上がってくる。
「……ハルにはたくさん迷惑かけちゃったよね、ごめんね」
「そんな……そんなこと言わないでくださいよ! 僕は……先輩に会えてやっとこのクソみたいな自分を変えられる気がしてきたんです。きっかけをくれた先輩に、本当ならこれからたくさん恩返しをしなきゃいけないのに……僕は……」
上手く言葉が出せなかった。このときばかりは口下手な自分を呪った。
「泣かないでよ。ハルは私のわがままを聞いてくれて、ここまで連れてきてくれたんだもん。恩返しなんて考えなくてもいいんだよ」
「それじゃあだめなんですよ! それじゃあ、僕は先輩から貰いっぱなしです。せめて少しくらい先輩の役に立ちたいって思ったのに、もう時間がないなんて……」
泣きわめく駄々っ子みたいな声だった。自分ではもうコントロールできないくらい、目からは涙が流れてしまっている。
陽菜世先輩もなんて返したら良いのかわからなかったのだろう。しばらくの間、僕ら二人は何も言えず黙りしてしまった。
「くよくよしていても仕方がないよ。そんな事考えている間にも、時間はどんどん過ぎていくし」
「先輩……」
陽菜世先輩の顔は、何か吹っ切れたような表情だった。
「まあ、あと半年で死んじゃうっていうのは、もうどうにもできないよ。お医者さんが無理って言うんだもん、私がどうこうしたって生き延びることはできないでしょ」
「そう……ですね……とても悔しいですけど、確かにそのとおりです」
「だからね、私はもうこれ以上後悔とか未練とか、そういうものを残したくないなって思うんだ」
「でももう、武道館には……」
コンテストで武道館のステージに立つ夢は絶たれてしまった。今から別の方法を探したとしても、陽菜世先輩を連れて行くには時間が足りない。
後悔や未練をこれ以上残したくないと彼女は言うが、具体的にどうしたら良いのか僕には何も考えつかなかった。
「ううん、違う。そっちはもう仕方がない」
「じゃあ、何が先輩の未練なんですか?」
すると、陽菜世先輩はまるで周囲の喧騒を劈くような透き通った声で、僕にこう言ってくる。
「――ねえハル、私と付き合ってくれない?」
言葉自体はハイレゾ音源のような音質で耳に入ってきた。しかし、その意味を理解するのに時間がかかった。
「付き合う……って、これからどこかに出かけるってことですか……?」
「ハルは面白いことを言うね。このあと私の買い物に付き合ってくれるのも嬉しいけど、ちょっと意味が違うよ」
「えっ……まさか、先輩……?」
「そのまさかだよ。ハルに私の恋人になってほしい」
ドッキリかと思った。ここまでの余命のくだりも含めて、僕は何か盛大に騙されているのかと周囲を見回してしまった。
だって目の前にいるのは陽菜世先輩だ。一年前は引っ込み思案だったとはいえ、今や誰もが認める一軍女子。
そんな彼女が僕に「恋人になってほしい」と言うなんて、現実のこととは思えなかった。
「……どうしたの? そんなにキョロキョロして」
「い、いえ、ドッキリなのかなって」
「ぷっ、そんなわけないじゃん。ヤラセ一切なし、正真正銘、本当の気持ちだよ」
「で、でも、僕なんかが恋人って……その、なんというか、釣り合わないというか……」
「そんなことないよ。ハルは私の大切な人だもん。釣り合わないことなんてないよ」
「それにしたって他にも相応しい人がいるじゃないですか。……その、金沢先輩とか」
別に金沢先輩でなくとも、他に陽菜世先輩とお似合いになりそうな人ならたくさんいる。
それなのに僕を選んだということが、やっぱり信じられなかった。
「ハルがいいの。『好きだな』って思えたの、ハルが初めてだから」
殺し文句だった。
それを言われてしまうと、僕のどんな言葉も通用しなくなる。
もちろん、陽菜世先輩がそう言ってくれるなら僕だって嬉しい。
自分のことを好きだと言ってくれる人がいるということは、こんなにも心が温かくなるのだなと自覚する。だから僕も、先輩のためならなんでもしてあげたいという、そんな気持ちになってきた。
「ぼ、僕でよければ、その……よ、よろしくお願いします……!」
素直に僕はそう答えた。すると、陽菜世先輩は少し驚く。
「本当にいいの……? あと半年でお別れがきちゃうのに、私と付き合っても」
「いいんです。だって、先輩が生きていたんだよってことを僕がずっと覚えていれば、消えることはないですから」
「……ハル、ありがと。絶対に辛い思いをさせるのに、私のわがまま聞いてくれて」
「辛くなんてないです。だから先輩は未練なんてなくなるくらい、僕にわがままを言ってください。頑張って叶えますから」
我ながら恥ずかしいセリフだなと思った。
でも、嘘偽りのない本当の気持ちだ。
今の僕は、先輩のためならなんでもできる。もう僕は臆病でも引っ込み思案でもなんでもない、無敵状態みたいな感じだった。
「ありがと、じゃあ早速一つわがままを受け入れてもらってもいいかな?」
「は、はい。なんですか……?」
僕が返事をすると同時に、陽菜世先輩の顔が近づいてきた。
視界は陽菜世先輩で埋まる。ふわっとシャンプーの香りが弾けて、僕の鼻腔がムズムズしてくる。
一瞬のうちに唇は温かくて柔らかい、少し湿った感覚に覆われて、何をされているのか察した僕はすぐに目を閉じた。
僕も陽菜世先輩も、お互いにすごくぎこちない。
でも、何故だか身体の奥底からは、幸せな気持ちが湧き上がってきた。
初めての口付けは、ほんの十秒程度だったと思う。
「ははは……奪っちゃった、ハルのファーストキス」
「び、びっくりしました。これも先輩のやりたかったことなんですか……?」
「……うん、してみたかった。好きな人とのキス。自分も相手も、お互いに初めてだったら嬉しいなって」
陽菜世先輩の顔が少し紅くなっていて、つられて僕も恥ずかしくなってきた。
「ごめんね、ファーストキスの相手があと半年で死んじゃう人で」
「先輩、それ言うの禁止にしましょう」
「そっか、そうだよね。……これでやめにする」
一つ約束を交わして、僕らはベンチから立ち上がった。
手を繋いで帰ろうと陽菜世先輩が差し出してきた右手は、妙に熱を帯びていて、確かに今を一生懸命生きていた。
その脈動を忘れないように、僕は陽菜世先輩の手を強く握り返した。
それもそのはず。このコンテストの主催は中高生の視聴者が多いYouTube番組。おまけに土曜日の夕方で入場無料ともなると、たくさんのティーンエイジャーが集まってくる。
うちの高校の学園祭でもこんなに人は集まらないだろう。ましてや身内ノリではなくほとんどが赤の他人。きちんと観客の心をつかめるバンドでないと、盛り上げるのは難しいだろう。
ライブに関しては素人の僕でも、それくらいは簡単にわかる。
「いやー、すんごい人だね。ざっとどれくらいだろ?」
控室にて、陽菜世先輩が呑気にそんなことを言う。
「わ……わからないですけど、ここは満杯で五百五十人らしいので、半分だとしても三百人弱はいるかなと」
「三百人……かあ……!」
「先輩、ワクワクしてますよね?」
「もちろん。でも、こう見えて結構緊張してる」
「そうなんですか?」
「まあね。こんなに多くの人を前にして演ることなんて、多分これが最初で最後な気がするから」
ちょっと弱気な陽菜世先輩の言葉に、僕は違和感を覚えた。
最初で最後なんて言葉を、彼女が言うとは思えなかったから。
「先輩、ここで勝ち上がったら日本武道館ですよ? 今日より全然お客さんの数が多いんですから、慣れておかないと」
僕がフォローを入れるようにそう言うと、また少しだけ妙な間があった。しかし何事もなかったかのように陽菜世先輩は「そっか、そうだった」ととぼけた返事をしてきた。
その妙な間のことも、ライブが終わったら教えてくれるのだろうか。僕は不思議に思いながら生音でエレキギターを弾いて指先のウォームアップをする。
しばらく経って出演順が近づいてきたところで、陽菜世先輩が皆を呼び寄せた。
「よーし、出番前だし気合入れようか」
「気合入れるって……何をするんです?」
「そりゃもう円陣でしょ。手のひらをみんなで重ね合わせて、『おー!』ってやるやつ」
「あ、ああ、なるほど、確かに部活っぽいですね」
「でしょ。初陣を飾るわけだし、気持ちを切り替えるのにもいいかなって」
その陽菜世先輩の意見に反対する人はいなかった。
僕らは自然に円陣を組み、中央で皆の手のひらを重ねる。
陽菜世先輩の手の上に僕の手、その上に凛、金沢先輩という順。
僕と同じくウォームアップをしていた凛の手はそれなりに温かかった。しかし、それに対してこのときの陽菜世先輩の手が妙に冷たかったことが、なぜか僕の脳裏にこびりついてしまった。
「絶対武道館行くぞー!」
「「「おー!」」」
元気な陽菜世先輩の掛け声で気持ちが高まってくる。それと同時に、ライブが終わったあとに彼女が打ち明けてくれることについて、僕は一抹の不安を抱いたまま。
いけない、演奏に集中しなくては。
邪念を振り払うように頬をパチパチと叩き、僕は出番の迫るステージへと向かった。
※※※
ステージに上ってからの記憶は曖昧だった。
すごく緊張していたはずなのに、不思議と固くならず自然だったと思う。
ただ、自分の頭で考えていたように身体は動かず、どんな演奏をしたかどうかすら覚えていない。
上手くいったのか、そうでなかったのか、自分自身で判断がつけられないくらい、夢心地というか、意識が朦朧としていた。
全組の演奏が終わって結果発表を迎えた。しかし、僕らは日本武道館に行けるほどの得点を審査員からも会場のお客さんからも叩き出すことはできず、あえなく二次選考で敗退という結果になった。
精根尽き果てた僕ら四人は、悔しがることもせずただただ勝者に拍手を送るだけだった。
すべてのイベントが終わり、帰り際にまた来年頑張ろうと凛が言ったので、僕は気持ちを新たにすることにした。
そこで今日は解散にするはずだった。みんな疲れていたし、休みが明けたらそろそろ期末テストだって始まる。早めに切り替えて、来年に向けて万全の体制で挑めるようにしたほうがいい。と、頭の中では理解しているつもりだった。
でもやっぱり自分の作った曲で敗退したことが尾を引いていた。悔しいような気持ちもあるし、まだ夢を見ているのではないかという結果を信じきれていないところもあって、僕はなんだか帰る気になれずにいた。ふらふらとほっつき歩いた後、僕は会場近くの公園のベンチに座ってボーっとしていた。
日は傾き始めて、すっかり夕暮れ時だった。
「よっ、一丁前にたそがれちゃってどうしたの?」
突然現れたのは陽菜世先輩だった。何も考えられず、頭の中が空っぽ状態だった僕は、完全に不意を突かれた形だ。
「せ、先輩……!? 帰ったんじゃなかったんですか?」
「帰ろうかと思ったんだけどなんか名残惜しくてねー。この辺をうろうろしてたらハルを見つけちゃってね」
「そうなんですね……」
「ハルこそ何してるの?」
「僕は……なんというか、ずっと気分がふわふわしていて現実味がないというか……」
コンテストの二次選考ライブ審査が終わってしまったという実感が湧かない。寝て覚めたらもしかしてまたライブの日の朝に戻っているのではないかと思うくらい、何もした感じがしない。
「そうだよねえ、私もなんだか不思議な感じだもん。これで終わっちゃったんだなって」
「やっぱり先輩もそんな感じなんですね」
「うん。多分、明日とか明後日になったら実感が湧いてくるのかも」
そう言って陽菜世先輩はコンビニかどこかで買ってきた水のペットボトルを取り出し、封を開けた。
夕焼けと水を飲む陽菜世先輩の姿はどこかフォトジェニックで、全くカメラを嗜まない僕ですらその姿をフレームに収めたくなった。
ずっと彼女の姿を見ているのはさすがに気まずくなりそうなので、何か話す話題がないか僕は頭を巡らせる。すると、とあることを思い出した。
「そういえば先輩、昨日の話覚えてますか?」
「あー、うん、……覚えてるよ」
「どうして今先輩は武道館に行きたいのか、それと、どうして引っ込み思案だった昔の先輩はこんなにも変われたのか。教えて下さい」
陽菜世先輩はひとつため息をついた。
昨日の帰り道、ライブが終わったら教えてくれると言っていたけれども、彼女の様子を見るにあまり言いたくはなさそうに見える。
「ははは……これを言うの、ちょっと勇気いるなあ……」
「無理だったらいいです……僕の勝手なお願いなので」
「ううん、いつかは言わなきゃいけないことだし。それに、ハルには最初に言っておかなきゃいけないと思うし」
その言葉を受け止めて僕は妙な胸騒ぎがした。表現するのが難しいけれど、知らないうちに僕は大切なものを失ってしまったのではないかと思ってしまう、どこかソワソワした気持ち。
陽菜世先輩のことをもっと知りたい。でも、知ってしまうとぽっかり穴が空いてしまうかもしれない、たとえようのない恐怖感。
時間を止めたかった。しかし、陽菜世先輩の口から、真実が解き放たれてしまう。
「……実はさ、あと半年くらいで死んじゃうらしいんだよね。私」
いつも元気な陽菜世先輩が、泣きそうになりながら少し喉を絞めるようにして出した言葉。
その残酷な事実は、なぜか僕の中にすっと入り込んできた。
「嘘みたいだよね。今でもこんなにピンピンしてるのに、あと半年しか生きられないって」
「……本当、なんですか?」
「うん……本当。お医者さんが言ってたし、病名は長ったらしくて覚えてないけど、ちゃんと診断書もある」
何と返していいのかわからなかった。
このバンドの発起人で、ずっと輪の中心にいる陽菜世先輩。
僕はそんな陽菜世先輩に出会って、少しずつ人生がいい方向に変わってきたところだった。
なんなら、今の僕の世界の中心には陽菜世先輩がいる。
もし陽菜世先輩がいなくなってしまったら、バンドはどうなってしまうのだろう。彼女がいないとダメな僕は、どうなってしまうのだろう。
色々なことが頭を駆け巡った。考え手も仕方がないことだらけなのに、こういうときだけ頭の回転は早い。
「もしかして陽菜世先輩……余命宣告をされたから、自分を変えようと……?」
「……そうだね、その通りだよ。いざ死ぬって言われたとき、私は陰キャラで友達もいなくて、おまけになんにも成し遂げてないなって思ったんだ」
「なんにも成し遂げてないって……そんなの、みんなそうですよ、大概の高校生は、みんな」
「うん。普通はそう。だってみんな可能性の塊なんだもん。だけど私は違う。今すぐ行動をしないと、本当に私は灰になって消えちゃうなって思ったんだ。だからやれることをやってみた。後悔しないように」
陽菜世先輩は死を恐れたのではない。何もせず、何も残すことができずに消えていき、自分が存在しなかったのと同じになってしまうことを恐れた。
だから彼女は自分で自分を変えた。
引っ込み思案な性格を捨てて無理矢理でも明るく振る舞うようになった。さらには外見を良くして友達を作り、紡や凛とバンドを組んだ。そして最後には僕を巻き込んで、なんとかコンテストに出場し、二次選考のライブまでこぎつけた。
普通の行動力ではここまでやることすらなかなかできないだろう。それでも、彼女はやれるところまでやってのけた。涙ぐましい努力と、死に直面した陽菜世先輩にしかわからない焦りのようなものがそうさせたのだ。
「『自分の作ったものを形に残したい』って言っていたのは、そういうことだったんですね……」
「そうだね。……まあ結局、曲はハルにお願いすることになっちゃったから、達成できてはいないんだけど」
陽菜世先輩はすべてを悟ったような、妙に晴れやかな笑みを浮かべていた。
言うべきことを打ち明けて、憑き物が取れたのだろう。
「でももうチャンスもないからさ、これで精一杯頑張ったってことにしようかなって思ってる。一応、私が歌った音源は残ってるわけだし、武道館ではないけどクラブオットーでライブができたわけだし」
まるで陽菜世先輩は自分自身を納得させるため、そう言い聞かせているように聞こえた。
本当なら武道館に行って、自分の作った曲を思いっきり歌いたかったはずなのだ。
もっと自分が頑張っていれば、もしかしたら叶えられたかもしれない。そう思うと、急に悔しさが心の奥から湧き上がってくる。
「……ハルにはたくさん迷惑かけちゃったよね、ごめんね」
「そんな……そんなこと言わないでくださいよ! 僕は……先輩に会えてやっとこのクソみたいな自分を変えられる気がしてきたんです。きっかけをくれた先輩に、本当ならこれからたくさん恩返しをしなきゃいけないのに……僕は……」
上手く言葉が出せなかった。このときばかりは口下手な自分を呪った。
「泣かないでよ。ハルは私のわがままを聞いてくれて、ここまで連れてきてくれたんだもん。恩返しなんて考えなくてもいいんだよ」
「それじゃあだめなんですよ! それじゃあ、僕は先輩から貰いっぱなしです。せめて少しくらい先輩の役に立ちたいって思ったのに、もう時間がないなんて……」
泣きわめく駄々っ子みたいな声だった。自分ではもうコントロールできないくらい、目からは涙が流れてしまっている。
陽菜世先輩もなんて返したら良いのかわからなかったのだろう。しばらくの間、僕ら二人は何も言えず黙りしてしまった。
「くよくよしていても仕方がないよ。そんな事考えている間にも、時間はどんどん過ぎていくし」
「先輩……」
陽菜世先輩の顔は、何か吹っ切れたような表情だった。
「まあ、あと半年で死んじゃうっていうのは、もうどうにもできないよ。お医者さんが無理って言うんだもん、私がどうこうしたって生き延びることはできないでしょ」
「そう……ですね……とても悔しいですけど、確かにそのとおりです」
「だからね、私はもうこれ以上後悔とか未練とか、そういうものを残したくないなって思うんだ」
「でももう、武道館には……」
コンテストで武道館のステージに立つ夢は絶たれてしまった。今から別の方法を探したとしても、陽菜世先輩を連れて行くには時間が足りない。
後悔や未練をこれ以上残したくないと彼女は言うが、具体的にどうしたら良いのか僕には何も考えつかなかった。
「ううん、違う。そっちはもう仕方がない」
「じゃあ、何が先輩の未練なんですか?」
すると、陽菜世先輩はまるで周囲の喧騒を劈くような透き通った声で、僕にこう言ってくる。
「――ねえハル、私と付き合ってくれない?」
言葉自体はハイレゾ音源のような音質で耳に入ってきた。しかし、その意味を理解するのに時間がかかった。
「付き合う……って、これからどこかに出かけるってことですか……?」
「ハルは面白いことを言うね。このあと私の買い物に付き合ってくれるのも嬉しいけど、ちょっと意味が違うよ」
「えっ……まさか、先輩……?」
「そのまさかだよ。ハルに私の恋人になってほしい」
ドッキリかと思った。ここまでの余命のくだりも含めて、僕は何か盛大に騙されているのかと周囲を見回してしまった。
だって目の前にいるのは陽菜世先輩だ。一年前は引っ込み思案だったとはいえ、今や誰もが認める一軍女子。
そんな彼女が僕に「恋人になってほしい」と言うなんて、現実のこととは思えなかった。
「……どうしたの? そんなにキョロキョロして」
「い、いえ、ドッキリなのかなって」
「ぷっ、そんなわけないじゃん。ヤラセ一切なし、正真正銘、本当の気持ちだよ」
「で、でも、僕なんかが恋人って……その、なんというか、釣り合わないというか……」
「そんなことないよ。ハルは私の大切な人だもん。釣り合わないことなんてないよ」
「それにしたって他にも相応しい人がいるじゃないですか。……その、金沢先輩とか」
別に金沢先輩でなくとも、他に陽菜世先輩とお似合いになりそうな人ならたくさんいる。
それなのに僕を選んだということが、やっぱり信じられなかった。
「ハルがいいの。『好きだな』って思えたの、ハルが初めてだから」
殺し文句だった。
それを言われてしまうと、僕のどんな言葉も通用しなくなる。
もちろん、陽菜世先輩がそう言ってくれるなら僕だって嬉しい。
自分のことを好きだと言ってくれる人がいるということは、こんなにも心が温かくなるのだなと自覚する。だから僕も、先輩のためならなんでもしてあげたいという、そんな気持ちになってきた。
「ぼ、僕でよければ、その……よ、よろしくお願いします……!」
素直に僕はそう答えた。すると、陽菜世先輩は少し驚く。
「本当にいいの……? あと半年でお別れがきちゃうのに、私と付き合っても」
「いいんです。だって、先輩が生きていたんだよってことを僕がずっと覚えていれば、消えることはないですから」
「……ハル、ありがと。絶対に辛い思いをさせるのに、私のわがまま聞いてくれて」
「辛くなんてないです。だから先輩は未練なんてなくなるくらい、僕にわがままを言ってください。頑張って叶えますから」
我ながら恥ずかしいセリフだなと思った。
でも、嘘偽りのない本当の気持ちだ。
今の僕は、先輩のためならなんでもできる。もう僕は臆病でも引っ込み思案でもなんでもない、無敵状態みたいな感じだった。
「ありがと、じゃあ早速一つわがままを受け入れてもらってもいいかな?」
「は、はい。なんですか……?」
僕が返事をすると同時に、陽菜世先輩の顔が近づいてきた。
視界は陽菜世先輩で埋まる。ふわっとシャンプーの香りが弾けて、僕の鼻腔がムズムズしてくる。
一瞬のうちに唇は温かくて柔らかい、少し湿った感覚に覆われて、何をされているのか察した僕はすぐに目を閉じた。
僕も陽菜世先輩も、お互いにすごくぎこちない。
でも、何故だか身体の奥底からは、幸せな気持ちが湧き上がってきた。
初めての口付けは、ほんの十秒程度だったと思う。
「ははは……奪っちゃった、ハルのファーストキス」
「び、びっくりしました。これも先輩のやりたかったことなんですか……?」
「……うん、してみたかった。好きな人とのキス。自分も相手も、お互いに初めてだったら嬉しいなって」
陽菜世先輩の顔が少し紅くなっていて、つられて僕も恥ずかしくなってきた。
「ごめんね、ファーストキスの相手があと半年で死んじゃう人で」
「先輩、それ言うの禁止にしましょう」
「そっか、そうだよね。……これでやめにする」
一つ約束を交わして、僕らはベンチから立ち上がった。
手を繋いで帰ろうと陽菜世先輩が差し出してきた右手は、妙に熱を帯びていて、確かに今を一生懸命生きていた。
その脈動を忘れないように、僕は陽菜世先輩の手を強く握り返した。