次の日、いつものとおりに階段の踊り場に行くと金沢先輩がいた。
 陽菜世先輩や凛はおらず、男二人。
 まともに話したことのない人――しかも、人望があって部内では人気者である先輩ということで、僕は金沢先輩の姿を見た途端緊張してしまった。
 思わず陽菜世先輩の姿を捜したが、もちろんいるわけがない。二人だけであることがわかると余計に緊張感が高まってしまう。
「やあ、おはよう」
「お、おはようございます……」
「はははっ、『もう放課後なのにおはようなんですか?』ってツッコミはしないんだ」
「あっ……す、すみません……」
「謝らなくていいよ。こんなのジョークに決まってるじゃん」
「す、すみません……。あっ……」
 謝らなくていいと言われたのに、つい癖で謝罪の言葉が出てしまう。
 一番直さなきゃいけない癖だとは思いつつ、身体に染み付いてしまったものはなかなか離れてくれない。
「ははっ、そんなに緊張しなくていいよ。俺、君が思っているほど怖い人じゃないから」
 金沢先輩は僕に笑いかける。
 彼が怖い人ではないということは、頭の中では理解できている。
 ただ、明らかに校則違反だろうなと思える髪の色や、制服を崩して着ているところなどをみると、自分とは違う世界にいる人間なのだと僕は反射的に認識してしまうみたいだった。
 僕が来るまで、金沢先輩はイヤフォンで何かを聴きながら、商売道具のドラムスティックで練習用ゴムパッドに向けてリズムを刻んでいたようだ。スティックとゴムパッドは毎日持ち歩いているらしく、結構ストイックに練習している。
 ただでさえドラムを練習するのには時間や設備、騒音などいろいろな面で制約がある。それゆえ、大抵のドラマーはドラムセットを使う練習をガンガンやることはできず、金沢先輩みたいな感じで地味な個人練習をすることが多い。
 ちなみに僕も、自分で色々な楽器を演奏できたほうがいいと思ってドラムの練習をしようと思ったことがある。
 一見ダイナミックに身体を動かすように思えるけれど、実は細かい指先の使い方が大切だったり、思ったほど力を入れないほうが良かったりする。
 独学ではプレイングに限界を感じてしまって、お試しで買ってみたドラムスティックは結局きれいなまんま自室に保管してあるザマだ。
 ふと、陽菜世先輩のアドバイスを思い出したす。
 もう少し他人に興味を持ってみる、それすなわち、いろいろなことを聞いてみること。
 相手の興味ある話題を引き出すよう聞き手に徹すれば、自然と会話はつながる。それが自分も関心を持っていることならなおさら。
 このまま黙りを決め込んで、気まずい時間を過ごすくらいならと思った僕は、少し勇気を出して金沢先輩に話しかけてみることにした。
「あっ、あの、先輩」
「んー?」
「ど、どうやったらドラムって上手くなりますか?」
 ざっくりした質問、しかもいきなり核心に迫るような雑な踏み込み方だった。もうちょっと詳細を詰めても良かったかなと思ったけれども、僕のような会話慣れしていない人間にはこれが限界だ。
「えっ? 上手くなりたいって……もしかして、俺からドラマーの座を奪うつもり?」
「あっ、いや、そういうつもりじゃなくて……その、ぼ、僕、DTMで曲を作ってるんですけど、ドラムの打ち込み音源があんまりしっくり来なくて……自分でドラムが上手に叩けるようになれば、改善するかなって……」
 頭の中にある原稿を一気読みした感じだった。
 喋りきったあとは酸素が足りなくなって、大きく息を吸い直す。
「ぷっ、めっちゃ早口じゃん。テンパりすぎだよ」
「す、すみません……」
 金沢先輩が吹き出した。しかし、僕をあざ笑うような感じではなく、小さい子供の成長を見守るかのようなそんな口調だったので、思ったほど僕の心理的ダメージは小さかった。
「まあでも、君の言うとおりドラムが上手くなれば打ち込み音源を作るときにも役立つってのは間違いじゃないと思うよ」
「で、ですよね。ははは……」
「でもそれだとさ、曲を作るときの君の想像力が、『ドラムでできること』の範囲内だけになっちゃわない?」
「えっと……それはどういう……」
「ほら、打ち込み音源って極端なことを言えば人間には奏でられない音を出すことができるわけじゃん? 例えば、BPM三〇〇で三十二分音符を十六小節間叩き続けるとか」
「そう……ですね。データ上はそういうことも可能です」
「でしょ? せっかくいろいろなことができるのに、ドラム音源を極めるために自分のドラムの腕前を上げたら、それこそ『人間がドラムでできること』に囚われちゃうと思うんだ」
「な、なるほど……」
 新しい視点だった。僕はドラム音源の作り方に悩んでいたばっかりに、打ち込み音源で創造することの自由さをすっかり忘れてしまっていた。
「まあそもそも、ドラムが上手くなったら打ち込みで音源作る必要もない気がするけど」
「確かに……それもそうですね」
「俺が思うにね、打ち込み音源のレベルアップを図るなら、ドラムの腕前を上げるより色々な人のプレイングを見まくってインプットしたほうがいいと思うんだ」
「それならネットで動画を……」
「いやいや、映像じゃなくて、生でね」
 すると、金沢先輩は自分のスクールバッグの中をもぞもぞと弄り始めた。
 取り出したのは細長い紙切れ四枚。ミシン目が入っていて、日付とか時刻が印字されているように見えた。
「……なんですか? それ」
「ライブのチケット。ちょうどOBの先輩からライブに来ないかって言われててさ、この日の出演陣の演奏レベル高いからバンドのみんなで観に行こうかなと思ってたんだよ。もちろん行くよね?」
「えっ、あっ……はい」
 当然行くだろという圧をうけた僕は、日程も聞いていないのに思わず返答をしてしまった。
 しかし、どうせ僕には行かない理由になるような予定はない。無理に取り繕って下手な嘘をつくほうが面倒な気がしたので、返事をしてしまってからこれで良かったのだと僕は安堵のため息をついた。
 しかし、バカに準備がいい気がする。まるで僕をライブに連れて行こうとあらかじめ画策していたみたいだった。
 もしかしたら、金沢先輩は陽菜世先輩と裏で通じていたのだろうか。
 ……考えるだけ無駄だ。とりあえずこのまま流されておこう。
「よかったー。来てくれないと思ってたから助かるよ。先輩から誘われておいて誰も連れていけないと、あとが怖いからさ」
「いえ……僕も勉強したかったので。ライブって、実は行ったことなくて……」
「そっか、行ったことないんだ。まあライブハウスって入りにくい雰囲気あるからねー。でも、行ってみたら結構楽しいよ。ハマるかもね」
「そ、そうなんですかね……ははは……」
 慣れない愛想笑いをしてみる。多分だけど、かなり顔が引きつっている気がする。
 陽菜世先輩に、コミュニケーションを取る上で表情というのは一番早く相手に伝わる情報だから、笑顔を意識しなさいと言われた。こんなことなら、鏡に向かって笑顔の練習をしておけばよかったかもしれない。
「ははっ、なんかそのおろおろした感じ、ちょっと懐かしいな」
「な、懐かしいって……どうしてまた……?」
「うん。去年の陽菜世がまさにそんな感じだった」
「陽菜世先輩が……ですか?」
「そうそう。今の君みたいに会話はたどたどしいし、常に何かにビビってるし、陰キャラだなって感じだった」
「い……意外ですね」
「だよね。だから俺もここ一年での陽菜世の変わりっぷりにはびっくりしたよ。何かきっかけがあったんだろうけど、あそこまで人って変わるんだなって思った」
 さすがに今の陽菜世先輩しか知らない僕には、陰キャラだったという去年の陽菜世先輩の姿は想像できない。
 あんなに明るくてわざわざ僕みたいな人間の面倒を見てくれる陽菜世先輩が、ものの一年前まで今の僕みたいな引っ込み思案だったとは。
 何が彼女をそうさせたのか、その理由が気になって仕方がなかった。
 でもだいたいそういうのは「好きな人ができた」とか、「憧れの存在ができた」とか、そういう動機な気がする。
 陽菜世先輩のことだし、恋の一つや二つしたのだろう。女子高校生が一年でガラッと変わるにはやっぱり恋心の力が要る。恋する乙女は強い。
 あの人に想い人がいるのだと思うと少し複雑な気持ちだが、どのみち僕みたいなやつには関係ない。考えるだけ無駄だ。
 そう思い込もうとするが、考えれば考えるほどわからなくなってくる。
「なんで陽菜世先輩は……僕なんかを助けてくれるんですかね……」
 思考が煮詰まった挙げ句、僕は思わずそんな言葉を漏らしてしまった。
 言い切ったあと、自分で何を言っているのかと恥ずかしくなって、手で口を押さえてしまう。
「い、いや、なんでもないです。独り言です」
「……それは多分だけど、陽菜世が君を見て、昔の自分を見てる気がしたからじゃない? 見込みあるって思われたんだよ」
「見込みって……僕は別にそんな大したものじゃ……」
「まあ頑張りなって。そんなに頭でっかちになって考えても、わからないことはわかんないよ。俺みたいにある程度テキトーにやることも大切さ」
 金沢先輩は笑顔を浮かべる。彼の言う通り、自分は何事も重く考えすぎなのかもしれない。
 もう少し肩の力を抜いて気楽にやろう。そう思ったときに気がついた。
 いつの間にか僕と金沢先輩の間にあるコミュニケーションの壁がなくなっている。
 さっきまで一対一で対峙することにビビっていたはずなのに、金沢先輩相手ならもう平気だ。
 陽菜世先輩の後押しが効いている。少しの勇気を出してみたら、その効果は抜群に大きいと改めてわかった。
 僕は無性に嬉しくなってきて、今すぐ陽菜世先輩にこのことを話したい気分だった。