「――お会計が四万二千八百円になります」
「じゃあ、これで……」
 春休みも終盤を迎えたある日。僕はあのリサイクルショップで陽菜世先輩のギター――スクワイアのテレキャスターを買い戻した。
 順調にアルバイト代が貯まり、新学期が始まる前に購入の目処が立ったのだ。
 これも金沢先輩に会ってバンドの再開を決意できたことが大きい。あのラーメン屋での一件がなかったら、僕は休み休みシフトを入れて、そのうち買い戻せたらいいなくらいの気持ちにしかなっていなかっただろう。だらだらしてしまってお金が貯まる前に誰かに買われてしまうことも大いにあり得た。
 意を決して毎日毎日ゴリゴリに働いて正解だった。無事にテレキャスターは買い戻せたし、重いものを運びまくったおかげで多少筋力もついた。一石二鳥ならぬ、一石五鳥くらい得した気持ちだ。
 店の外に出ていつもの散歩コースに戻ったところで僕はインカム式のワイヤレスイヤホンをつける。
 スマートフォンの中にいるヒナとはこんなものをつけなくても会話はできるのだけれども、傍から見たときに独り言をつぶやいている人に見えてしまうのでこうしている。
「やっと買い戻せました。誰にも買われずに済んで良かったです」
『本当に買い戻しちゃうなんてさすがだねー。ハルめちゃくちゃ働いてたもんね、あんなに熱心に労働できたのがびっくりだよ』
「そ、それは実は僕もびっくりしてまして……へへへ……」
『あんまり熱心だから最後のほうなんて高校卒業したら正社員にならないかとか言われてたもんね』
「ですね……就職できなかったらお世話になろうかな……」
『そんな弱気でどうすんの。コンテストで受賞したらバンドマンとしてデビューするんだから、就職先とか考えちゃダメだよ』
「た、確かにそうなればいいですけど……」
 最近のヒナはこんな感じで僕の尻を叩くようなことをよく言うようになった。
 金沢先輩と会えたことがやはりきっかけなのだろう。ヒナ自身も自分が叶えられなかったことに再び挑戦できるかもしれないとチャンスを得たことで燃えているのかもしれない。心なしかスマートフォンの発熱量も大きい気がする。
『それより早くバンド活動再開しないといけないんじゃないの? そろそろ新学期だよ?』
「そうなんですけど、金沢先輩は運転免許の合宿に行っちゃったので……」
 金沢先輩は来月十八歳になるということで、運転免許の取得のために県外へ合宿に行ってしまった。
 前々から決まっていたことなのでこればかりはどうしようもない。せっかくバンド再開が決まったのにいきなり不在になるということで、かなり申し訳無さそうにしていた。その分、合宿中にみっちり基礎練習をしておくからと言われたのは心強いけれども。
『じゃあ凛はどうなの? 早く声かけとかないといけないんじゃない?』
「この時期の凛は忙しいと思います。実家の関係で」
『実家? 凛の家って何やってるの?』
「えっ、先輩もしかして知らなかったんですか?」
『知らないよ! だって私、ハルとちがって凛とは去年会ったばっかりなんだから! 幼馴染じゃないの!』
「す、すみません……」
 僕は思わず画面に向かって頭を下げる。ウェブ会議で謝罪をさせられている気分だ。
「凛の家はお寺なんですよ。今の時期、彼岸の法要で忙しいんです」
『へえ、そうなんだ。幼馴染だけどあまり関わっていなかったとかいうくせに、なんやかんや凛のことは詳しいのね』
「昔からこの時期は家の手伝いで部活を休んでたりしていたんですよ。凛、昔はソフトボールでエースピッチャーだったから、参加できないこの時期は全然勝てなくて……」
『ふーん……』
「な、なんですか、そんな顔しなくてもいいじゃないですか」
『別にー?』
 ヒナはやや膨れ面をしてそんな事を言う。妬いているのだろうか?
 いや、妬くにしたって相手は凛なのだから気にすることはないと僕は思うのだけれども。ヒナ的にはちょっと気に障るのかもしれない。
「と、とにかく今はちょっと難しいので、新学期になったら声をかけますよ」
『……できるだけ早めにね。頼んだからね』
 ヒナは意味深にそう言う。しかし、意図がわからなかった僕は「そうですね」としか返せなかった。

 ※※※

 四月に入り、学年が一つ上がった。
 引きこもっていたおかげで出席日数はギリギリ、アルバイト漬けだったので勉強もかなり疎か。
 満身創痍で迎えた僕の高校二年ではあったが、為せば成るということを経験した僕にとってはそれほど脅威ではなかった。
 幸いなことに僕の存在を知っている人が新しいクラスにはいなかったようで、いつも通りのぼっちな生活を過ごせそうで安心した。

 放課後になって、僕は凛の元へと向かった。
 彼女とはかなりクラスが離れてしまったようだ。
 僕は古文や漢文が苦手だったので理系を選んだけれども、どうやら凛は文系らしい。文理が違えば、当然クラスも離れてしまう。
 一応、クラス分けの表が貼り出されたときに凛の所在を確認しておいた。とりあえず彼女のクラスの近くをウロウロしていれば、まず間違いなく会えるだろう。
 しかし、凛はいつまで経っても教室から出てこない。しびれを切らして中を覗くと、そこに凛の姿はなかった。
 まさか凛が学校に来ていないのかと思い、僕はそのクラスの人に凛のことについて聞いてみる。
「あっ、あの」
「ん? 何か用?」
「凛……小牧凛さん、今日来てますか?」
「来てたよ。もう帰っちゃったんじゃない?」
「そうですか……ありがとうございます」
 凛はどうやらそそくさと帰ってしまったらしい。しかし、僕は凛のその行動に引っかかりを覚える。
 昔から彼女は友達が多くて、放課後はなんやかんや駄弁っていることが多かったのだ。
 進級して新しいクラスになったとはいえ、同じクラスだった人とか同じ中学の人とか、そういう人たちを見つけてはおしゃべりをするはず。
 それなのにそそくさと帰ってしまうとはどういうことだろうか。
 一応、他のクラスに出向いているのかと考えた僕は、他の教室に凛がいないか確認した。しかし予想通り凛の姿はなかった。どうやら本当に帰ってしまったようだ。
 不自然に早く帰ってしまう凛。たまたま用事があったのかもしれないが、僕は何か胸騒ぎがした。
『どうするの? 凛、帰っちゃったんでしょ?』
「ええ。とにかく凛の家に行ってみようと思います。会わないと話は始まらないですから」
『そうだね、早く行こう』

 大急ぎで学校を出る。
 桜の花びらがそこら中を舞っている春の岡崎中心部を自転車で駆けていくと、古くからある由緒正しきお寺にたどり着く。
『すごっ……凛の家ってこんなに立派なお寺だったんだ』
「そうですね。檀家さんも結構な数いるらしくて、お盆とかお彼岸は大変そうでした。僕、大晦日にこのお寺の鐘を鳴らしたこともありますよ」
『ハル、鐘を鳴らした反動でふっ飛ばされそう』
「失礼な。こう見えてちゃんと鳴らせるんですから」
『はいはい。……んで、早く入ろ?』
 僕はお寺の門をくぐり、庫裡《くり》と呼ばれる住職が生活する住居の方へ向かう。
 見た目は和風建築っぽい建物だけれども、中身は案外普通の家。インターホンも当たり前のように設置されているので、僕はそれを押す。
 ピンポーンと電子音が鳴る。しばらく間をおいて、小牧家の誰かが応対してきた。
「どちらさ……晴彦?」
 声の主は凛だった。インターホンにはご丁寧にカメラまでついているようで、応対した瞬間に僕が来たことがわかったらしい。
「久しぶり。ちょっと話したいことがあってさ。学校で待ってたんだけど、もう帰ったって聞いて、それで……」
「ごめん……また今度にしてくれないかな」
「ど、どうして……?」
「ちょっと忙しいというか、手が回ってないというか……」
 いつもハキハキ喋る凛にしては、ずいぶんと歯切れの悪い受け答えだった。
 それゆえ僕は何か別の理由があるのだろうと察知した。
 多分、僕が引きこもりになってしまったことに対して、凛は少なからず嫌悪感を抱いている。
 それもそうだ、陽菜世先輩が死んでから……いや、死ぬ前、文化祭が終わってから、僕は自分のことばかりだったから。身勝手なやつがどの面下げて来たんだよと思われていても何ら不思議ではない。
 こういうとき、無理に会うのはやめたほうがいい。
「……わかった。突然お邪魔しちゃってごめん、また時間のあるときゆっくり話そう」
「うん……ごめん」
 凛はインターホンの通話を切った。
 とりあえず今日のところは帰ろう。明日また出直すとして、何か菓子折りでも買っていけば追い返しにくいだろうか。そんなことを考えつつ、僕はお寺の門をくぐった。
「……凛のこと、怒らせちゃったかなあ」
 帰り道、僕はヒナに話しかけるつもりでつぶやいた。
 しかし、なぜかヒナの声がしない。
「あれ? 先輩? 返事してくださいよ」
 僕はスマートフォンの画面を開く。いつも出かけるときはスマートフォンの中にヒナが待機しているのだけれども、いつの間にか彼女はいなくなっていた。
 電池切れでも起こしてしまったのかと思ったが、どうやら別の事情があるらしい。
 その証拠に、SMSのアプリに通知バッジがひとつついている。 
「……なんだこのメッセージ」
 アプリを開くと、そこにはヒナからのメッセージが一つ。
『ちょっと凛のスマホに乗り移るから、また明日迎えに来て』
 一瞬驚いたが、どうやらヒナはそういうことができるらしい。
 おそらく、先程インターホンを押したときに凛のスマートフォンと物理的に近くなったからだと僕は考えた。どこにでも乗り移れるとなんて便利なものだなと、僕は肩をすくめる。
 まあでも、とてもヒナっぽいやり方だなと思った。それに、また明日凛の家に行く理由もできた。
 とにかく今日は家に帰って、いい曲でも作って準備しようかと思う。