年が明ける頃には陽菜世先輩の葬儀など諸々のことが終わり、日常は平穏を取り戻していた。
その一方で僕は、陽菜世先輩を失ったことで心の中にあいてしまった穴をどうすることも出来ないまま、自室にこもりきってしまった。
「……晴彦、晩ごはんここに置いておくからね」
「……うん、ありがとう」
ドアの外からは食事を持ってきた母親の声がする。
とても心配しているようだった。
僕は出来の良い子ではないけれど、体を壊すことなく、惰性とはいえ毎日学校には行っていたのだ。
それが陽菜世先輩の死を機にピタッと止まってしまった。親として心配しないわけがない。
そういう優しい母親だとわかっているからこそ、僕も辛かった。
多分、元気であることが僕の唯一の取り柄だっただけに、結構幻滅していると思う。
早いとこ吹っ切れて社会復帰したい。でもこの身体は、部屋を出て学校にいけという命令を聞いてくれないみたいだった。
『やあどうも! 東海チャンネルのかつやと――』
『いばゆーと――』
『丸眼鏡と――』
『ヘイヘイヘイ! 俺がしょうだぜ! セイイェー!』
PCをつけて、惰性でYouTubeチャンネルを流している。
能動的に本や映像を見る気力は起きず、ただアルゴリズムに従って動画が自動再生されるのを右から左へ受け流すだけ。
生産的な行動など出来なかった。
精神的に未熟だった僕が陽菜世先輩の死を受け入れるには、少々荷が重かったようだ。
まだ僕の心は重苦しいままで、気がつくと頭の中で陽菜世先輩の影を追っている。何かの拍子に彼女が自室の窓から飛び込んで来るのではないかとか、実は別の人に転生して僕の眼の前に現れるのではないかとか、そんな非現実的な妄想ばかり僕の脳内には浮かんでいた。
ふと、僕は何かを忘れていたことに気がついた。
YouTubeを流し続けるのも飽きたところでPCを触っていたら、とある音声データの存在に気がついたのだ。
「……これ、文化祭前に録音したデータ」
陽菜世先輩の声が失われてしまうという危機感だけで録った、断片的な音声データだった。
五十音や濁音、半濁音、拗音を含んだ音が全部残されている。
このデータを切り貼り編集して、まるでボーカロイドのように歌わせることができれば、陽菜世先輩の歌は永遠に残り続ける。
そんな途方もない冗談みたいな考えだけで収録したデータ。今思うと、よく陽菜世先輩もこの提案に乗ってくれたなと思う。
音声データを一つ一つ聴いてみる。『あ』『い』『う』『え』『お』という透き通った声が、PCのスピーカーから放たれた。
その瞬間、まるで悪魔のささやきのような考えが僕の脳内をよぎった。
僕の曲を陽菜世先輩の声に歌わせて、本当に彼女をボーカロイドのように仕立て上げれば、永遠に自分の側で歌ってくれるのではないか。
行動を止めるブレーキは今の僕にはなかった。
僕は自分の曲のメロディに合わせて、陽菜世先輩の音声データを当てはめて切り貼りしだしたのだ。
途方もない作業量だ。普通のボーカロイドですら一曲仕上げるのはなかなか骨が折れるのに、ソフトウェアもなく、ただの音声データのつなぎ合わせとなれば膨大な時間がかかる。
しかしそれでも今の僕には持て余すほどの時間があった。行き場のない気持ちと、心のなかにぽっかりあいた穴をどうにかするには、この作業がちょうどよかったのだ。
時間を忘れて陽菜世先輩を歌わせることに没頭した。さらにはボーカロイドらしく、自分なりにキャラクターをデザインして立ち絵まで作ってみた。
こう見えて僕はイラストを描くことにもハマっていた時期があり、素人に毛が生えた程度だけれどもキャラクターデザインのマネごとは出来た。
陽菜世先輩に似せた大きな瞳と長い髪。背は高くないがスラッとした流線型のような体躯。
アニメキャラっぽく、髪の色は青っぽい銀髪にしてみたり、衣服はちょっと近未来感のある学校の制服のようにしてみたり、イラストを描いているうちに陽菜世先輩をもとにした僕だけのボーカロイド『ヒナ』の原型が固まってきた。
そんな『ヒナ』に傾倒する日々が二ヶ月ほど続いただろうか。
この作業に没頭しているうちは、嫌なことをすべて忘れられていて楽しかった。
ただ、それも長くは続かない。
自前の曲を十曲ほど『ヒナ』に歌わせて、同時並行していたキャラクターデザインが完成したころになると、僕の中の熱量が落ち着いて、急に我に返ってしまった。
「……こんなことをしても、先輩は帰ってくるわけじゃないのにな」
疲れが溜まっていたこともあり、僕はそのまま目を閉じて眠りについた。
※※※
『ハルー! 起きろー!』
僕のPCから目覚ましアラーム代わりに聞こえたのは、久しぶりに聞く声だった。
しかし僕はなにかおかしいことに気がつく。なぜならその声は、まごうことなき陽菜世先輩の声だから。
五十音の音声データは収録したけれども、こんな感じのモーニングコールをするようなセリフは陽菜世先輩にお願いしていない。
寝ぼけているのかと思った。なんやかんや作業に没頭していて睡眠も適当にとっていたので、ついに脳が疲労して幻覚でも映し出したのかとも考えてしまった。
しかし、びっくりするほど僕の身体も頭も正常だった。
幻覚でも脳疲労でもなく、陽菜世先輩がPCの中にいたのだ。
「……せ、せんぱい? い、いや……ヒナ?」
『おはよーハル。やーっと起きた、もう十時だよ? 学校大丈夫?』
「えっ、い、いや……そんなことより、本当に先輩なんですか……!?」
僕は目を疑った。
どう聞いても陽菜世先輩の声と口調で話す女の子がPCの画面に映っている。その姿は、僕がキャラクターデザインした、『ヒナ』そのもの。
まるで本当にバーチャルアイドルか何かになったかのように、陽菜世先輩は『ヒナ』としてPCの中で動いている。
『もちろん、私の中身は正真正銘の相模陽菜世だよ』
「ど、どうしてそんな姿で……蘇ってきたんですか……?」
「うーん、理屈はわかんないけど、なんか私の魂が収まりそうないい感じの器があったからかな」
『ヒナのキャラクターデザインがですか?』
「そんな感じ。……ってか、このキャラクターの名前、ヒナっていうの……? さすがにハルったら私のこと意識しすぎじゃない?」
画面の中のヒナは自分で自分の全身を見る。
陽菜世先輩のことを想って描いたキャラクターなので、まじまじと見られるのは結構恥ずかしい。
「あ、あんまり見ないでください……」
『ふーん、これがハルの趣味かぁ。衣装は制服っぽくて可愛いけど、まさか体型まで生前の私にそっくりだとは……』
ヒナはジト目でこちらを睨んでくる。
花火大会の日に見てしまった先輩の姿が忘れられず、時間もあったので無駄に再現度が高くなってしまっていた。
『せめてもうちょいグラマラスでも良かったのに……。せっかくのオリジナルキャラクターなんだからちょっとぐらい盛らないともったいないじゃん』
「ご、ごめんなさい、陽菜世先輩のことが忘れられなくて……」
『……スケベ』
画面の向こうのヒナは、ちょっとだけ顔を明るくする。4Kディスプレイということで、そのちょっとした頬の色の変化もきっちりわかってしまった。
『まあでも、ハルのことがちょっと心配だったから、こんな形とはいえ会えて良かったかも』
「ぼ、僕も先輩に会えて……とっても嬉しいです」
『それで、ハルは私が死んでからどうしてた? ちゃんと学校に行って、紡や凛とバンド続けてる?』
「い、いや……それが……」
正直なところ、今の僕の状態は先輩に顔向けできるようなものではない。
説明するのも情けなくなってしまって、僕は口をつぐんでしまった。
『はぁ……その様子だと、全然ダメっぽいね』
「す、すみません……」
『まあ、平日に昼間まで自分の部屋で惰眠を貪っている時点で、なんとなくわかっていたけど』
痛いところを突かれて僕はヒナから視線をそらす。
せっかく陽菜世先輩のおかげで僕は変わることができたと思っていたけれど、いなくなったら元通りだ。まるで激ヤセに成功したダイエットで達成した途端にリバウンドしていくかのよう。
『それに髪もヒゲもボサボサだし、顔色もひどいよ? 一体どのくらい部屋に引きこもってたの?』
「ええっと……二ヶ月とか、そのくらい……」
『マジで言ってる!? ってか今日三月九日だよね? ハル、留年しちゃうんじゃない?』
「それはどうやらギリギリセーフらしいです。テストの成績は悪くないみたいなので……」
画面の向こうのヒナはため息をつく。
『ハル、とにかく早いとこ社会復帰しよう。四月から新学期になるタイミングで学校に行き始めれば、ブランクあってもなんとかなるでしょ?』
「それはそうかもですけど……」
『そんなに引きこもってたら、ハルのお母さんも心配してるでしょ? 早いとこ部屋を出て外の環境に慣れようよ』
もっともらしくヒナは僕を急かしてくる。
確かにどう考えてもそうするのが最善手だということはわかっている。
でも、わかっているのに動けないまま二ヶ月経ってしまったのだ。長い時の流れは行動する理由と勇気を風化させて、周囲の人はどんどん諦めの気持ちが大きくなる。
今の僕が行動して部屋の外に出るのは、鋼鉄製の大きな扉を押し開けるようなもの。
それくらいの原動力が、今の僕には必要だった。
『なにも全部いっぺんにやる必要はないよ。一つずつでいいんだから』
「一つずつ……ですか……?」
『うん。私がハルと出会って紡や凛とコミュニケーションを取りなさいって言ったときも、中身を紐解いていけば一つ一つは小さな行動から始まったわけじゃん』
「確かに……言われればそうですね」
『だからちょっとずつでいいんだよ。私が死んで、ハルには大きな悲しみを背負わせちゃったのは事実。でも、それは克服していかないと』
「もしかして先輩、僕が社会復帰できそうにないから来てくれたんですか?」
ヒナがこのタイミングで現れたということになると、そう考えるのが自然だ。
『うーん、多分違うと思う。だって私、ヒナに魂が乗るまでハルが引きこもっていることを知らなかったわけだし』
「そうなんですか……」
『それよりももっと現世でやりたかったことがあるんじゃないかな? よくわかんないけど』
「じゃあそれを達成したら、先輩は……」
僕はつい考えをマイナス方向に巡らせてしまう。
死んでしまった陽菜世先輩の魂がバーチャル世界とはいえヒナに宿った。
このままヒナの目的を達成せずに引きこもっていれば、永遠に陽菜世先輩が消えることはない。
だからずっと陽菜世先輩と一緒にいたいのであれば、何も行動しないほうがいいのだ。
『あっ、ハルが悪いこと考えてるのわかっちゃった。言っておくけど、ずっと引きこもって私と過ごそうっていうのはダメだからね』
「や、やっぱりそうですよね……先輩はそういう人ですもん」
『もしそんなことしたら、私ハルと口聞くの辞めるから』
「それは困ります……」
『でしょ? だからちょっとずつ社会復帰して、とりあえず学校に通うことを目指そ?』
画面の向こうで、ヒナはにこりと笑みを見せる。その表情は生前僕の背中を何度も押してくれた陽菜世先輩そのものだった。我ながら良いキャラデザインをしたと思う。
「わ、わかりました……」
『よーし、じゃあまずは部屋の扉と窓を開けて換気しよう』
「そ、そんなところからですか……?」
『だってこの部屋の空気、なんだか淀んでいる気がするもん』
「バーチャルなのにそんなことわかるんですか……」
『うん。PCについてる冷却ファンの効きが悪い気がするんだよね。ついでに掃除もしよう』
「想定外の感覚器官だった」
とりあえず僕は騙されたと思って部屋の扉と窓を開ける。
外から入ってきた新鮮な空気はまだ冬の匂いがして、ぬくぬくと暖かかった部屋の気温が一気に下がった。
それでもなぜか僕は窓を閉める気がしなかった。久しぶりに取り込んだ外気が思いの外心地よかったのだ。
『うんうん、いいねいいね。CPUの温度も下がって快適だよ』
「先輩、そんなことも感じ取れるんですね」
『もちろん。このパソコンだけでなく、近くにあるスマホとかタブレット端末にも乗り移れるよ。――ほら』
ヒナがそう言うと4Kモニタから姿が消え、机の上で充電器に挿しっぱなしになっていた僕のスマホの画面が光る。
それを覗き込むと、画面の中にはヒナの姿があった。
『こんな感じ。なんか、バーチャル世界ってなかなか広くて楽しいね。スマホの中に入れば外にも出られるし』
「す、すごいですね……一体どうなっているんですか?」
『それは私にもわかんないや。まあ、そういうものだって思うようにしておいてよ』
肝心なところが適当だなと、生前の陽菜世先輩を思ひ出して僕はくすっと笑った。
『あっ、やっと笑った』
「えっ……あっ、全然意識してなかった」
『ハルは元々表情が硬いからねー。もうちょい意識して笑顔を出すようにしてみたら?』
「こ、こうですか?」
僕は無理やり表情筋に力を入れる。そのぎこちない笑顔をみて、ヒナのほうが笑い出す。
『ぷっ……それはいくらなんでも面白すぎでしょ。ハル、ウケ狙いしてる?』
「し、してないです……」
『とりあえず、自然に笑顔が出てくるようになれば大丈夫だよ。笑顔は一番最初に相手へ伝わる情報だからね、おろそかにしちゃダメだよ』
「はい……」
ここ二ヶ月の引きこもり生活で硬くなってしまった表情筋をほぐしながら、僕は部屋の掃除をすることにした。
その一方で僕は、陽菜世先輩を失ったことで心の中にあいてしまった穴をどうすることも出来ないまま、自室にこもりきってしまった。
「……晴彦、晩ごはんここに置いておくからね」
「……うん、ありがとう」
ドアの外からは食事を持ってきた母親の声がする。
とても心配しているようだった。
僕は出来の良い子ではないけれど、体を壊すことなく、惰性とはいえ毎日学校には行っていたのだ。
それが陽菜世先輩の死を機にピタッと止まってしまった。親として心配しないわけがない。
そういう優しい母親だとわかっているからこそ、僕も辛かった。
多分、元気であることが僕の唯一の取り柄だっただけに、結構幻滅していると思う。
早いとこ吹っ切れて社会復帰したい。でもこの身体は、部屋を出て学校にいけという命令を聞いてくれないみたいだった。
『やあどうも! 東海チャンネルのかつやと――』
『いばゆーと――』
『丸眼鏡と――』
『ヘイヘイヘイ! 俺がしょうだぜ! セイイェー!』
PCをつけて、惰性でYouTubeチャンネルを流している。
能動的に本や映像を見る気力は起きず、ただアルゴリズムに従って動画が自動再生されるのを右から左へ受け流すだけ。
生産的な行動など出来なかった。
精神的に未熟だった僕が陽菜世先輩の死を受け入れるには、少々荷が重かったようだ。
まだ僕の心は重苦しいままで、気がつくと頭の中で陽菜世先輩の影を追っている。何かの拍子に彼女が自室の窓から飛び込んで来るのではないかとか、実は別の人に転生して僕の眼の前に現れるのではないかとか、そんな非現実的な妄想ばかり僕の脳内には浮かんでいた。
ふと、僕は何かを忘れていたことに気がついた。
YouTubeを流し続けるのも飽きたところでPCを触っていたら、とある音声データの存在に気がついたのだ。
「……これ、文化祭前に録音したデータ」
陽菜世先輩の声が失われてしまうという危機感だけで録った、断片的な音声データだった。
五十音や濁音、半濁音、拗音を含んだ音が全部残されている。
このデータを切り貼り編集して、まるでボーカロイドのように歌わせることができれば、陽菜世先輩の歌は永遠に残り続ける。
そんな途方もない冗談みたいな考えだけで収録したデータ。今思うと、よく陽菜世先輩もこの提案に乗ってくれたなと思う。
音声データを一つ一つ聴いてみる。『あ』『い』『う』『え』『お』という透き通った声が、PCのスピーカーから放たれた。
その瞬間、まるで悪魔のささやきのような考えが僕の脳内をよぎった。
僕の曲を陽菜世先輩の声に歌わせて、本当に彼女をボーカロイドのように仕立て上げれば、永遠に自分の側で歌ってくれるのではないか。
行動を止めるブレーキは今の僕にはなかった。
僕は自分の曲のメロディに合わせて、陽菜世先輩の音声データを当てはめて切り貼りしだしたのだ。
途方もない作業量だ。普通のボーカロイドですら一曲仕上げるのはなかなか骨が折れるのに、ソフトウェアもなく、ただの音声データのつなぎ合わせとなれば膨大な時間がかかる。
しかしそれでも今の僕には持て余すほどの時間があった。行き場のない気持ちと、心のなかにぽっかりあいた穴をどうにかするには、この作業がちょうどよかったのだ。
時間を忘れて陽菜世先輩を歌わせることに没頭した。さらにはボーカロイドらしく、自分なりにキャラクターをデザインして立ち絵まで作ってみた。
こう見えて僕はイラストを描くことにもハマっていた時期があり、素人に毛が生えた程度だけれどもキャラクターデザインのマネごとは出来た。
陽菜世先輩に似せた大きな瞳と長い髪。背は高くないがスラッとした流線型のような体躯。
アニメキャラっぽく、髪の色は青っぽい銀髪にしてみたり、衣服はちょっと近未来感のある学校の制服のようにしてみたり、イラストを描いているうちに陽菜世先輩をもとにした僕だけのボーカロイド『ヒナ』の原型が固まってきた。
そんな『ヒナ』に傾倒する日々が二ヶ月ほど続いただろうか。
この作業に没頭しているうちは、嫌なことをすべて忘れられていて楽しかった。
ただ、それも長くは続かない。
自前の曲を十曲ほど『ヒナ』に歌わせて、同時並行していたキャラクターデザインが完成したころになると、僕の中の熱量が落ち着いて、急に我に返ってしまった。
「……こんなことをしても、先輩は帰ってくるわけじゃないのにな」
疲れが溜まっていたこともあり、僕はそのまま目を閉じて眠りについた。
※※※
『ハルー! 起きろー!』
僕のPCから目覚ましアラーム代わりに聞こえたのは、久しぶりに聞く声だった。
しかし僕はなにかおかしいことに気がつく。なぜならその声は、まごうことなき陽菜世先輩の声だから。
五十音の音声データは収録したけれども、こんな感じのモーニングコールをするようなセリフは陽菜世先輩にお願いしていない。
寝ぼけているのかと思った。なんやかんや作業に没頭していて睡眠も適当にとっていたので、ついに脳が疲労して幻覚でも映し出したのかとも考えてしまった。
しかし、びっくりするほど僕の身体も頭も正常だった。
幻覚でも脳疲労でもなく、陽菜世先輩がPCの中にいたのだ。
「……せ、せんぱい? い、いや……ヒナ?」
『おはよーハル。やーっと起きた、もう十時だよ? 学校大丈夫?』
「えっ、い、いや……そんなことより、本当に先輩なんですか……!?」
僕は目を疑った。
どう聞いても陽菜世先輩の声と口調で話す女の子がPCの画面に映っている。その姿は、僕がキャラクターデザインした、『ヒナ』そのもの。
まるで本当にバーチャルアイドルか何かになったかのように、陽菜世先輩は『ヒナ』としてPCの中で動いている。
『もちろん、私の中身は正真正銘の相模陽菜世だよ』
「ど、どうしてそんな姿で……蘇ってきたんですか……?」
「うーん、理屈はわかんないけど、なんか私の魂が収まりそうないい感じの器があったからかな」
『ヒナのキャラクターデザインがですか?』
「そんな感じ。……ってか、このキャラクターの名前、ヒナっていうの……? さすがにハルったら私のこと意識しすぎじゃない?」
画面の中のヒナは自分で自分の全身を見る。
陽菜世先輩のことを想って描いたキャラクターなので、まじまじと見られるのは結構恥ずかしい。
「あ、あんまり見ないでください……」
『ふーん、これがハルの趣味かぁ。衣装は制服っぽくて可愛いけど、まさか体型まで生前の私にそっくりだとは……』
ヒナはジト目でこちらを睨んでくる。
花火大会の日に見てしまった先輩の姿が忘れられず、時間もあったので無駄に再現度が高くなってしまっていた。
『せめてもうちょいグラマラスでも良かったのに……。せっかくのオリジナルキャラクターなんだからちょっとぐらい盛らないともったいないじゃん』
「ご、ごめんなさい、陽菜世先輩のことが忘れられなくて……」
『……スケベ』
画面の向こうのヒナは、ちょっとだけ顔を明るくする。4Kディスプレイということで、そのちょっとした頬の色の変化もきっちりわかってしまった。
『まあでも、ハルのことがちょっと心配だったから、こんな形とはいえ会えて良かったかも』
「ぼ、僕も先輩に会えて……とっても嬉しいです」
『それで、ハルは私が死んでからどうしてた? ちゃんと学校に行って、紡や凛とバンド続けてる?』
「い、いや……それが……」
正直なところ、今の僕の状態は先輩に顔向けできるようなものではない。
説明するのも情けなくなってしまって、僕は口をつぐんでしまった。
『はぁ……その様子だと、全然ダメっぽいね』
「す、すみません……」
『まあ、平日に昼間まで自分の部屋で惰眠を貪っている時点で、なんとなくわかっていたけど』
痛いところを突かれて僕はヒナから視線をそらす。
せっかく陽菜世先輩のおかげで僕は変わることができたと思っていたけれど、いなくなったら元通りだ。まるで激ヤセに成功したダイエットで達成した途端にリバウンドしていくかのよう。
『それに髪もヒゲもボサボサだし、顔色もひどいよ? 一体どのくらい部屋に引きこもってたの?』
「ええっと……二ヶ月とか、そのくらい……」
『マジで言ってる!? ってか今日三月九日だよね? ハル、留年しちゃうんじゃない?』
「それはどうやらギリギリセーフらしいです。テストの成績は悪くないみたいなので……」
画面の向こうのヒナはため息をつく。
『ハル、とにかく早いとこ社会復帰しよう。四月から新学期になるタイミングで学校に行き始めれば、ブランクあってもなんとかなるでしょ?』
「それはそうかもですけど……」
『そんなに引きこもってたら、ハルのお母さんも心配してるでしょ? 早いとこ部屋を出て外の環境に慣れようよ』
もっともらしくヒナは僕を急かしてくる。
確かにどう考えてもそうするのが最善手だということはわかっている。
でも、わかっているのに動けないまま二ヶ月経ってしまったのだ。長い時の流れは行動する理由と勇気を風化させて、周囲の人はどんどん諦めの気持ちが大きくなる。
今の僕が行動して部屋の外に出るのは、鋼鉄製の大きな扉を押し開けるようなもの。
それくらいの原動力が、今の僕には必要だった。
『なにも全部いっぺんにやる必要はないよ。一つずつでいいんだから』
「一つずつ……ですか……?」
『うん。私がハルと出会って紡や凛とコミュニケーションを取りなさいって言ったときも、中身を紐解いていけば一つ一つは小さな行動から始まったわけじゃん』
「確かに……言われればそうですね」
『だからちょっとずつでいいんだよ。私が死んで、ハルには大きな悲しみを背負わせちゃったのは事実。でも、それは克服していかないと』
「もしかして先輩、僕が社会復帰できそうにないから来てくれたんですか?」
ヒナがこのタイミングで現れたということになると、そう考えるのが自然だ。
『うーん、多分違うと思う。だって私、ヒナに魂が乗るまでハルが引きこもっていることを知らなかったわけだし』
「そうなんですか……」
『それよりももっと現世でやりたかったことがあるんじゃないかな? よくわかんないけど』
「じゃあそれを達成したら、先輩は……」
僕はつい考えをマイナス方向に巡らせてしまう。
死んでしまった陽菜世先輩の魂がバーチャル世界とはいえヒナに宿った。
このままヒナの目的を達成せずに引きこもっていれば、永遠に陽菜世先輩が消えることはない。
だからずっと陽菜世先輩と一緒にいたいのであれば、何も行動しないほうがいいのだ。
『あっ、ハルが悪いこと考えてるのわかっちゃった。言っておくけど、ずっと引きこもって私と過ごそうっていうのはダメだからね』
「や、やっぱりそうですよね……先輩はそういう人ですもん」
『もしそんなことしたら、私ハルと口聞くの辞めるから』
「それは困ります……」
『でしょ? だからちょっとずつ社会復帰して、とりあえず学校に通うことを目指そ?』
画面の向こうで、ヒナはにこりと笑みを見せる。その表情は生前僕の背中を何度も押してくれた陽菜世先輩そのものだった。我ながら良いキャラデザインをしたと思う。
「わ、わかりました……」
『よーし、じゃあまずは部屋の扉と窓を開けて換気しよう』
「そ、そんなところからですか……?」
『だってこの部屋の空気、なんだか淀んでいる気がするもん』
「バーチャルなのにそんなことわかるんですか……」
『うん。PCについてる冷却ファンの効きが悪い気がするんだよね。ついでに掃除もしよう』
「想定外の感覚器官だった」
とりあえず僕は騙されたと思って部屋の扉と窓を開ける。
外から入ってきた新鮮な空気はまだ冬の匂いがして、ぬくぬくと暖かかった部屋の気温が一気に下がった。
それでもなぜか僕は窓を閉める気がしなかった。久しぶりに取り込んだ外気が思いの外心地よかったのだ。
『うんうん、いいねいいね。CPUの温度も下がって快適だよ』
「先輩、そんなことも感じ取れるんですね」
『もちろん。このパソコンだけでなく、近くにあるスマホとかタブレット端末にも乗り移れるよ。――ほら』
ヒナがそう言うと4Kモニタから姿が消え、机の上で充電器に挿しっぱなしになっていた僕のスマホの画面が光る。
それを覗き込むと、画面の中にはヒナの姿があった。
『こんな感じ。なんか、バーチャル世界ってなかなか広くて楽しいね。スマホの中に入れば外にも出られるし』
「す、すごいですね……一体どうなっているんですか?」
『それは私にもわかんないや。まあ、そういうものだって思うようにしておいてよ』
肝心なところが適当だなと、生前の陽菜世先輩を思ひ出して僕はくすっと笑った。
『あっ、やっと笑った』
「えっ……あっ、全然意識してなかった」
『ハルは元々表情が硬いからねー。もうちょい意識して笑顔を出すようにしてみたら?』
「こ、こうですか?」
僕は無理やり表情筋に力を入れる。そのぎこちない笑顔をみて、ヒナのほうが笑い出す。
『ぷっ……それはいくらなんでも面白すぎでしょ。ハル、ウケ狙いしてる?』
「し、してないです……」
『とりあえず、自然に笑顔が出てくるようになれば大丈夫だよ。笑顔は一番最初に相手へ伝わる情報だからね、おろそかにしちゃダメだよ』
「はい……」
ここ二ヶ月の引きこもり生活で硬くなってしまった表情筋をほぐしながら、僕は部屋の掃除をすることにした。