翌日。俺は午前中だけ大学の授業を受けると、チビ用の合鍵を作りに行った。

 できあがりを待つあいだ入った雑貨屋で、ふと目についたのは、小さなピンクの鈴がついたウサギのキーホルダー。黒目がちの大きな瞳と小さな口や鼻が、何となくチビを彷彿させる。しばらく見つめてから、俺はそれを手にとってレジへと持って行った。

 できあがった鍵を受け取って家へと帰ると、既に帰宅していたチビがドアの前に座り込んでいた。

 時計を見ると、時刻は3時前。
 
 言ってたより早いじゃねーか。心の中で呟くと、チビの前にしゃがんでデニムのポケットに手を突っ込む。

「これ、鍵」

 作ってきたばかりの家の鍵を取り出して目の前で揺らすと、チビが顔を上げた。それには、さっき雑貨屋で買ったウサギのキーホルダーがつけてある。目の前で揺れるウサギとピンク色の鈴に気付いたチビは、嬉しそうに頬を緩めた。

「ありがとう」

 チビが小さな手の平で、キーホルダー付きの鍵を大事そうに握り締める。そんな宝物みたいに扱わなくても……。

「落とすなよ」

 俺が素っ気なくそう言うと、チビが小さく頷いた。

 家に入ると、チビはすぐにランドセルから取り出した宿題を広げた。真面目なチビを横目に見ながら、俺はベッドにごろんと横になる。

 窓の外に視線を向けると、さっきまで晴れて空が少し曇り始めていた。

 今日の夕方は、和央を保育園に迎えに行くことになっている。そのときに雨が降ったらやっかいだ。

 外の様子を気にしながらスマホを触っているうちに、すぐに和央を迎えに行く時間になる。出かけようとしたとき、ふとチビの視線を感じた。宿題を終えたのか、チビがローテーブルの傍で背筋を伸ばして正座し、俺の様子を窺っている。一人で出かけようとしていた俺は、気まぐれにチビを振り返った。

「今から弟迎えに行くんだけど、お前も行く?」

 訊ねると、チビがまん丸な目をさらに一回りほど大きく見開く。それから、コクンと首を縦に振った。

「じゃぁ、早く靴履け」

 俺が急かすと、チビは慌てて走ってきて、自分のスニーカーに足を入れた。それを待ってやってから外に出る。

 アパートの共用廊下から身を乗り出して空を見上げると、夜に向かいつつある空は分厚い雲に覆われていた。それで、一応傘を持っていくことにする。

 和央の預けられている保育園は、俺の家と実家のちょうど中間地点にあった。

 一人暮らしをしている俺のアパートは、実家からさほど離れてはいない。大学も、実家からでも通える距離にある。

 だから、「大学に入ったら一人暮らしをしたい」と俺が言ったとき、その必要性の有無を親父にしつこく問われた。経済的な面を考えたら、当然だと思う。

 けれど、俺は実家で親父や母親に気を遣いながら生活することに少し疲れていた。

 父の再婚相手として8年前にやって来た義理の母親は、おだやかな優しい人だ。弟の和央が生まれる前も、生まれてからも、俺を実の子と分け隔てなく接してくれる。そのことをありがたく思っている。だが、思春期を迎える頃にやって来た義母を何の戸惑いもなく、素直に、完全に「母」として受け入れることは少し難しかった。  

 今まで、義理の母に反抗したことは一度もない。彼女の前で俺は、ずっと「いい息子」で「いい兄」という顔を崩さないままでいる。大学になっても社会人になっても、この先ずっと実家で「いい自分」を演じ続けていくことになるのかと考えると──、自分がひどく消耗されていく気がした。

 本音は全部言わなかったけれど、バイトして家賃はいくらか払うということを条件に、俺は今住んでいる河原近くのアパートで一人暮らしさせてもらえることになった。

 アパートの近所の河原には、春から夏にかけて河岸にクローバーが広がり、無数の小さな白い花が咲く。その花は、俺が8歳のときに出て行った《あの人》の輪郭をぼんやりとだが思い出させてくれる唯一のものだった。



 保育園に迎えに行くと、和央(かずひさ)がすぐに教室から飛び出してきた。

「にーちゃん!」

 俺が迎えに行くことを母親から聞かされていたのだろう。和央はにこにこしながら、俺の腰にぎゅっとしがみついてくる。子どもの相手は面倒くさいけど、弟のこういうところは素直に可愛い。俺を見つけてすぐに飛び出してきたのか、和央の足元はまだ上履きのままだ。

「カズ。お前、ちゃんと靴に履き替えてから出てこい」

 さらさらの髪をくしゃりと撫でてやると、和央は俺を見上げて大きく頷いた。

「わかった。せんせいにもさよならしてくる」
「そうだな」

 今日の和央は聞き分けがいい。ふっと唇を緩ませて笑うと、和央がきょとんとした顔で俺の斜め後ろに立っているチビに視線を向けた。

「にーちゃん。あれ、だれ?」

 和央に指を指され無遠慮な目でじろじろと見られたチビは、戸惑ったように俺に視線を投げかけてくる。

 どう答えるか、返答に迷った。チビは親父の子だから、和央にとってはひとつ上の姉ってことになる。それを和央に言ってしまうと、このことがまだチビの存在を知らない実家の母親の耳に入ってしまうかもしれない。

 俺はしばらく迷ったあと、和央に言った。

「こいつは、俺の友達の親戚」
「トモダチのシンセキ?」

 和央がよくわからない、というふうに首を傾げる。

「今日は一緒に兄ちゃん家に帰るけど、あんまり気にすんな」

 説明するのも面倒くさくて、適当に誤魔化す。すると和央は、わかったようなわからないような顔をして「ふぅん」と頷いた。

「それよりカズ。お前はさっさと靴を履き替えて先生にさよならして来い」
「はぁい」

 和央は素直にそう返事をすると、トコトコと走って教室に戻っていく。和央を引き取って保育園を出たときには、分厚い雲に覆われた空から今にも雨粒が落ちてきそうだった。

「ちょっと急ぐぞ」

 空模様を気にして俺が走り出そうとすると、チビが小走りでついてくる。でも和央がついてくる気配がなかった。振り返ってみると、保育園を出て少し歩いたところに作られている公共の花壇の前にじっとしゃがみ込んでいる。

「カズ、何やってんだよ」

 苛立った声で呼びかけたけれど、和央はマイペースで、俺が怒っている気配を少しも感じ取っていないようだった。

「にーちゃん、ちょっときてー」

 そればかりか、無邪気な声で俺に手招きをしてくる。

「何だよ。雨が降りそうだから急げって」

 もう一度呼びかけたが、和央は花壇の前に座り込んだまま動きそうもなかった。俺は小さく舌打ちすると、和央のところまで戻って腰を屈める。

「何?」

 隣で腰を落としてやると、和央が嬉しそうに俺を見上げた。そして、花壇に咲いている花の根元を指差してにこっとする。

「にーちゃん、アリ!」
「は?」

 蟻ごときでわざわざ俺を引き止めるなよ。

 眉を顰めて和央の指の先を見つめると、そこには確かに一匹の蟻がいた。多少身体が大きいけど、いたって普通の蟻だ。俺は真剣な顔をして「普通の蟻」を見ている和央の手を引っ張ると、強制的に立ち上がらせた。

「蟻はどうでもいいから。行くぞ」
「えー、でも……」

 俺に引っ張られた和央が、花壇を見つめながら少し名残惜しそうな顔をする。

「そんなん、どこにでもいるだろ」

 そんなものに気を取られて雨に降られたら、それこそバカみたいだ。俺はため息を吐くと、和央の手を引っ張って早足で歩く。それから、立ち止まってこっちを見ているチビにも声をかけた。

「チビも急ぐぞ」

 俺が声をかけると、和央が目を大きく見開いてチビのことをじっと見た。

「ねぇ、にーちゃん。あのこのなまえ、《チビ》なの?」
「いや、違うけど……」
「じゃぁ、ほんとのなまえは?」

 和央が目をキラキラとさせながら、訊ねてくる。

「ほんとの名前は……」

 一瞬考えて、俺は新月の名前を思い出した。

「朔だ」
「サクダ?」

 和央が俺の言葉を復唱して、小首を傾げる。

「違う。朔、だ」
「サク、だ?」

 わざと言ってんのか? こいつ。

 思わず苛立ったが、俺を見上げる和央の目には少しの曇りも悪戯心も見られない。

「ねぇ。サク、だ、はなんさい?」

 俺が何も言わずにいると、和央がチビに直接話しかけ始めた。

「サク、だ、じゃない。朔」
「サク……」

 それでようやく、和央はチビの名前を理解したようだった。

「サクはなにぐみさんなの? オレはね、さくらぐみなんだよ」

 無邪気に笑う和央を黒めがちの目でじっと見つめたあと、チビは和央からすっと視線をそらした。

「朔は、1年生」
「ふぅん」

 和央はしばらくチビをじっと見ていたけれど、そのうち興味をなくしたのか、俺の手を離して走り出した。

「おい、走んな!」

 走っていく和央の背中に叫ぶが、俺の話など聞くはずもない。歩道の横の低い塀によじ登ると、バランスを取るように両腕を広げてふらふらと歩いていく。

「にーちゃん。みて、みて!」

 両腕を広げてふらふらとしているくせに、和央は「すごいだろ」とでも言いたげに俺を見てくる。

「あぁ、すげーな。落ちんなよ」
「うん」

 適当に声をかけてやると、和央が嬉しそうに笑った。それからも和央は、俺の周りをちょろちょろと走り回って落ち着きがない。

「にーちゃん、みて!」

 和央がそう言う度に、俺はほんの少し足を止めないといけなくて。けれど、和央が「みて!」と言うもののほとんどが、俺にとってはどうでもよくて。だからとにかく、ものすごく面倒くさかった。

 和央が「みて!」を連発する間、俺の隣を歩くチビは一言も言葉を発さずに大人しくしていた。俺につられて和央を見ることはあったけれど、特に何の反応も示さない。

 可愛くないガキだ。

 アパートに着くと、ちょうどそのタイミングで雨が降り始めた。最初は小降りだったのが、すぐに激しく地面を打ち付けるほどの強い雨に変わる。俺達はその音を聞きながら、狭い部屋の中でそれぞれに好きな場所を陣取った。

 俺はスマホを見ながらベッドの上へ。チビは本を読むためにローテーブルの前へ。そして和央は、少しもじっとせずに部屋の中をちょろちょろとしている。

「にーちゃん、みて!」

 和央が、保育園の鞄の中から何かを取り出しては自慢げに俺に見せてくる。それはよくわからない絵だったり、何を作ったのかよくわからない折り紙だったりした。

 和央がそれらをひとつずつ見せながら解説してくれるけど、俺がちょっとでもどこかに気をそらすと「にーちゃん! みて!!」と不満そうな声で主張してくるから面倒くさい。

「お前ら、ガキはガキ同士で遊んでろよ」

 つい苛立った声で言うと、窓の向こうで稲妻が光った。それからすぐ、間髪入れずに雷の音が地響きのように鳴り響く。

「わっ」

 それまで跳ね回っていた和央が、雷の音を聞くなり俺の服にしがみついてきた。

「にーちゃん。こわい!!」

 和央が俺の服を片手でぎゅっとつかみながら、もう片方の手で耳を塞ぐ。

 また稲妻が光って、地響きのような雷鳴が響く。光ってから音が鳴るまでの間隔からして、距離が近そうだ。落ちなきゃいいけど。

 俺は激しい雨が降る窓の向こうに視線を送りながら、無防備になっている和央のもう片方の耳を手の平で塞いでやった。

 今は雷なんてちっとも怖くない。むしろ、遠くで光る稲光が綺麗だ……なんて思ってしまうときもある。だけど、俺も和央くらいの年のときは雷が怖かった。

 耳を押さえて半泣きになっていると、実の母が必ず傍にやってきて、俺の小さな手の上に柔らかくて大きな手を重ねてくれた。そうすると、雷の音が遠くなって安心するのだ。

 ふとチビのほうを見ると、雷が怖いのか、ローテーブルに伏せるようにして両耳を塞いでいた。

「お前も雷怖いの?」

 聞こえていないのか、チビからの返事はない。けれど、その小さな肩は小刻みに震えていた。

「おい」

 耳元で声をかけると、そのとき初めて俺に気付いたのか、チビがはっとしたように顔を上げた。少し青ざめた表情をしていたけれど、泣いてはいなかった。

「大丈夫か?」

 あまり優しいとは言えない声で訊ねると、チビが無言で頷く。見る限り、その表情はあまり大丈夫そうじゃない。けれどチビは、頑ななまでに「怖い」とは口にしなかった。

 弱音も涙も零さずに、地響きのように鳴る雷の音に、ギリギリのところでじっと耐えている。雷の音が遠のくまで、チビは俺の隣で唇を真横にきゅっと引き結んでいた。

 夕方を過ぎて、ようやく雨が少し弱まる。空が完全に暗くなる頃には、大きく鳴り響いていた雷もやんでいた。

 時計の針が20時を指そうとする頃、親父から「和央を迎えに行く」という電話があった。

 親父の車がマンションの下に到着する頃合を見計らって和央を連れて外に出る。その頃には、雨もすっかりやんでいた。街灯にぼんやりと照らされている道路が雨に濡れているおかげで、夜の外気がひんやりと涼しい。

 和央と並んでマンションのエントランスの前に立っていると、実家の白い車がスピードを緩めながら近付いてきた。親父が車から降りてくると、和央がすぐに飛び付く。

「おとうさん、おかえり!」

 和央が親父を見上げて無邪気に笑う。親父は目尻をすっとさげると、和央の目の高さまで腰を屈めてその頭を撫でた。

「悪かったな、陽央」
「いいよ、別に」
「朔はどうしてる?」

 しばらく和央の頭を撫でたあと、親父が立ち上がってアパートの俺の部屋の窓を見上げた。

「部屋だけど。俺はいつまであのチビを預かったらいいわけ?」

 若干嫌味のこもった声で返すと、親父が黙り込んだ。どうせ、実家の母親とまだ話もできていないんだろう。

 うんざりとしてため息をついたとき、西の空で稲妻が小さく光った。ただ遠くで小さく光っただけで、それから何秒待っても雷の音は聞こえてこない。

「また降ってくるかもな。俺達は帰るよ。また連絡する」

 和央の手を握った親父は、それ以上チビのことについて言及しなかった。

 親父が和央を後部座席のチャイルドシートに乗せてから、運転席へと回る。車のエンジンがかかったとき、和央が後部座席の窓を開けて俺に呼びかけてきた。

「にーちゃん!」

 和央が俺を見ながら、半分開いた後部座席の窓を手の平でバンバン叩く。やたらと必死に呼んでくるから、俺は仕方なく車のほうに少し身体を寄せた。

「にーちゃん、はやくもどってあげて。サク、ほんとはすっごくカミナリがこわいんだよ」
「え?」

 窓から身体を乗り出すようにして俺に訴える和央は、小さいながらにものすごく神妙な顔をしていた。

「陽央、車出すぞ」

 親父が運転席から俺を振り返る。頷いてマンションのエントランス側に数歩後ずさったとき、また遠くで稲妻が光った。そのあとも何度か、遠くの空で稲妻だけが小さく光る。俺はしばらくその稲光を見つめたあと、部屋に戻った。

 電気がつけっぱなしのリビングを覗くと、そこにチビの姿はなかった。

「おい」

 キッチンの狭い隙間やローテーブルの下、ベランダ。それからベッドの布団まで捲り上げてみたけれど、どこにもいない。

 どこに隠れてんだよ。

 俺は小さく舌打ちをすると、トイレのドアをノックした。そこにもいないから、最後に浴室のドアを開けてみる。すると、浴室の狭い脱衣所で、チビが膝を抱えて小さく蹲っていた。

「何でこんなとこにいんだよ」

 腕を揺するとチビはひどく怯えた様子で、額を膝に押し付けたままブルブルと身体を震わせた。

「おい。俺だって」

 チビの両手を無理やり引っ張って顔を上げさせると、黒目がちの瞳が不安そうに俺を見つめた。

「何でこんなとこに隠れてんだよ」

 少し苛立った声を出すと、チビが大きく瞳を揺らす。

「……雷」

 チビのか細い声を聞いて、俺は和央の言葉を思い出した。

『サク、ほんとはすっごくカミナリがこわいんだよ』

 たった数時間一緒にいただけの和央は、ちゃんと朔の弱さを見抜いていたのか。

「だったら初めからそう言え。今は光ってるだけだし距離も遠いから、もう怖くねーよ」

 リビングへ連れて行こうと引っ張ったけれど、チビは頑として、脱衣所から動こうとしなかった。

「行かねぇならほっとくぞ」

 諦めて一人で立ち上がろうとすると、チビが俺の服の裾をものすごい力でぎゅっとつかむ。その手が尋常じゃないくらいガクガクと震えていたから、ぎょっとした。

「おい、お前。大丈夫か?」

 俺の服の裾をつかんだまま震えているチビは、それでも泣いてはいなかった。

「あぁ、もう。何なんだよ……」

 ため息をつきながら、首筋をかく。

「そんな怖いの?」

 訊ねると、チビは強情にも大きく首を横に振った。

「どっちだよ。っていうか、怖いなら我慢せずに口に出せばいいじゃん。ガキのくせに」

 何を言ってもチビが俺の服の裾を離そうとしないから、仕方なく俺も脱衣所の床に尻を落とす。狭いから、足は浴室の外に続く廊下へと投げ出した。

「あぁ、めんどくせぇ」

 和央みたいに自分本位ですぐ泣かれるのもウザいけど、あいつはちゃんと子どもらしい。

 俺がほとんど他人みたいなものだから遠慮してるのかもしれないけど。それにしたってチビは、思っていることを口にしなさすぎる。

 まぁ、思っていることや我儘を言ってきたからって、取り合うつもりもないけどな。

 それより何より。今隣にいるチビは、どんなことがあってもウザいくらいに泣かない。

 実際に泣かれたりしたら困るくせに、俺はそのことが無性に腹立たしかった。