記憶が無いって怖い。
 自分がどう行動したら正解かが分からないなんて。

 そう思うと、急に恐怖に襲われた。

 あの子の存在が怖かったのか、自分の中の記憶が戻らないことが怖かったのか。
 それすらわからないことが、また恐怖心を煽る。

 胸がざわつき異常なほど鼓動が速くなると、視界が揺れて目眩に襲われ、身体がガクガクと震え出して立っていられなくなっていく。
 雑居ビルのエレベーターの前で、私はしゃがみ込んでしまった。

 さっきの名前も知らない彼女は〝おつかい〟が終わったら真っすぐ帰ると言っていた。
 ということは、すぐに出て来てしまうかもしれない。
 
 そう思うと、また会ってしまうのが恐いと感じた。

「大丈夫?」

 ふいに私の肩が支えられ、ふんわりと甘い香りがした。
 この香りは知っているような気がした。
 どこか懐かしく感じる香り…………。

 顔をあげると、優しい表情の女の人と目が合った。
 私より少し年上に見える、とてもキレイな人だ。

 目の大きさの割に黒目が大きいけど、カラコンのような造られたものではなく、澄んだ瞳をしていた。
 髪は黒に近いブラックブラウンだから、真樹紅の街に見慣れてしまうと、彼女の髪色がとても真面目な印象を与える。

「あら? あなた、ナナちゃんじゃない?」

「えっ? 菜々……?」

 ふいに、夢の中で〝ナナちゃん〟と呼ばれたことを思い出した。

 いや、あれはたぶん夢といっても私の記憶の中のものだと思うのだけど。

 そして今、再び〝ナナちゃん〟と呼ばれた。
 だけど、この人は夢の中に現れたあの子ではない。

 ミルクティ色の髪をしたあの子はアイドル並みに可愛かったけど、目の前にいるこの人はモデルさんのような大人美人だった。

「あの、どこかで会いましたか……?」

 もしも親しい人だったなら、記憶喪失だと伝えてもいいだろうか?
 と、私は少し考えていた。

 信頼できる人なら話したいと。
 話せば私の二週間のことを教えてもらえるかもしれない。

「ああ、覚えていなくても無理ないわね。私はね、あなたが入る前にあのお店にいたの。お店の上の寮に住んでいるんでしょ? ジュリちゃんの部屋に遊びに行った時に会っているのよ」

「ジュリちゃん――――?」

 それはまさに、あの夢に出てきた子の名前だ。
 やっぱり、あれはただの夢じゃなくて、私の中の記憶だったんだ。