だけど、お母さんは帰ってこなかった。

 目が覚めた時には、私は自分の部屋に寝ていた。

 キッチンで物音がしたから、部屋から出て行くと、エプロンをしたお父さんがぎこちない動きで朝ごはんの用意をしていた。

「お父さん、お母さんは?」

「夕璃、おはよう。昨日はごめんな。お父さん、おとなりに迎えに行くのが遅くなって」

 お父さんが笑顔を向けるけど、私は泣きたくなった。

「お母さんは?」

「……まだ帰っていないよ。でも、おまわりさんも探してくれているからね。すぐに見つかるよ。夕璃は幼稚園に行く支度をしなさい」

 いつもならお父さんはワイシャツを着ているのに、家にいるときのティーシャツ姿だった。

「お父さん、お休みなの? あたしもおうちにいたい!」

 フライパンを持つお父さんの腕にしがみつくと、「危ないよ」と笑いながらたしなめられた。

 そのとき、電話の音が鳴り響いた。

 お父さんの顔色が変わり、飛びつくように受話器を取ると、深刻そうな表情で「はい」とか「ありがとうございます」とか言いながら、メモを取っている。

 電話を切るとまっすぐ私のところへ来てしゃがむと、私の視線に合わせてゆっくりと語りかけた。

「お母さんが見つかった。お父さんは迎えに行くから、夕璃はおばあちゃんの家に行こうね」

 どうしておばあちゃんの家に行くのかわからなかった。
 だけど、なんだかそうしなきゃいけないんだ、ということは感じた。

 今日は幼稚園には行けないんだな、と。

 お母さんはいつも私の顔をあまり見なかった。
 いつも笑っていなかった。

 だから、私のことを好きだと言ってくれたこともなかった。

 ふいに、ダイニングテーブルの上に置かれた昨日のクッキーの包みが目に入った。

「あたしも行きたい」

 お母さんに上手に作れたウサギのクッキーを見せたかった。
 美味しいって言ってもらいたかった。

 できることなら、笑ってほしかった。

「ごめんな、夕璃。お母さんは今、心が風邪をひいているんだ」

「心が、お風邪なの?」

「うん。夕璃も熱や咳が出ると辛いだろう? お腹が痛いと、そのことしか考えられなくなるだろう?」

「…………うん。お母さんは、心が痛いの?」

「そうなんだ。だから、今は夕璃に優しくできないんだ。迎えに行っても昔のお母さんのように笑ってくれないと思う」

 昔のお母さんを私は知らなかった。
 だけど、昔はきっと笑ってくれたんだと思うと、心の風邪というもののせいなのかもしれないと思えた。

「わかった。早くお風邪が治るといいな。あたし、お母さんに笑ってほしい」

「そうだね。お母さんに伝えるね」

 それから、あたしはとなり駅に住んでいた祖父母宅へ預けられた。