今日はとても気分がよかった。

 ビール一杯と白ワイン一杯、たったそれだけで心と体はこんなにも軽やかになるものだとは思わなかった。

 しかも今日は憎きあの日、そう、月曜日。
 金曜の夜からもうその頭の先にひょっこりとスタンバイしている忌々しい奴だ。

 なのに何故だろう、今日はとても可愛く見える。仄かに酔っぱらって視点が定まらないせいかな? まるで前髪を少し切りすぎちゃった少女のような、そんな可愛さと愛され感を今日の月曜日は持っていた。

 月曜日の分際で。


 タクシーを降りる。
 窓を覗き込む。グレーのスーツ姿の彼が白い歯を見せる。外から吹いた風が窓の中に流れ、ふわりと彼の髪を揺らした。それがまたかっこよさを助長させていて、当たり前に私も同じように歯を見せた。


「じゃあね」

 そう言って彼が右手を挙げた。
 指の一本一本が長くしなやかで美しい。腕を装飾している時計も大人の男を演出するには十二分だ。

 芸術ともいえるそれをぼんやりと見ながら彼がタクシーでどこかへ(おそらく彼の家に)運ばれていくのを見ていた。

 踵を返す。足取りは軽い。
 最近出番がない赤いヒール、ヒールの部分が細くて高くて安定感が掴めない。こういうものは毎日毎日履いているからいいもので、何事も継続は力なり、ローマは一日にして成らず、まさかローマを作ろうとは思っていないが、いちにちで履けると思ったらいけない。

 だけど、今日はここぞという日だったので仕方ないから履いてあげた。少しでもふくらはぎが細く見えるならば使いましょう。ああ、そうです。あなたのことを使ってあげましょう。そう声をかけて手に取った。


 買われたまま靴箱の番人に成り下がっていた彼女は嬉しそうに体を赤らめた。
 おそらく赤らめたのだろう。だって赤い体をしているのだから。

 ガチャンとドアの音が響く鉄骨二階建てのアパート。オートロックなんてものはない、受付ロビーなんてものもない。

 私は一日お世話になった赤ヒールを脱ぎ捨てた。
 開放感をいっぱいに彼女はあちこちに飛んで行った。
 
 諸刃の剣とはまさにこのこと。気づいてた。気づいていたよ。足の痛みにとっくに私は気づいていたんだよ。

 ということで真っ赤にえぐれた皮膚を絆創膏でいの一番に覆う。
 
 2LDKのマンション、玄関からすぐのところに私の部屋がある。その先にトイレとバスルームがあって、そしてその先にキッチンとリビングがある。

 最後にいちばん奥は莉絵《リエ》の部屋だ。

「ただいまー」
「おかえり、どうやった?」

 莉絵は自分の部屋からひょっこりと顔を出した。もう寝るところだったのか、スウェットにスッピンメガネの出で立ちだ。正直に言う。


「どちらさまですか?」

 家を出る前、ここには確実に莉絵がいたはずなんだが、こいつは誰だ。

「莉絵や」

 いつものやりとりにひとつも動揺を見せない。

「り……え?」

 私は確かめるようになぞるように、ゆっくりとまばたきをしてその名前を復唱する。

「わしや! 化粧落としとんねん、目、シジミみたいになっとんねん……ってやかましいわっ」

 そう言ってメガネを外す。
 ゆっくりと近づく。
 そして少し引いて顔を見る。
 目を細めて、目を見開いて、もう一度顔を見る。


「あ、莉絵」

「何分かかっとんねん、親友の顔思い出すのに」

 ……とまぁ、ここまでいつもの『くだり』




「一杯飲まない?」
 
 私はキッチンに向かい冷蔵庫に手をかけた。

「飲む」

 そんな声が聞こえてきたから私は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し一本を莉絵に投げた。

「ちょっちょっ」

 莉絵は全身を使ってなんとかキャッチをした。ビールは何回か胴上げのように宙を舞った。

 莉絵は注意深くそれをテーブルの上に寝かせてぐるぐると回転させた。どうやらそうやると炭酸がブシュッと飛び出してこないらしい。

 真意は不明。

「篠塚さん」
「うん、どうやった」
「ヤバかった」
「それはどういう意味で?」

 尋問のようなやり取りが続く。

「いい意味で」
「そりゃそやろ」

 今まで何人か男の人を紹介してくれたことはあったけど、その大半が学生であったり無職であったり、特定の彼女を作りたがらなかったり、やたらと女への幻想を抱いていたり、まぁ纏めて言うがろくでもなかった。

 だから今回も期待なんてしていなかった。
 だけど今回はなんと! 莉絵は隠し球を出してきたんだ。

 
「こんなん隠し持ってたんか、と思いましたね、はい」
 私は本格的に始まった取り調べを真摯な姿勢で受けた。
「ふじさきぃ! ホンマはアイツだけはアイツだけはぁ……出したくなかったんよ」
 無念さが残る表情でテーブルをドンと両手で叩いた。 
「莉絵さん、なんで……あんな優良物件を私に……」

 
「断られたんや……」
 

 そう言って莉絵は小さく窓を見た。
 本来そこからオレンジ色に輝く夕日が差し込んで私たちを照らしている予定だっとは思うんだけど、あいにくカーテンが閉まっていた。
 

「断られた?」
「妻子持ち送り込もうとしてんけどな」
「どんな事故物件だよ」
 

 莉絵はひたひたと歩き窓に向かい気持ちだけでもとカーテンを開けた。
 そう、ここからそろそろ日が落ちる茜色と藍色のグラデーションが入り交じるそんな、マジックアワー。

 シャーっと勢いのある音がした。カーテンはついに開けられた。
 そこから射し込んだのは……。

「え、あ、あれ?」
「闇だ」

 もうとっくに空は夜を連れてきていた。
 気づかんかね? だからカーテンを閉めたんだろうが。

「んん」ひとつ咳払いをして今までのことをリセットしたつもりだろうか、話の続きをしだした。「兎にも角にもその妻子持ちが直前になりひよりだして来なくなったから、なんと! 私の、隠し球の篠塚蒼梧《しのづかそうご》27歳、独身、身長178cm、A型。大手証券会社勤務を出すことになった」

 早口で一気に篠塚さんの情報を言い終わる頃には莉絵は机に突っ伏して悔しさに唇を噛み締めた。

「もろたで」
「あかん」
「この機を逃すわけにはいかぬ」
「あかんて」

 私たちは定期的に自分たちの畑にいる男子を紹介する。理由は幸せになってほしいから。
 
 私が莉絵に紹介してきたのは、同じ歳で漁の仕事を真面目に頑張っている好青年。年収だって低くない、身長だってそこそこ、だけど北海道の稚内に住んでいる。のちのちは一緒に稚内で暮らしたいらしい。

「北海道の中ならまだどうにかならないこともないが、こちら本州や」

 彼を紹介したとき、莉絵は遠くを見つめそう呟いた。

 それ以外にも何人か探してきた。
 イケメンがいいって言うからホストとか美容師とか紹介したけど『40歳くらいまでにはこんな感じでゆるゆると遊べる関係がいっすね』とか『いくらまでなら出せる?』と言われたらしい。

 あと“かつて”イケメンだったような雰囲気を醸し出している68歳を紹介したときは目を釣りあげてこちらを睨んできた。

 バツ4ではあったが独身であるのは確認済みなのに。


 まぁ、言うて、私にも隠し球がいないこともない。
 隠し球を出さない理由?
 決まってるじゃない、言っとくけどここに書いた全員みんな『良い奴』ではある。莉絵が紹介してくれた人も私が紹介した人も『人間的』には最高であることをお互い認めている。『物件』としては事故り気味が多々あるが。

 
 だけどお付き合い、ひいては結婚までと言うとなかなか進まない。

 なぜか、隠し球を出していないから。

 なぜ出さないか。

 それは


「こっちの隠し球いるか? 結構優良。身長182、細マッチョ、誠実、黒髪、経営者、女の影は特になし、浮気するようなタイプではない、ほらこれQR」

 そう言ってその彼のQRコードを莉絵のスマホに向けた。

 莉絵にとって、とっておきの人が篠塚さんだったように、私にとっての今のところのとっておきはこの人ただひとりだ。


「やっぱり、やっぱりや、やっぱりあんた持っててんな」

 
 鋭い眼光をこちらを向けてきた。さっき渡したビールのプルトップを一気に引き上げた。
 ぷしゅうと力ない音がした。どうやらあの作戦は成功したらしい。

 それをごくごくと喉に通していく。

 そして手の甲で雑に口元を吹くと莉絵はニッと口角を上げた。

 同じタイミングで私も同じ顔をした。

「交渉、成立や」
 そうしてお互い握手をした。

 莉絵はQRを読み込むことなくスマホを閉じた。
 私はさっき番号交換した篠塚さんの連絡先を消した。


 そしてふたり、缶ビールで乾杯をした。



 いつかあなたが恋をするときは、私は最上級のハイスペを用意します。だけど今はまだそのときじゃないんです。

 だって私たち、今はまだこのままふたりで一緒にいたいから――。