その日、夢を見た。
 目に入る景色は全部真っ白で、何もない部屋に私はぽつんといた。まるで文章のない、透明な物語に閉じ込められているよう。
 そこに、一人の女の人が現れる。

 『大丈夫だよ。――幸せになれるから』

 ふっと零したその笑みは、誰かに似ている気がした。
 その女の人はたったその言葉だけを残して、どこかへ行ってしまった。
 途端にだんだん視界がぼやけていく。

 「――ちゃん、お姉ちゃん!」

 はっと気がついて、辺りを見回す。
 ――あぁ、夢から覚めたんだ。
 美空ちゃんが心配そうに私の目を見つめていて、少し涙ぐんでいるみたい。

 「おはよう、美空ちゃん」

 「うぅ、お姉ちゃーん」

 私の胸に飛び込んできた美空ちゃんが、すごく可愛らしいなと思った。
 まだ自分の妹だと知ったばかりで「美空」とは呼ぶことができていないけれど、いつか呼べるようになればいいなと思う。

 「お姉ちゃん、悲しそうな顔してたんだよ」

 「悲しそうな顔?」

 「うん。なんかね、こう……セツナイ感じだったの」

 切ない。きっと私は記憶喪失になってしまった不安からか、不穏な夢を見てしまったのだろうか。
 でも覚えてる感じ、そんなに悲しい夢ではなかったと思う。不気味な夢ではあったけれど。
 『大丈夫だよ。――幸せになれるから』
 あれは、誰だったんだろう。記憶を失う前の私なのかな。

 「お姉ちゃん、だいじょうぶ?」

 「あっ、ごめんね。またぼーっとしてただけだよ。ありがとう」

 「うん……」

 美空ちゃんに心配かけちゃいけない。そう思いながら私は頭を優しく撫でた。
 今日は土曜日で学校が休みだから、雪花ちゃんたちに会えなくて少し寂しいと感じる。

 「おはよう、お母さん」

 「おはよ、ママ!」

 「おはよう、二人とも。朝ご飯できてるわよー」

 朝の食卓は、賑やか。
 お父さんは朝早くから夜遅くまで仕事だからご飯を一緒に食べる機会は少ないけれど、お母さんは専業主婦で、美空ちゃんも私も学生だから休日はみんなで食べることにしているみたい。
 一人で静かに食べる病院食より、お母さんが作ってくれた料理をみんなで食べるほうが遥かに美味しかった。

 「お母さんは料理が得意なんだね」

 「得意って、そんなのじゃないわよ。料理とか、掃除とか、家庭的なことしかできないだけなの」

 「でも毎日やってるんだもん、すごいよ。私もできるときは手伝うからね」

 「ありがとう、美雨……」

 お母さんは少し涙を流しそうになっていた。
 美空ちゃんだけじゃなくお母さんまで……。そう思ったけれど、私のことをすごく大事に思ってくれているのが分かって胸が誇らしかった。

 「美空は絵を描くのが好きなんだよ!」

 「そうなんだね。今日一緒にお絵描きする?」

 「うん、したいなぁ。お姉ちゃん、前より明るくなって嬉しい!」

 “前より” とは、私が記憶を失う前のことだよね。
 私は自分のこと、明るい性格だと思っていないけれど……。前はもっと暗かったんだろうな。
 なんだか想像がつかなくて、考え込んでしまった。

 「お姉ちゃん、色鉛筆が足りない」

 「へ? 色鉛筆?」

 「うん、お絵描き用の……」

 美空ちゃんは今にも泣き出しそうなうるうるな目を一瞬見せ、俯いてしまった。
 色鉛筆が足りないならお絵描きができない。もしかして、私に買ってきてほしいのかな。
 まだ起きたばかりで眠気が飛んでいないし、少し買いに行くのが億劫だ。

 「うーん、何色?」

 「黄色とオレンジ!」

 「分かった、じゃあ買ってくるよ」

 そう言って私はにこっと笑ってみせた。
 ――あれ、どうしてだろう。私、買いに行くの面倒くさいって思っていたはずなのに、何で頷いちゃったの?
 本音を隠して、偽りの笑顔を見せる。何だかそれに慣れてしまっているような……。

 「美雨、本当にいいの? 近くの薬局ならこの時間もやってると思うけど……」

 「うん、大丈夫だよ」

 「ありがとう、美雨。優しいのね」

 お母さんにそう言われて少し照れくさいけれど、嬉しかった。
 本当は億劫だけど、頷いてしまったからにはもう後退りできない。私は靴を履いて外に出た。
 晴天で、気持ちのよい朝。ランニングしている人、動物の散歩をしている人、スーツを着てこれから仕事に向かう人。たくさんの人とすれ違うたびに思う。
 ――素直に夢中になれることがあっていいな、って。
 私は自分の趣味や好きなことが分からない。好きな色も、好きな食べ物も。記憶喪失になってから、記憶だけじゃない、たくさんのことを失ったような気がする。
 だから夢中になれることがあるのは幸せなことだと気づいたんだ。

 「いつまでも下を向いてちゃダメだよね」

 ぼそっと呟いて俯いていた顔を上げると、前に人が立っていた。
 ――私服を着ている、見慣れない姿の藤間くんだった。
 なんだ藤間くんか、びっくりした。一瞬そう思ったけれど。

 「えっ、藤間くん!?」

 「あ、綾瀬……?」

 私はものすごく驚いた。――どうしてここに藤間くんがいるのかな?
 藤間くんも同じ気持ちのようで、お互い無言で立っているままだ。
 これ以上沈黙が続いて気まずくなるのは嫌だから、と思い口を開いたとき。

 「綾瀬はなんでここに?」

 「えぇと、妹の欲しいものを買いに来たんだ」

 「妹さんの欲しいもの?」

 「うん、うちの妹、絵を描くのが好きみたいで。色鉛筆が足りないって言ってて、私が買いに行くんだ」

 「そっか。綾瀬は優しいやつだな」

 えっ、いま藤間くん、私のこと優しいって言った?
 急な言葉に、私はまた驚いた。お母さんに『優しい』と言われたときは嬉しかったけれど、藤間くんに言われたら何だか胸が高鳴る。
 どうしてだろう。

 「綾瀬、どこに買いに行くの?」

 「近くの薬局だよ。すぐそこの」

 「そうなの? 俺もそこの薬局なんだよね。母親から薬頼まれててさぁ」

 「えっ!」

 薬局が目的地だなんて、私と一緒だ。――もしかしてこれ、一緒に行こうって流れになる……?
 それにお母さんから薬頼まれているって大丈夫なのだろうか。体調不良なのかな。

 「じゃあ俺、先行くから。またね、綾瀬」

 「へ? う、うん、またね……?」

 藤間くんは、小走りで先に行ってしまった。何だか拍子抜けだ。一緒に行くと思っていたのに……。
 ――って、私、何で寂しくなってるんだろう。別に私と藤間くんは友達なだけで、それ以上は何も関係ないのに。
 見えなくなってしまった藤間くんの背中を追うように、私も少し走りながら向かった。