一限目終わりの休み時間、藤間くんが登校してきた。
 最初は職員室に行って教師と話をして、それから教室に来ることになったらしい。
 私もきっと記憶喪失になったことを話さなければいけないんだろうな。

 「藤間くん、おはよう」

 「綾瀬、おはよ」

 ただ挨拶を交わしただけなのに、教室中がざわついた。
 倉木さんと田中さんも、心配そうに私を見つめているのが分かる。

 「ねぇ、晴人」

 晴人。真田さんは藤間くんの名前を呼んだ。
 真田さんは少し冷たい印象があるけれど、藤間くんはとても優しい人だ。
 二人は藤間くんが記憶を失う前、仲が良かったのかな。

 「晴人、記憶喪失って本当なの?」

 「あぁ、うん。きみは?」

 「……真田美虹(みく)、だけど。本当に記憶ないんだ」

 もちろん藤間くんは真田さんのことを覚えていないから、きょとんとした顔で見つめている。

 「この女とはなんか知らないけど仲良いのに、つるんでたあたしのことは忘れちゃったんだね」

 ――この女って私のことだよね。
 真田さんの発言は、ありえないと思う。藤間くんは記憶を失っているから、一生懸命元の生活に戻ろうと頑張っている最中なのに。

 「あ、あの、真田さん。藤間くんにそういう冷たい言い方しないでほしいの」

 「は?」

 「藤間くん、きっと真田さんのこと思い出せるように頑張ってると思うの」

 「そんなの知ってるし。てか、あんたなんでそんなに晴人のこと庇うわけ? 分かったようなこと言わないで」

 わざと私の肩にぶつかって、真田さんは教室を出ていった。
 ――怖かった。真田さんはなぜか分からないけれど怖い、恐怖だと感じてしまう。
 私きっと、記憶を失う前も真田さんのことが苦手だったんだと思う。

 「綾瀬さん、大丈夫?」

 「怪我はない?」

 「うん、ありがとう。私は大丈夫だよ」

 倉木さんたちが心配してくれて、少し胸があたたかくなった。
 だけどどうしてだろう。何だか心にぽっかり穴が空いてしまったように感じるのは。

 「綾瀬、大丈夫だった?」

 「藤間くんも心配ありがとう。でも本当に大丈夫だから。それより、早く追いかけてあげたほうがいいんじゃない……?」

 その瞬間、自分の言葉に胸がチクッと傷んだ。ハートの心が少しずつ削られていくように。
 藤間くんは首を横に振った。

 「行かないよ。俺、いまは真田のこと知らないから。綾瀬は俺を庇ってくれたんだし、綾瀬のそばにいるよ」

 頭のなかに伝わるくらい、胸がドクン、ドクンとなる。頬が熱い。
 藤間くんの優しい言葉が、私の脳内に響いた。

 「でも、綾瀬さん、気をつけてね」

 「うん、田中さんありがとう。真田さんのことちょっと苦手かも。気をつけるね」

 「真田さんもだけど、藤間さんも……」

 藤間くんのほうを振り向くと、爽やかな笑みを浮かべていて、それもまたドキドキする。
 何かの勘違いだ。藤間くんは真田さんのような冷たい人じゃないし、人が嫌がることをしないって分かっている。
 だけど少なくとも、私は藤間くんの記憶を失ったあとのこと(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)しか知らないのだ。
 記憶を失う前の藤間くんのことも知りたいな、と思った。


 「綾瀬さん、一緒にお昼食べない?」

 「いいの? ありがとう」

 お昼休み、倉木さんたちが誘ってくれてグループに入れてもらうことになった。
 お母さんが作ってくれた弁当を広げると、二人はぱぁーっと目を輝かせた。

 「すごい、綾瀬さんのお弁当美味しそう」

 「私なんて購買で買ったパンだけだよ。手作りすごいなぁ」

 「そう言ってもらえると嬉しい。お母さんは料理が好きみたいなんだ」

 何気なくそう言葉を発したが、二人は顔を見合わせて少し俯いてしまった。
 ――何か気に障ること言っちゃったかな。

 「そっか、綾瀬さん、お母さんのことも思い出せないんだね……」

 田中さんの言葉に、ふと気がついた。
 二人は記憶を失っている私の辛い気持ちが分かるから、心配してくれているのかもしれない。
 私は二人に精一杯の笑顔を向けた。

 「そうなの、もちろん悲しいんだけどね。これから思い出せていけたらいいなって思う。二人とも心配してくれてありがとう」

 「……友達だから、当たり前だよ」

 「前は綾瀬さんのこと、気にかけてあげられなかったから……。これからは、その分仲良くさせてほしい」

 なんて優しい人たちなんだろう。そう思うと、少し涙が出そうになった。
 前はどうとか関係ない。今、私は倉木さんや田中さんと友達。仲良くさせてほしいと願っているのは私のほう。

 「こちらこそだよ。……あの、二人のこと名前で呼んでもいいですか?」

 私にとって、記憶を失って新しいスタートを切ったときからの初めての女の子の友達。
 思いきってそう聞いてみると、二人は笑顔で頷いてくれた。

 「もちろん、美雨!」

 「美雨ちゃんっ」

 「……うん、雪花ちゃん、風穂ちゃん」

 “美雨”って呼ばれただけで、こんなにも嬉しいんだ。
 ――雪花ちゃん、風穂ちゃんありがとう。
 恥ずかしくて口に出せない言葉を、私は心のなかで強く思う。
 友達って、仲間ってこんなにも素敵な関係なんだなぁと、改めて感じた。