時が経って、入院してから一週間。
 とうとう私と藤間くんは退院日が来て、同じ病室の人たちに挨拶をし、家に帰宅することになった。
 お世話になった病院だから何だか寂しい気持ちもある。

 「美雨さん、元気でね」

 「トウマ先生……!」

 高い位置に結んであるポニーテール。トウマ先生はいつ見ても美人だし、かわいい。
 それに私の担当医師で、とても優しく接してくれた。トウマ先生で良かったと心から思っている。

 「ありがとうございました。トウマ先生もお元気で」

 「うん、ありがとう。何か記憶のことで変化があったら、電話でもいいから教えてね」

 記憶――。
 そう、私はまだ何一つ記憶を取り戻すことはなかった。
 強いていうならあの晴天の日、記憶の断片を見たくらいなのだから。

 「綾瀬!」

 記憶を取り戻すことができていなくて気分が陥っていたときに、藤間くんが駆けつけてくれた。
 藤間くんの隣には、お母さんらしき女性が微笑んでいる。

 「あなたが、美雨ちゃん?」

 「は、はいっ。綾瀬美雨といいます」

 「はじめまして、晴人の母親です。美雨ちゃんのことは晴人からお話を伺ってました。同じ記憶喪失のお友達ができた、って」

 「母さん。そんな話いいって」

 藤間くんのお母さんはお上品で、すごく美しい感じの雰囲気だ。
 それに藤間くんとお母さんは、やはり本当の親子なんだな、というのが分かる。でもそれに比べて私は、まだお母さんたちのことを家族だと思えていない。
 私ってすごく最低なんだなと思うと、胸がズキンと傷んだ。

 「美雨ちゃんも、晴人と同じ雲ヶ丘高校なのよね。晴人のこと、よろしくね」

 「いえ、こちらこそ……!」

 ぺこっとお辞儀すると、藤間くんは少し顔を赤くしていた。
 もしかして、熱でもあるのだろうか。でも体調は特に問題なさそう。
 ――お母さんとの会話に、照れているのかな。
 藤間くんのかわいいところを発見できて、なぜか胸がほっこりする。

 「じゃあ美雨、帰ろう」

 「あっ、うん。藤間くん、また明日ね」

 「また明日、学校でな」

 本音はもう少し藤間くんと話していたかったけれど、お父さんに強引に車に乗せられて、帰ることになった。

 家は想像していたより大きかった。庭もあるし、二階建てで部屋も広い。
 お金持ち、というほどではないけれど、一軒家よりは大きいと思う。

 「ここが、私の家……」

 「そうよ、美雨。美雨の家なんだから、ゆっくりくつろいでね」

 家のなかに足を踏み入れると、何だか懐かしい香りを感じた気がした。それが何かは分からないけれど。
 きっと私は、安心できるこの家が好きだったんだろう。

 「お姉ちゃん、今日はお姉ちゃんのタイイン日だから、ママがすごいお昼ご飯を作ってくれたんだよ」

 「すごいお昼ご飯?」

 私が聞き返すと、美空ちゃんは無邪気な笑顔で頷いた。

 「うん、ママの、手作りカレー! お姉ちゃん好きだったでしょっ」

 「私が、好きだったカレー……」

 思い出そうとしても、やはり思い出せない。それがとても虚しくて、罪悪感に包まれた。
 お母さんは美空ちゃんの頭を優しく撫でた。

 「美空、お姉ちゃんが退院して嬉しい気持ちは分かるけれど、あんまり刺激させないであげてね。お姉ちゃんも頑張ってるのよ」

 「はーい……。でも、美空、前みたいにお姉ちゃんとお話したいよ」

 今にも泣き出してしまいそうな、うるうるした瞳で見つめられて、何も答えられなくなった。
 私は記憶を取り戻すのが怖い。その考えは前も今も変わらない。
 だけど取り戻さないと、こうやって私のことを大切に考えてくれている人たちが傷ついていく。
 ――そんなのは嫌だ。

 「ありがとう、お姉ちゃん、記憶取り戻すから待っててね」

 藤間くんと一緒に記憶を取り戻して、また元の生活に戻れるよう頑張ろう。
 そう、改めて思った。

 「さ、気分転換に、美雨のお部屋へ行きましょう」

 私の部屋は、何も色のない部屋だった。
 壁も、床も、勉強机も、棚も、ベッドも、カーテンも、何もかも真っ白。
 ううん、白というより透明のような感じだ。
 ――どうして、こんなに透明なものばかりなんだろう。

 「美雨は透明の空間が好きだったのかしら」 

 「……私の好きな色じゃないの? だって、全部透明だし」

 「そうだなぁ。お父さんたち、美雨の好きなものとか、聞いてあげられてなかったからなぁ……」 

 どうしてだろう。また、お母さんたちが不思議に感じる。
 親は子供の好きなものとか、嫌いなものとか、把握しているのが当然だと思っていたから。
 私、もしかして反抗期で、お母さんたちのこと苦手だったのかな。
 そう思って、あまり深くは考えないことにした。

 「……高校三年生の教科書?」

 ふと、机に置いてあった高校三年生の教科書が目に入った。
 私って高校一年生だよね。どうして二学年先の教科書がここにあるのだろう、と不思議に思った。

 「美雨は頑張り屋さんだったんだよ。それに優等生。高一や高二の勉強はもう完璧みたいで、高校三年の勉強に取り組んでいたんだ」

 「そう、なんだ」

 私が優等生で、頑張り屋。そんなの想像できなかった。
 でもこれだけを見たら、勉強しかしていないように思える。
 私、本当に楽しく毎日過ごしていたのだろうか。

 「よし、とりあえずここらへんにしよう。母さんが作ってくれたカレーを食べるぞ」

 「やったぁ! 行こう、お姉ちゃん」

 美空ちゃんに手を引かれ、私は部屋を後にした。
 何か色々違和感や疑問はあるけれど、今は記憶を取り戻すことに専念して、考えないようにしようと思った。
 お母さんが作ってくれたカレーはあたたかくて、すごく美味しかった。