私は藤間くんに「おやすみ」と言って、病室へ帰った。
 病院はご飯や就寝の時間が決まっていて時計を見て行動しないといけないから、少し体が疲れてしまう。
 
 「あっ、美雨!」

 「どこへ行ってたんだ?」

 お母さんとお父さんが心配そうに、私の顔を覗き込んだ。
 確かに、いきなり目を覚ました娘がどこかへ行ってしまっていたのだから、そりゃあ不安にはなるだろう。
 私は反省して、二人へ向かって頭を下げた。

 「ごめんなさい、ちょっと景色を見に外へ出てたの」

 「……そうか。でもお父さんたちは美雨が心配なんだ。もう勝手に病室からは出ないでくれ」

 「え……」

 予想外の言葉に、私は唖然としてしまう。
 それってもうずっと病室へ居ろと言っているのだろうか。
 それはおかしいと思ってしまった。いくらなんでも過保護すぎる気がする。

 「で、でも、心配しないで。私はどこにも行かないし。ただ病室のお庭に行くくらいだめですか?」

 「うーん……」

 「ねぇ、パパ、お姉ちゃんがかわいそうだよ」

 私が気持ちを伝えても頷いてくれなかったが、美空ちゃんがそう言うと、お父さんの顔が先程よりもパッと明るくなった。
 ――なんだろうか、私と美空ちゃんに、少し差がある気がしてしまうのは。

 「そうだな。美雨もきっと退屈だろうし。お父さんたちは毎日美雨のお見舞いに来るけれど、それ以外は庭くらいなら行って構わない」

 「……ありがとう」

 何とか納得してもらえたものの、私は内心、心から安心できなかった。
 お父さんたちに私の本音を伝えても、分かってくれなそうな気がしたから。でも美空ちゃんの言葉には顔色を変えるくらい、私との差がある。
 どうしてだろう。それがずっと気になってしまって、夜はなかなか眠ることができなかった。


 ベッドから体を起こし、うーんと背伸びをする。
 カーテンを開けると、昨日と同じくらいの眩しい日差しが目に入った。

 「気持ちいいなぁ」

 今は七月らしく、毎日三十度を超える暑さが続いているけれど、私は晴れが好きだ。
 太陽は、人の心までぽかぽかにできるから。太陽を見ると、私はすごく元気になれる。
 『雨は――大嫌い』
 その言葉が脳内から聞こえて、頭がズキン、ズキンと痛くなる。
 雨は大嫌い。そう言ったのはたぶん――私。
 少しずつだけど記憶が戻っているのかもしれない。なんとなく、だけど。

 「失礼します」

 コンコン、とドアを叩く音が聞こえた。
 見ると昨日(さくじつ)の女性医師が私の部屋に足を踏み入れていた。

 「美雨さん、おはよう。私は美雨さんの担当医師のトウマといいます」

 「あ、は、はいっ」

 ――あれ。この人の苗字のトウマ、って藤間くんと一緒だ。
 ふと気がついて思う。漢字は分からないけれど、同じ苗字だなんて偶然だなぁ、と思った。

 「美雨さんは高校一年生で、雲ヶ丘(くもがおか)高校に通ってるんだよね」

 「くもがおか、高校……?」

 「もしかして、ご両親から聞いてないのかな」

 「……はい」

 トウマ先生が言うには、雲ヶ丘高校と言うのはここの近くの名門校らしい。
 もしかして私、結構優等生だったのだろうか、なんて思う。

 「美雨さんはお母さんやお父さん、妹さんの四人家族だよね。まだ思い出せてはいない状況かな?」

 「はい。自分のことも分からないし、家族のことも思い出せなくて。何だかすごく申し訳なく感じちゃって」

 トウマ先生は「そうだよね」と少し悲しげに呟いた。

 「無理に思いだそうとしないで、ゆっくりでいいからね。記憶が戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。でも美雨さんは美雨さんなんだから、自分のことを一番に大切にしてね」

 「……はい、ありがとうございます」

 何だか雰囲気が優しくて穏やかで、素敵な先生だ。トウマ先生が私の担当医師で良かったと思う。
 『記憶が戻るかもしれないし、戻らないかもしれない』
 この言葉を聞いて、私は少し不安になった。もし思い出せなかったら、また人生をやり直すしかないから。
 ――きっと、大丈夫だよね。そう心から強く思った。

 「何かあったら、遠慮なく言ってね」

 そう言って、トウマ先生は部屋から出ていった。
 お母さんたちはまだお見舞いに来ないから、それまでやることがない。だから私は真っ先に庭へ向かった。
 外の空気は美味しくて、やはり気温は暑いけれど、とても気持ちのよい朝を感じられる。

 「あ、綾瀬」

 「藤間くん……! おはよう」

 私とほぼ同じタイミングで、藤間くんも庭へ来た。私の座っていたベンチの隣に腰を掛ける。
 ――当たり前だけど、何だか距離が近くてドキドキしちゃう。

 「俺、通ってる高校分かったよ」

 「えっ、私も。藤間くんはどこ?」

 「雲ヶ丘高校ってとこらしい。この近くの共学校で――」

 「ちょ、ちょっと待って。私も雲ヶ丘高校って言われたの……!」

 お互い目を合わせて、何度か瞬きをする。
 信じられないことに、私たちは通っている高校も同じだったのだ。
 クラスまでは聞かなかったからわからないけれど、もしかしたら私たちは――。

 「記憶を失う前、知り合いだったかもな」

 そう。私たちは記憶を失う前、知り合いだった可能性があるのだ。
 確かに私は藤間くんと話すのがとても楽しい。藤間くんも私がいてくれて良かった、と言ってくれた。
 自分で言うのもどうかと思うけれど、気が合っているのは確かだ。

 「そっか……。綾瀬と友達だったかもな」

 「うん、そうだね。藤間くんと友達だったら、学校生活も充実してるだろうなぁ」

 「そうかな。俺なんか、いてもいなくても変わらないと思うけど」

 それはどこか私の胸にズシン、と響いた。
 重くて苦しい、マイナスな言葉。だけど私の心にとても響いた。

 「……そんなこと、ないよ。藤間くんがいてよかったって、思ってるよ」

 「そうかな。そう言ってくれるとちょっとだけ、自分の居場所を保てる気がした」

 「居場所?」

 「うん、居場所。自分は綾瀬の隣にいていいんだって、思える」

 私の隣にいていい……?
 ――って、何だかその言葉、告白に聞こえちゃうんだけど!
 もちろん、友達って意味だよね。それは分かっているのに自惚れてしまった。顔から火が出そうなほど恥ずかしい。

 「う、うん。もちろん、私は藤間くんのこと大切な友達だと思ってるよ」

 「俺も。まぁ、もしかしたら記憶を失う前も友達だったかもしれないけど」

 「あははっ、そうだね」

 もしかしたら、じゃなくて、きっと私たちは記憶を失う前も友達だったと思っている。
 分からないけれど、何だかそんな感じがする。藤間くんと話していると、あたたかい気持ちになるから。

 「記憶、戻るかなぁ……」

 「あぁ、大丈夫。俺も綾瀬もきっと記憶が戻るよ」

 私はその言葉に深く、強く頷いた。