病院を出て、私は一人寂しく帰り道を歩いていた。
 昨日までの空とは、違うように見えて。どんよりとした雲が広がり、目を塞ぎたくなるようなねずみ色の空をしていて。まるで私の心を表しているかのようだった。

 「……ただいま」

 「美雨、おかえり」

 「記憶が戻ったんだよな。トウマ先生から聞いたよ」

 お母さんとお父さんはいつもと変わらなくて、落ち着いている様子だ。どうして焦らないのだろう。
 ――それに私が記憶を取り戻したことを知っていたなら、何で迎えに来てくれなかったの?
 家族への怒りと疑問が一気に込み上げてくる。

 「……今は一人にしてほしい」

 そう言って、階段を駆け上がった。
 まだ何も整理できていない。家族のことも、友達のことも――藤間さんと真田さんのことも。
 信じられない。でも、信じられる。記憶を失っていた私は、いつも藤間さんのことを信じていた。恋をしていたから。
 でも今の私は、もう藤間さんのことを信じていない。ううん、信じることができないんだ。

 『あぁ。二人で、お互いの記憶を取り戻してみよう。新しいスタートだと思ってさ』

 いつかの、藤間さんの言葉を思い出す。
 ――新しいスタートなんて、バカみたい。結局私はスタートなんかしていない。これじゃあまた振り出しに戻ってしまった。
 私は今、楽しい? 記憶が戻ってから、幸せに生きていけると思う?
 ううん、思えない。私は心の隅で小さく思っていた。
 記憶が戻らずにあのまま藤間さんのことを何も知らないで恋をして、雪花ちゃんや風穂ちゃんと親友だったほうが幸せだったんじゃないかって。
 今は確実にそう思う。事実を知ってしまった今、苦しいことしか考えられない。誰か……助けて。

 「うっ……ぅ……」

 涙が止まらない。
 記憶を失っているときの私が考えていたことは、常に藤間さんのことだった。
 藤間さんだったらきっと、泣き虫だって言うんでしょ。
 でももう、藤間さんと付き合うことはたぶん……できない。それは好きだからとか、嫌いだからとか、そういう言葉では片付けられなくて。
 私はもう、記憶を失っている私ではないから。だから藤間さんへの恋心も、風と一緒に何処かへ行ってしまって。
 今はもう信じられないの。ずっといじめられてきて、いじめの主犯を好きになるなんて、そんなの馬鹿馬鹿しい。

 「うっ……あぁぁ……辛い、よ……」

 嗚咽混じりの声が、自分の部屋に響く。
 この部屋も、私のいる居場所を示しているかのようで。全部透明で、色混じりがなくて、何もない部屋。
 私はずっと孤独で透明で、何もないところにぽつんといたんだ。誰も手を差し伸べてくれなくて、見て見ぬふりをされて。

 カーテンを開けて窓の外を眺めると、藤間さんが心配そうに私の部屋を見つめていた。目が合ってしまいそうで、急いでカーテンを閉める。
 これでいい。藤間さんとはもう口を利きたくないから。でも一応付き合っていたわけだから、ちゃんと別れ話をしなければならないかもしれないけど。
 だけど、どうしてだろう。何故だろう。

 「藤間、くん……」

 こんなに胸が痛むのは。
 こんなにぎゅっと苦しくなるのは。
 こんなに愛おしくなるのは。

 ――記憶を失っているとき、あんなに好きだった藤間さんを前にすると、自分が自分じゃなくなるみたいで。
 本当にこれで、このままでいいのかな、なんて考えてしまう。
 でも、藤間さんは本当に記憶を失っているのかも不明。記憶喪失だなんて嘘を吐いて、私を見張っていたのかもしれない。
 そんなことを考えられるのは、私が藤間さんを信じていないからなんだよね。こんなんじゃ、好きだなんて言えない。

 いじめられていたとき、ものすごく苦しかった。誰にも本音を言えなくて、心を押し殺していて。
 いつも自分自身に問いかけていた。何のために私は、こんなに辛い毎日を生きているの? って。
 答えは簡単だった。いつか、誰かが私に手を差し伸べてくれるかもしれないから。その可能性があったから、私は必死に藻掻(もが)いていた。
 だけどもう、誰もいない。雪花ちゃんや風穂ちゃんも、家族も、藤間さんも。私のそばには誰もいないんだ。

 「死に……たい。消えたい。こんな世界で生きていたって、意味ないよ……っ」

 涙はもう流さなかった。
 たぶん、辛い思いに慣れてしまっているから。

 「どうして、私だけがこんなに、不幸にならなければいけないの?」

 ……ううん、不幸だなんて、誰が言った?
 私だけが不幸だなんて決めつけているのは、私自身だ。
 まだ何も行動できていない。それなのに死にたいなんて、消えたいなんて、言葉にしていいの?

 『その気持ちを正直に、ご家族やお友達に伝えればいいんじゃないかなって私は思うよ』

 トウマ先生の言葉を鮮明に思い出す。
 私の気持ちを正直に、家族や友達に伝えるとアドバイスしてくれた。
 いじめられていたときの過去の私だったら、きっと気持ちを伝えることはできないと思う。でも今の私だったら……?
 そんなの考えるよりも先に、足が一歩、一歩と進み出していた。急いで一階のリビングへと向かう。
 ――私のスタートはまだ、始まっていなかったんだ。