ぱちっと目を開けると、病室の天井だった。この光景を私はどれだけ見たのだろう。
 そばには藤間くんや、雪花ちゃんと風穂ちゃんが心配そうに私を見ているのが分かる。
 私が目を開いた瞬間、藤間くんは涙を流した。

 「綾瀬……大丈夫、か」

 「藤間くん、ありがとう。大丈夫だよ」

 だけどまだ、頭がズキン、ズキンと痛む。

 『藤間さん、真田さん、ごめんなさい』
 『なんだよ、もう降参か?』
 『まだダメだよ? あたしたちの一生の友達(・・)なんだからね』

 ――私と、藤間くんと、真田さんの声。

 その瞬間、失くしていた記憶が頭のなかに広がった。
 私はどうして、どうして忘れていたのだろう。あんなひどい毎日のことを忘れるはずがないのに。

 「……全部、思い出したよ」

 「えっ、美雨ちゃん、それって……」

 「記憶が戻った、ってこと? 待って、ダメ!」

 二人は私をなんとかなだめようとするけれど、もう無理だ。
 だって私は記憶を失う前の自分に戻ってしまったから。誰も信じることができないよ。


 私が記憶喪失になった理由は、自殺しようとしたから。
 自殺しようと思った原因は、いじめ。
 私のことをいじめていた人は――藤間くんと真田さんだ。


 雪花ちゃんや風穂ちゃん、クラスメイトは、私のいじめを見て見ぬふりをしていた。毎日私だけが標的だった。だから私を助けたら、今度は自分がいじめられるかもしれない。その恐怖の一心で。

 そして私と美空ちゃん。美空は、優秀だった。優等生で、可愛げがあって、家族思い。だけど私は馬鹿で、いじめられっ子の落ちこぼれ。お母さんたちも、美空だけを可愛がっていて、私のことなんて見てくれていなかった。

 藤間さんと真田さんは――毎日、私をいじめていた。購買で食べ物を奢ったり、荷物を持たされたり、教科書などに落書きされたり。
 私が少しでも抵抗したら叩かれたり、殴られたりすることもあった。だから言うことを聞くしかなかった。

 記憶喪失になれたらいいなってずっと思っていた。
 だって記憶を失うことができたら、また最初から人生をやり直すことができる。簡単な考えだと思う。
 家にも学校にも居場所がなく、そんな日々を耐えられるわけない。そして私は自殺を図ったんだ。

 「……藤間く――ううん、藤間さんは、騙していたの?」

 「え? 騙して、いた?」

 「藤間さんは本当は、記憶を失っていないの? 最初から、私が病院に運ばれたっていう情報を聞いて着いてきて、見張ってたの? 私が記憶喪失なのをいいことに」

 「……綾瀬、なにを、言ってるの。藤間さんってなに。どうしたの」

 ――私は、どうして、世界で一番嫌いな人を好きになってしまったのだろう。
 あんなに醜くて、最低で、私の高校生活を壊そうとしていた、大嫌いな人。そんな藤間さんを、どうして好きになったんだっけ。
 ……騙していたなんて、本当に信じられない。

 「雪花ちゃんと風穂ちゃんも、なんで黙ってたの? 私は記憶を失っているとき、記憶が戻っても今と生活が変わらないならそれでいいって思ってた。でも、全然違う。こんなの……ひどい」

 「美雨、ごめん。ちゃんといつかは話そうと思ってた。だっていじめのことを全部話したら、もう藤間さんを好きじゃなくなるでしょ? 恋愛、できなくなるでしょ? 傷つくのは美雨なんだから」

 「全部話したら、傷つく……? 違うよね? 私は大切な親友だと思っていた二人が真実を話してくれなかったことに、傷ついてるよ。……本当に、みんな、信じられない」

 私は病室を飛び出した。信じられない。誰も。この世界には私を救い出してくれる人は誰もいないの……?
 最後に見た、風穂ちゃんの涙を思い出して胸が痛くなる。私が彼女を傷つけてしまったんだ。私のせいで――。
 どん、と何かとぶつかった鈍い音がした。前を見ると、私が前を見ていなかったせいでトウマ先生と廊下で鉢合わせしてしまったみたい。

 「トウマ先生……!」

 「美雨さん、怪我はない?」

 「うぅ……っ」

 「……美雨さん、もしかして記憶が戻ったの?」

 私は静かに頷いた。
 診察室に案内されて、着いていくしかなかった。
 ――トウマ先生は、私を騙してないよね?
 そんなことを考えながらビクビクと怯えていた。

 「美雨さん、全部話してくれなくてもいいんだけどね。今の、正直な気持ちを話してくれる? 私はあなたを、信じているから」

 「……みんな、騙していたんです、私のことを。藤間さんも、友達も、家族も、みんな。もう、どうすればいいんですか!? いじめがあった学校にも、妹と差別されていた家にも居場所がない……っ」

 はぁ、はぁと取り乱していた私に、トウマ先生は何か声を掛けてくれるかと思った。
 だけど違った。何も言わず、そっと私を抱きしめてくれた。
 私が一番、してほしかったこと。それは優しい言葉を掛けてくれることじゃない。隣に誰か一人でも、私を信じてくれている人がいれば良かったんだ。

 「私……記憶喪失になりたかったんです。記憶を忘れて、もう一度人生をやり直したいと。でも、そんな簡単なことじゃなかったんですね。記憶喪失になったら、もっともっと、辛くなった。自分の首を絞めただけじゃない……」

 そう言うと、トウマ先生はいつものように安心できる優しい笑みを浮かべてくれた。

 「美雨さん、辛かったね。記憶を思い出すことができただけで、本当に偉い。その気持ちを正直に、ご家族やお友達に伝えればいいんじゃないかなって私は思うよ。――大丈夫だよ」

 トウマ先生の『大丈夫だよ』という言葉が、どこか馴染みのある感じがして。すごく安心できた。
 私は一人じゃないから大丈夫。大丈夫。大丈夫。そう思うと、だんだん落ち着いてきた気がする。

 「ありがとうございます、トウマ先生。本当に、ありがとう……」

 そう言って微笑んだトウマ先生は、誰よりも信じられる存在で、何よりも輝いていた。