退院して一週間。家にいると、突如藤間くんから電話が掛かってきた。
 私は電話に出るか迷った。初めての電話だから緊張して話せる気がしないから。でも出ないのも不自然だし、何か用があるから電話を掛けてきている訳だし……。
 ためらっていたけれど、通話ボタンを押した。

 「も、もしもし」

 『あっ、綾瀬? 急に電話しちゃってごめん、俺だけど』

 「と、藤間くん、どうしたの?」

 何だか急いでいるみたいだけれど、本当に緊急の電話なのだろうか。
 ――もしかして、何かあったのかな。
 胸騒ぎがする。もし藤間くんの身に何かあったらどうしようと心配になる。
 だけど藤間くんの声は心配とは裏腹で、明るくテンションの上がった声だった。

 『俺、少しだけど記憶を思い出したんだ』

 「えっ、本当に!?」

 『あぁ。学校のことは全然分からないけど。俺の、親父のことで』

 言われてみて、確かに不思議だった。最初の退院日、藤間くんのお母さんには会ったけれど、その場にお父さんはいなかった。
 教えてくれないから、自分からは聞かなかった。きっと藤間くんも記憶を失っていたから、お父さんのことは分からなかったのだろうけれど。

 『俺の親父、亡くなってるみたいでさ』

 「え……っ」

 『でも近くにあるらしいんだ。だから今度、会いに行ってみようかなって』

 衝撃だった。ごく普通にある、離婚かと思っていたから。
 きっと近くにあるというのは、藤間くんのお父さんのお墓のことだろう。
 自分の片親が亡くなるって、どういう気持ちなんだろう。そして記憶を失っているから顔や声すらも覚えていないって、どれだけ虚しいんだろう。
 私は両親がいるから、お父さんがこの世にいないっていう藤間くんの気持ちを分かってあげられることができない。……彼女、なのに。
 そう考えると自然と涙があふれてきた。

 『……綾瀬? どうかした?』

 「うぅ……ごめ……ん」

 『綾瀬!? ごめん、俺が急にこんな暗い話したから? ごめんな、本当に、綾瀬には関係ないし。全然気にしなくていいから、忘れて』

 どうして、そんな悲しいことを言うの?
 いつもそうやって、我慢しているの?
 なんで、自分の気持ちに嘘を吐くの?

 「そんな……こと、言わないで」

 『えっ……?』

 「私には関係ないなんて、そんな悲しいこと言わないで……。彼女、なのに。彼女なのに、藤間くんの気持ちを分かってあげられないのが悔しいの。藤間くんはお父さんが亡くなっていたことを知って辛いから、私に言ったんだよね……?」

 そう言うと、藤間くんは黙ってしまった。
 電話腰だけど分かる。藤間くんは我慢しているから、誰にも言えないから、私に『辛い』ってことを伝えたいんじゃないのかな。
 私は気持ちが止まらなかった。

 「私は、両親がいるからっ……藤間くんの気持ちが、分からない。でも、分からないから、抱きしめて……あげたい。精一杯、私にできることを、してあげたい……」

 『いいの? 綾瀬に甘えて……』

 「うん……っ」

 口を開けたときにぽつんと流れ落ちた涙は、少し甘じょっぱく感じた。――儚い恋の涙のよう。
 弱々しくて、甘えたいという藤間くんは別人のような気がした。だけどこれがきっと、本当の藤間くんなんだと思う。

 『……今から会いに行く』

 「えっ? 藤間くん?」

 急に電話がプツッ、と切れてしまった。私は訳が分からず、その場に立ち尽くしてしまう。
 ――今から会いに行く。藤間くんは、そう言ったよね。
 自分の部屋から駆け足で玄関に向かった。他なんてなにも関係ない。今私が見えているのは、真正面だけ。
 私は急いで、玄関を飛び出す。

 「藤間くん……!」

 そう言って、藤間くんを抱きしめた。
 あたたかいけれど、きっと藤間くんの心は冷えきっている。
 それが分かるのは、他の何にも代え難い、私と藤間くんの絆があるから。
 汗がダラダラと出てくる真夏だけれど、私と藤間くんの間だけ、どこか真冬のようだった。

 「俺、記憶を取り戻せたことはすごく嬉しかったんだ。だけど本当にショックだった、親父が死んでること。でもそれ以上に、親父が死んだことを忘れている俺に怒りが湧いてきてさ。なんでそんな重要なことを忘れて呑気に生きてるんだろうって……」

 「藤間くんは呑気なんかじゃないよ」

 呑気に、のうのうと、楽しそうに生きているわけじゃない。
 記憶喪失になってから、私が一番隣で見てきたから分かってる。藤間くんはたくさん辛いことを乗り越えて、頑張って生きてるんだよね?
 自分を責める必要はない。きっと藤間くんはのことに気づいていない。だから、私が言ってあげなければいけないんだと思う。

 「頑張ってるの知ってるよ。無理してるのも分かってる。自分の気持ちに嘘を吐かなくていいんだよ。泣きたいときも、悲しいときも、寂しいときも一人じゃないよ。私がいるじゃん」

 「……綾瀬に、そんな迷惑かけられないよ。こんな弱くてカッコ悪い自分、見せたくないし」

 「カッコ悪くなんかないよ!! 藤間くんはどんなときもかっこいいよ。いつも私の力になってくれて、頼りになるなぁって思ってる。だから藤間くんが辛いときは、そばにいさせて? お願い」

 藤間くんは力が抜けたのか、私の形に頭を乗せてきた。
 ――えっ、な、なに。恥ずかしすぎる。
 そう思ったけれど、藤間くんの寂しいという気持ちがすごく胸に伝わってきたから、何も言えなくなった。

 「ありがとう、綾瀬。綾瀬は可愛いだけじゃなくて、かっこいいんだな……」

 「そ、そんな。可愛くもないし、かっこよくもないよ」

 「そうかな。じゃあ、綾瀬のチャームポイントってなに?」

 「うーん、藤間くんのことを好きな気持ちは誰にも負けない、ってところかな」

 「はは、なにそれ。嬉しー……」

 その私のチャームポイントは、藤間くん以外の誰かに言ったらたぶん馬鹿にされると思うし、いじられると思う。
 でも本当に、藤間くんのことを好きな気持ちは負けないんだ。真田さんにも、他の誰かにも。
 ――だから、藤間くん。これからもそばにいさせてくれますか。
 そんな想いが藤間くんへ伝わるように、そっと優しく頭を撫でた。