今朝は、太陽が昇る前に目が覚めた。
東京へ向かう特急列車の中。カタンカタンと揺れる車内のリズムが、やけに眠気を誘う。
隣に好きな人がいるというのに、俺はいつの間にか瞼を閉じていた。
妙に現実的な夢は、日置と出会う前の懐かしい記憶を呼び起こした。
新学期初日。
振り分けられた二年五組に親しい友達はいなかった。それはもう、誰かの陰謀でも働いているのか疑うレベルで。
そんな中、最初に親しくなったのは仲里だった。
たまたま昇降口で鉢合わせた俺たちは、担任から教材運びを任された。何度か会話を交わせば、仲里の性格はすぐに分かった。一年の頃から小耳に挟んでいた通り、愛嬌があり、人懐こい。女子から人気があるのも頷ける。
「「おはよ!」」
職員室から教室へ向かう道中。配布物を抱える俺たちの背中に、聞き慣れない声がかかった。
振り返れば、知らない男子生徒が二人立っている。彼らは、もう一度仲里に「はよ〜」と手を挙げた。仲里の友人のようだ。
「……って、あれ? 渡会……くん?」
「えっ、知り合い? 何繋がり? 顔?」
俺を見上げた彼らは、分かりやすく目を丸くした。見比べるように忙しなく左右に動いていた目は、説明を求めるように俺の隣へと固定される。視線の集まった仲里は、ニパッと人懐っこい笑みを浮かべた。
「さっき友達になった」
「「え、なんで???」」
「なんでって、同じクラスなんだし普通だろ」
「「同じクラス……」」
二人の男子生徒は声を揃えて呟くと、思い出したようにパチンと手を叩いた。
「そうだ! 五組だ!」
「うわ、マジか〜! もう四天王のうち二人が出会ってんのかよ」
「なんの話?」
盛り上がる二人に、仲里が疑問を投げる。
二人は顔を見合わせ、困った表情を浮かべた。
痺れてきた手を誤魔化すように冊子を抱え直せば、それを催促と解釈したのか、彼らは慌てて口を開いた。
「四天王っていうのは、勝手に俺らの中で呼んでるだけだけど……その〜……この学年で顔の良い男四人」
「あとは堀田と守崎な。その二人とお前ら含めた四人が五組に集結しちゃったから、みんな騒いでんの!」
堀田と守崎。仲里と同じく、よく耳にする名前だった。もちろん、同じ学年なので、見かけたことは何度もある。
なんの偶然か、そんな話題の渦中にいる二人とも、初日から交友を深めることになる。
守崎は、新学期初日だけ隣の席だった。
「成績表は回収するので名前を書いたら……うしろの席の子、悪いけど自分の列の成績表を持ってきてください」
担任の指示にペンケースを取り出すと、隣から「なぁ」と声がかかった。怠そうに目を伏せる彼、守崎は、俺のペンケースを指差した。
「ネームペン持ってくんの忘れたから貸して」
「おけ」
回ってきた成績表を受け取り、手早く名前を記入した。去年の出席番号を書き慣れた手は、いつも通りの仕事をこなそうとする。いびつな数字で書き上げた成績表を手に立ち上がれば、守崎にネームペンを渡した。
「どーぞ」
「さんきゅ」
サインのようにペンを滑らせる守崎を背に、成績表を回収しながらクラスメイトの名前を目でたどる。もちろん、初めて目にする名前ばかり。
読み方の分からない名前にハテナを浮かべていれば、一冊、無記入の成績表が手渡された。目の前の大人しそうな女子生徒は、顔を真っ赤にしてうつむいている。
「……ペン持ってきてないの?」
「……あ! いや……その、…………」
彼女の机には、ペンケースすら見当たらなかった。
隣の席には、いかにも気の強そうな女子生徒。彼女は、友達らしい生徒と談笑している。前後は男子生徒ばかり。おそらく声をかけられなかったのだろう。
「守崎、俺のネームペン取って」
ちょうど席を立った守崎に声をかけ、ネームペンを受け取った。それを差し出せば、女子生徒は狼狽えながら見上げてきた。
「えっ、でも、いいの?」
「どうぞ」
「あ、ありがと……」
彼女はなぜか恐る恐る成績表にペンを滑らせた。
「……私も嘘ついて借りればよかった」
「……てか、先生に言えばよくね?」
気の強そうな女子生徒側から、そんな会話が聞こえてきた。俺が聞こえたのだから、当然彼女にも聞こえただろう。
余計な手助けだったかもしれない。特にどうすることもできず、彼女が書き終えるのを待った。
「あ、ありがとう……ございました……」
大人しそうな女子生徒は、目線を下に固定したまま成績表とペンを差し出す。
「どういたしまして」
丁寧に記入された成績表とペンを受け取り、担任の元へ向かった。
席へ戻る際も、彼女はうつむいたままだった。本当に、余計なことをしたかもしれない。けれど、あの行動以外思いつかない。
「ちょっと早いけど、体育館に移動しましょう」
枚数確認を終えた担任は、そう言って教室の電気をパチパチと切った。それを合図に、ガタガタと椅子の引く音が鳴り響く。
仲里の席へ目を向ければ、視線に気付いた彼はニコッと笑い、こちらへ駆けてきた。
「てっきり自己紹介すると思ってたんだけど」
彼の言葉に、去年の今頃を思い返した。今年はどうだろう。
「二年って自己紹介するの?」
「さぁ? 担任次第?」
首を傾げた仲里は、流れるように隣の席へ目を向け、また人懐っこい笑顔を浮かべた。
「堀田と、守崎だよね? 一年間よろしく」
話しかけられた二人の足がピタリと止まる。
「おー、よろしく」
爽やかな笑顔を浮かべるクラスメイトは堀田。噂通りの好青年だ。
「よろしく」
口元だけ弧を描く守崎。心を開くには、時間のかかるタイプのようだ。
「あ、渡会。ホームルーム前に席借りてた。ごめんな」
「全然いいよ」
律儀に謝罪を述べる堀田に笑みを返す。仲里と配布物を運んでいる間、俺の席に座って守崎と談笑していたらしい。
そんな些細な会話がキッカケとなり、俺たち四人は学校生活を共に過ごすことになった。
「言いたくなかったらいいけど、今彼女いるん?」
午前で終わった新学期初日の放課後。お昼を食べるために寄ったファストフード店で、仲里は控えめに話題を切り出した。声のトーンに反して内容は気になるようで、瞳はいきいきとしている。
様子を探るように他の二人を窺うと、堀田が気まずそうに守崎をチラッと盗み見た。気になる素振りに、少し口角が上がる。
「守崎から話してよ」
そう言葉にした途端、彼は分かりやすく顔に〝嫌〟の文字を浮かべた。
話す気がないなら堀田から聞こう。目線を隣へ移せば、遠慮がちに肩をすくめられた。
「つい最近、歳上メンヘラ彼女から解放されたばっかだから、傷えぐらないであげて」
「もうほぼ答え言ってるけどね」
堀田に笑い返す。守崎はますます不機嫌になった。そんな彼は、食べ終わったハンバーガーの包装紙を丸め、俺を睨んだ。
「渡会はどうなん?」
「俺は去年の夏に別れた」
もったいぶることなく口にする。
仲里は氷だけになったドリンクカップをかき混ぜて首を傾げた。
「へー、どんくらい付き合ってたん?」
「中二の冬からだから……一年半くらい?」
「なんで別れたん?」
堀田が身を乗り出す。仲里と守崎も、俺が話し出すのをジッと待っていた。
モテる彼らも、他人の恋愛話に興味が湧くようだ。
「普通に合わなくなったから」
「合わなくなった理由が知りたいんだけど」
仲里が続きを促す。
決定打になったのはなんだっけ。三人に話しつつ、中学時代に記憶を繋げた。
中学二年の夏、元カノのほうから告白してきた。細かいことはもう覚えていないけど、周りの友達も恋人を持っていたから、なんとなくOKした気がする。
中学生の交際なんて幼稚なもので、一緒に下校したり、近所のショッピングモールに行ったり、本当に些細なものだった。
違和感を感じたのは、高校生になってから。
楽しいかと聞かれれば、どちらかと言えば、中学時代のほうが楽しかった。
というのも、高校生からスマホを手にした彼女は、出先では必ず何枚もの写真を残した。その使い道が、気に入らなかった。
『理想のカップルってコメント来たの!』
『フォロワー一万人いったよ!』
嬉しそうな彼女の言葉は、ほとんど画面の中の俺たちに向けられていた。
出先で撮る写真は所詮〝いいね〟稼ぎでしかなかった。
だんだんと、「俺が好き」というより「俺と付き合っている自分が好き」に変わってしまったようだ。そんな彼女に気付いた途端、急に熱が冷めた。
もう彼女の欲求を満たす材料にはなりたくない。我慢も限界だった俺は、去年の夏、別れ話を切り出した。
「だから、しばらく彼女作る気はないかな」
締めくくるように言葉を切る。
忘れようと思っていたのに、鮮明に覚えていた自分に嫌気が差す。
もし、次に付き合う人は、第一印象や容姿だけではなく、俺の全てを受け入れてくれる、そんな人が良い。
密かな決意を胸に、新学期初日は幕を閉じたのだった。
それから数週間後。
日置を知るキッカケは、本当に些細なことだった。
「日直号令〜……って、日置か。一瞬日直って書いてあるのかと思った」
化学か地学……いや、生物だったかもしれない。
黒板の端を振り返った担当教師が、何気なく言い放った。〝日直〟と〝日置〟の文字が似ているというだけの、授業とは関係のないこと。
その言葉でクラスメイトたちは、どっと笑いだした。バカにしたつもりはないけど、俺もその中の一人だった。
「あー、すまんすまん。ほら静かにしろ〜! 授業始めるから」
担当教師の声が教室に響く。それでもクラスメイトたちはクスクスと笑いながら、前列の席に視線を投げていた。集まる視線の先を追うと、一人のクラスメイトが目に入った。
あの子が〝日置〟らしい。ここからでは丸い後頭部しか見えないが、きっと彼の表情は嫌悪に染まっているのだろう。
(……かわいそ)
他人事のように、風で煽られたページに向き直る。
可哀想。
初めて日置に抱いた感情だった。
それからまた数日後。
たまたま委員会が長引いた。俺ではなく、堀田と守崎の。同じ委員会の仲里は用事があるらしく、すでに帰っていた。
二人を待つべく向かった教室には、先客がいたようだ。中から数人の話し声が聞こえてきた。盛り上がっているのか、地声が大きいのか、男子生徒の声は廊下まで漏れている。
ズカズカと足を踏み入れる気など起きず、踵を返す。
「例のイケメンたちどうなん?」
今まで何度も耳にしてきた話題に、ピタリと足が止まった。
「どうって言われても……喋ったことない」
知らない男子生徒の声に答えたのは、どこかで聞いたことのある声だった。
「まぁ、日置は自分から行くタイプじゃないからな〜」
「隣の席の女子は渡会が好きらしいよ」
また知らない二人の声が耳に届く。
「日置」という名前に、教師にからかわれていた一人の生徒が浮かぶ。聞き覚えがあると思ったのは、同じクラスだったからか。
「渡会ってどんな感じ?」
イケメンたちどう?と話題を振った声が、また質問を投げる。
「え……だから喋ったことないって」
日置の声はためらいがちに答えた。
「まあまあ。第一印象でもいーからさ」
心臓がうるさかった。会話さえしたことのない相手から、どんな言葉が出てくるのか検討もつかない。皮肉や陰口を言われるだろうか。身も蓋もない噂話でもされるのだろうか。
俺はただ扉の向こうの彼が口を開くのを、じっと待つことしかできなかった。
「優しそう……とか?」
「えっ」
日置の言葉に、思わず声が漏れてしまった。幸いにも、教室内の彼らには俺の声は聞こえていなかったようで、会話が途切れることはなかった。
「なんで?」
「ペン貸してたから優しそう」
興味津々といった男子生徒の声に、日置はさらっと答えた。
「はー? そんなん俺でもできるしー? てか、もっと違うこと期待してたんだけど」
「違うことってなに」
「そりゃ、有名インフルエンサーと付き合ってるとか! 親が芸能人とか!」
「それは知らん」
彼らの会話を聞いていたはずなのに、俺の耳には日置の声しか残らなかった。
ペンを貸しただけで優しい? どこが?
本当にそう思っているのか、単純に他に言うことがなかったのか……おそらく後者だろうけど、こういった場では、嫌味が出るものだと思っていた。気を遣う義理など、俺と彼の間にはないはずなのに。
「やべ! 早く行かないと怒られる!」
「千本ノックとかやらされそ〜」
「日置がもったいぶるからさ」
「お前らが聞いてきたんだろ」
慌ただしく四人が教室から飛び出す。身を潜めていた俺に気付くことなく、彼らは体育館へ駆けていった。
静かになった教室へと足を踏み入れると、整列の乱れた机を縫って教壇へと上がった。
「日置…………朝陽っていうんだ」
名簿シートの位置を直し、目に焼き付けるように〝日置朝陽〟の文字を見つめた。
初めて〝同性〟から〝内面〟を褒められた。しかも、会話もまともに交わしたことのない相手から。
これが異性であれば、感じ方が違ったかもしれない。
同性から褒められるのは、こんなにも嬉しいのか。
ジワジワと胸の内から温まるような感覚がする。案外、自分はチョロかった。
「えー……なに一人で笑ってんの」
「なんか良いことあったん?」
俺の中で日置への好感度が爆上がりしている中、待ち人の声が聞こえた。顔を上げれば、眉間に皺を寄せた守崎と、首を傾げている堀田が立っていた。
「あったけど、教えない」
不満をこぼしてくる二人にニコリと笑みを向け、昇降口を目指した。
教師にからかわれていた印象しかなかった日置を意識し始めたのは……できれば友達になりたいと思ったのは、この時からだった。
気になったものに没頭しすぎるのは、自分の悪い癖かもしれない。
最初は友達になりたくて接していた日置に、友情ではない感情を抱くとは思わなかった。
それくらい、日置の人格は俺の理想だった。
日置と付き合えたらいいのに。
そう思えば思うほど、彼を自分のものにしたくなった。誰かが、俺と同じように彼の魅力に気付く前に、手に入れたかった。
男に好意を抱くことに対して、一切の抵抗がなかったわけではない。
たまたま、好きな人が男だっただけ。そう自分に言い聞かせた。
そんな悩みを打ち消してくれたのも、他でもない日置だった。彼自身、恋愛対象に男は入っていないはずなのに、自分の気持ちより俺の気持ちを優先してくれた。酒で頭も呂律も回らない中、頑張って俺の気持ちに答えようとしてくれた。そんな日置が、さらに愛おしくなった。
恋人になれたなんて、本当に、今でも夢かと疑うくらい信じられない。
一本の映画を観ていたようだ。カタンカタンと鳴っていた音は、いつの間にか雑音に変わっていた。
「渡会、起きて」
大好きな声に顔を上げる。
目の前の彼は、心配そうに俺を見つめていた。
「着いたけど……泣いてたの? どっか体調悪い?」
優しい手が俺の頬を撫でる。その上から手を重ねれば、ニコリと微笑んだ。
「泣いてたかも、嬉しくて」
「え、なんで?」
ポーン……と駅のチャイムが聞こえた。
頭にハテナを浮かべる彼の手を引き、席を立つ。ホームに降り立つと、地元ではなかなか味わえない賑やかさに目を細めた。
「楽しもうね。初デート」
大好きな彼を見下ろす。
可愛らしい小さな瞳を揺らした日置は、ふわりと笑った。きっと、今までの積み重ねがなければ見れなかった柔らかい笑顔。
もし、堀田と守崎の委員会が長引いていなかったら。あの大人しい女子生徒にペンを貸していなかったら。修学旅行の班決めで、日置を入れようと提案していなかったら。全部違っていた。
ひとつひとつの重なり合いが、俺たちを導いたのだ。
俺を受け入れてくれた日置に、たくさん感謝を伝えたい。彼が胸を張って自慢できる恋人でいたい。
欲が増すほど、愛も膨れた。
この手はもう、一生離さない。
-完-
東京へ向かう特急列車の中。カタンカタンと揺れる車内のリズムが、やけに眠気を誘う。
隣に好きな人がいるというのに、俺はいつの間にか瞼を閉じていた。
妙に現実的な夢は、日置と出会う前の懐かしい記憶を呼び起こした。
新学期初日。
振り分けられた二年五組に親しい友達はいなかった。それはもう、誰かの陰謀でも働いているのか疑うレベルで。
そんな中、最初に親しくなったのは仲里だった。
たまたま昇降口で鉢合わせた俺たちは、担任から教材運びを任された。何度か会話を交わせば、仲里の性格はすぐに分かった。一年の頃から小耳に挟んでいた通り、愛嬌があり、人懐こい。女子から人気があるのも頷ける。
「「おはよ!」」
職員室から教室へ向かう道中。配布物を抱える俺たちの背中に、聞き慣れない声がかかった。
振り返れば、知らない男子生徒が二人立っている。彼らは、もう一度仲里に「はよ〜」と手を挙げた。仲里の友人のようだ。
「……って、あれ? 渡会……くん?」
「えっ、知り合い? 何繋がり? 顔?」
俺を見上げた彼らは、分かりやすく目を丸くした。見比べるように忙しなく左右に動いていた目は、説明を求めるように俺の隣へと固定される。視線の集まった仲里は、ニパッと人懐っこい笑みを浮かべた。
「さっき友達になった」
「「え、なんで???」」
「なんでって、同じクラスなんだし普通だろ」
「「同じクラス……」」
二人の男子生徒は声を揃えて呟くと、思い出したようにパチンと手を叩いた。
「そうだ! 五組だ!」
「うわ、マジか〜! もう四天王のうち二人が出会ってんのかよ」
「なんの話?」
盛り上がる二人に、仲里が疑問を投げる。
二人は顔を見合わせ、困った表情を浮かべた。
痺れてきた手を誤魔化すように冊子を抱え直せば、それを催促と解釈したのか、彼らは慌てて口を開いた。
「四天王っていうのは、勝手に俺らの中で呼んでるだけだけど……その〜……この学年で顔の良い男四人」
「あとは堀田と守崎な。その二人とお前ら含めた四人が五組に集結しちゃったから、みんな騒いでんの!」
堀田と守崎。仲里と同じく、よく耳にする名前だった。もちろん、同じ学年なので、見かけたことは何度もある。
なんの偶然か、そんな話題の渦中にいる二人とも、初日から交友を深めることになる。
守崎は、新学期初日だけ隣の席だった。
「成績表は回収するので名前を書いたら……うしろの席の子、悪いけど自分の列の成績表を持ってきてください」
担任の指示にペンケースを取り出すと、隣から「なぁ」と声がかかった。怠そうに目を伏せる彼、守崎は、俺のペンケースを指差した。
「ネームペン持ってくんの忘れたから貸して」
「おけ」
回ってきた成績表を受け取り、手早く名前を記入した。去年の出席番号を書き慣れた手は、いつも通りの仕事をこなそうとする。いびつな数字で書き上げた成績表を手に立ち上がれば、守崎にネームペンを渡した。
「どーぞ」
「さんきゅ」
サインのようにペンを滑らせる守崎を背に、成績表を回収しながらクラスメイトの名前を目でたどる。もちろん、初めて目にする名前ばかり。
読み方の分からない名前にハテナを浮かべていれば、一冊、無記入の成績表が手渡された。目の前の大人しそうな女子生徒は、顔を真っ赤にしてうつむいている。
「……ペン持ってきてないの?」
「……あ! いや……その、…………」
彼女の机には、ペンケースすら見当たらなかった。
隣の席には、いかにも気の強そうな女子生徒。彼女は、友達らしい生徒と談笑している。前後は男子生徒ばかり。おそらく声をかけられなかったのだろう。
「守崎、俺のネームペン取って」
ちょうど席を立った守崎に声をかけ、ネームペンを受け取った。それを差し出せば、女子生徒は狼狽えながら見上げてきた。
「えっ、でも、いいの?」
「どうぞ」
「あ、ありがと……」
彼女はなぜか恐る恐る成績表にペンを滑らせた。
「……私も嘘ついて借りればよかった」
「……てか、先生に言えばよくね?」
気の強そうな女子生徒側から、そんな会話が聞こえてきた。俺が聞こえたのだから、当然彼女にも聞こえただろう。
余計な手助けだったかもしれない。特にどうすることもできず、彼女が書き終えるのを待った。
「あ、ありがとう……ございました……」
大人しそうな女子生徒は、目線を下に固定したまま成績表とペンを差し出す。
「どういたしまして」
丁寧に記入された成績表とペンを受け取り、担任の元へ向かった。
席へ戻る際も、彼女はうつむいたままだった。本当に、余計なことをしたかもしれない。けれど、あの行動以外思いつかない。
「ちょっと早いけど、体育館に移動しましょう」
枚数確認を終えた担任は、そう言って教室の電気をパチパチと切った。それを合図に、ガタガタと椅子の引く音が鳴り響く。
仲里の席へ目を向ければ、視線に気付いた彼はニコッと笑い、こちらへ駆けてきた。
「てっきり自己紹介すると思ってたんだけど」
彼の言葉に、去年の今頃を思い返した。今年はどうだろう。
「二年って自己紹介するの?」
「さぁ? 担任次第?」
首を傾げた仲里は、流れるように隣の席へ目を向け、また人懐っこい笑顔を浮かべた。
「堀田と、守崎だよね? 一年間よろしく」
話しかけられた二人の足がピタリと止まる。
「おー、よろしく」
爽やかな笑顔を浮かべるクラスメイトは堀田。噂通りの好青年だ。
「よろしく」
口元だけ弧を描く守崎。心を開くには、時間のかかるタイプのようだ。
「あ、渡会。ホームルーム前に席借りてた。ごめんな」
「全然いいよ」
律儀に謝罪を述べる堀田に笑みを返す。仲里と配布物を運んでいる間、俺の席に座って守崎と談笑していたらしい。
そんな些細な会話がキッカケとなり、俺たち四人は学校生活を共に過ごすことになった。
「言いたくなかったらいいけど、今彼女いるん?」
午前で終わった新学期初日の放課後。お昼を食べるために寄ったファストフード店で、仲里は控えめに話題を切り出した。声のトーンに反して内容は気になるようで、瞳はいきいきとしている。
様子を探るように他の二人を窺うと、堀田が気まずそうに守崎をチラッと盗み見た。気になる素振りに、少し口角が上がる。
「守崎から話してよ」
そう言葉にした途端、彼は分かりやすく顔に〝嫌〟の文字を浮かべた。
話す気がないなら堀田から聞こう。目線を隣へ移せば、遠慮がちに肩をすくめられた。
「つい最近、歳上メンヘラ彼女から解放されたばっかだから、傷えぐらないであげて」
「もうほぼ答え言ってるけどね」
堀田に笑い返す。守崎はますます不機嫌になった。そんな彼は、食べ終わったハンバーガーの包装紙を丸め、俺を睨んだ。
「渡会はどうなん?」
「俺は去年の夏に別れた」
もったいぶることなく口にする。
仲里は氷だけになったドリンクカップをかき混ぜて首を傾げた。
「へー、どんくらい付き合ってたん?」
「中二の冬からだから……一年半くらい?」
「なんで別れたん?」
堀田が身を乗り出す。仲里と守崎も、俺が話し出すのをジッと待っていた。
モテる彼らも、他人の恋愛話に興味が湧くようだ。
「普通に合わなくなったから」
「合わなくなった理由が知りたいんだけど」
仲里が続きを促す。
決定打になったのはなんだっけ。三人に話しつつ、中学時代に記憶を繋げた。
中学二年の夏、元カノのほうから告白してきた。細かいことはもう覚えていないけど、周りの友達も恋人を持っていたから、なんとなくOKした気がする。
中学生の交際なんて幼稚なもので、一緒に下校したり、近所のショッピングモールに行ったり、本当に些細なものだった。
違和感を感じたのは、高校生になってから。
楽しいかと聞かれれば、どちらかと言えば、中学時代のほうが楽しかった。
というのも、高校生からスマホを手にした彼女は、出先では必ず何枚もの写真を残した。その使い道が、気に入らなかった。
『理想のカップルってコメント来たの!』
『フォロワー一万人いったよ!』
嬉しそうな彼女の言葉は、ほとんど画面の中の俺たちに向けられていた。
出先で撮る写真は所詮〝いいね〟稼ぎでしかなかった。
だんだんと、「俺が好き」というより「俺と付き合っている自分が好き」に変わってしまったようだ。そんな彼女に気付いた途端、急に熱が冷めた。
もう彼女の欲求を満たす材料にはなりたくない。我慢も限界だった俺は、去年の夏、別れ話を切り出した。
「だから、しばらく彼女作る気はないかな」
締めくくるように言葉を切る。
忘れようと思っていたのに、鮮明に覚えていた自分に嫌気が差す。
もし、次に付き合う人は、第一印象や容姿だけではなく、俺の全てを受け入れてくれる、そんな人が良い。
密かな決意を胸に、新学期初日は幕を閉じたのだった。
それから数週間後。
日置を知るキッカケは、本当に些細なことだった。
「日直号令〜……って、日置か。一瞬日直って書いてあるのかと思った」
化学か地学……いや、生物だったかもしれない。
黒板の端を振り返った担当教師が、何気なく言い放った。〝日直〟と〝日置〟の文字が似ているというだけの、授業とは関係のないこと。
その言葉でクラスメイトたちは、どっと笑いだした。バカにしたつもりはないけど、俺もその中の一人だった。
「あー、すまんすまん。ほら静かにしろ〜! 授業始めるから」
担当教師の声が教室に響く。それでもクラスメイトたちはクスクスと笑いながら、前列の席に視線を投げていた。集まる視線の先を追うと、一人のクラスメイトが目に入った。
あの子が〝日置〟らしい。ここからでは丸い後頭部しか見えないが、きっと彼の表情は嫌悪に染まっているのだろう。
(……かわいそ)
他人事のように、風で煽られたページに向き直る。
可哀想。
初めて日置に抱いた感情だった。
それからまた数日後。
たまたま委員会が長引いた。俺ではなく、堀田と守崎の。同じ委員会の仲里は用事があるらしく、すでに帰っていた。
二人を待つべく向かった教室には、先客がいたようだ。中から数人の話し声が聞こえてきた。盛り上がっているのか、地声が大きいのか、男子生徒の声は廊下まで漏れている。
ズカズカと足を踏み入れる気など起きず、踵を返す。
「例のイケメンたちどうなん?」
今まで何度も耳にしてきた話題に、ピタリと足が止まった。
「どうって言われても……喋ったことない」
知らない男子生徒の声に答えたのは、どこかで聞いたことのある声だった。
「まぁ、日置は自分から行くタイプじゃないからな〜」
「隣の席の女子は渡会が好きらしいよ」
また知らない二人の声が耳に届く。
「日置」という名前に、教師にからかわれていた一人の生徒が浮かぶ。聞き覚えがあると思ったのは、同じクラスだったからか。
「渡会ってどんな感じ?」
イケメンたちどう?と話題を振った声が、また質問を投げる。
「え……だから喋ったことないって」
日置の声はためらいがちに答えた。
「まあまあ。第一印象でもいーからさ」
心臓がうるさかった。会話さえしたことのない相手から、どんな言葉が出てくるのか検討もつかない。皮肉や陰口を言われるだろうか。身も蓋もない噂話でもされるのだろうか。
俺はただ扉の向こうの彼が口を開くのを、じっと待つことしかできなかった。
「優しそう……とか?」
「えっ」
日置の言葉に、思わず声が漏れてしまった。幸いにも、教室内の彼らには俺の声は聞こえていなかったようで、会話が途切れることはなかった。
「なんで?」
「ペン貸してたから優しそう」
興味津々といった男子生徒の声に、日置はさらっと答えた。
「はー? そんなん俺でもできるしー? てか、もっと違うこと期待してたんだけど」
「違うことってなに」
「そりゃ、有名インフルエンサーと付き合ってるとか! 親が芸能人とか!」
「それは知らん」
彼らの会話を聞いていたはずなのに、俺の耳には日置の声しか残らなかった。
ペンを貸しただけで優しい? どこが?
本当にそう思っているのか、単純に他に言うことがなかったのか……おそらく後者だろうけど、こういった場では、嫌味が出るものだと思っていた。気を遣う義理など、俺と彼の間にはないはずなのに。
「やべ! 早く行かないと怒られる!」
「千本ノックとかやらされそ〜」
「日置がもったいぶるからさ」
「お前らが聞いてきたんだろ」
慌ただしく四人が教室から飛び出す。身を潜めていた俺に気付くことなく、彼らは体育館へ駆けていった。
静かになった教室へと足を踏み入れると、整列の乱れた机を縫って教壇へと上がった。
「日置…………朝陽っていうんだ」
名簿シートの位置を直し、目に焼き付けるように〝日置朝陽〟の文字を見つめた。
初めて〝同性〟から〝内面〟を褒められた。しかも、会話もまともに交わしたことのない相手から。
これが異性であれば、感じ方が違ったかもしれない。
同性から褒められるのは、こんなにも嬉しいのか。
ジワジワと胸の内から温まるような感覚がする。案外、自分はチョロかった。
「えー……なに一人で笑ってんの」
「なんか良いことあったん?」
俺の中で日置への好感度が爆上がりしている中、待ち人の声が聞こえた。顔を上げれば、眉間に皺を寄せた守崎と、首を傾げている堀田が立っていた。
「あったけど、教えない」
不満をこぼしてくる二人にニコリと笑みを向け、昇降口を目指した。
教師にからかわれていた印象しかなかった日置を意識し始めたのは……できれば友達になりたいと思ったのは、この時からだった。
気になったものに没頭しすぎるのは、自分の悪い癖かもしれない。
最初は友達になりたくて接していた日置に、友情ではない感情を抱くとは思わなかった。
それくらい、日置の人格は俺の理想だった。
日置と付き合えたらいいのに。
そう思えば思うほど、彼を自分のものにしたくなった。誰かが、俺と同じように彼の魅力に気付く前に、手に入れたかった。
男に好意を抱くことに対して、一切の抵抗がなかったわけではない。
たまたま、好きな人が男だっただけ。そう自分に言い聞かせた。
そんな悩みを打ち消してくれたのも、他でもない日置だった。彼自身、恋愛対象に男は入っていないはずなのに、自分の気持ちより俺の気持ちを優先してくれた。酒で頭も呂律も回らない中、頑張って俺の気持ちに答えようとしてくれた。そんな日置が、さらに愛おしくなった。
恋人になれたなんて、本当に、今でも夢かと疑うくらい信じられない。
一本の映画を観ていたようだ。カタンカタンと鳴っていた音は、いつの間にか雑音に変わっていた。
「渡会、起きて」
大好きな声に顔を上げる。
目の前の彼は、心配そうに俺を見つめていた。
「着いたけど……泣いてたの? どっか体調悪い?」
優しい手が俺の頬を撫でる。その上から手を重ねれば、ニコリと微笑んだ。
「泣いてたかも、嬉しくて」
「え、なんで?」
ポーン……と駅のチャイムが聞こえた。
頭にハテナを浮かべる彼の手を引き、席を立つ。ホームに降り立つと、地元ではなかなか味わえない賑やかさに目を細めた。
「楽しもうね。初デート」
大好きな彼を見下ろす。
可愛らしい小さな瞳を揺らした日置は、ふわりと笑った。きっと、今までの積み重ねがなければ見れなかった柔らかい笑顔。
もし、堀田と守崎の委員会が長引いていなかったら。あの大人しい女子生徒にペンを貸していなかったら。修学旅行の班決めで、日置を入れようと提案していなかったら。全部違っていた。
ひとつひとつの重なり合いが、俺たちを導いたのだ。
俺を受け入れてくれた日置に、たくさん感謝を伝えたい。彼が胸を張って自慢できる恋人でいたい。
欲が増すほど、愛も膨れた。
この手はもう、一生離さない。
-完-