月日が流れるのは早いもので、あっという間に高校生活三度目の春を迎えようとしていた。
「失礼します」
扉をゆっくり開け、職員室へ足を踏み入れる。いつものようにコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
担任は不在のようで、机の上には整頓された書類と、薄いガラスフレームに収まる修学旅行で撮ったクラス写真が飾られているだけだった。
「日誌ありがとね」
「えっ!? ……あ、すみません。デカい声出して」
写真に気を取られ、突然背にかかった声に、職員室にはふさわしくない声量を出してしまった。終業式が終わったばかりで騒がしいとはいえ、ちょっと響いた気がする。
振り返ると、申し訳なさそうに眉を下げた担任と目が合った。
「ごめんごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど」
「いえ、俺が勝手に驚いただけなんで」
軽く頭を下げ、目を逸らす。
わずかな沈黙に、ザワザワと周りの雑音が耳に届いた。これは……気まずい。
「あっ、日誌置きに来ただけで……」
早口でまくし立て、卓上に日誌を置く。その拍子に、飾られていた写真がカタンッと音を立てて倒れた。分厚くなった日誌と机との間に、風が生まれたようだ。
「あ……倒しちゃってすみません」
「いいよ、いいよ。割れてないし」
担任はそう言って笑った。
何事も焦るほど上手くいかない。フレームを元の場所に戻せば、また意識が写真に向いた。
「先生は来年度もいるんですか?」
する予定もなかった世間話を口に出す。
写真を眺めながら担任の返答を待っていたが、変に間が空き、気になって顔を上げた。担任は、先程と同じように眉を下げて笑っていた。
「それは来月のお楽しみかな」
「……そうなんですか。えっと、一年間お世話になりました」
多分だけど、本当に勘だけど、先生は異動するのだろう。
一年間の感謝を込めて頭を下げる。返ってきたのは、なぜか溜め息だった。
あれ、俺の印象は良くなかったのだろうか。通知表にはプラスなことばかり書かれていたのに。
一人で首を傾げていると、担任はわざとらしく肩を落とす素振りを見せた。
「本当に、修学旅行の班決めの時は、どうなるかヒヤヒヤしてたよ」
「……あの時は、その、すみません」
今度は謝罪を込めて頭を下げる。担任は「冗談だよ」と微笑み、俺の背中をポンッと叩いた。
温かく優しい手が、卓上に置かれた日誌へ伸び、思い出を振り返るようにパラパラとページを捲った。
「このクラス楽しかった?」
「はい、友達も増えたので」
「渡会君たちだよね? すごい仲良いよね」
「そうですね、休日も一緒に遊ぶくらいには」
「へ〜……高校の友達って大人になっても関わりがあったり、なかったりするけど──」
担任は顔を上げ、ニコリと笑った。
「君たちはこれからも仲良くありそうだね」
高校二年の担任。たった一年間の担任。ただ、それだけ。それだけなのに、その言葉は妙に確信を持っていた。
「そのつもりです」
俺も担任に笑顔を返し、最後にもう一度頭を下げて職員室をあとにした。
生徒の影がなくなった静かな廊下に、自分だけの足音が響く。昼の日差しが強くなってきたのか、見慣れた廊下はやけに眩しく感じた。
『君たちはこれからも仲良くありそうだね』
担任の言葉が、頭の中で反復した。
ただの我儘な願望だけど、俺もそうであってほしいし、そうでありたい。
中学から一緒の辻谷と猪野。高校の部活から知り合った水無瀬。修学旅行をきっかけに仲良くなった仲里と堀田と守崎。そして、特別な存在になった渡会。
階段を駆け上がり、思い出の詰まった教室へと足を踏み入れる。そこには、一人の生徒が待っていた。
「ただいま」
閑散とした教室に俺の声が響く。
「おかえり」
スマホから顔を上げた渡会は、柔らかく微笑んだ。そんな彼に微笑み返し、自分の席へ足を向けた。
散らばっていた筆記用具をペンケースにしまえば、俺の手元を眺めている渡会に目を向ける。
「先生、次もいると思う?」
「先生って俺らの?」
「うん」
「さぁ……どうだろ」
渡会は興味なさげに、ポツリと言葉を落として頬杖をついた。どこか上の空の彼が気になり、帰りの支度を止めて椅子を引いた。
「気にならないタイプ?」
「ん〜……それより三年のクラス割のほうが気になる」
「あー……それは、たしかに」
上の空だったのはそのせいか。
一人で納得し、不安を抱く渡会に笑いかける。
「クラス別になっても気持ちは変わらないよ」
「まぁ、変わらせないけどね」
渡会はそう言って口角を上げ、俺の手を取り、指を絡めた。くすぐったさに頬を緩めると「ねぇ」と小さい声が耳に届いた。
「俺のお願い聞いてくれる?」
「内容によるけど、いいよ」
「春休み予定空いてる? できるかぎり会いたいんだけど」
「え……」
なんだ、そんなことか。と言うと失礼になるかもしれないけど、あまりにも簡単すぎるお願いに、思わず戸惑いの声を漏らしてしまった。
案の定、俺の反応に渡会は眉を下げる。
「予定あった?」
「あ、いや、そうじゃなくて。お願いされるほどじゃないっていうか……」
「OKってこと?」
「もちろん」
小刻みに頭を揺らせば、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。
「ちょっと遠くてもいい?」
「どこ行くの?」
「東京とか」
「おぉ……」
「ダメそう?」
「ううん、思ってたより遠かったからびっくりしただけ。全然いいよ」
「良かった。ありがと」
渡会はまた笑顔を浮かべ、片手でスマホを手に取った。おそらく、行く予定のお店のアカウントか、ホームページを見せてくれるのだろう。
彼を待つ間、繋がれているもう片方の手をさらにギュッと握った。
「早く見せろって?」
渡会は顔を上げて笑った。
「違う。暇潰してるだけ」
「もう少し待ってて」
また、愛しさに溢れる瞳が前髪の奥へ隠れた。
手持ち無沙汰に、鮮やかな淡紅色に覆われた外を眺めた。ここから見る景色も今日で最後だな、なんて感情的になっていると、窓からそよそよと春の風が入り込んできた。暖かい風は、散り始めた桜の花弁を乗せて優しく髪を撫でた。
「電車だよね?」
窓外から目線を戻し、伏せられた頭に話しかける。
「うん。まだ運転できないし」
「免許持ってたら車だったんだ」
「でも、車なら行き先違うかも」
「ドライブだけでも楽しそう」
「あー、いいね。免許取ったら出掛けよ」
「渡会は運転上手そうな気がする」
「カートゲームは下手だよ」
「あー……じゃあ、乗る時はヘルメット被ってこ」
「ははっ! そこまでじゃないって」
「ね、俺たち付き合わない?」
会話の続きのようなテンションだった。雰囲気作りも、緊張感も何もない。それでも、なぜか言葉が口を衝いた。
伏せられていた瞼がゆっくりと上がり、一つ、また一つまたたく。
「付き合っ……どこに?」
「その付き合うじゃなくて、俺の恋人になってほしいって意味」
「あぁ……そっちか…………」
返事はしているものの、まだ理解できていないようだった。スマホをいじっていた手は止まり、瞳は俺に固定されている。
また暖かい春風が二人の間を通り過ぎた。穏やかな風が、空っぽの教室を満たす。
「冗談じゃないよね……?」
目の前の彼は、俺を見つめたまま口を開いた。
「冗談じゃないよ」
「俺と、日置が……だよね?」
「そうだよ」
「本当に……」
「うん」
「そ、そっか…………」
風で揺れる前髪の下で、澄んだ瞳が揺れた。
「返事は待ったほうがいい?」
「あ、いや……」
言葉を区切った渡会が、もう一度目をまたたく。すると、頬に一筋の光が伝った。
バスで見た寝顔といい、泣き顔といい、意外と子供らしいんだな。鼻も頬も真っ赤に染めて、ぽろぽろと涙を溢す彼に自然と頬が緩んだ。
「嬉し泣きってことで受け取っていい?」
繋いでいた手を解き、涙を拭った。
「……恥ずかしさと、情けなさも混ざってる」
「なんで」
「……すげーかっこ悪いじゃん」
渡会は制服の裾を引っ張り、雑に頬を擦った。
本当は、渡会からもう一度告白するつもりだったと思う。初めて想いを告げられた時も、そう言っていた。でも、すっかり忘れていたのだろう。普段の距離感だと、恋人同士と変わらないし無理もない。
「たまには俺にもかっこつけさせてよ」
いまだ鼻を啜る彼に笑いかけるが、当の本人は目元を拭って眉間に皺を寄せるだけだった。
「本当に……俺でいいの?」
涙の膜に覆われた瞳が揺れる。
散々迫っておいて、好きにさせておいて、最後の最後に逃げ道を与えてくる渡会は、優しくもあり意地悪でもある。
「うん。渡会が良いし、渡会じゃなきゃ嫌」
今までも、これからも。
ゆっくり言葉を紡ぐと、強張っていた表情が柔らかく緩んだ。
告白って、こんなに精神的にも体力的にもキツいんだ。俺はまだ渡会の好意を知っていて告白したからマシだけど、彼は俺の気持ちも知らずに打ち明けたんだもんな。
「渡会はすごいね」
「……なんで?」
「海で打ち明けてくれた時、怖くなかったの?」
「あぁ……半分ヤケになってたかな。嫌われると思ってたし」
ポツリと呟いた彼は、目線を外へ投げ出した。
「日置は元々、恋愛対象が男じゃないでしょ?」
「うん……渡会はそうだったの?」
「いや、俺も違う」
区切られた言葉の続きは、迷いと寂しさを含んでいた。
「違うから、怖かった……でも、好きになる相手に正解なんてないから。自分を信じるしかなかった」
世間では、同性愛への理解を呼びかける動きがあるが、まだまだ一般的ではない。器用な彼は何事もそつなくこなしていると思ったけど、俺の見えない所でたくさん悩んで、抱え込んでいたのだろう。
「ありがとう。言葉にしてくれて」
「途中で洗脳方法とか調べたのは、さすがにヤバいと思ったけどね」
「…………ん? え?」
「ははっ、嘘だよ」
今の言葉は聞かなかったことにしておこう。
緊張の解けた空気に息を吐くと、席を立ち、凝り固まった体を伸ばした。
「そろそろ行こっか」
「待って、まだ顔赤い?」
「ううん。目はちょっと腫れてるけど」
「……マジか」
恥ずかしさに頬を染めた渡会は、スマホの画面を鏡代わりに身なりを整えだした。その間、日直の仕事をこなすべく窓へ足を向けた。窓下に見える駐輪場には、在校生の姿がチラホラ見受けられる。
施錠確認を終え、リュックに手をかければ、なぜかあることを思い出した。
「そういえば、もう忘れてるかもだけど」
「ん?」
バッグを肩にかけた渡会は小首を傾げた。
「修学旅行でおみくじ引いたじゃん?」
「うん」
「渡会の恋愛のとこが、〝己を信じて進むべし〟だったんだけど」
「あぁ、よく覚えてるね」
俺もよく覚えていたと思う。
けれど、きっと、必然的に思い出したのだ。
「当たってたね」
誇らしげに鼻を鳴らす。
渡会はポカンとした表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「そうだね。日置のはなんて書いてあった?」
「あれ、何だっけ。でもあんまり関係なかった気がするけど」
「そっか……あ」
渡会の足がピタリと止まる。
忘れ物でもあったのだろうか。振り返れば、優しい眼差しが俺を見下ろした。
「さっきの返事してなかったよね」
「返事……あぁ、告白の」
「そう」
そういえば、そうだった。もう答えを聞かなくても分かった気になっていた。
また緊張の走る空気に、コクンと喉を鳴らした。
「これからよろしくね」
「こちらこそ」
「抱きしめてもいい?」
「ど、どうぞ」
ぎこちなく腕を広げ、彼を受け入れる。渡会は溶けそうな笑顔を浮かべて、リュックごと抱き締めてくれた。荷物は少ないからほとんどペシャンコだけど、抱き締めづらくないだろうか。
まぁ、いいか。渡会の体温と心臓の音が微かに伝わってきて心地良い。
お互い満足するまでそのままでいると、ゆっくり体が離れた。ご満悦な笑みに、こちらも頬が緩む。
「これからは許可取らなくても大丈夫だよ」
「……え」
「あー……えと、もう付き合ってるから」
「彼氏だから好きにしていいの?」
「か、かれ……まぁ、そう。うん」
彼氏という言葉に、今さらジワジワと付き合った自覚が芽生えてきた。
まさかの遅延性に首のうしろが熱くなる。耳まで熱くなってきたのを感じると渡会から目線を外し、顔を隠すようにポスッと肩に顔を埋めた。彼氏だから好きにさせてくれ。恥ずかしさが引くまで。
「照れちゃった?」
「…………うん」
「ははっ、可愛い」
できればかっこいい彼氏でいたいけど、今は無理かもしれない。
「日置」
頭上から俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
それだけ。次に続く言葉は落ちてこない。
疑問を抱き、顔を上げれば、唇に柔らかい何かが触れた。
「え」
満足そうな渡会を、呆けた顔で見つめることしかできない。
自身の唇に手を持っていき、先程の感覚を追うように指で撫でた。
「こっちも慣れていこ」
「あぁ……はい」
追いつかない頭で返事をした。本当に一瞬のことで、頭が真っ白だった。
キスされたと気付いたのは、どれくらい経った頃だったか。
渡会を見つめて固まっていると、目の前の彼は肩を揺らして笑いだした。
「あはは! ごめん。びっくりしたよね」
「いや、こっちこそ、なんかごめん。慣れてなくて」
「いいよ。慣れてるほうが嫌だし」
三日月に形取られた目がスッと細まる。
あぶね。慣れてたら根掘り葉掘りの尋問大会が始まるところだった。
ちゃっかり自分は棚上げしてるけど、恋愛経験のある彼にとってキスなんて挨拶と同じくらいなのかもしれない。
「キスは大丈夫なのに、彼氏って言葉には照れちゃうんだね」
「え……あ、たしかに。でも遅延性だから、家帰ったら死ぬほど恥ずかしがってると思う」
「へぇ……今日、俺の家来る?」
「いや、いいよ。今日は勘弁して」
「今日〝は〟ダメなんだ? じゃあ今日以外だったらいい?」
「あ、……うん」
もう誰か俺の口を縫ってくれないだろうか。
喋るたびに墓穴を掘る自分に言葉を失う。そんな俺を助けるように、聞き慣れたチャイムが鳴った。ある意味、救世主だ。ありがとう、チャイム。
廊下へ出れば、眩しいくらいの光が二人を包んだ。
「さっき抱き締められた時に気付いたんだけど」
二人分の足音を響かせながら、隣を歩く渡会を見上げる。
視線の先の彼は、不思議そうに首を傾げた。
「なに?」
「多分……いや、確実に背伸びたよね」
「え、俺?」
「そう」
「まぁ、伸びてるかもだけど、何で分かったん?」
「なんか、見上げた時に前よりちょっと遠く感じたから」
そう言って階段に差し掛かったタイミングで足を止め、一段先に降りた彼を見下ろした。
渡会から見る俺はこのくらいか。もうちょい高いかな。背伸びをして調節していると、渡会はクスクスと肩を揺らした。
「日置が俺よりデカいとなんか違和感かも」
「え、なんで。個人的には同じくらいになりたいんだけど」
「俺は上目遣いで見上げてくれるほうが好き」
「……男の上目遣いに需要あるん?」
「あるよ。彼氏だからね」
意地悪そうな笑みが浮かぶ。
彼氏フィルターってすごいんだな。機嫌の良い背中を追うと、下駄箱のほうからうるさいくらいの声が聞こえてきた。
「あー! やっと来た!」
「おい、おせーぞ!」
「マジで腹減って死ぬんだけど!」
二年の下駄箱前で、部活仲間の辻谷と猪野と水無瀬が急かすように手招きをしている。その隣には、仲里と堀田と守崎の姿も見えた。
もう帰ったと思っていたけど、なんでいるんだろう。
「おい、まさか忘れたわけじゃないよな?」
俺の困惑顔に気付いた辻谷が、呆れたように溜め息をついた。
「……ごめん、なんだっけ」
「うわ〜、マジかよ! 今日学校終わったら回る寿司食いに行こうって言ったじゃん!」
俺の返答に、今度は猪野が声を上げた。
寿司……言ってたっけ? そんなこと。
サンダルをリュックにしまいながら今日を振り返る。それでも、先程の渡会とのやり取りしか頭に浮かび上がらない。
説明を求めるように部活仲間へ目を向けたが、それを遮るように手を繋がれた。
「ま、いいじゃん。今から行こうよ」
渡会は俺を見下ろして微笑んだ。
了承の言葉に、辻谷はビシッと駅の方向を指差した。
「じゃあ出発〜」
その背中に、猪野と水無瀬も続く。
「てか俺、自転車だから駅前集合?」
「二人乗りしようぜ」
空腹が我慢できない早歩きの三人を前に、守崎が何かを訴えるように俺と渡会の間で繋がれた手を一瞥した。
「どうでもいいけど、限度考えろよな」
呆れ交じりの声に、俺も目線を落とした。
皆の前で手を繋いだことなんて何度もある。けれど、以前は理由があった。眼鏡をかけていないからとか、酒を誤飲したからとか。
あぁ、そうか。恋人って理由がなくても触れていいんだ。
そう思うと、場違いにも頬が緩んだ。慌てて繋いでいない手で押さえるが、止められそうにない。
隣の渡会を窺うと、バチっと目が合った。
「どうしよう」
「うん?」
「俺、今すごく浮かれてると思う」
眉を下げて笑った。
渡会はキョトンとした顔を浮かべたあと、口元をほころばせた。
「俺も」
これが幸せってやつか。
頬から手を外し、ゆるゆるな笑顔を向ける。
「おーい! ストップストップ! これ以上は俺が耐えられない!」
「俺らもいるの忘れんなよ! てか雰囲気甘すぎて吐きそう」
俺は仲里に、渡会は堀田に取り押さえられた。
顔だけうしろへ向けると、表情を曇らせた仲里が首を横に振った。
「そういうのは俺らが見てないとこでお願いしたいんだけど」
「……ごめん。完全に渡会しか見えてなかった」
「おいおい。息するように惚気んな」
さらに顔を顰められ、パッと手が離れる。気を遣って、リュックだけに触れていた仲里は、なんだかんだ優しいなと思う。
「でも、そういうことだから」
バッグを背負い直した渡会がポツリと呟いた。
「もちろん限度は分かってる。けど、日置への態度も、お前らへの態度も変える気はないから。嫌だったら、その……」
「つか、それ。こっちの台詞」
言葉に詰まった渡会に、守崎が口を挟んだ。
二人揃って驚いた顔のまま守崎を見つめる。彼は怠そうに眉間に皺を寄せた。
「俺だって、お前らへの態度変える気ないし。そもそも、嫌だったらもっと前から距離取ってんだけど」
言葉とは裏腹にホッとした笑みを浮かべた守崎。なぜか肩の荷が降りたような表情をした彼に疑問を抱けば、仲里にポンッと肩を叩かれた。
「あんなこと言ってるけど、一番気にしてたの守崎だから」
「二人がいない時、ずっとソワソワしてたよ」
堀田もなかなか動かない俺らに笑いかけ、仲里に続いて守崎の隣へ並んだ。
顔を見合わせた渡会と、気が抜けたように笑い合う。軽くなった足取りで、三人の隣に並んで歩いた。
「てか何皿食べる?」
「テーブルの上、すごいことになりそう」
「そういや財布に何円入ってるか覚えてないや」
「その前に定期更新しに行っていい?」
「あと親に連絡しておかないと」
いつもと変わらない会話を交え、校門を目指す。遠くから、辻谷と猪野と水無瀬の声も聞こえてきた。
周りには楽しそうに笑う友人たち。隣には優しく微笑んでくれる恋人。
高校生活なんて、人生のほんの一部でしかないけど、この一年で過ごした日々は、ずっと心に残るだろう。何より、全てのキッカケとなった修学旅行は、俺にとって特別な思い出になった。
春風を肌に感じながら、そっと渡会の手を握った。この温もりが、ずっと離れないように願いながら。
「失礼します」
扉をゆっくり開け、職員室へ足を踏み入れる。いつものようにコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
担任は不在のようで、机の上には整頓された書類と、薄いガラスフレームに収まる修学旅行で撮ったクラス写真が飾られているだけだった。
「日誌ありがとね」
「えっ!? ……あ、すみません。デカい声出して」
写真に気を取られ、突然背にかかった声に、職員室にはふさわしくない声量を出してしまった。終業式が終わったばかりで騒がしいとはいえ、ちょっと響いた気がする。
振り返ると、申し訳なさそうに眉を下げた担任と目が合った。
「ごめんごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど」
「いえ、俺が勝手に驚いただけなんで」
軽く頭を下げ、目を逸らす。
わずかな沈黙に、ザワザワと周りの雑音が耳に届いた。これは……気まずい。
「あっ、日誌置きに来ただけで……」
早口でまくし立て、卓上に日誌を置く。その拍子に、飾られていた写真がカタンッと音を立てて倒れた。分厚くなった日誌と机との間に、風が生まれたようだ。
「あ……倒しちゃってすみません」
「いいよ、いいよ。割れてないし」
担任はそう言って笑った。
何事も焦るほど上手くいかない。フレームを元の場所に戻せば、また意識が写真に向いた。
「先生は来年度もいるんですか?」
する予定もなかった世間話を口に出す。
写真を眺めながら担任の返答を待っていたが、変に間が空き、気になって顔を上げた。担任は、先程と同じように眉を下げて笑っていた。
「それは来月のお楽しみかな」
「……そうなんですか。えっと、一年間お世話になりました」
多分だけど、本当に勘だけど、先生は異動するのだろう。
一年間の感謝を込めて頭を下げる。返ってきたのは、なぜか溜め息だった。
あれ、俺の印象は良くなかったのだろうか。通知表にはプラスなことばかり書かれていたのに。
一人で首を傾げていると、担任はわざとらしく肩を落とす素振りを見せた。
「本当に、修学旅行の班決めの時は、どうなるかヒヤヒヤしてたよ」
「……あの時は、その、すみません」
今度は謝罪を込めて頭を下げる。担任は「冗談だよ」と微笑み、俺の背中をポンッと叩いた。
温かく優しい手が、卓上に置かれた日誌へ伸び、思い出を振り返るようにパラパラとページを捲った。
「このクラス楽しかった?」
「はい、友達も増えたので」
「渡会君たちだよね? すごい仲良いよね」
「そうですね、休日も一緒に遊ぶくらいには」
「へ〜……高校の友達って大人になっても関わりがあったり、なかったりするけど──」
担任は顔を上げ、ニコリと笑った。
「君たちはこれからも仲良くありそうだね」
高校二年の担任。たった一年間の担任。ただ、それだけ。それだけなのに、その言葉は妙に確信を持っていた。
「そのつもりです」
俺も担任に笑顔を返し、最後にもう一度頭を下げて職員室をあとにした。
生徒の影がなくなった静かな廊下に、自分だけの足音が響く。昼の日差しが強くなってきたのか、見慣れた廊下はやけに眩しく感じた。
『君たちはこれからも仲良くありそうだね』
担任の言葉が、頭の中で反復した。
ただの我儘な願望だけど、俺もそうであってほしいし、そうでありたい。
中学から一緒の辻谷と猪野。高校の部活から知り合った水無瀬。修学旅行をきっかけに仲良くなった仲里と堀田と守崎。そして、特別な存在になった渡会。
階段を駆け上がり、思い出の詰まった教室へと足を踏み入れる。そこには、一人の生徒が待っていた。
「ただいま」
閑散とした教室に俺の声が響く。
「おかえり」
スマホから顔を上げた渡会は、柔らかく微笑んだ。そんな彼に微笑み返し、自分の席へ足を向けた。
散らばっていた筆記用具をペンケースにしまえば、俺の手元を眺めている渡会に目を向ける。
「先生、次もいると思う?」
「先生って俺らの?」
「うん」
「さぁ……どうだろ」
渡会は興味なさげに、ポツリと言葉を落として頬杖をついた。どこか上の空の彼が気になり、帰りの支度を止めて椅子を引いた。
「気にならないタイプ?」
「ん〜……それより三年のクラス割のほうが気になる」
「あー……それは、たしかに」
上の空だったのはそのせいか。
一人で納得し、不安を抱く渡会に笑いかける。
「クラス別になっても気持ちは変わらないよ」
「まぁ、変わらせないけどね」
渡会はそう言って口角を上げ、俺の手を取り、指を絡めた。くすぐったさに頬を緩めると「ねぇ」と小さい声が耳に届いた。
「俺のお願い聞いてくれる?」
「内容によるけど、いいよ」
「春休み予定空いてる? できるかぎり会いたいんだけど」
「え……」
なんだ、そんなことか。と言うと失礼になるかもしれないけど、あまりにも簡単すぎるお願いに、思わず戸惑いの声を漏らしてしまった。
案の定、俺の反応に渡会は眉を下げる。
「予定あった?」
「あ、いや、そうじゃなくて。お願いされるほどじゃないっていうか……」
「OKってこと?」
「もちろん」
小刻みに頭を揺らせば、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。
「ちょっと遠くてもいい?」
「どこ行くの?」
「東京とか」
「おぉ……」
「ダメそう?」
「ううん、思ってたより遠かったからびっくりしただけ。全然いいよ」
「良かった。ありがと」
渡会はまた笑顔を浮かべ、片手でスマホを手に取った。おそらく、行く予定のお店のアカウントか、ホームページを見せてくれるのだろう。
彼を待つ間、繋がれているもう片方の手をさらにギュッと握った。
「早く見せろって?」
渡会は顔を上げて笑った。
「違う。暇潰してるだけ」
「もう少し待ってて」
また、愛しさに溢れる瞳が前髪の奥へ隠れた。
手持ち無沙汰に、鮮やかな淡紅色に覆われた外を眺めた。ここから見る景色も今日で最後だな、なんて感情的になっていると、窓からそよそよと春の風が入り込んできた。暖かい風は、散り始めた桜の花弁を乗せて優しく髪を撫でた。
「電車だよね?」
窓外から目線を戻し、伏せられた頭に話しかける。
「うん。まだ運転できないし」
「免許持ってたら車だったんだ」
「でも、車なら行き先違うかも」
「ドライブだけでも楽しそう」
「あー、いいね。免許取ったら出掛けよ」
「渡会は運転上手そうな気がする」
「カートゲームは下手だよ」
「あー……じゃあ、乗る時はヘルメット被ってこ」
「ははっ! そこまでじゃないって」
「ね、俺たち付き合わない?」
会話の続きのようなテンションだった。雰囲気作りも、緊張感も何もない。それでも、なぜか言葉が口を衝いた。
伏せられていた瞼がゆっくりと上がり、一つ、また一つまたたく。
「付き合っ……どこに?」
「その付き合うじゃなくて、俺の恋人になってほしいって意味」
「あぁ……そっちか…………」
返事はしているものの、まだ理解できていないようだった。スマホをいじっていた手は止まり、瞳は俺に固定されている。
また暖かい春風が二人の間を通り過ぎた。穏やかな風が、空っぽの教室を満たす。
「冗談じゃないよね……?」
目の前の彼は、俺を見つめたまま口を開いた。
「冗談じゃないよ」
「俺と、日置が……だよね?」
「そうだよ」
「本当に……」
「うん」
「そ、そっか…………」
風で揺れる前髪の下で、澄んだ瞳が揺れた。
「返事は待ったほうがいい?」
「あ、いや……」
言葉を区切った渡会が、もう一度目をまたたく。すると、頬に一筋の光が伝った。
バスで見た寝顔といい、泣き顔といい、意外と子供らしいんだな。鼻も頬も真っ赤に染めて、ぽろぽろと涙を溢す彼に自然と頬が緩んだ。
「嬉し泣きってことで受け取っていい?」
繋いでいた手を解き、涙を拭った。
「……恥ずかしさと、情けなさも混ざってる」
「なんで」
「……すげーかっこ悪いじゃん」
渡会は制服の裾を引っ張り、雑に頬を擦った。
本当は、渡会からもう一度告白するつもりだったと思う。初めて想いを告げられた時も、そう言っていた。でも、すっかり忘れていたのだろう。普段の距離感だと、恋人同士と変わらないし無理もない。
「たまには俺にもかっこつけさせてよ」
いまだ鼻を啜る彼に笑いかけるが、当の本人は目元を拭って眉間に皺を寄せるだけだった。
「本当に……俺でいいの?」
涙の膜に覆われた瞳が揺れる。
散々迫っておいて、好きにさせておいて、最後の最後に逃げ道を与えてくる渡会は、優しくもあり意地悪でもある。
「うん。渡会が良いし、渡会じゃなきゃ嫌」
今までも、これからも。
ゆっくり言葉を紡ぐと、強張っていた表情が柔らかく緩んだ。
告白って、こんなに精神的にも体力的にもキツいんだ。俺はまだ渡会の好意を知っていて告白したからマシだけど、彼は俺の気持ちも知らずに打ち明けたんだもんな。
「渡会はすごいね」
「……なんで?」
「海で打ち明けてくれた時、怖くなかったの?」
「あぁ……半分ヤケになってたかな。嫌われると思ってたし」
ポツリと呟いた彼は、目線を外へ投げ出した。
「日置は元々、恋愛対象が男じゃないでしょ?」
「うん……渡会はそうだったの?」
「いや、俺も違う」
区切られた言葉の続きは、迷いと寂しさを含んでいた。
「違うから、怖かった……でも、好きになる相手に正解なんてないから。自分を信じるしかなかった」
世間では、同性愛への理解を呼びかける動きがあるが、まだまだ一般的ではない。器用な彼は何事もそつなくこなしていると思ったけど、俺の見えない所でたくさん悩んで、抱え込んでいたのだろう。
「ありがとう。言葉にしてくれて」
「途中で洗脳方法とか調べたのは、さすがにヤバいと思ったけどね」
「…………ん? え?」
「ははっ、嘘だよ」
今の言葉は聞かなかったことにしておこう。
緊張の解けた空気に息を吐くと、席を立ち、凝り固まった体を伸ばした。
「そろそろ行こっか」
「待って、まだ顔赤い?」
「ううん。目はちょっと腫れてるけど」
「……マジか」
恥ずかしさに頬を染めた渡会は、スマホの画面を鏡代わりに身なりを整えだした。その間、日直の仕事をこなすべく窓へ足を向けた。窓下に見える駐輪場には、在校生の姿がチラホラ見受けられる。
施錠確認を終え、リュックに手をかければ、なぜかあることを思い出した。
「そういえば、もう忘れてるかもだけど」
「ん?」
バッグを肩にかけた渡会は小首を傾げた。
「修学旅行でおみくじ引いたじゃん?」
「うん」
「渡会の恋愛のとこが、〝己を信じて進むべし〟だったんだけど」
「あぁ、よく覚えてるね」
俺もよく覚えていたと思う。
けれど、きっと、必然的に思い出したのだ。
「当たってたね」
誇らしげに鼻を鳴らす。
渡会はポカンとした表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「そうだね。日置のはなんて書いてあった?」
「あれ、何だっけ。でもあんまり関係なかった気がするけど」
「そっか……あ」
渡会の足がピタリと止まる。
忘れ物でもあったのだろうか。振り返れば、優しい眼差しが俺を見下ろした。
「さっきの返事してなかったよね」
「返事……あぁ、告白の」
「そう」
そういえば、そうだった。もう答えを聞かなくても分かった気になっていた。
また緊張の走る空気に、コクンと喉を鳴らした。
「これからよろしくね」
「こちらこそ」
「抱きしめてもいい?」
「ど、どうぞ」
ぎこちなく腕を広げ、彼を受け入れる。渡会は溶けそうな笑顔を浮かべて、リュックごと抱き締めてくれた。荷物は少ないからほとんどペシャンコだけど、抱き締めづらくないだろうか。
まぁ、いいか。渡会の体温と心臓の音が微かに伝わってきて心地良い。
お互い満足するまでそのままでいると、ゆっくり体が離れた。ご満悦な笑みに、こちらも頬が緩む。
「これからは許可取らなくても大丈夫だよ」
「……え」
「あー……えと、もう付き合ってるから」
「彼氏だから好きにしていいの?」
「か、かれ……まぁ、そう。うん」
彼氏という言葉に、今さらジワジワと付き合った自覚が芽生えてきた。
まさかの遅延性に首のうしろが熱くなる。耳まで熱くなってきたのを感じると渡会から目線を外し、顔を隠すようにポスッと肩に顔を埋めた。彼氏だから好きにさせてくれ。恥ずかしさが引くまで。
「照れちゃった?」
「…………うん」
「ははっ、可愛い」
できればかっこいい彼氏でいたいけど、今は無理かもしれない。
「日置」
頭上から俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
それだけ。次に続く言葉は落ちてこない。
疑問を抱き、顔を上げれば、唇に柔らかい何かが触れた。
「え」
満足そうな渡会を、呆けた顔で見つめることしかできない。
自身の唇に手を持っていき、先程の感覚を追うように指で撫でた。
「こっちも慣れていこ」
「あぁ……はい」
追いつかない頭で返事をした。本当に一瞬のことで、頭が真っ白だった。
キスされたと気付いたのは、どれくらい経った頃だったか。
渡会を見つめて固まっていると、目の前の彼は肩を揺らして笑いだした。
「あはは! ごめん。びっくりしたよね」
「いや、こっちこそ、なんかごめん。慣れてなくて」
「いいよ。慣れてるほうが嫌だし」
三日月に形取られた目がスッと細まる。
あぶね。慣れてたら根掘り葉掘りの尋問大会が始まるところだった。
ちゃっかり自分は棚上げしてるけど、恋愛経験のある彼にとってキスなんて挨拶と同じくらいなのかもしれない。
「キスは大丈夫なのに、彼氏って言葉には照れちゃうんだね」
「え……あ、たしかに。でも遅延性だから、家帰ったら死ぬほど恥ずかしがってると思う」
「へぇ……今日、俺の家来る?」
「いや、いいよ。今日は勘弁して」
「今日〝は〟ダメなんだ? じゃあ今日以外だったらいい?」
「あ、……うん」
もう誰か俺の口を縫ってくれないだろうか。
喋るたびに墓穴を掘る自分に言葉を失う。そんな俺を助けるように、聞き慣れたチャイムが鳴った。ある意味、救世主だ。ありがとう、チャイム。
廊下へ出れば、眩しいくらいの光が二人を包んだ。
「さっき抱き締められた時に気付いたんだけど」
二人分の足音を響かせながら、隣を歩く渡会を見上げる。
視線の先の彼は、不思議そうに首を傾げた。
「なに?」
「多分……いや、確実に背伸びたよね」
「え、俺?」
「そう」
「まぁ、伸びてるかもだけど、何で分かったん?」
「なんか、見上げた時に前よりちょっと遠く感じたから」
そう言って階段に差し掛かったタイミングで足を止め、一段先に降りた彼を見下ろした。
渡会から見る俺はこのくらいか。もうちょい高いかな。背伸びをして調節していると、渡会はクスクスと肩を揺らした。
「日置が俺よりデカいとなんか違和感かも」
「え、なんで。個人的には同じくらいになりたいんだけど」
「俺は上目遣いで見上げてくれるほうが好き」
「……男の上目遣いに需要あるん?」
「あるよ。彼氏だからね」
意地悪そうな笑みが浮かぶ。
彼氏フィルターってすごいんだな。機嫌の良い背中を追うと、下駄箱のほうからうるさいくらいの声が聞こえてきた。
「あー! やっと来た!」
「おい、おせーぞ!」
「マジで腹減って死ぬんだけど!」
二年の下駄箱前で、部活仲間の辻谷と猪野と水無瀬が急かすように手招きをしている。その隣には、仲里と堀田と守崎の姿も見えた。
もう帰ったと思っていたけど、なんでいるんだろう。
「おい、まさか忘れたわけじゃないよな?」
俺の困惑顔に気付いた辻谷が、呆れたように溜め息をついた。
「……ごめん、なんだっけ」
「うわ〜、マジかよ! 今日学校終わったら回る寿司食いに行こうって言ったじゃん!」
俺の返答に、今度は猪野が声を上げた。
寿司……言ってたっけ? そんなこと。
サンダルをリュックにしまいながら今日を振り返る。それでも、先程の渡会とのやり取りしか頭に浮かび上がらない。
説明を求めるように部活仲間へ目を向けたが、それを遮るように手を繋がれた。
「ま、いいじゃん。今から行こうよ」
渡会は俺を見下ろして微笑んだ。
了承の言葉に、辻谷はビシッと駅の方向を指差した。
「じゃあ出発〜」
その背中に、猪野と水無瀬も続く。
「てか俺、自転車だから駅前集合?」
「二人乗りしようぜ」
空腹が我慢できない早歩きの三人を前に、守崎が何かを訴えるように俺と渡会の間で繋がれた手を一瞥した。
「どうでもいいけど、限度考えろよな」
呆れ交じりの声に、俺も目線を落とした。
皆の前で手を繋いだことなんて何度もある。けれど、以前は理由があった。眼鏡をかけていないからとか、酒を誤飲したからとか。
あぁ、そうか。恋人って理由がなくても触れていいんだ。
そう思うと、場違いにも頬が緩んだ。慌てて繋いでいない手で押さえるが、止められそうにない。
隣の渡会を窺うと、バチっと目が合った。
「どうしよう」
「うん?」
「俺、今すごく浮かれてると思う」
眉を下げて笑った。
渡会はキョトンとした顔を浮かべたあと、口元をほころばせた。
「俺も」
これが幸せってやつか。
頬から手を外し、ゆるゆるな笑顔を向ける。
「おーい! ストップストップ! これ以上は俺が耐えられない!」
「俺らもいるの忘れんなよ! てか雰囲気甘すぎて吐きそう」
俺は仲里に、渡会は堀田に取り押さえられた。
顔だけうしろへ向けると、表情を曇らせた仲里が首を横に振った。
「そういうのは俺らが見てないとこでお願いしたいんだけど」
「……ごめん。完全に渡会しか見えてなかった」
「おいおい。息するように惚気んな」
さらに顔を顰められ、パッと手が離れる。気を遣って、リュックだけに触れていた仲里は、なんだかんだ優しいなと思う。
「でも、そういうことだから」
バッグを背負い直した渡会がポツリと呟いた。
「もちろん限度は分かってる。けど、日置への態度も、お前らへの態度も変える気はないから。嫌だったら、その……」
「つか、それ。こっちの台詞」
言葉に詰まった渡会に、守崎が口を挟んだ。
二人揃って驚いた顔のまま守崎を見つめる。彼は怠そうに眉間に皺を寄せた。
「俺だって、お前らへの態度変える気ないし。そもそも、嫌だったらもっと前から距離取ってんだけど」
言葉とは裏腹にホッとした笑みを浮かべた守崎。なぜか肩の荷が降りたような表情をした彼に疑問を抱けば、仲里にポンッと肩を叩かれた。
「あんなこと言ってるけど、一番気にしてたの守崎だから」
「二人がいない時、ずっとソワソワしてたよ」
堀田もなかなか動かない俺らに笑いかけ、仲里に続いて守崎の隣へ並んだ。
顔を見合わせた渡会と、気が抜けたように笑い合う。軽くなった足取りで、三人の隣に並んで歩いた。
「てか何皿食べる?」
「テーブルの上、すごいことになりそう」
「そういや財布に何円入ってるか覚えてないや」
「その前に定期更新しに行っていい?」
「あと親に連絡しておかないと」
いつもと変わらない会話を交え、校門を目指す。遠くから、辻谷と猪野と水無瀬の声も聞こえてきた。
周りには楽しそうに笑う友人たち。隣には優しく微笑んでくれる恋人。
高校生活なんて、人生のほんの一部でしかないけど、この一年で過ごした日々は、ずっと心に残るだろう。何より、全てのキッカケとなった修学旅行は、俺にとって特別な思い出になった。
春風を肌に感じながら、そっと渡会の手を握った。この温もりが、ずっと離れないように願いながら。