告白の答えを見つけ出せないまま、二ヶ月が経った。
 文化祭まで数日を切った教室内は、浮かれるどころかピリピリとした雰囲気を(まと)っていた。男女間だけでなく女子同士でも、大きな衝突はないものの意見が割れたり微妙な空気が流れている。
「そこ色違くない〜?」
「なんで? 合ってるよ」
「布足りないから他のクラスから貰って来てよ」
「この前も貰ってたじゃん。他で代用すれば?」
 (とげ)のある言葉が行き交う。そんな空気から背くように目線が落ちた。絵の具の筆を、何度も同じ段ボールの上に滑らせながら、小声で隣に話しかける。
「いつもこんな感じだったの?」
「あ〜……今よりはマシだった気がする」
 この〝いつも〟は、文化祭準備期間に入る前の放課後のことを指す。運動部は部活動優先だったので、文化祭の準備は文化部が進めてくれていた。
 渡会は俺に返事をしたあと、絵の具の筆を水の入っているカップに入れ、クルクルと回していた。色を塗っているわけでもなく、水を掻き混ぜているだけ。ようするに、何もやりたくないらしい。
 渡会だけでなく、仲里と堀田と守崎も、作業しているように見せかけて話していたり、スマホをいじったりしている。
 「塗り残しを埋めてほしい」と文化祭実行委員のクラスメイトから道具を渡され、何に使うか分からない段ボールの前に連れてこられた。今は指示通りに色を塗っている。
 使えばなくなるもので、膨らんでいたチューブは、いつの間にかぺしゃんこになっていた。
 作業を止め、腰を上げる。
「どこ行くの」
 渡会は焦ったように俺の腕を掴んだ。
「絵の具借りに行くだけだよ」
「あぁ……なるほどね」
 カラのパレットを見た彼は、しぶしぶ手を離した。
 ずっと座っていたから腰が痛い。背筋を伸ばして骨を鳴らすと、近くのクラスメイトの元へ向かった。
「白の絵の具借りてもいい?」
「えっ、白? …………別にいいけど」
 了承の言葉とは裏腹に、不機嫌そうな声色だった。
 愛想が悪い態度にイラッとする。けれど、こちらも同じ態度で返したら、さらに空気は(よど)むだろう。
「絵の具ありがと。てか絵上手いね、俺美術の成績良くないから羨ましい」
 なるべく明るい声を意識した。顔を背けていたクラスメイトはパッと振り向くなり、なぜか泣きそうに顔を歪める。そして、俺の肩を勢いよく掴んだ彼は、プルプル震えながら語りだした。
「日置……お前だけだ、褒めてくれたのは…………」
「……そ、そうなんだ。みんな言ってるかと思った」
「いーや! そんなことないね! 美術部だから絵を描けて当たり前とか思われてるのか知らんけど日置が初だ!」
「そっか……その、いろいろありがと」
「ひ、日置……お前ってやつは……結婚して……!」
「断る」
 俺が言おうとした台詞は、背後から聞こえた。振り返ると、渡会が笑顔を貼り付けたまま近づいて来る。
「絵の具ありがとね」
 そう言って彼は白の絵の具を手に取り、俺のジャージを引っ張った。よろけると共に、クラスメイトの手が肩から外れる。
 放心しているクラスメイトを置いて作業場所に戻れば、ふてくされた渡会の隣に座った。
「そんなに俺が他の子と話すのダメなの?」
「……ダメじゃないけど、さっきのは内容が良くないだろ」
「アレは冗談の範囲でしょ」
「じゃあ俺と結婚しよ」
「は?」
「結婚して」
「……いや、渡会が言うと違うじゃん」
 だって、渡会は俺のことが好きなんだろ? 冗談に捉えるわけない。
 最近様子のおかしい渡会と、小学生みたいなやり取りをしていれば、守崎が横から口を挟んだ。
「渡会、呼ばれてるよ」
「…………またかよ」
 扉のほうに目を向けた渡会は、深い溜め息を吐いた。その視線を追うと、小さい影が見える。おそらく女子生徒だろう。
「なんの呼び出し?」
 重い足取りで女子生徒の元へ向かう背中を見つめ、疑問を口にする。
「告白だよ、告白」
 仲里が呆れたように笑った。
「学校行事のたびにこうだよな〜」
「次はクリスマス前に来るんじゃね」
 堀田と守崎も、遠い目をしながら呟く。
「じゃあ、仲里たちも何回か告白されたんだ?」
 モテる彼らなら、もちろん告白が殺到しているだろう。
 返ってくる答えには予想が付きつつ尋ねれば、三人は顔を見合わせ、疲労の滲んだ表情で頷いた。
「俺は校門で待ち伏せされた」
「俺は下駄箱に(はた)(じょう)みたいな手紙」
「俺は駅前、なんならホーム」
 大変みたいだな。
 彼らの苦労を想像していると、守崎の視線が刺さった。しかし、何も言ってこない彼に首を傾げる。
 なんだ、俺は女子からの告白エピソードはないぞ。
「なに?」
「いや……あいつも焦ってんじゃねーのかなって」
「焦るって何に? 誰が?」
「そのうち分かるだろ」
 守崎はそれ以上は話す気がないようで、スッと目線を逸らした。
 ヒントくらい教えてくれてもいいのに。
「なんの話してたの?」
 会話が途切れたタイミングで、ちょうど渡会が戻ってきた。質問を投げておきながら、彼は隣に腰を下ろし、何かを確かめるように頭を撫でてくる。いつもならすぐ離れる手は、頭や頬、耳までじっくりと触ってくる。三人の前で、しかも教室でこんなに触れてくるのは珍しい。
 やっぱり最近の渡会は何かがおかしい。首元に指が触れると、ゾクッとした感覚に襲われた。
「ちょっ……渡会、待っ──」
「日置、呼ばれてるよ」
 渡会の肩を押し、距離を取ろうとした瞬間、頭上からクラスメイトの声が降ってきた。
「誰に?」
「え? あぁ……」
 クラスメイトは、困惑した表情で教室の扉を指差した。
 それもそのはず。呼んだのは俺なのに「誰に?」と返事をしたのは渡会だったから。
 俺も驚いて隣を窺う。渡会から、いつもの余裕は感じない。少し背筋を伸ばした彼は、扉に立つ人影を見て頬を引きつらせた。
 目線の先には、一人の女子生徒が立っていた。
「告白……?」
 仲里がポツリと溢す。
 ジャージの裾を引っ張られる感覚に顔を上げれば、渡会は不安と心配に染まった瞳を揺らし、俺を見つめていた。
「大丈夫だよ」
「…………」
 今はそれしか言葉にできなかった。渡会からの返事はない。
 待たせるのも申し訳なく、裾を握っている彼の手を外すと、女子生徒の元へ向かった。
「待たせてしまってごめんなさい」
「いえ、大丈夫です。あの、少しお話したくて……」
 ネクタイや指定サンダルの色から、一年生だと分かる。上級生の階が落ち着かないのか、目の前の小さな女子生徒は「移動してもいいですか?」と眉を下げた。
 階段を降り、一年生の教室とは反対側の廊下を歩いた。ひとけのない校舎裏に着くと、女子生徒は急に振り返って握り締めていた何かを差し出してきた。
「あの、これ…………!」
 ピンクと白を基調とした、可愛らしいデザインの手紙だった。
 宛名を確認すれば、予想が確信に変わる。
「渡会先輩にお渡ししてもらえないでしょうか!」
 やっぱり。
 何となく、彼女の前に立った時点で分かっていた。彼女の視線は俺ではなく、教室の奥へ向けられていたから。あの四人の誰かだろうと思った。
 勇気を振り絞る相手を間違えてないか。心の中で溜め息をつき、そっと手紙を受け取った。
「分かりました。渡しておきます」
「あ、ありがとうございます……!」
「あの、一つだけ質問していいですか?」
「え? はい……」
 ただの通達係から何か言われるとは思っていなかったようだ。彼女の表情は、みるみる困惑に染まっていった。
 意地悪な自分に呆れながら、目の前の女子生徒を見つめる。
「渡会のどこが好きなんですか?」
「え?」
「あ、いや、深い意味はないです。ただ気になったというか」
「あぁ……そうなんですね」
 自分にそんなことを聞く資格などないことは分かっている。それでも、渡会の告白に答えるためのヒントが欲しかった。
 黙って返答を待っていると、女子生徒はじっくり考えたあと頬を染めた。
「初めて見た時、お顔が好きで……あっ! もちろん顔目当てではないですけど!」
 女子生徒は慌てたように首を左右に振った。
 人の第一印象は、どうしても容姿に向いてしまうものだ。好みかどうかは別として、顔が整ってるなとは俺も初対面から思っていた。
 女子生徒が俺の顔色を窺う。見上げてきた彼女に、先を促すようニコリと微笑んだ。
「付き合ったら大切にしてくれそうだし」
 それも分かる。周りから強火担と言われるくらいだから、一途なのは間違いない。俺も実感している。
「優しくて、意地悪とかしてこなさそうだし」
 朝の起こし方が、布団を剥ぐという暴挙はあるけど。多分これは、男同士だからかもしれない。
 優しいところも頷ける。基本的に気遣いができるし、短気ではないと思う。
 なんだ、やっぱり他の人から見ても同じなんだな。
 満足して話を切り上げようとしたが、渡会への想いが熱くなったのか、女子生徒は止まることなく喋り続けた。
「あと、控えめそうっていうか、グイグイ来なくて適度な距離を守ってくれそうっていうか」
「…………ん?」
 そんなことはないと思うけど。むしろ、距離は近いし隙さえあれば〝好き〟と伝えてくる。ところ構わず手を繋いできたり、くっついたりもする。周りからは、これも「適度な距離」に見えるのだろうか。男子高校生って、そんなもんでしょ、みたいな?
 予想外の発言に、思わず声が漏れてしまったが、女子生徒は気にすることなく熱弁を続けた。
「いつも爽やかで、嫉妬とか束縛はないだろうし」
「…………」
 ガチガチにしてますけど嫉妬。本人も自覚はあったはず……。
 束縛はない……いや、『恋人じゃないと縛れねーな』とか言ってたな。束縛気質あるな。
 女の子は好きな人の理想になりたいと思いつつも、自分の中でも好きな人の理想像が出来上がっているらしい。
「例えばですけど、渡会が思っていた性格と違っていたら幻滅(げんめつ)しますか?」
 切り上げようと思っていたのに、女子生徒の熱に乗せられ、重ねて質問を投げてしまった。目の前の女子生徒は大きな瞳をまたたくと、視線をさまよわせ、自信がなさそうに口を開く。
「幻滅まではしませんけど……多少のショックはあると思います。で、でも!それも受け入れるうえで付き合いたいんです!」
「…………そ、そうですか」
 中途半端な俺ではなく、こういう子が渡会と付き合うべきじゃないか? 
 もちろん俺だって渡会は好きだけど、彼女の熱量に比べたら、ちっぽけなものだ。それに渡会だって、自分を好いてくれる気持ちが大きい子のほうが……。
「いろいろ答えてくれてありがとうございます。伝えておきます」
「こちらこそ熱くなってしまってすみません。よ、よろしくお願いします!」
「見回りの先生もいるから気をつけて教室戻ってね」
「はい! ありがとうございます!」
 女子生徒はペコッと頭を下げ、校舎の中へ姿を消した。心なしか、彼女の表情はスッキリとしていて眩しかった。
「…………」
 小さい背中が見えなくなると、壁に背を預けてズルズルと座り込む。
 本当は少しずつ固まっていたと思う。俺も渡会が好きだって、自覚してきていた。
 あとは伝えるだけだったのに、あの子の真っ直ぐな瞳を見て揺らいでしまった。
 俺のほうが渡会のことを知っているし、好きなのに。
「ははっ…………情けな……」
 ポツリと溢れた言葉は、冷たい地面へ落ちる。
 そこまで好きなら、直接伝えてほしかった。あれだけ真剣になれるなら、その勇気もあったはずだろ。なんで、どうして、よりによって俺に手紙を渡してくるんだよ。
 恋って苦しい。好きになるって苦しい。
 遠くでチャイムの鳴る音が聞こえる。小さく息を吐くと、重い脚を叱咤して立ち上がった。

 教室に入るのが怖いと思うなんて、初めてかもしれない。
 廊下から伝わるくらい、どのクラスも相変わらず雰囲気はピリピリとしたまま。その空気に当てられ、さらに気分が下がる。
 俺が席を外していたのは、ほんの数分だったらしい。呼び出し前の光景から、教室の内装はさほど変わっていなかった。
 元の作業場所に戻ると、四人は俺を見上げた。
 誰もが緊張の面持ちを浮かべる中、渡会は不安なのか、心配なのか、怒りなのか読み取れない表情に顔を歪めていた。一周回って〝無〟にも見える。
「そんな怖い顔で見ないでよ。告白じゃなかったし、郵便頼まれただけ」
 なるべく平静を装って笑顔を作る。
「なんだ、違かったんだ……郵便ってその手紙?」
 仲里は安心したようにホッと胸を撫で下ろした。
 俺が持っている手紙に視線が集中する。明らかにラブレターだと分かる見た目に、また場の空気が凍った。
 これを渡す相手が他の誰かなら、どれほど楽だっただろう。
「渡会にって、一年生の子から──」
 パシンッ。
 乾いた音が響いた。
 一瞬、何が起きたか分からなかった。差し出したはずの手紙はヒラヒラと床に落ち、自分の手はジンとした熱をおびて赤く色づいていた。
 初めて渡会に拒絶された。
 俺たちの場所だけ、教室から切り離されたように静かになった。
 誰もが目を見開いて渡会を見つめている。けれど、この中で一番驚いていたのは渡会自身だった。俺の手を弾いた彼の手は、わずかに震えていた。
 床へしゃがみ、落ちた手紙を拾う。俺が動いたことが合図になったのか、張り詰めていた糸が切れた。
「ご、ごめん……」
 弱々しい渡会の声が聞こえた。その声に小さく頷くしかできなかった。
 大丈夫、と笑えたら良かった。告白ばっかりで気が滅入っちゃうよな、と冗談を言えれば良かった。
 声が出せない。一言でも溢したら、泣くと分かっていたから。
 ジワジワと目頭が熱くなってくる。
「…………日置」
 大きな手のひらがそっと肩に触れた。
 伏せた顔が上げられず、手紙を見つめる。心配させないように笑顔を作ろうとするのに、うまくいかない。
「来て」
 その声に優しく腕を引かれた。
 教室から出る間際、守崎の「ごゆっくりー」とのんきな声が聞こえた。

 文化祭準備期間は、空き教室が多くなる。とは言っても、ガラガラではなく、使わない机や素材が強引に押し込まれている物置きみたいな状態だった。
 教室から少し離れた空き教室に入ると、渡会は俺を窺うように首を傾げた。
「抱き締めてもいい?」
「…………うん」
 素直に頷けば、渡会にしてはぎこちない動きで俺を抱き締めた。
「さっきはごめん。日置が嫌いになったわけじゃなくて、俺の中でいろいろ混乱しちゃって……」
「……うん」
 彼の背に腕を回し、ギュッとジャージを掴んだ。擦り寄るように肩へ頭を預ければ、いっそう抱き締められる力が強まる。
「好きだよ日置、大好き」
「……うん」
 自分の不甲斐なさに辟易(へきえき)してしまう。
 彼はこんなに気持ちを伝えてくれるのに、俺は今日初めて会った女子生徒との会話だけで、渡会と向き合うのを諦めようとしてしまった。
「……さっきの子と話して、簡単に揺らいだんだ」
 渡会から体を離し、ポツリと呟いた。床に座り込めば、渡会も隣に腰を下ろし、俺の言葉に耳を傾けてくれた。
 我慢していた涙が頬を伝い、声が震えた。けれどもう、溢れ出した想いを止めることは難しかった。
「渡会の好きなところを真剣に語ってくれた。だから……ああいう子が、渡会と付き合うべきなんじゃないかって」
 そう口にした瞬間、空気が変わった気がした。
 怒らせてしまったかもしれない。
 顔を上げることはできず、ポロポロと涙を流す。
「終わりにしようって……思って、もう……悩みたくない、から」
 だんだん自分が何を言っているのか、何を伝えたいのか分からなくなってきた。
「でも……諦めようとしたくせに、渡会から拒否されたら……頭、まっしろに、なるくらい傷つい、て……」
 ヒクッと喉が引きつる。
 息が詰まって苦しい。胸が締め付けられて苦しい。
 海で告白された時も、俺は泣きながら渡会に思いを伝えた。頑張って答えを出すからと。そのために時間をくれと。その判断は、自分の首を絞めるだけだった。
 正しい答えなんて最初からなかった。時間を伸ばすだけでは何も掴めない。
「……日置が悩んで、苦しんでるのも考えないで……ごめんな」
 渡会の優しい声が耳に届く。目頭を拭って顔を上げると、困ったように笑う彼が映った。
 違う。謝らせたいわけではない。
 止まらない涙をそのままに、強張った背に腕を回した。
「違くて……渡会は何回も、俺を好きって言ってくれてるのに……俺が……」
「うん」
 張り詰めた空気が緩み、温かい腕の中に閉じ込められた。
 その時、ポケットに突っ込んだ手紙に手が触れたのか、カサッと音がした。
 俺の中で、その音が引き金になったようだ。
「俺のほうが……あの子より、渡会のこと知ってるのに……俺のほうが、あの子より……何倍も、何十倍も、何億倍も、渡会のことが、好きなのに……!」
「うん………………ん?」
 俺の背を撫でていた手が、ピタリと止まった。急に寂しくなって、さらに抱き締める力を強める。密着した体から、ドクドクと脈打つ心臓の音が流れ込む。
 震えた呼吸の音が聞こえると、熱いくらいの体温が離れた。
「日置、今なんて言った?」
「え? 今? ……俺のほうが渡会のこと知ってるって」
「うん。それもだけど、そのあと」
「そのあと……? 俺のほうが、渡会のこと…………好き……って」
 先程の言葉を振り返れば、しばらく思考が止まった。
 好き。
 言った、言ったな、言ってたな。
「あ……これは、…………その」
「いいよ、それが本当でも嘘でも。日置から好きって言ってもらえたから、今日はそれで充分」
 渡会は幸せそうな笑みを浮かべ、埃っぽい床も気にせず、コロンとうしろへ身を投げた。口元を押さえ、肩を揺らしてクスクス笑っている姿を、ただ見つめることしかできない。
「……そんなに面白いの?」
「ん? あぁ、違くて。安心したら笑えてきた」
「安心?」
「そう、最近ずっと焦ってたから」
 焦り、という言葉に、ふと守崎との会話が頭をよぎった。「あいつも焦ってるんじゃねーかな」と彼は言っていた。
 その答えは、渡会本人が教えてくれた。
「去年もそうだったけど、こういうイベント時ってよく告白されんだよね。思い出作りみたいな」
「……思い出作り?」
「そう。リア充してるっていう証明みたい。それで、何回か告白されていくうちに心配になって」
「なんで?」
 渡会を見下ろしたまま首を傾げれば、綺麗に整った眉が下がった。
「日置もこんな気持ちだったのかなって。突然、好きでもない相手から告白されて……日置は優しいから真剣に考えてくれてるけど」
「…………」
「……日置も告白されたらOKする可能性もあるよなって勝手に想像してさ。早く俺を選んでほしいって焦ってたんだよね」
 なるほど。最近感じていた違和感の正体はこれだったのか。
「嘘じゃないよ」
 彼の心配を晴らすように呟いた。
「渡会のこと、好きだよ」
「…………うん、ありがと」
 大きな手のひらが俺の頬を撫でた。優しい手つきに目を細めれば、彼の顔に微笑みが広がった。
 頬を撫でていた手が、唇へと移る。ふにふにと感触を味わった手は、後頭部に回り、優しく引き寄せた。
 ドクンと心臓が跳ねる。どけようとは一ミリも思わなかった。
 キスは初めてなんだけどな。
 そっと目を閉じた。
 二つの影が重なろうとした、その瞬間。
「お取り込み中悪いけど、もう戻って来てくんね?」
 勢いよく扉が開いた。
 え? 今?
 渡会との距離がわずか数センチの状態で固まる。
 扉を開け放った犯人の守崎は、俺らを見下ろし、クイッと顎で教室のほうを示した。過度な反応は嫌だけど、無反応もなかなか傷つくな。
「お前、わざとタイミング狙ってただろ」
「さぁ? なんのこと?」
 文句をぶつける渡会に、守崎はニコッと笑顔を貼り付けてこの場を離れた。
 気が抜けて、ポスッと渡会の胸に頭を預ける。伝わってくる鼓動は抱き締められた時より速くなっていた気がした。
「……戻ろうか」
「待って」
 優しく腕を引かれ、引きとめられた。
 振り向く前に、柔らかい感触が肌に触れる。
「え」
 一瞬の出来事に、頭がフリーズした。
「いま、キス……」
「うん、したよ」
「そう……」
 キスされた頬をなぞる。徐々に熱を帯びたそこは、触れた指先まで熱くした。
 これから教室に戻るのに、なんてことを。
「ちなみに〝キスは好きな人にしかしない〟がモットーだから」
 そう言って立ち上がった渡会は、促すように手を差し伸べてくる。呆然としたままその手を掴むと、ポケットから何かが滑り落ちた。
「あ……」
 所々折れてしまった手紙は、寂しげにパサッと音を立てて床に着地した。
 拾い上げたそれを、恐る恐る渡会に差し出す。
「い、いる?」
「…………俺宛だから貰っとく、一応」
 手紙は綺麗に折りたたまれ、彼のポケットの中へ消えた。
 名前も知らない女の子には、申し訳ないことをしてしまった。でも、もしまた通達係を頼まれた時は、手紙より本人に直接伝えることをオススメしよう。

「衣装とクラスTシャツ届いたから試着してー! サイズ合わなかったり、不備あったらこっちに教えてくださーい!」
 実行委員が、教卓にドンッとダンボールを置いた。クラスメイトたちは、わらわらと教卓の周りに集まり、できたばかりの衣装に盛り上がっている。
 五組のクラスのテーマは、ハロウィンカフェ。
 各々好きなコスプレをするのではなく、統一感を出すために中世ヨーロッパの貴族をコンセプトにしている。フリルシャツやベストなどの服装に、悪魔の角や狼の耳をつける程度のもの。女子は丈が長いメイド服を着るらしい。
 面白味は薄いが、そのぶん、クオリティに力を入れるようだ。
「日置、これと……これもつけて」
 装飾を選んでいる最中、渡会が狼の耳を俺の頭に被せてきた。テーマパークのカチューシャとあまり変わらないデザインだ。今回違うのは、尻尾もあることくらいだろうか。腰にベルトを回すと、お尻でふさふさな尻尾が揺れた。手を伸ばせば、ふわふわとした感触が伝ってくる。
「可愛い」
 渡会のとろけた声が耳に届く。一人だけ、ピリピリとした雰囲気にはそぐわない、ポワポワとした空気を放っている。その様子に笑いを溢すと、デジャヴのようにクラスメイトの声がかかった。
「日置、呼ばれてるよ〜」
「誰に?」
「え? あぁ、部活の……」
 クラスメイトは、俺の部活仲間の名前を挙げた。
 今回も「誰に?」と聞いたのは、俺ではなく渡会だった。ただ、前回と違って、今は安堵の表情を浮かべている。
「三秒で戻って来て」
 お馴染(なじ)みの無茶な要望が飛んでくる。
 それよりも、俺は今の格好のほうが気がかりだった。いくら辻谷たちとはいえ、文化祭当日ではないのにこの格好で会うのはかなり恥ずかしい。
 急いで着替えようとシャツに手をかけた時、扉のほうから馬鹿でかい声が俺を呼んだ。
「ひーおーきーくーん! 早くしないと勝手にシフト決めちゃうよ!」
「一番最後の片付けまでやらされるとこ入れるぞ〜」
「あと一秒でこ〜い!」
 ひどい、ひどすぎる。
 シャツから手を離し、駆け足で向かう。恥ずかしさを振り切って廊下に出れば、辻谷と猪野はパチリと目をまたたいた。
「うわ、何? イメチェン?」
「陽キャ見習いから路線変更したん?」
「お〜、尻尾フワフワじゃん!」
「……早く要件」
 尻尾を触ってくる水無瀬の手を払いのけ、羞恥心に顔を顰める。
 辻谷は恥ずかしがる俺をひと笑いすると、一枚の用紙を差し出した。見出しには「部活別受付シフト」と書かれている。
「え、まさか俺らの部活、受付係なん?」
 用紙から顔を上げれば、辻谷と猪野は力強く頷いた。
「そうそう。そのまさかだよ」
「他の部活も担当だから、一回入るだけでいいらしいけど」
「さっきも言ったけど、最後のシフトのやつは片付けもしなきゃだから」
 いっこうに尻尾を離さない水無瀬は、手触りの良い素材を撫でながら呟いた。彼を止めることは諦め、シフト表に目を通す。空いている箇所は十一時からと、十六時からしか残っていなかった。
「なんでほぼ埋まってんの」
「……なんか、顧問が俺たちに伝えるの忘れてたらしい」
 猪野が乾いた声で笑った。
 何をやってるんだ顧問、しっかりしてくれ。
 溜め息をつき、もう一度用紙に目を通すが、答えはすでに決まっていた。十六時が最後なので、もはや考える間もなく十一時からにしたいわけだが……。
「わざわざ言いに来るってことは、なんかあんだよね?」
 疑いの目を部活仲間へ向ける。三人はそれぞれ違う方向へ顔を逸らした。
「ん〜……まぁ、その、残りは俺らか一年かなわけよ」
「心優しい日置はどう思うのかな〜みたいな?」
「罪悪感に病まないかな〜みたいな?」
 部活の後輩の顔が浮かぶ。顧問の確認不足とはいえ、後輩たちも最後は嫌だろう。辻谷たちが勝手に決めてくれれば、なんとも思うことはなかったのに、彼らは道連れを選んだようだ。
「じゃあ、お前らはどうなの? …………分かった、〝せーの〟で何時からがいいか言おう」
 三人がしぶる素振りを見せるので、強制的に意見を聞くことにした。
「せーの──……」
「「「「十一時」」」」
 ごめん、後輩たち。優しくない先輩を立ててくれ。
 こんなことで亀裂が入る関係ではないが、ジワジワと罪悪感は芽生えていた。辻谷も同じことを思ったようで、微妙な雰囲気を振り払うように話題を変えた。
「じゃ、これは顧問に伝えとくから。てか日置のとこは何すんの?」
「ん? あぁ、ハロウィンカフェだよ」
「何売るの?」
 先程からずっと尻尾を触っていた水無瀬は「カフェ」という単語にパッと顔を上げた。
「何だっけ……クッキーとかクレープだった気がする」
 そう伝えれば、甘党の彼は嬉しそうな笑顔を見せた。それでも尻尾を触る手は止めてくれない。正直、尻尾が揺れる振動が、ベルトから腰に伝わってくすぐったい。
「え、ソレそんなに気持ちいいの?」
 猪野も気になっていたのか尻尾に手を伸ばしてきた。それに比例して、腰への振動も大きくなる。
 もうベルトを外して触らせよう。そう思ってバックルに手をかけたところで、いきなり肩がうしろへ引かれた。
「お触り禁止だけど」
 不機嫌な低い声が耳に響く。振り向くと、渡会がスッと目を細めて部活仲間を見下ろしていた。
 三人は突然の牽制(けんせい)に、キョトンと目を丸くした。頭に大量のハテナを浮かべ、俺を窺ってくる。彼らはこちらの事情など知らない。その反応も頷ける。
 渡会の嫉妬をどう説明しようか考えていると、意外にも口を開いたのは水無瀬だった。
「てか、お前が決めることじゃなくね?」
「は?」
 渡会がさらに低い声で唸る。
 重たい空気に、いたたまれなくなる。
 口を挟もうとするも、今度は辻谷と猪野に遮られた。
「そ、それな。こちとら日置を取って食おうとは思ってないし」
「そうそう。お、俺らと日置が仲良いのが羨ましいのは分かるけど……」
 ビビっているのか声は少し震えていたが、猪野は言葉を区切ると自分の発言にハッとした。
「あー……なるほどな。お前嫉妬してんだろ! 俺らと日置が仲良しだから!」
 ビシッと人差し指を立てる猪野に、続けて辻谷と水無瀬も加勢した。
「あぁ、そういうことか。なんだよ早く言えよ!」
「だからってどうすることもできないけどな! 俺ら仲良しだし!」
 最悪だ。火に油を注ぎやがる。
 辻谷たちは、小学生が意地を張るようにフンッと鼻を鳴らした。そして、勝ち誇った口振りで喋りだした。
「俺は中学時代も一緒だからな〜、卒業式に緊張して〝在校生起立〟で立ち上がった日置を知らないとか、笑っちまうな」
「それはお前だろ」
 猪野の言葉に首を振る。
「部活の合宿で、ずっとシャツを裏返しに着て一日中過ごしてた日置も知らねーんだろ? 可哀想にな」
「それもお前だろ」
 水無瀬の言葉を否定する。
「暇だったから、休み時間に日置の弁当からデザートのゼリー抜き取って食べてたのも知らないなんて」
「それもおま……は? なに? 初耳なんだけど」
 勝手に黒歴史を押し付けてくる猪野と水無瀬に呆れていたが、最後のカミングアウトは聞き捨てならない。
 渡会の手を外し、辻谷の肩を掴むと前後に揺らした。
「……何シレッと自白してんの?」
「はい」
「……まず言うべきことがあるだろ」
「すみませんでした」
「……違う、味」
「え? そっち?」
「いーから、何味だったかって」
「え、みかん……果肉入りの」
 よりによって果肉入り。一口サイズではなく、大容量のものだったのか……。
 恨みを込めて辻谷を(にら)みつける。彼は、俺の目を見てヘラッと笑った。
「ごめんて日置」
「友達やめようかな」
「……そうか、分かった。友達やめて親友ってことだな」
「なんで昇格してんだよ」
 辻谷のポジティブ思考に頭を抱えると、背後から「あはは!」と笑う声が聞こえた。
 声の主の仲里と堀田は、目に涙を浮かべながら顔を覗かせた。
「待って、面白すぎるんだけど」
「お前らってそんな性格だったんだな」
 二人は廊下に出て来るなりスマホを取り出した。
「友達ならね?」
 仲里の言葉に、部活仲間の三人は顔を見合わせた。
「「「仕方ないな。いいだろう」」」
 なぜか上から目線で頷く三人。
 連絡先を交換する友達を横目に、いまだ唖然(あぜん)としている渡会を見上げた。
「渡会も友達になろうよ」
「……てか、こっちは相思相愛なんだけど。親友より上なんだけど」
「あ〜……うん。それは、ごめん」
 不満な表情を浮かべる彼を、宥めるようにポンポンと背を叩く。
「もしかしたら日置の意外な写真とか投稿してるかもしれねーのに、友達なんなくていいの?」
 俺たちの間に割り込んだ守崎は、そう言い残して盛り上がる輪の中に入っていった。
「俺も、あとこいつも」
 守崎が目線だけ渡会に向けた。渡会はさっきの今で気まずいのか、足を踏み出せずにしぶっている。そんな彼を見た部活仲間の三人は、ニヤッと口角を上げた。
「日置の写真は中学からあるから、見たかったら見せてやるよ」
「あと部活中とか、プライベートもあるな」
「ま、俺たちに冷たく当たらないのが条件だけど」
「「「どうする?」」」
 三人の目が三日月の形に歪む。悪魔のようである。
「友達なろ」
 渡会は迷いなく頷き、スマホを取り出した。
 自分を売られたのは気になるが、仲良くやれそうな雰囲気にホッと胸を撫で下ろした。
 和気あいあいと会話を弾ませる七人の友達を眺めていると、輪の中から猪野が手招きしてきた。
「な、日置来いよ。友達記念に写真撮ろーぜ」
「おけ」
 一歩踏み出せば、渡会に腕を引かれた。
「日置はここ」
「うん」
 楽しそうな渡会に自然と頬が緩む。
「何してるの〜。今は休み時間じゃないでしょ」
 撮った写真をチェックするため、輪になって一台のスマホを覗き込んでいると、見回りに来た担任に見つかってしまった。
「すみません〜! ちょっと部活の要件伝えてて」
 辻谷は没収されないよう後ろ手にスマホを隠し、愛想笑いを浮かべた。ジリジリと後ずさったかと思えば、脱兎(だっと)のごとく駆けだす。
「もう終わったんで戻りますね〜!」
「失礼しました〜!」
 猪野と水無瀬もペコッと頭を下げ、辻谷に続いて教室へ戻っていった。
 取り残された俺たちも、逃げるように教室へ足を向ける。
「あ、そうだ」
 担任の一声に、五人の足がピタリと止まった。
 誰もが冷や汗をかく中、担任は上から下までの俺たちの格好を観察したあと、満面の笑みを浮かべた。
「売り上げが多いクラスの先生には賞があるんだけど、期待してるね」
 そう言い残して、担任は廊下の曲がり角へ姿を消した。
 俺たちは顔を見合わせ「やれやれ」と肩をすくめた。
 きっと、さぞかし狙っている景品なのだろう。瞳の奥は、ギラギラと炎が燃えていた。
 担任を見送って教室に入れば、今度は渡会が期待の眼差しを向けてきた。
「日置、今の期間って放課後に部活ないんでしょ?」
 声色には嬉しさが滲んでいる。
「うん、ないよ」
「じゃあ一緒に帰ろ」
「いいけど、みんなでどっか寄るの?」
「ん? いや? 二人で」
「二人?」
 てっきり八人で帰ると思っていた俺は、予想外の提案に首を傾げた。
 渡会は人目も気にせず俺の頬を撫で、ふわりと微笑んだ。
「少しでも日置と一緒にいたいから」
 そういうことか。
 今日は八人の友達記念でもあり、二人の両想い記念でもある。渡会としては、後者を優先させたいらしい。一緒に帰るだけで、こんなに嬉しそうな顔をする渡会が可愛くて仕方ない。
 文化祭まであと数日。ピリピリとする雰囲気は嫌だが、学校に行く楽しみは増えた。

 何か忘れている気がするけど。まぁ、いっか。