修学旅行で立てた海の計画は、予定通り実現することになった。
「着いた〜!」
「海だ〜!」
潮風を浴びながら、仲里と堀田が伸びをする。
顔を上げると、目の前に広がる風景に自然と気分が高揚した。
水平線の向こうで、夕陽が歪んだ形を浮かべ、辺り一面を赤く染めている。光を受けた水面は、ダイヤを散りばめたようにキラキラと輝いていた。
冷たい潮風が頬を撫でる。日はすでに暮れ、昼間より涼しい。人も多くない。つまり、最高だ。
「俺、海でこれ食べるの夢だったんだよ」
堀田がコンビニで買ったパンの袋を開けた。
「あ、それ橋上華奈がCMでやってるやつじゃん」
仲里がパッケージを指差して声を上げた。
俺もそのCMなら、テレビで見たことがある。海を背景に、海と関係のないチョコサンドパンを食べているCM。
「動画回しといてやるよ」
守崎がスマホを掲げた。
「んじゃ、始め……」
チョコサンドパンを取り出した堀田が、夕陽に向き直った。その瞬間、彼の手元に勢いよく黒い物体が横切った。
「「「「「は?」」」」」
一瞬の出来事に、全員が目を見開く。
パンをさらった犯人は、バサバサと羽を鳴らして空高く飛び去っていった。
鳶だ。
「あー! 俺の! 〝夏の大感謝祭、最後までチョコたっぷり旨さ引き立てる二層のクリームチョコサンドパン〟がー!」
状況を理解した堀田が、鳥に向かって一息に叫んだ。その声は、海の彼方へと消える。
一瞬の沈黙。五人で顔を見合わせると、腹を抱えて笑った。
「あはは! 商品名フルで言うのかよ!」
「一口も食べられずに持ってかれるとか可哀想すぎだろ」
「ははっ! 面白すぎて腹よじれる」
誰もが涙を浮かべ、肩を震わせた。
笑いすぎて乱れた呼吸を整えれば、ひとつの欲が顔をだす。そうだ、俺も海らしいことをしておこう。
上がるテンションに身を任せて、サンダルを脱いだ。四人は不思議そうな顔で、俺の行動を目で追っている。
「何すんの?」
「せっかく来たから、足だけでも入っておこうと思って」
いまだ目に涙の膜を張った渡会に答える。
荷物とサンダルを放り、柔らかい砂の感触を肌で得ながら、波打ち際を目指した。
「あぁ、〝捕まえてごらんなさ〜い〟てやつか」
仲里もスニーカーを脱ぎ捨て、隣に並んだ。
「そういうのじゃないから」
ノリノリの彼に笑い返す。
一歩踏み出すと、小さい波が足の甲を滑った。
また、一歩踏み出す。
深く息を吸い、潮の香りで肺を満たした。
「いーじゃん、日置。なんかカラオケのMVみたい」
「……それ褒めてんの?」
揶揄する仲里の脚に、パシャと水をかけた。
「あ、やったな? 最高の褒め言葉なのに〜」
仲里は仕返しとばかりに身を屈め、バシャバシャと水をかけてくる。宙を舞った水飛沫は、俺の服を濡らした。
こっちは配慮して脚にかけたのに、仲里はそのつもりはないらしい。
それならと、今度は強めに水飛沫を上げる。けれど運悪く、仲里の顔にかかった。プルプルと頭を振った彼は、カラオケのMVではなく、渡会と同じくドラマのワンシーンに見えた。
「ご、ごめん」
「大丈夫大丈夫。口ん中入ったからゆすいでくるわ」
「本当にごめん」
「あはは! 全然いいって!」
仲里は豪快に笑い、砂浜へと戻って行った。その背中を追うように足を踏み出すと、目下で何かが光った。
貝殻だ。一つ拾い上げ、夕陽にかざす。光を浴びたそれは、キラリと輝きを放った。
収集欲がわいた俺は、時間も忘れて貝殻を探した。
「日置、花火やるからおいで」
「んー……」
子供のような上辺だけの返事。迎えに来てくれた渡会を見上げれば、手に収めていた貝殻を誇らしげに披露した。
「見て、綺麗でしょ」
ふふっ、と笑みが溢れる。
渡会はパチリと目をまたたくと、微笑んで頷いた。
今の俺、すごく精神年齢が低く見えているだろうな。ま、いいや。相手は渡会だし。
また砂浜に向き直り、目の端に映った貝殻に手を伸ばす。
「まだ集めるの? 早く行こうよ」
「うん」
返事はするが、手は止めない。
頭上から溜め息が聞こえた。かと思えば、腰に腕を回され、振り向く前に体が宙に浮く。
「うわっ、なに!?」
手に持っていた貝殻が、パラパラと砂の上に落ちる。
「言うこと聞かないから強制連行」
「……ごめんて」
渡会は俺を抱えたまま、ふらつくことなく砂の上を歩いた。
久々に抱っこされたかも……じゃなかった。
「重くないの?」
「…………重くない」
嘘つけ。
身長は渡会のほうが高いが、体重はそんなに変わらないと思う。修学旅行で見たかぎり、一番食べていたのは俺だ。
勝手にショックを受けつつハッとする。
質問を間違えてしまった。降ろしてもらわなきゃ。
「もう降ろしていただいても……」
「足濡れたまま砂浜歩くの?」
「…………」
濡れた足にまとわりつく砂を想像して押し黙る。
「嫌なんだ」
渡会は耳元でふっと笑った。
結局、足洗い場まで運んでもらった。俺を降ろした渡会は、労るように腕をさすっている。自分と同じ重さの男を抱えていたのだから、痛くもなるだろう。
「運んでくれてありがと、大丈夫?」
「明日は筋肉痛かも」
「……ごめん、減量する」
罪悪感に眉を下げると、渡会はなぜか嬉しそうに笑った。
「また抱っこしてもらいたいの?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
「冗談だよ。サンダルとタオル持ってくるから先に洗ってなよ」
「そういえば荷物……」
思い出して呟く。渡会は歩き出した足を止め、得意げに答えた。
「日置と仲里が遊んでる間に移動させたから、安心して」
「さすが、惚れちゃうな」
「惚れていいよ」
渡会はもう一度笑い、背を向けて歩きだした。
ラブコメ展開一位の男にはかなわないな。
「いいな~、日置は強火担がいて」
仲里はバリッと音を立て、手持ち花火の袋を開けた。
「強火担ってなに?」
聞きなれない単語に首を傾げると、堀田が口を挟んだ。
「日置しか眼中にないってこと」
「しかも同担拒否だし」
守崎は渡会を見て溜め息をついた。
「よく分かってんじゃん」
話題の中心である本人は、仲里が開けた袋から花火を抜き取り、そのうちの一本を俺に渡してくれた。
強火担とか同担拒否とかよく分からないけど、つまり執事みたいなものだろうか。それは、似合いそうだな。
水が入ったバケツを囲み、手持ち花火に火をつける。目に焼き付くくらい鮮やかな色を宿した火の粉が、地面に向かって黄金の滝を作った。
「俺にも、火ちょうだい」
渡会は筒状の先端を近づけ、聖火リレーのように花火の寿命を繋いだ。渡会から堀田へ、堀田から仲里へ、仲里から守崎へ……俺が宿した火は、四人の花火へ受け継がれた。
「あ、もう線香花火しかないや」
五人もいれば消費も早く、堀田が五本の線香花火を手に、残念そうに凛々しい眉を下げた。
「なんで線香花火って最後なんだろうな」
カチカチとライターの音を鳴らす仲里。
「〝趣〟ってやつじゃね?」
パチパチと火の粉を放つそれを、守崎は普段手放さないスマホをしまい込んで眺めていた。
一つ、また一つ、火の球が砂の地面に吸い込まれる。最後の一つが消えるまで、俺たちはジッとその様子を見つめていた。
終わってしまった。
ただの紙切れとなった花火の残骸をバケツに放る。
「ご飯にするか~」
しんみりとした空気を吹き飛ばすように仲里の声が響く。
手早く後始末を終えると、空腹を誘う匂いを漂わせる海の家へと向かった。
ここでは新鮮な海の幸を堪能できるようだ。あちこちでエビや牡蠣などの海産物が、網の上で湯気を立てている。見ているだけで、無意識に喉が鳴った。
お皿の上の海鮮が半分以上胃の中に消えた頃、突然陽気な声が俺たちの間に割って入ってきた。
「お〜、にーちゃんたち、大学生かぁ〜?」
「おいちゃんたちが奢ったるから酒飲めやぃ」
グラスや酒瓶を抱えたおじさんの集団が、フラフラとしながらこちらのテーブルへ向かってくる。だいぶ酔いが回っているようで、勝手に盛り合わせを注文したり、勝手に身の上話を語ったり、余計なお節介を焼きだした。
「え、どうする? お店の人呼ぶ?」
肩に腕を回してくるおじさんを躱し、仲里が不愉快そうに顔を歪めた。
「じゃ、俺呼んでくるよ」
率先して立ち上がる堀田に通報役を任せる。
喉が渇いた俺は、手前のグラスを手に取った。一気にあおれば、水だと思っていたそれは、喉を焼け尽くすように刺激した。
「……ゔ……げほっ!」
なりふり構わず口の中に残っていた水分を吐き出す。
テーブルの上のグラスや皿が、ぶつかる音を立てた。手が当たってしまったのかもしれない。頭では理解しながらも、わけの分からない感覚に、えずいて咳き込むことしかできない。
「日置! 大丈夫!?」
「お酒飲んじゃった!?」
周りで渡会たちの慌てる声が聞こえた。
他のお客さんのざわつく声も聞こえる。
「日置、水飲める?」
誰かが俺の手からグラスを抜き取った。早く熱い喉をどうにかしたくて、コクコクと頷く。
要望通りグラスを握らされるが、それが水だとしても、先程のことを思い出して手が震えた。
「大丈夫、水だから」
優しく背を撫でられる。
整わない呼吸をそのままに、グラスの中を飲み干した。喉の違和感は残りつつも、多少楽になった。
浅い呼吸を繰り返し、慌ててパッと顔を下げる。
今の俺、涙とか鼻水とかでビシャビシャじゃない?
今度は恥ずかしさに泣きそうになっていると、ずっと背中を撫でてくれていた渡会が声をかけてきた。
「日置大丈夫?」
「…………ぁ、てぃっ、しゅ」
ヒリつく喉から声を捻り出す。
聞き取ってもらえたか不安になるが、彼はまた要望通りにティッシュを握らせてくれた。
最低限の身なりを整え、まだ熱い体を冷やすように空気を取り込む。
「片付けとくからあっちで休んでれば?」
見かねた守崎が、待機用のベンチを指差した。
「あ……俺も……でも、俺が……片付け、る、床」
何も考えずに喋り出したせいで、文がバラバラになってしまった。
床を拭くために急いで立ち上がると、一瞬視界が歪んだ気がした。渡会が腕を掴んでくれなければすっ転んでいた。
「何かあってからじゃ遅いし休もうよ」
渡会はギュッと手を繋ぎ、ゆっくり歩き出した。
「大丈夫?」
「……多分」
「辛かったら言ってね」
「ありがと」
渡会の優しさにホッと熱い息を吐く。
彼がいてくれて本当に良かった。
どのくらい座っていただろう。
落ち着くと思っていた体は、ジクジクとした熱を留めたままだった。なんだか頭もボーっとしている。
「日置、落ち着いたら洗面所行こう」
隣を見ると、渡会は心配そうな表情を浮かべていた。
「…………」
場違いにも、抱き締めてほしいと思った。
不安だから……いや、違うかも。
なんだか人肌が恋しい。渡会は安心するから。
お願いしたらしてくれる?
うまく働かない頭に、いろんな感情が渦巻く。
そうだ、酔ってることにすればいっか。
こちらを向いて座っている渡会にポスッと体を預け、自分よりも広くて大きな背中に腕を回した。渡会は一瞬肩を強張らせたが、すぐに俺の頭を撫でてくれた。
好き、この感覚が。
好き、渡会に触れられることが。
「俺らは何を見せられてんの?」
「酒って怖いな」
「日置は甘えん坊タイプか〜」
頭上から守崎と堀田と仲里の声が聞こえた。
渡会の腕の中で三人の会話を聞き流していると、トントンと肩を叩かれた。
「俺の胸も貸してあげようか?」
首だけ振り向いた先で、仲里が両手を広げていた。
渡会だけで事足りているが、もしかして、これ以上に落ち着く人がいるのだろうか。
興味本位で体を起こそうとすれば、強い力で引き戻される。
「日置は俺と洗面所行くから」
そう耳にするなり、優しく手を引かれた。
促されるまま立ち上がり、呆けた表情を浮かべる三人の元を離れた。
「日置は本当に酔ってんだよね?」
日の落ちた砂浜を歩きながら、渡会は探るような目を向けてきた。
「ん〜……少し?」
「少し?」
「……分かんないよ。お酒、初めて飲んだし」
まだフワフワしているけど、さっきよりは落ち着いた気がする……多分。
「酔った俺……変?」
「いや、可愛い」
「そっか」
変じゃないならいいかと眉を下げて笑う。
渡会は困ったように肩をすくめた。
「やっぱ酔ってるね。可愛いって言ったら黙るか否定するのに」
「そ……かもね」
考える前に言葉が出てしまう。酒っておそろしいな。
洗面所、と言っても外付けの水道だ。
パシャパシャと水の音を立てれば、口をゆすぎ、顔も洗った。常温の水なのに、気持ち良く感じるのはやっぱり自分が熱いからだろうか。
「終わった?」
ボーッと排水溝を見つめる俺が心配になったのか、渡会が声をかけてきた。
びしょびしょの顔で頷くと、タオルを差し出してくれる。俺のではない、おそらく彼のタオル。
「使っていいの?」
「いいよ」
「ありがとう」
受け取ったタオルに顔を埋めた。当たり前だが、渡会の匂いがする。
そのまま静止している俺に、また心配の滲んだ声がかかった。
「大丈夫? 吐きそうとか?」
「……あ、ごめん。渡会の匂い落ち着くから」
「……またすぐそういうこと言う」
渡会はこめかみに手を当て、大きく溜め息を吐いた。
何か機嫌を損ねてしまったようだ。
「ご、ごめん……これ洗って返すね」
「別にいいのに……あ〜、でもお願いしようかな」
「うん」
希望通りの返事に、タオルをギュッと握った。
海の家へ戻る道中。俺のペースで歩いてくれる渡会を見上げ、思っていたことを口にする。
「渡会は優しいね」
「……どんなとこが?」
「えっと、吐いても引かないとか?」
「それはみんな同じだろ」
拗ねたように視線が逸れる。
「あー……あと、肩貸してくれたり、抱き締めてくれたり?」
「それは日置だけね」
「あはは、なにそれ。渡会がいないとダメになっちゃうよ」
「ダメにしてんの」
本気なのか冗談なのか、絶妙な塩梅の返事だった。
やはり、渡会の考えていることが分からず疑問を投げる。
「俺がダメになったらどうすんの?」
「一生面倒見るよ。俺が」
「ずっと一緒にいたいってこと?」
「……まぁ、そうなるね」
ますます意味が分からない。
だって、仮に俺が使えない人間になったとして、渡会には何のメリットもない。
他の理由があるのだろうか。
少しはマシになった脳で必死に考えた。
これまでの彼の行動、言葉、表情……全部思い返した。
「……もしかして、俺、告白されてる?」
言葉にするかどうかの判断は麻痺していた。
導き出した答えは、にわかに信じがたいものだ。
先程まで食い気味に答えていた渡会から、すぐに返事はない。代わりに砂を踏み歩いていた足が止まった。
表情はよく見えない。それでも、雰囲気で分かってしまった。
図星だ。渡会は俺のことが好きなんだ。
サァ……と遠くで波の引く音が聞こえた。
「こんなつもりじゃなかったんだけど」
渡会は強く結んでいた口を開いた。
「日置はもう分かっちゃった?」
「え……あ、えっと、渡会は俺のことが、その、好き、なんだよね?」
「そう。もちろん恋愛的な意味でね」
渡会はためらいもなく淡々と告げた。ニコリと微笑む彼の表情は、いつもよりぎこちなく見えた。
「……困らせてごめん」
悲しさが滲む声は、向けられた背の奥に消えた。
俺はただ、小さくなる背中を目で追うことしかできない。
どうしたらいい。
こんなところで、渡会との関係が水の泡になるのは嫌だ。
どうすれば…………いや、もはや考えてる場合ではない。
「待って」
踏み出した先に手を伸ばす。
けれど、届くことはなかった。
視界がグラつき、砂浜も相まって体はバランスを崩す。目の前のことに必死になっていた俺は、すっかり飲酒したことを忘れていた。
この瞬間だけ切り取ると、世界で一番ダサい。
それでもいい。渡会に俺の思いを伝えられれば、それでいい。
傾いた体は砂の上に落ちる、ことなく渡会に抱き寄せられた。こっちは世界で一番かっこいい。
「あ、あの……えっと、俺は好きな人ができたことなくて、告白したこともされたこともないし、恋愛とは無縁だけど……好きは人それぞれだと思うから、その、渡会が……俺を、す、好きでも引かないし、むしろ応援する……は、おかしいのか」
渡会の腕を掴み、すがるように言葉を口にした。
しどろもどろに喋る俺を、彼は黙って聞いていた。
「でも、分からなくて……。嫌じゃない、渡会といるの楽しいし安心するし。ただ、恋愛的な好きかは分からない」
目の前がボヤける。
それでも必死に言葉を紡いだ。
「返事はすぐ出せないけど、頑張って答えるから……それまでは、今までと同じように接してほしい」
初めて経験する感情の波に溺れそうになる。
酒のせいでバカになった涙腺は、ポロっと涙を溢した。
「ありがとう」
渡会は俺の目元を拭って微笑んだ。
「日置は俺からの好意は気持ち悪くない?」
素直に頷く。
「好きなままでいていい?」
今度はゆっくり頷いた。
「じゃあ──もう我慢しなくていいよね」
……………………………はい?
渡会は嬉しそうに笑い、苦しいくらいに俺を抱き締めた。
元々限界だった思考が完全にショートする。
我慢? 何を?
「……我慢してたの?」
「まぁ、それなりにね」
「我慢しなくていいって……何を?」
そう問えば、渡会は溶けた砂糖のような甘い眼差しで俺を見つめた。
「俺が日置を好きなことは伝わった?」
「うん」
「さっき日置は、俺を恋愛的な意味で好きか分からないって言ったよね?」
「うん」
「てことは、そういう意味で好きになってくれるチャンスがあるってことでしょ?」
「……そ、そうなるのかな」
「じゃあ俺は、どれくらい日置が好きかアピールするだけじゃん」
「…………」
渡会の圧に押されて腰が引ける。
その自信はどこから来るのだろう。
「俺のことを嫌いになる可能性は……?」
「ないね」
俺の言葉はズバッと切り捨てられた。
「今度、改めて気持ち伝えるから」
「……うん、でも」
「返事は急がなくていいよ、卒業式の日に振ってくれてもいいし」
「…………」
卒業まで一年半。
長いようで短い高校生活は、すぐに終わってしまう。
それまでに、自分なりに答えを出して渡会に伝えなければ。
「……頑張るね」
「それ、俺の台詞な」
渡会はそう言って笑うと、俺の手を握った。柔らかい微笑みを浮かべた彼は、吹っ切れたように一歩踏み出した。
「やっぱ日置は部活で筋トレしてんの?」
先程の甘い雰囲気とは一変して、渡会はいつもの調子で口を開いた。切り替えきれない俺は、戸惑いつつも頷いた。
「う、うん。練習メニューに入ってるし」
「……俺も始めようかな」
「なんで?」
「日置に抱っこせがまれたら、余裕で持ち上げられるように」
「あぁ……あれは冗談だけど」
真面目な表情を浮かべる横顔に、思わず笑ってしまう。渡会は俺を一瞥すると、筋トレメニューを考えだした。
「筋トレって……腕立てとか?」
「腹筋とかね。俺もやっと割れてきたよ、ほら」
「…………は?」
シャツを捲り、繋いでいた渡会の手を自分の腹に当てる。
「どう?」
感想を尋ねると、彼はピタリと立ち止まった。
「もう記憶飛んだの?」
「記憶? なんの?」
「俺が日置を好きなの分かったんだよね?」
「……う、うん」
「自分に好意を寄せてるやつに、そういう行動取ったらどうなるか、教えてやろうか?」
咎めるように目を細めた渡会は俺の腹を撫で、そのまま体の輪郭に沿うようになぞった。くすぐったい感覚に肌がピクッと反応する。
「……抵抗しないの?」
「あ……ごめん」
咄嗟に出た謝罪に、渡会は唸るように頭を抱え、しばらく黙り込んだ。
やっと口を開いたかと思えば、鼻先に指を突きつけられる。
「とりあえず、日置は成人したら俺以外と酒飲むの禁止」
「……なんで? 渡会が知ってる人とでも?」
「ダメ、絶対無理ヤダ。仮に誰かと飲むとしても必ず俺に連絡して」
「……覚えてたら、する」
「絶対しないじゃんそれ…………やっぱ、恋人じゃないと縛れないな」
渡会は低い声で呟き、重い溜め息を吐いた。
なんか、すごいことを言われた気がする。
「と、とにかくもう戻ろ」
「……そうだね」
不満げな返事をした彼は、当たり前のように俺の手を取った。
ご機嫌はド斜めだが、繋がれた手は優しく、酒の回っている俺を気遣って歩幅も合わせてくれる。脳と体は別で動いているのかもしれない。
三人の元へ戻った頃には、電車の時間が迫っていた。
「全然話せなかったな」
「酔っぱらいおじさんのせいだよ」
堀田と仲里は、愚痴を口にしながら席を立った。
「いーじゃん、お詫びで奢ってくれたし」
「え、そうなの?」
守崎の言葉に、もう帰ってしまったおじさん集団のテーブルを振り返る。
「ごめんな〜て言って、お金置いてったよ」
堀田は声を上げて笑い、駅へ向かって歩きだした。
申し訳ないことしたな……いや、してないな。勝手にお酒を置き忘れたのはあっちだし。
いろいろあったけど、楽しかったな。
今日の記憶をたどれば、堀田のパンが攫われた事件を思い出して笑みが溢れた。
「まだ酔ってる?」
隣を歩く渡会が顔を覗き込む。
「さぁ? アルコールは抜け切ってないと思うけど、ちゃんと意識はあるよ」
彼を見上げて微笑む。俺の反応に、渡会も笑みを浮かべ、わしゃわしゃと髪を掻き撫でてきた。
「甘えた日置も可愛かったよ」
「……どうも」
髪を直しながら、形だけ礼を伝える。
渡会からの褒め言葉は慣れたと思っていたのに、告白のこともあって、なんだか変な感じがする。
けれど、この時の俺はまだ知らない。
渡会の好意は、こんなものではないことを。
「着いた〜!」
「海だ〜!」
潮風を浴びながら、仲里と堀田が伸びをする。
顔を上げると、目の前に広がる風景に自然と気分が高揚した。
水平線の向こうで、夕陽が歪んだ形を浮かべ、辺り一面を赤く染めている。光を受けた水面は、ダイヤを散りばめたようにキラキラと輝いていた。
冷たい潮風が頬を撫でる。日はすでに暮れ、昼間より涼しい。人も多くない。つまり、最高だ。
「俺、海でこれ食べるの夢だったんだよ」
堀田がコンビニで買ったパンの袋を開けた。
「あ、それ橋上華奈がCMでやってるやつじゃん」
仲里がパッケージを指差して声を上げた。
俺もそのCMなら、テレビで見たことがある。海を背景に、海と関係のないチョコサンドパンを食べているCM。
「動画回しといてやるよ」
守崎がスマホを掲げた。
「んじゃ、始め……」
チョコサンドパンを取り出した堀田が、夕陽に向き直った。その瞬間、彼の手元に勢いよく黒い物体が横切った。
「「「「「は?」」」」」
一瞬の出来事に、全員が目を見開く。
パンをさらった犯人は、バサバサと羽を鳴らして空高く飛び去っていった。
鳶だ。
「あー! 俺の! 〝夏の大感謝祭、最後までチョコたっぷり旨さ引き立てる二層のクリームチョコサンドパン〟がー!」
状況を理解した堀田が、鳥に向かって一息に叫んだ。その声は、海の彼方へと消える。
一瞬の沈黙。五人で顔を見合わせると、腹を抱えて笑った。
「あはは! 商品名フルで言うのかよ!」
「一口も食べられずに持ってかれるとか可哀想すぎだろ」
「ははっ! 面白すぎて腹よじれる」
誰もが涙を浮かべ、肩を震わせた。
笑いすぎて乱れた呼吸を整えれば、ひとつの欲が顔をだす。そうだ、俺も海らしいことをしておこう。
上がるテンションに身を任せて、サンダルを脱いだ。四人は不思議そうな顔で、俺の行動を目で追っている。
「何すんの?」
「せっかく来たから、足だけでも入っておこうと思って」
いまだ目に涙の膜を張った渡会に答える。
荷物とサンダルを放り、柔らかい砂の感触を肌で得ながら、波打ち際を目指した。
「あぁ、〝捕まえてごらんなさ〜い〟てやつか」
仲里もスニーカーを脱ぎ捨て、隣に並んだ。
「そういうのじゃないから」
ノリノリの彼に笑い返す。
一歩踏み出すと、小さい波が足の甲を滑った。
また、一歩踏み出す。
深く息を吸い、潮の香りで肺を満たした。
「いーじゃん、日置。なんかカラオケのMVみたい」
「……それ褒めてんの?」
揶揄する仲里の脚に、パシャと水をかけた。
「あ、やったな? 最高の褒め言葉なのに〜」
仲里は仕返しとばかりに身を屈め、バシャバシャと水をかけてくる。宙を舞った水飛沫は、俺の服を濡らした。
こっちは配慮して脚にかけたのに、仲里はそのつもりはないらしい。
それならと、今度は強めに水飛沫を上げる。けれど運悪く、仲里の顔にかかった。プルプルと頭を振った彼は、カラオケのMVではなく、渡会と同じくドラマのワンシーンに見えた。
「ご、ごめん」
「大丈夫大丈夫。口ん中入ったからゆすいでくるわ」
「本当にごめん」
「あはは! 全然いいって!」
仲里は豪快に笑い、砂浜へと戻って行った。その背中を追うように足を踏み出すと、目下で何かが光った。
貝殻だ。一つ拾い上げ、夕陽にかざす。光を浴びたそれは、キラリと輝きを放った。
収集欲がわいた俺は、時間も忘れて貝殻を探した。
「日置、花火やるからおいで」
「んー……」
子供のような上辺だけの返事。迎えに来てくれた渡会を見上げれば、手に収めていた貝殻を誇らしげに披露した。
「見て、綺麗でしょ」
ふふっ、と笑みが溢れる。
渡会はパチリと目をまたたくと、微笑んで頷いた。
今の俺、すごく精神年齢が低く見えているだろうな。ま、いいや。相手は渡会だし。
また砂浜に向き直り、目の端に映った貝殻に手を伸ばす。
「まだ集めるの? 早く行こうよ」
「うん」
返事はするが、手は止めない。
頭上から溜め息が聞こえた。かと思えば、腰に腕を回され、振り向く前に体が宙に浮く。
「うわっ、なに!?」
手に持っていた貝殻が、パラパラと砂の上に落ちる。
「言うこと聞かないから強制連行」
「……ごめんて」
渡会は俺を抱えたまま、ふらつくことなく砂の上を歩いた。
久々に抱っこされたかも……じゃなかった。
「重くないの?」
「…………重くない」
嘘つけ。
身長は渡会のほうが高いが、体重はそんなに変わらないと思う。修学旅行で見たかぎり、一番食べていたのは俺だ。
勝手にショックを受けつつハッとする。
質問を間違えてしまった。降ろしてもらわなきゃ。
「もう降ろしていただいても……」
「足濡れたまま砂浜歩くの?」
「…………」
濡れた足にまとわりつく砂を想像して押し黙る。
「嫌なんだ」
渡会は耳元でふっと笑った。
結局、足洗い場まで運んでもらった。俺を降ろした渡会は、労るように腕をさすっている。自分と同じ重さの男を抱えていたのだから、痛くもなるだろう。
「運んでくれてありがと、大丈夫?」
「明日は筋肉痛かも」
「……ごめん、減量する」
罪悪感に眉を下げると、渡会はなぜか嬉しそうに笑った。
「また抱っこしてもらいたいの?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
「冗談だよ。サンダルとタオル持ってくるから先に洗ってなよ」
「そういえば荷物……」
思い出して呟く。渡会は歩き出した足を止め、得意げに答えた。
「日置と仲里が遊んでる間に移動させたから、安心して」
「さすが、惚れちゃうな」
「惚れていいよ」
渡会はもう一度笑い、背を向けて歩きだした。
ラブコメ展開一位の男にはかなわないな。
「いいな~、日置は強火担がいて」
仲里はバリッと音を立て、手持ち花火の袋を開けた。
「強火担ってなに?」
聞きなれない単語に首を傾げると、堀田が口を挟んだ。
「日置しか眼中にないってこと」
「しかも同担拒否だし」
守崎は渡会を見て溜め息をついた。
「よく分かってんじゃん」
話題の中心である本人は、仲里が開けた袋から花火を抜き取り、そのうちの一本を俺に渡してくれた。
強火担とか同担拒否とかよく分からないけど、つまり執事みたいなものだろうか。それは、似合いそうだな。
水が入ったバケツを囲み、手持ち花火に火をつける。目に焼き付くくらい鮮やかな色を宿した火の粉が、地面に向かって黄金の滝を作った。
「俺にも、火ちょうだい」
渡会は筒状の先端を近づけ、聖火リレーのように花火の寿命を繋いだ。渡会から堀田へ、堀田から仲里へ、仲里から守崎へ……俺が宿した火は、四人の花火へ受け継がれた。
「あ、もう線香花火しかないや」
五人もいれば消費も早く、堀田が五本の線香花火を手に、残念そうに凛々しい眉を下げた。
「なんで線香花火って最後なんだろうな」
カチカチとライターの音を鳴らす仲里。
「〝趣〟ってやつじゃね?」
パチパチと火の粉を放つそれを、守崎は普段手放さないスマホをしまい込んで眺めていた。
一つ、また一つ、火の球が砂の地面に吸い込まれる。最後の一つが消えるまで、俺たちはジッとその様子を見つめていた。
終わってしまった。
ただの紙切れとなった花火の残骸をバケツに放る。
「ご飯にするか~」
しんみりとした空気を吹き飛ばすように仲里の声が響く。
手早く後始末を終えると、空腹を誘う匂いを漂わせる海の家へと向かった。
ここでは新鮮な海の幸を堪能できるようだ。あちこちでエビや牡蠣などの海産物が、網の上で湯気を立てている。見ているだけで、無意識に喉が鳴った。
お皿の上の海鮮が半分以上胃の中に消えた頃、突然陽気な声が俺たちの間に割って入ってきた。
「お〜、にーちゃんたち、大学生かぁ〜?」
「おいちゃんたちが奢ったるから酒飲めやぃ」
グラスや酒瓶を抱えたおじさんの集団が、フラフラとしながらこちらのテーブルへ向かってくる。だいぶ酔いが回っているようで、勝手に盛り合わせを注文したり、勝手に身の上話を語ったり、余計なお節介を焼きだした。
「え、どうする? お店の人呼ぶ?」
肩に腕を回してくるおじさんを躱し、仲里が不愉快そうに顔を歪めた。
「じゃ、俺呼んでくるよ」
率先して立ち上がる堀田に通報役を任せる。
喉が渇いた俺は、手前のグラスを手に取った。一気にあおれば、水だと思っていたそれは、喉を焼け尽くすように刺激した。
「……ゔ……げほっ!」
なりふり構わず口の中に残っていた水分を吐き出す。
テーブルの上のグラスや皿が、ぶつかる音を立てた。手が当たってしまったのかもしれない。頭では理解しながらも、わけの分からない感覚に、えずいて咳き込むことしかできない。
「日置! 大丈夫!?」
「お酒飲んじゃった!?」
周りで渡会たちの慌てる声が聞こえた。
他のお客さんのざわつく声も聞こえる。
「日置、水飲める?」
誰かが俺の手からグラスを抜き取った。早く熱い喉をどうにかしたくて、コクコクと頷く。
要望通りグラスを握らされるが、それが水だとしても、先程のことを思い出して手が震えた。
「大丈夫、水だから」
優しく背を撫でられる。
整わない呼吸をそのままに、グラスの中を飲み干した。喉の違和感は残りつつも、多少楽になった。
浅い呼吸を繰り返し、慌ててパッと顔を下げる。
今の俺、涙とか鼻水とかでビシャビシャじゃない?
今度は恥ずかしさに泣きそうになっていると、ずっと背中を撫でてくれていた渡会が声をかけてきた。
「日置大丈夫?」
「…………ぁ、てぃっ、しゅ」
ヒリつく喉から声を捻り出す。
聞き取ってもらえたか不安になるが、彼はまた要望通りにティッシュを握らせてくれた。
最低限の身なりを整え、まだ熱い体を冷やすように空気を取り込む。
「片付けとくからあっちで休んでれば?」
見かねた守崎が、待機用のベンチを指差した。
「あ……俺も……でも、俺が……片付け、る、床」
何も考えずに喋り出したせいで、文がバラバラになってしまった。
床を拭くために急いで立ち上がると、一瞬視界が歪んだ気がした。渡会が腕を掴んでくれなければすっ転んでいた。
「何かあってからじゃ遅いし休もうよ」
渡会はギュッと手を繋ぎ、ゆっくり歩き出した。
「大丈夫?」
「……多分」
「辛かったら言ってね」
「ありがと」
渡会の優しさにホッと熱い息を吐く。
彼がいてくれて本当に良かった。
どのくらい座っていただろう。
落ち着くと思っていた体は、ジクジクとした熱を留めたままだった。なんだか頭もボーっとしている。
「日置、落ち着いたら洗面所行こう」
隣を見ると、渡会は心配そうな表情を浮かべていた。
「…………」
場違いにも、抱き締めてほしいと思った。
不安だから……いや、違うかも。
なんだか人肌が恋しい。渡会は安心するから。
お願いしたらしてくれる?
うまく働かない頭に、いろんな感情が渦巻く。
そうだ、酔ってることにすればいっか。
こちらを向いて座っている渡会にポスッと体を預け、自分よりも広くて大きな背中に腕を回した。渡会は一瞬肩を強張らせたが、すぐに俺の頭を撫でてくれた。
好き、この感覚が。
好き、渡会に触れられることが。
「俺らは何を見せられてんの?」
「酒って怖いな」
「日置は甘えん坊タイプか〜」
頭上から守崎と堀田と仲里の声が聞こえた。
渡会の腕の中で三人の会話を聞き流していると、トントンと肩を叩かれた。
「俺の胸も貸してあげようか?」
首だけ振り向いた先で、仲里が両手を広げていた。
渡会だけで事足りているが、もしかして、これ以上に落ち着く人がいるのだろうか。
興味本位で体を起こそうとすれば、強い力で引き戻される。
「日置は俺と洗面所行くから」
そう耳にするなり、優しく手を引かれた。
促されるまま立ち上がり、呆けた表情を浮かべる三人の元を離れた。
「日置は本当に酔ってんだよね?」
日の落ちた砂浜を歩きながら、渡会は探るような目を向けてきた。
「ん〜……少し?」
「少し?」
「……分かんないよ。お酒、初めて飲んだし」
まだフワフワしているけど、さっきよりは落ち着いた気がする……多分。
「酔った俺……変?」
「いや、可愛い」
「そっか」
変じゃないならいいかと眉を下げて笑う。
渡会は困ったように肩をすくめた。
「やっぱ酔ってるね。可愛いって言ったら黙るか否定するのに」
「そ……かもね」
考える前に言葉が出てしまう。酒っておそろしいな。
洗面所、と言っても外付けの水道だ。
パシャパシャと水の音を立てれば、口をゆすぎ、顔も洗った。常温の水なのに、気持ち良く感じるのはやっぱり自分が熱いからだろうか。
「終わった?」
ボーッと排水溝を見つめる俺が心配になったのか、渡会が声をかけてきた。
びしょびしょの顔で頷くと、タオルを差し出してくれる。俺のではない、おそらく彼のタオル。
「使っていいの?」
「いいよ」
「ありがとう」
受け取ったタオルに顔を埋めた。当たり前だが、渡会の匂いがする。
そのまま静止している俺に、また心配の滲んだ声がかかった。
「大丈夫? 吐きそうとか?」
「……あ、ごめん。渡会の匂い落ち着くから」
「……またすぐそういうこと言う」
渡会はこめかみに手を当て、大きく溜め息を吐いた。
何か機嫌を損ねてしまったようだ。
「ご、ごめん……これ洗って返すね」
「別にいいのに……あ〜、でもお願いしようかな」
「うん」
希望通りの返事に、タオルをギュッと握った。
海の家へ戻る道中。俺のペースで歩いてくれる渡会を見上げ、思っていたことを口にする。
「渡会は優しいね」
「……どんなとこが?」
「えっと、吐いても引かないとか?」
「それはみんな同じだろ」
拗ねたように視線が逸れる。
「あー……あと、肩貸してくれたり、抱き締めてくれたり?」
「それは日置だけね」
「あはは、なにそれ。渡会がいないとダメになっちゃうよ」
「ダメにしてんの」
本気なのか冗談なのか、絶妙な塩梅の返事だった。
やはり、渡会の考えていることが分からず疑問を投げる。
「俺がダメになったらどうすんの?」
「一生面倒見るよ。俺が」
「ずっと一緒にいたいってこと?」
「……まぁ、そうなるね」
ますます意味が分からない。
だって、仮に俺が使えない人間になったとして、渡会には何のメリットもない。
他の理由があるのだろうか。
少しはマシになった脳で必死に考えた。
これまでの彼の行動、言葉、表情……全部思い返した。
「……もしかして、俺、告白されてる?」
言葉にするかどうかの判断は麻痺していた。
導き出した答えは、にわかに信じがたいものだ。
先程まで食い気味に答えていた渡会から、すぐに返事はない。代わりに砂を踏み歩いていた足が止まった。
表情はよく見えない。それでも、雰囲気で分かってしまった。
図星だ。渡会は俺のことが好きなんだ。
サァ……と遠くで波の引く音が聞こえた。
「こんなつもりじゃなかったんだけど」
渡会は強く結んでいた口を開いた。
「日置はもう分かっちゃった?」
「え……あ、えっと、渡会は俺のことが、その、好き、なんだよね?」
「そう。もちろん恋愛的な意味でね」
渡会はためらいもなく淡々と告げた。ニコリと微笑む彼の表情は、いつもよりぎこちなく見えた。
「……困らせてごめん」
悲しさが滲む声は、向けられた背の奥に消えた。
俺はただ、小さくなる背中を目で追うことしかできない。
どうしたらいい。
こんなところで、渡会との関係が水の泡になるのは嫌だ。
どうすれば…………いや、もはや考えてる場合ではない。
「待って」
踏み出した先に手を伸ばす。
けれど、届くことはなかった。
視界がグラつき、砂浜も相まって体はバランスを崩す。目の前のことに必死になっていた俺は、すっかり飲酒したことを忘れていた。
この瞬間だけ切り取ると、世界で一番ダサい。
それでもいい。渡会に俺の思いを伝えられれば、それでいい。
傾いた体は砂の上に落ちる、ことなく渡会に抱き寄せられた。こっちは世界で一番かっこいい。
「あ、あの……えっと、俺は好きな人ができたことなくて、告白したこともされたこともないし、恋愛とは無縁だけど……好きは人それぞれだと思うから、その、渡会が……俺を、す、好きでも引かないし、むしろ応援する……は、おかしいのか」
渡会の腕を掴み、すがるように言葉を口にした。
しどろもどろに喋る俺を、彼は黙って聞いていた。
「でも、分からなくて……。嫌じゃない、渡会といるの楽しいし安心するし。ただ、恋愛的な好きかは分からない」
目の前がボヤける。
それでも必死に言葉を紡いだ。
「返事はすぐ出せないけど、頑張って答えるから……それまでは、今までと同じように接してほしい」
初めて経験する感情の波に溺れそうになる。
酒のせいでバカになった涙腺は、ポロっと涙を溢した。
「ありがとう」
渡会は俺の目元を拭って微笑んだ。
「日置は俺からの好意は気持ち悪くない?」
素直に頷く。
「好きなままでいていい?」
今度はゆっくり頷いた。
「じゃあ──もう我慢しなくていいよね」
……………………………はい?
渡会は嬉しそうに笑い、苦しいくらいに俺を抱き締めた。
元々限界だった思考が完全にショートする。
我慢? 何を?
「……我慢してたの?」
「まぁ、それなりにね」
「我慢しなくていいって……何を?」
そう問えば、渡会は溶けた砂糖のような甘い眼差しで俺を見つめた。
「俺が日置を好きなことは伝わった?」
「うん」
「さっき日置は、俺を恋愛的な意味で好きか分からないって言ったよね?」
「うん」
「てことは、そういう意味で好きになってくれるチャンスがあるってことでしょ?」
「……そ、そうなるのかな」
「じゃあ俺は、どれくらい日置が好きかアピールするだけじゃん」
「…………」
渡会の圧に押されて腰が引ける。
その自信はどこから来るのだろう。
「俺のことを嫌いになる可能性は……?」
「ないね」
俺の言葉はズバッと切り捨てられた。
「今度、改めて気持ち伝えるから」
「……うん、でも」
「返事は急がなくていいよ、卒業式の日に振ってくれてもいいし」
「…………」
卒業まで一年半。
長いようで短い高校生活は、すぐに終わってしまう。
それまでに、自分なりに答えを出して渡会に伝えなければ。
「……頑張るね」
「それ、俺の台詞な」
渡会はそう言って笑うと、俺の手を握った。柔らかい微笑みを浮かべた彼は、吹っ切れたように一歩踏み出した。
「やっぱ日置は部活で筋トレしてんの?」
先程の甘い雰囲気とは一変して、渡会はいつもの調子で口を開いた。切り替えきれない俺は、戸惑いつつも頷いた。
「う、うん。練習メニューに入ってるし」
「……俺も始めようかな」
「なんで?」
「日置に抱っこせがまれたら、余裕で持ち上げられるように」
「あぁ……あれは冗談だけど」
真面目な表情を浮かべる横顔に、思わず笑ってしまう。渡会は俺を一瞥すると、筋トレメニューを考えだした。
「筋トレって……腕立てとか?」
「腹筋とかね。俺もやっと割れてきたよ、ほら」
「…………は?」
シャツを捲り、繋いでいた渡会の手を自分の腹に当てる。
「どう?」
感想を尋ねると、彼はピタリと立ち止まった。
「もう記憶飛んだの?」
「記憶? なんの?」
「俺が日置を好きなの分かったんだよね?」
「……う、うん」
「自分に好意を寄せてるやつに、そういう行動取ったらどうなるか、教えてやろうか?」
咎めるように目を細めた渡会は俺の腹を撫で、そのまま体の輪郭に沿うようになぞった。くすぐったい感覚に肌がピクッと反応する。
「……抵抗しないの?」
「あ……ごめん」
咄嗟に出た謝罪に、渡会は唸るように頭を抱え、しばらく黙り込んだ。
やっと口を開いたかと思えば、鼻先に指を突きつけられる。
「とりあえず、日置は成人したら俺以外と酒飲むの禁止」
「……なんで? 渡会が知ってる人とでも?」
「ダメ、絶対無理ヤダ。仮に誰かと飲むとしても必ず俺に連絡して」
「……覚えてたら、する」
「絶対しないじゃんそれ…………やっぱ、恋人じゃないと縛れないな」
渡会は低い声で呟き、重い溜め息を吐いた。
なんか、すごいことを言われた気がする。
「と、とにかくもう戻ろ」
「……そうだね」
不満げな返事をした彼は、当たり前のように俺の手を取った。
ご機嫌はド斜めだが、繋がれた手は優しく、酒の回っている俺を気遣って歩幅も合わせてくれる。脳と体は別で動いているのかもしれない。
三人の元へ戻った頃には、電車の時間が迫っていた。
「全然話せなかったな」
「酔っぱらいおじさんのせいだよ」
堀田と仲里は、愚痴を口にしながら席を立った。
「いーじゃん、お詫びで奢ってくれたし」
「え、そうなの?」
守崎の言葉に、もう帰ってしまったおじさん集団のテーブルを振り返る。
「ごめんな〜て言って、お金置いてったよ」
堀田は声を上げて笑い、駅へ向かって歩きだした。
申し訳ないことしたな……いや、してないな。勝手にお酒を置き忘れたのはあっちだし。
いろいろあったけど、楽しかったな。
今日の記憶をたどれば、堀田のパンが攫われた事件を思い出して笑みが溢れた。
「まだ酔ってる?」
隣を歩く渡会が顔を覗き込む。
「さぁ? アルコールは抜け切ってないと思うけど、ちゃんと意識はあるよ」
彼を見上げて微笑む。俺の反応に、渡会も笑みを浮かべ、わしゃわしゃと髪を掻き撫でてきた。
「甘えた日置も可愛かったよ」
「……どうも」
髪を直しながら、形だけ礼を伝える。
渡会からの褒め言葉は慣れたと思っていたのに、告白のこともあって、なんだか変な感じがする。
けれど、この時の俺はまだ知らない。
渡会の好意は、こんなものではないことを。