翌日。四時間目が終わったと同時に、桃輔は伸びをする。続いて弁当を取り出すと、隣の席の森本がニヤリとした顔をこちらに向けた。
「モモー、今日も瀬名くんと昼か?」
「だなー」
「ほんと仲良いな! モモが後輩と仲良くやってんの、マジ意外だわ」
「それな」
尾方もコンビニの袋片手にやって来て、森本に賛同する。
瀬名がこのクラスに突撃したあの日以来、ふたりはずっとこの調子だ。茶化されていると感じた当初こそ、正直腹が立ったのが。実際はそういうことではないのだと、すぐに分かってしまった。ふたりなりに気にかけてくれていたらしい、昼休みになると決まってひとりで教室を出ていく友人のことを。だから桃輔はこうしてしみじみとした顔をするふたりを、邪険にはできずにいる。
「俺昨日、放課後に瀬名くんと会ってさ。つい声かけちゃったわ」
「は、なんて?」
「うちのモモがお世話になってますーって」
「尾方お前……俺の親か」
「ちょっとそのつもり」
「いやなんでだよ」
「母ちゃんって呼んでいいぞ」
「じゃあ俺が父ちゃん?」
「ふ、そしたらお前ら夫婦じゃん」
冗談を交わしながら弁当を持って立ち上がる。瀬名くんによろしく、なんて言うから、はいはいと適当に答え後ろ手に手を振った。
屋上へと向かっていると、途中にある廊下の先に瀬名を見つけた。隣にはいつも瀬名にくっついている女子と、それからもうひとりの女子がいた。ふたりは弁当らしきものを手に持っていて、例の子が瀬名の腕を両手で掴み、甘えるように揺らしている。ここから一年の教室は近くない。追ってきてまで昼休みを一緒に過ごしたい、というところだろうか。瀬名は落ち着いた様子で、どうにか躱そうとしているように見える。
本当にモテるんだなあというか、あの年齢で人を傷つけない振る舞いを選べて大したものだなあというか。つい立ち止まって感心していると、ふともうひとりのほうの女子と目が合ってしまった。
「げ……」
口の中でつい、そんなひと言が零れた。瀬名の友人とはできるだけ顔を合わせたくはない。桜輔と双子だと知っている者がいてもおかしくないからだ。あの人、あの笹原桜輔の双子の弟だよね、なんて言われたら困る。
すぐに視線を逸らし、屋上のほうへと急ぐ。すると背後から、こちらに駆けてくる足音が聞こえてきた。慌ててこちらも走ろうと思った瞬間、腕を掴まれた。瀬名だ。
「モモ先輩!」
「うおっ。瀬名、どうし……」
瀬名はそのまま屋上へと向かう。足取りはどこか切羽詰まっていて、突然のことについていくのでやっとだ。どうやら瀬名は、顔がいいだけじゃなく足も速いらしい。
「瀬名~、どうしたんだよ。急に走るから、俺……」
体力のなさに情けないと思いつつ、少し上がった息を膝に手をついて整える。踊り場へ一歩先に到着した瀬名を見上げると、だが桃輔の言葉は尻すぼみになった。瀬名がどこか苦しそうな、拗ねたような顔をしていたからだ。
「え……なにどした。なんかあった?」
「…………」
「なんだよ、話くらい聞くけど?」
「別に……」
そんな顔を見せられると、瀬名といて芽生えたばかりの兄心、もしくは先輩心が疼きだす。自身も踊り場へのあと一歩を上がりきり、瀬名の手を引いて座るように促した。
「なに、モテてモテて困る―って話?」
「……どの口が言ってんすか」
「はあ~? どういう意味だよ」
「モテてんの、誰がなのか分かってるのかなって」
「…………? 誰がって、瀬名しかいないじゃん」
「本当にそう思います?」
「どう見たってそうだろ」
「さあ、どうだか」
いつも涼しげな瞳が、なにか言いたげにジトリと桃輔を映す。なにを考えているのか、さっぱり分からない。だがその頬が、薄らと膨らんでいて。大人びているようでいてちゃんと年下で、かわいらしいところがあるんだよな、なんて思わせる。なんだか無性に、頬をツンとつついてみたくなった。
「ちょ、先輩……」
「はは、ごめん、なんか触りたくなって」
「くっそ、人の気も知らないで……」
「まあ応える気はなくてもさ、モテて悪いことはないんじゃね?」
「……今はそういう問題じゃないんすよ」
「そうなん? 俺にはよく分かんねえけど……でも瀬名は偉いよな」
「…………? なにがっすか?」
「さっき女子たちと喋ってるの、遠目に見てたけどさ。昼飯誘われたんだろ?」
「……まあ」
「それ、優しく断ろうとしてるように見えたから。俺だったらはっきり言っちゃうから、偉いなって」
「……全然そんなことないです。断るのに正直必死だったし。できるだけ波風立てないようにしてるだけ」
「それを普通優しいって言うんじゃね?」
「ううん、他人に興味がないってことです。自分をいちばん大事にして逃げてきたんで。……協力なんて誰がするかよ」
「ん? ごめん、最後のとこ聞こえなかった。なに?」
「いや、なんでもないっす」
「そっか? じゃあ、とりあえず飯食うか」
「……ん、そうっすね」
昼飯を食いっぱぐれてしまうわけにはいかない。自分もだが、ここに毎日やって来る瀬名にはしっかり食べてほしい。桃輔なりに先輩として、そこのところはちゃんと責任をもっていたい、なんて思ったりもするのだ。
まだなにか言いたげな顔をしている気がするが、頷いてくれたことにほっと息をついた。
「そうだ、今日は先輩に渡したいものがあって」
「ん? なに?」
水筒をひとくち飲んだ瀬名が、気を取り直したようにそう言った。もういつもの表情に見える。それに安堵しながら尋ねると、弁当とは別のひと回り小さな容器を瀬名が取り出した。その蓋を開け、差し出される。
「これ、よかったら食べてください」
「わ、エビフライじゃん」
レタスの上にミニトマト、それからエビフライが三本。思わず感嘆の声が出た。
なにを隠そう、エビフライは瀬名の好物だ。母がたまに弁当のおかずにもしてくれるが、今日のメインは唐揚げだ。
「俺、エビフライ好きなんだよなー」
「ですよね」
「え?」
「あー、いや……ほら、お弁当にエビフライ入ってる時嬉しそうだったから」
「うわ、俺そんなだった? なんか恥ずいな……えっと、食っていいの?」
「もちろんです。先輩に食べてほしくて頑張ったんで」
「え……もしかしてこれ、瀬名が作ったのか!?」
「はい。初めて作ったし、ちょっと焦げちゃったけど……」
「初めて? マジ? これもうプロが作ったみたいじゃん」
「大袈裟っすよ」
「そんなことないって。えっと、じゃあいただきます」
誰かの手料理なんて、母や祖母のものしか食べたことはないのに。できたばかりの後輩の、ましてや自分のために作ってくれた好物、だなんて。
容器を受け取って箸で持ち上げてみたけれど。そのまままじまじとエビフライを見つめてしまう。
「モモ先輩? どうしたんすか?」
「いやなんか、食べるの勿体ないなって」
「はは、なんでですか」
「瀬名が作ってくれたって思うとそうなんだよ」
「っ、モモ先輩……」
「でも、食べないほうが勿体ないよな。食う、マジで。うん」
覚悟を決めるようにそう言って、ひとくち齧ってみる。気合を入れたくせに、普段より小さなひとくちになってしまった。せめて長く味わいたい気持ちの表れだ。
口の中に広がる衣の香ばしさと、エビの食感。たしかに多少の焦げはあるが、なにも問題はない。丁寧に咀嚼しながら、ついうんうんと頷く。
「どう、すか?」
「美味い」
「マジすか!?」
「すげーマジ。うわー、やっぱ食い終わるの勿体ないなこれ」
「よかったー……一応味見分にも一本揚げて食べて、多分大丈夫だとは思ったんすけど。モモ先輩の口に合うかなって、かなり緊張した」
天井を仰ぎ安堵の息を大きく長く吐きながら、瀬名は後ろの壁に背を凭れた。一体、どれだけこの瞬間のことを考えていたのだろうか。これを作った今朝から? 買い物もわざわざしてくれたのだろうかと考えると、胸がくすぐったい。緩む口角をどうにも抑えられない。
「ありがとな、瀬名。これすげー嬉しい」
「こちらこそありがとうです」
「はは、なんでだよ」
「モモ先輩の喜んでくれた顔見れたから」
「そ、そっか」
「はい、そうっす」
胸いっぱいで食欲どっかいった、という瀬名に、絶対に食べなきゃだめだと勧めた。音楽が流れる中、最後の一本のエビフライを噛みしめるように食べて。洗って返すと言ったのに、気にしないでと押しの強い瀬名に負けて言葉に甘えることにした。ごちそうさまともう一度礼を言ったら、あと十分ほど昼休みが残っていることを確認した瀬名は、今なぜか、桃輔の膝の上に気持ちよさそうに頭を乗せている。
「いや、さすがに近すぎん?」
「そこはエビフライのご褒美ってことでひとつ」
「あ、自分から言っちゃう感じ?」
「はは、はい。ここぞとばかりに付け入ってます」
「ふ、お前なあ」
初めて手を繋いだ日以来、瀬名が言うところのアピールであるスキンシップは、日々の定番になってしまっていた。とは言っても以前のように手を繋いだり、寄りかかるようにくっつかれて一緒にスマホで音楽情報を見たりと、その程度だったのだけれど。いわゆる膝枕を求められたのは初めてだ。だが、戸惑いはするが嫌ではない。それがまた厄介だな、なんて桃輔は思う。
「犬みたいだよな、瀬名って」
「ええ、犬?」
「そう、大型犬。ゴールデンレトリバーとか? デカくて懐っこくて、飼ったことはないけど多分こんな感じだろ」
「うーん、でもモモ先輩は猫派っすよね?」
「うん」
「じゃあ猫がよかった」
「はは、そういう問題?」
「そういう問題っす」
「てか猫って言えばさ、瀬名んちの猫の写真、いつ見せてくれんだよ」
不服そうな顔で見上げてくる瀬名に、桃輔はくすりと笑みを零す。
入学したばかりの頃より髪は少し伸びたが、染められることはなく黒いままで。まっすぐで素直な瀬名の良さが、こんなところにも表れている気がする。それこそ犬にそうするように髪を撫でると、瀬名は目を見開いて両手で顔を覆ってしまった。
「あのー、モモ先輩? オレが先輩を好きだってこともしかして忘れてません?」
「えー? 忘れてないけど」
「ほんとかな……」
「なあ、猫の写真。見たい」
「……もっと仲良くなったら見せてあげます」
「もうだいぶ仲良くね?」
「だから……」
そこまで言ったところで、瀬名は腹筋に力を入れるようにして起き上がった。それからぐいと顔を近づけられる。思わず体が跳ねたが、「逃げないで、お願い」と瀬名がささやく。さみしそうに眉を下げた顔を瀬名にされると、桃輔はやはり弱い。言われるがままでいたら、コツンと額が合わさった。
「そういう意味で仲良くなったら、ですよ」
「そういう意味で、仲良く……?」
「うん。先輩の彼氏になれたら、ってこと」
「…………」
お前が一目惚れしたのは俺じゃない。そう言おうとしたことは何度かあった。だがその度に、それを先延ばしにしてしまった。勘違いしているのは瀬名だし、だとか、もう少し一緒に過ごしてみたいだとか、身勝手な理由をくっつけて。それが今になって、激しい後悔へと色を変えそうだ。だってやはり、酷いことをしている。瀬名はこんなに、誠実に恋をしているのに。
「モモ先輩? なんか元気ない?」
考えこんでつい俯くと、心配そうに瀬名が顔を覗きこんできた。
「いや、そんなことない。平気」
「本当に?」
「……ん、ほんとに」
瀬名のことを思えば、今すぐ教えてあげるべきだ。真実を伝えて、桜輔の元に送り出さなければならない。だがそうするには、あまりに仲良くなりすぎた。顔も合わせられなくなるなんて考えたくない――そう思ってしまうくらいには、水沢瀬名という後輩はかわいい存在になってしまった。
他人からの評価、向けられる感情――たくさんのものを諦めてきたけれど。瀬名を失うことは、今までの比にならない気がしている。想像するだけで息が詰まりそうだ。
「そうだ先輩、もうすぐ夏休みじゃないすか」
元気づけようとしてくれているのだろうか。先ほどまでよりトーンの上がった声で、瀬名がそう言った。
「ん? だな」
「どこか遊びにいきませんか?」
「俺と瀬名で?」
「そうです、ふたりで」
「それ、瀬名嬉しいヤツ?」
「当たり前じゃないすか! めっちゃ嬉しいっす!」
「そっか。じゃあ、遊ぶか」
「マジすか? やった」
本当に良いヤツだとそう思う。いい男でモテるという意味だけではなく、人間性が美しいとすら感じるくらいに。
そんな瀬名を、その心を大切にするなら、自分の感情なんかで振り回すべきではない。分かっているのに、それができない。勝手なものだとつくづく自分が嫌になる。
「……ごめんな」
「ん? なんか言いました?」
ぼそりと落ちた本音が、自分の胸に突き刺さる。
あと少しだけ、もう少し瀬名と過ごしたら必ず伝えなければ。せめてその覚悟だけはちゃんと持っていようと心に決める。
「いや、なんでもねえよ」
その瞬間に瀬名とはもう会えなくなるけれど。自業自得なのだ。
「モモー、今日も瀬名くんと昼か?」
「だなー」
「ほんと仲良いな! モモが後輩と仲良くやってんの、マジ意外だわ」
「それな」
尾方もコンビニの袋片手にやって来て、森本に賛同する。
瀬名がこのクラスに突撃したあの日以来、ふたりはずっとこの調子だ。茶化されていると感じた当初こそ、正直腹が立ったのが。実際はそういうことではないのだと、すぐに分かってしまった。ふたりなりに気にかけてくれていたらしい、昼休みになると決まってひとりで教室を出ていく友人のことを。だから桃輔はこうしてしみじみとした顔をするふたりを、邪険にはできずにいる。
「俺昨日、放課後に瀬名くんと会ってさ。つい声かけちゃったわ」
「は、なんて?」
「うちのモモがお世話になってますーって」
「尾方お前……俺の親か」
「ちょっとそのつもり」
「いやなんでだよ」
「母ちゃんって呼んでいいぞ」
「じゃあ俺が父ちゃん?」
「ふ、そしたらお前ら夫婦じゃん」
冗談を交わしながら弁当を持って立ち上がる。瀬名くんによろしく、なんて言うから、はいはいと適当に答え後ろ手に手を振った。
屋上へと向かっていると、途中にある廊下の先に瀬名を見つけた。隣にはいつも瀬名にくっついている女子と、それからもうひとりの女子がいた。ふたりは弁当らしきものを手に持っていて、例の子が瀬名の腕を両手で掴み、甘えるように揺らしている。ここから一年の教室は近くない。追ってきてまで昼休みを一緒に過ごしたい、というところだろうか。瀬名は落ち着いた様子で、どうにか躱そうとしているように見える。
本当にモテるんだなあというか、あの年齢で人を傷つけない振る舞いを選べて大したものだなあというか。つい立ち止まって感心していると、ふともうひとりのほうの女子と目が合ってしまった。
「げ……」
口の中でつい、そんなひと言が零れた。瀬名の友人とはできるだけ顔を合わせたくはない。桜輔と双子だと知っている者がいてもおかしくないからだ。あの人、あの笹原桜輔の双子の弟だよね、なんて言われたら困る。
すぐに視線を逸らし、屋上のほうへと急ぐ。すると背後から、こちらに駆けてくる足音が聞こえてきた。慌ててこちらも走ろうと思った瞬間、腕を掴まれた。瀬名だ。
「モモ先輩!」
「うおっ。瀬名、どうし……」
瀬名はそのまま屋上へと向かう。足取りはどこか切羽詰まっていて、突然のことについていくのでやっとだ。どうやら瀬名は、顔がいいだけじゃなく足も速いらしい。
「瀬名~、どうしたんだよ。急に走るから、俺……」
体力のなさに情けないと思いつつ、少し上がった息を膝に手をついて整える。踊り場へ一歩先に到着した瀬名を見上げると、だが桃輔の言葉は尻すぼみになった。瀬名がどこか苦しそうな、拗ねたような顔をしていたからだ。
「え……なにどした。なんかあった?」
「…………」
「なんだよ、話くらい聞くけど?」
「別に……」
そんな顔を見せられると、瀬名といて芽生えたばかりの兄心、もしくは先輩心が疼きだす。自身も踊り場へのあと一歩を上がりきり、瀬名の手を引いて座るように促した。
「なに、モテてモテて困る―って話?」
「……どの口が言ってんすか」
「はあ~? どういう意味だよ」
「モテてんの、誰がなのか分かってるのかなって」
「…………? 誰がって、瀬名しかいないじゃん」
「本当にそう思います?」
「どう見たってそうだろ」
「さあ、どうだか」
いつも涼しげな瞳が、なにか言いたげにジトリと桃輔を映す。なにを考えているのか、さっぱり分からない。だがその頬が、薄らと膨らんでいて。大人びているようでいてちゃんと年下で、かわいらしいところがあるんだよな、なんて思わせる。なんだか無性に、頬をツンとつついてみたくなった。
「ちょ、先輩……」
「はは、ごめん、なんか触りたくなって」
「くっそ、人の気も知らないで……」
「まあ応える気はなくてもさ、モテて悪いことはないんじゃね?」
「……今はそういう問題じゃないんすよ」
「そうなん? 俺にはよく分かんねえけど……でも瀬名は偉いよな」
「…………? なにがっすか?」
「さっき女子たちと喋ってるの、遠目に見てたけどさ。昼飯誘われたんだろ?」
「……まあ」
「それ、優しく断ろうとしてるように見えたから。俺だったらはっきり言っちゃうから、偉いなって」
「……全然そんなことないです。断るのに正直必死だったし。できるだけ波風立てないようにしてるだけ」
「それを普通優しいって言うんじゃね?」
「ううん、他人に興味がないってことです。自分をいちばん大事にして逃げてきたんで。……協力なんて誰がするかよ」
「ん? ごめん、最後のとこ聞こえなかった。なに?」
「いや、なんでもないっす」
「そっか? じゃあ、とりあえず飯食うか」
「……ん、そうっすね」
昼飯を食いっぱぐれてしまうわけにはいかない。自分もだが、ここに毎日やって来る瀬名にはしっかり食べてほしい。桃輔なりに先輩として、そこのところはちゃんと責任をもっていたい、なんて思ったりもするのだ。
まだなにか言いたげな顔をしている気がするが、頷いてくれたことにほっと息をついた。
「そうだ、今日は先輩に渡したいものがあって」
「ん? なに?」
水筒をひとくち飲んだ瀬名が、気を取り直したようにそう言った。もういつもの表情に見える。それに安堵しながら尋ねると、弁当とは別のひと回り小さな容器を瀬名が取り出した。その蓋を開け、差し出される。
「これ、よかったら食べてください」
「わ、エビフライじゃん」
レタスの上にミニトマト、それからエビフライが三本。思わず感嘆の声が出た。
なにを隠そう、エビフライは瀬名の好物だ。母がたまに弁当のおかずにもしてくれるが、今日のメインは唐揚げだ。
「俺、エビフライ好きなんだよなー」
「ですよね」
「え?」
「あー、いや……ほら、お弁当にエビフライ入ってる時嬉しそうだったから」
「うわ、俺そんなだった? なんか恥ずいな……えっと、食っていいの?」
「もちろんです。先輩に食べてほしくて頑張ったんで」
「え……もしかしてこれ、瀬名が作ったのか!?」
「はい。初めて作ったし、ちょっと焦げちゃったけど……」
「初めて? マジ? これもうプロが作ったみたいじゃん」
「大袈裟っすよ」
「そんなことないって。えっと、じゃあいただきます」
誰かの手料理なんて、母や祖母のものしか食べたことはないのに。できたばかりの後輩の、ましてや自分のために作ってくれた好物、だなんて。
容器を受け取って箸で持ち上げてみたけれど。そのまままじまじとエビフライを見つめてしまう。
「モモ先輩? どうしたんすか?」
「いやなんか、食べるの勿体ないなって」
「はは、なんでですか」
「瀬名が作ってくれたって思うとそうなんだよ」
「っ、モモ先輩……」
「でも、食べないほうが勿体ないよな。食う、マジで。うん」
覚悟を決めるようにそう言って、ひとくち齧ってみる。気合を入れたくせに、普段より小さなひとくちになってしまった。せめて長く味わいたい気持ちの表れだ。
口の中に広がる衣の香ばしさと、エビの食感。たしかに多少の焦げはあるが、なにも問題はない。丁寧に咀嚼しながら、ついうんうんと頷く。
「どう、すか?」
「美味い」
「マジすか!?」
「すげーマジ。うわー、やっぱ食い終わるの勿体ないなこれ」
「よかったー……一応味見分にも一本揚げて食べて、多分大丈夫だとは思ったんすけど。モモ先輩の口に合うかなって、かなり緊張した」
天井を仰ぎ安堵の息を大きく長く吐きながら、瀬名は後ろの壁に背を凭れた。一体、どれだけこの瞬間のことを考えていたのだろうか。これを作った今朝から? 買い物もわざわざしてくれたのだろうかと考えると、胸がくすぐったい。緩む口角をどうにも抑えられない。
「ありがとな、瀬名。これすげー嬉しい」
「こちらこそありがとうです」
「はは、なんでだよ」
「モモ先輩の喜んでくれた顔見れたから」
「そ、そっか」
「はい、そうっす」
胸いっぱいで食欲どっかいった、という瀬名に、絶対に食べなきゃだめだと勧めた。音楽が流れる中、最後の一本のエビフライを噛みしめるように食べて。洗って返すと言ったのに、気にしないでと押しの強い瀬名に負けて言葉に甘えることにした。ごちそうさまともう一度礼を言ったら、あと十分ほど昼休みが残っていることを確認した瀬名は、今なぜか、桃輔の膝の上に気持ちよさそうに頭を乗せている。
「いや、さすがに近すぎん?」
「そこはエビフライのご褒美ってことでひとつ」
「あ、自分から言っちゃう感じ?」
「はは、はい。ここぞとばかりに付け入ってます」
「ふ、お前なあ」
初めて手を繋いだ日以来、瀬名が言うところのアピールであるスキンシップは、日々の定番になってしまっていた。とは言っても以前のように手を繋いだり、寄りかかるようにくっつかれて一緒にスマホで音楽情報を見たりと、その程度だったのだけれど。いわゆる膝枕を求められたのは初めてだ。だが、戸惑いはするが嫌ではない。それがまた厄介だな、なんて桃輔は思う。
「犬みたいだよな、瀬名って」
「ええ、犬?」
「そう、大型犬。ゴールデンレトリバーとか? デカくて懐っこくて、飼ったことはないけど多分こんな感じだろ」
「うーん、でもモモ先輩は猫派っすよね?」
「うん」
「じゃあ猫がよかった」
「はは、そういう問題?」
「そういう問題っす」
「てか猫って言えばさ、瀬名んちの猫の写真、いつ見せてくれんだよ」
不服そうな顔で見上げてくる瀬名に、桃輔はくすりと笑みを零す。
入学したばかりの頃より髪は少し伸びたが、染められることはなく黒いままで。まっすぐで素直な瀬名の良さが、こんなところにも表れている気がする。それこそ犬にそうするように髪を撫でると、瀬名は目を見開いて両手で顔を覆ってしまった。
「あのー、モモ先輩? オレが先輩を好きだってこともしかして忘れてません?」
「えー? 忘れてないけど」
「ほんとかな……」
「なあ、猫の写真。見たい」
「……もっと仲良くなったら見せてあげます」
「もうだいぶ仲良くね?」
「だから……」
そこまで言ったところで、瀬名は腹筋に力を入れるようにして起き上がった。それからぐいと顔を近づけられる。思わず体が跳ねたが、「逃げないで、お願い」と瀬名がささやく。さみしそうに眉を下げた顔を瀬名にされると、桃輔はやはり弱い。言われるがままでいたら、コツンと額が合わさった。
「そういう意味で仲良くなったら、ですよ」
「そういう意味で、仲良く……?」
「うん。先輩の彼氏になれたら、ってこと」
「…………」
お前が一目惚れしたのは俺じゃない。そう言おうとしたことは何度かあった。だがその度に、それを先延ばしにしてしまった。勘違いしているのは瀬名だし、だとか、もう少し一緒に過ごしてみたいだとか、身勝手な理由をくっつけて。それが今になって、激しい後悔へと色を変えそうだ。だってやはり、酷いことをしている。瀬名はこんなに、誠実に恋をしているのに。
「モモ先輩? なんか元気ない?」
考えこんでつい俯くと、心配そうに瀬名が顔を覗きこんできた。
「いや、そんなことない。平気」
「本当に?」
「……ん、ほんとに」
瀬名のことを思えば、今すぐ教えてあげるべきだ。真実を伝えて、桜輔の元に送り出さなければならない。だがそうするには、あまりに仲良くなりすぎた。顔も合わせられなくなるなんて考えたくない――そう思ってしまうくらいには、水沢瀬名という後輩はかわいい存在になってしまった。
他人からの評価、向けられる感情――たくさんのものを諦めてきたけれど。瀬名を失うことは、今までの比にならない気がしている。想像するだけで息が詰まりそうだ。
「そうだ先輩、もうすぐ夏休みじゃないすか」
元気づけようとしてくれているのだろうか。先ほどまでよりトーンの上がった声で、瀬名がそう言った。
「ん? だな」
「どこか遊びにいきませんか?」
「俺と瀬名で?」
「そうです、ふたりで」
「それ、瀬名嬉しいヤツ?」
「当たり前じゃないすか! めっちゃ嬉しいっす!」
「そっか。じゃあ、遊ぶか」
「マジすか? やった」
本当に良いヤツだとそう思う。いい男でモテるという意味だけではなく、人間性が美しいとすら感じるくらいに。
そんな瀬名を、その心を大切にするなら、自分の感情なんかで振り回すべきではない。分かっているのに、それができない。勝手なものだとつくづく自分が嫌になる。
「……ごめんな」
「ん? なんか言いました?」
ぼそりと落ちた本音が、自分の胸に突き刺さる。
あと少しだけ、もう少し瀬名と過ごしたら必ず伝えなければ。せめてその覚悟だけはちゃんと持っていようと心に決める。
「いや、なんでもねえよ」
その瞬間に瀬名とはもう会えなくなるけれど。自業自得なのだ。