梅雨が明けると、すぐに茹だるような夏になった。肌に差す日射しはもはや、暑いというより痛いと表現したほうが的確だ。
夏休みも目前の、七月の夜。バイトを終えて帰宅して、すぐに風呂に入った。夕飯を食べ終え冷凍庫を開いたら、そこにはアイスがあった。ちょうどさっぱりしたものを食べたいところだったから、ソーダの氷菓はちょうどいい。
「お母さん、このアイス食っていいヤツ?」
「それは確か、オウくんが先週買ってきたものじゃない?」
「あー。じゃあいいや」
「食べちゃっていいよ」
なんだ、桜輔のか。がっかりしつつ冷凍庫に戻しかけたところで、風呂上がりの桜輔がリビングにやって来た。バスタオルで髪を拭き、もう片手ではスマートフォンをいじっている。
「いや、要らねえ」
「いいって。俺は今日食べるつもりなかったし、また買えばいいし。食べたかったんでしょ?」
「……じゃあ、もらう」
そこまで言われては、頑なに拒否するほうが幼稚な気がしてくる。桜輔に借りを作るようで癪ではあったが、ありがたくもらうことにした。
アイスを齧りつつ、リビングのソファに腰を下ろす。音楽アプリを起動し、ヘッドホンを装着する。再生するのは今夜も、平成のジェイポップだ。次はどの曲を弾き語りするか、ここ数日ずっと探している。気に入りのバンド、シンガーソングライター、アイドル、ロックやポップと幅広く聴いているのだが。最近はなぜだか、軽快なメロディーに心が惹かれている。未来への希望を叫ぶ歌や、恋心を甘く唄い上げるラブソングなどだ。桃輔にとって、それは珍しいことだった。
その変化に戸惑っている、というのが正直なところだ。耳に留まる音楽たちに、お前の心は今浮かれている、と言われているようで。
理由があるとするなら、瀬名と出逢ったことだろう。それ以外に変わったことなんてなにもないのだから。とは言え、瀬名が事実を知るまでの関係にすぎない。分かっているのにそれでもなお、瀬名と過ごす時間を楽しいと思っている。虚しさと罪悪感だって持っている。だがそれと同じくらい、音楽の好みに影響するほど浮かれている、ということだ。
本当のことは必ず伝えるから。それまでの間くらい、そんな心に正直になってみたい。後輩に懐かれるなんて本来、自分にはあるはずのないものだから。
「ふー……」
気を取り直すように息を吐いて、インスタを開く。投稿できる新たな弾き語り動画はないが、更新したい気分だ。とは言え、何かしらの画像か動画がないとアップできない仕組みのSNSだ。写真フォルダをスクロールしても目ぼしいものはなく、これでいいかとひとくち齧ったアイスを撮影する。
<最近は次に弾く曲を探してる。今までとは違った曲調のになりそう。いいのがたくさんあって迷う>
キャプションにそう書いて投稿すると、ほんの数分でアンミツからコメントが届いた。
<次も楽しみです! 最近は前回投稿の曲を毎日聴いています。momoさんはオリジナル曲を作ったりはしないんですか?>
「オリジナルなあ……」
アンミツからの一文にある単語を、桃輔はぼそりと読み上げる。
ギターを買って、コードを少しずつ覚えていって。オリジナル楽曲を作成することに、興味が湧かないわけではない。だがその一歩は踏み出せずにいる。音楽にしたいほどのなにか強い感情が、自分の中に見つからなかった。
<アンミツさんいつもありがとうございます。オリジナルは今のところ考えていないですね>
返信を終えたところで、ヘッドホンから流れていた一曲が終わった。プレイリストを変えようと一時停止を押せば、桜輔と母の会話が耳に届く。
「そうだ。お母さん、明日のお弁当のおかずってなに?」
「お弁当のおかず? 珍しいこと聞くわね」
「ちょっと気になって」
「明日はねー、唐揚げがメインかな」
「ほんと? やった。俺の好きなヤツ」
「ふふ、そうね」
無邪気な桜輔に、母も気分がよさそうだ。それにしたって、妙なことを聞くものだなと母に同意する。そんなことを尋ねているのは初めて聞いた。
満足げな桜輔はまたスマートフォンを操作しながら立ち上がり、こちらへと向かってきた。自室に逃げたいところだが、アイスを貰った手前あまり邪険にもできない。
「なに。なんか用?」
「いや、特には。えーっと、アイス美味しい?」
「……まあ。これ、明日買って返す」
「え? いいよ、気にしなくて」
「そういうんじゃねえよ。借り作りたくないだけ。俺も食いたいのあるから、そのついで」
「ふ、そっか。ありがとう」
桃輔の頭の上に手を翳し、だがバツが悪そうにその手は引っこめられた。眉尻を下げて淡く笑いながら、桜輔は階段のほうへと歩き出す。誰へというわけでもない桜輔の「おやすみ」に母が返事をし、桃輔は体から力を抜くように息を吐いた。
そろそろ自分も自室に向かおうか。食べ終わったアイスの棒を袋に戻し、立ち上がりかけた時。スマートフォンの通知が鳴ったので、再び腰を下ろす。
確認すると、先ほど投稿した写真へのコメントが新たに来た通知だった。cherryからだ。
<合う曲が見つかるといいですね。投稿楽しみにしています>
アンミツに続き、cherryも相変わらずリアクションが早い。
<cherryさんいつもありがとうございます。またよかったと言ってもらえるような演奏がしたいです>
返信をしてから、今度こそ自室へと引き上げる。黙ったままでいたら背中に母からの「おやすみ」がぶつかったので、小さな声で「おやすみ」と返した。
夏休みも目前の、七月の夜。バイトを終えて帰宅して、すぐに風呂に入った。夕飯を食べ終え冷凍庫を開いたら、そこにはアイスがあった。ちょうどさっぱりしたものを食べたいところだったから、ソーダの氷菓はちょうどいい。
「お母さん、このアイス食っていいヤツ?」
「それは確か、オウくんが先週買ってきたものじゃない?」
「あー。じゃあいいや」
「食べちゃっていいよ」
なんだ、桜輔のか。がっかりしつつ冷凍庫に戻しかけたところで、風呂上がりの桜輔がリビングにやって来た。バスタオルで髪を拭き、もう片手ではスマートフォンをいじっている。
「いや、要らねえ」
「いいって。俺は今日食べるつもりなかったし、また買えばいいし。食べたかったんでしょ?」
「……じゃあ、もらう」
そこまで言われては、頑なに拒否するほうが幼稚な気がしてくる。桜輔に借りを作るようで癪ではあったが、ありがたくもらうことにした。
アイスを齧りつつ、リビングのソファに腰を下ろす。音楽アプリを起動し、ヘッドホンを装着する。再生するのは今夜も、平成のジェイポップだ。次はどの曲を弾き語りするか、ここ数日ずっと探している。気に入りのバンド、シンガーソングライター、アイドル、ロックやポップと幅広く聴いているのだが。最近はなぜだか、軽快なメロディーに心が惹かれている。未来への希望を叫ぶ歌や、恋心を甘く唄い上げるラブソングなどだ。桃輔にとって、それは珍しいことだった。
その変化に戸惑っている、というのが正直なところだ。耳に留まる音楽たちに、お前の心は今浮かれている、と言われているようで。
理由があるとするなら、瀬名と出逢ったことだろう。それ以外に変わったことなんてなにもないのだから。とは言え、瀬名が事実を知るまでの関係にすぎない。分かっているのにそれでもなお、瀬名と過ごす時間を楽しいと思っている。虚しさと罪悪感だって持っている。だがそれと同じくらい、音楽の好みに影響するほど浮かれている、ということだ。
本当のことは必ず伝えるから。それまでの間くらい、そんな心に正直になってみたい。後輩に懐かれるなんて本来、自分にはあるはずのないものだから。
「ふー……」
気を取り直すように息を吐いて、インスタを開く。投稿できる新たな弾き語り動画はないが、更新したい気分だ。とは言え、何かしらの画像か動画がないとアップできない仕組みのSNSだ。写真フォルダをスクロールしても目ぼしいものはなく、これでいいかとひとくち齧ったアイスを撮影する。
<最近は次に弾く曲を探してる。今までとは違った曲調のになりそう。いいのがたくさんあって迷う>
キャプションにそう書いて投稿すると、ほんの数分でアンミツからコメントが届いた。
<次も楽しみです! 最近は前回投稿の曲を毎日聴いています。momoさんはオリジナル曲を作ったりはしないんですか?>
「オリジナルなあ……」
アンミツからの一文にある単語を、桃輔はぼそりと読み上げる。
ギターを買って、コードを少しずつ覚えていって。オリジナル楽曲を作成することに、興味が湧かないわけではない。だがその一歩は踏み出せずにいる。音楽にしたいほどのなにか強い感情が、自分の中に見つからなかった。
<アンミツさんいつもありがとうございます。オリジナルは今のところ考えていないですね>
返信を終えたところで、ヘッドホンから流れていた一曲が終わった。プレイリストを変えようと一時停止を押せば、桜輔と母の会話が耳に届く。
「そうだ。お母さん、明日のお弁当のおかずってなに?」
「お弁当のおかず? 珍しいこと聞くわね」
「ちょっと気になって」
「明日はねー、唐揚げがメインかな」
「ほんと? やった。俺の好きなヤツ」
「ふふ、そうね」
無邪気な桜輔に、母も気分がよさそうだ。それにしたって、妙なことを聞くものだなと母に同意する。そんなことを尋ねているのは初めて聞いた。
満足げな桜輔はまたスマートフォンを操作しながら立ち上がり、こちらへと向かってきた。自室に逃げたいところだが、アイスを貰った手前あまり邪険にもできない。
「なに。なんか用?」
「いや、特には。えーっと、アイス美味しい?」
「……まあ。これ、明日買って返す」
「え? いいよ、気にしなくて」
「そういうんじゃねえよ。借り作りたくないだけ。俺も食いたいのあるから、そのついで」
「ふ、そっか。ありがとう」
桃輔の頭の上に手を翳し、だがバツが悪そうにその手は引っこめられた。眉尻を下げて淡く笑いながら、桜輔は階段のほうへと歩き出す。誰へというわけでもない桜輔の「おやすみ」に母が返事をし、桃輔は体から力を抜くように息を吐いた。
そろそろ自分も自室に向かおうか。食べ終わったアイスの棒を袋に戻し、立ち上がりかけた時。スマートフォンの通知が鳴ったので、再び腰を下ろす。
確認すると、先ほど投稿した写真へのコメントが新たに来た通知だった。cherryからだ。
<合う曲が見つかるといいですね。投稿楽しみにしています>
アンミツに続き、cherryも相変わらずリアクションが早い。
<cherryさんいつもありがとうございます。またよかったと言ってもらえるような演奏がしたいです>
返信をしてから、今度こそ自室へと引き上げる。黙ったままでいたら背中に母からの「おやすみ」がぶつかったので、小さな声で「おやすみ」と返した。