「こんにちは、先輩」
「げ」
翌日の昼休み。いつものように屋上前の踊り場へひとりやって来た桃輔は、後ろからかけられた声にまさかと思いながら振り返った。ひくつく口角を隠さない桃輔だが、妙な一年生こと水沢瀬名は、ちっとも怯む様子はない。
「お前、なんでこんなとこにいんだよ……」
「先輩こそ。こんなとこでお昼食べるんですか? ひとりで?」
「……俺はいつもここで食ってんだよ、ほっとけ。てかお前なに、もしかして俺の後つけてきた?」
「声かけようとしたんですけど、先輩がどこかに行くみたいだったんで。つい」
「ストーカーじゃん」
「あー……はは、それは否定できないかも」
桃輔がこの場所で昼休みを過ごすようになったのは、入学して間もない頃だった。桜輔と双子だとすぐに気づかれて、好奇の眼差しが全方向から刺さった。そしてすぐに、比較されているのをありありと感じ取れた。
勉強ができない方、スポーツに励んでいない方、愛想がない方――桃輔はいつも“じゃない方”で、もともと持っていた劣等感は新しい環境であっという間に膨張した。それから逃げるようにして、この場所を見つけたのだ。
だが今では、単にここが気に入っている。静かで、音楽も落ち着いて聴いていられるし。少なくともクラスメイトたちが双子という属性に飽きて、森本と尾方という気の合う友人ができてもなお、ここに来るくらいには。
だから正直、瀬名につけられていたのが面白くない。自分だけのテリトリーに、よく知りもしないヤツが突然侵入してきたのだ。それも当然だろうと桃輔は思う。
「オレもここで食っていいすか」
「は? 嫌だけど」
「えー、どうしても?」
「俺、音楽聴きながら食うからうるさいの無理」
「それは絶対邪魔しないんで。静かにしてます」
「はあ……今日だけな」
「やった」
許可を取るように窺ってくる割に、ちっとも引き下がりそうにない。飄々とした表情が整った顔に乗っていて、なんだか腹も立つ。だが、いつまでも言い合いをするのも面倒だった。今日だけだとため息交じりに応じれば、瀬名はずいぶんと嬉しそうな顔をして隣に腰を下ろした。
昨日の今日だから仕方ないのかもしれないが、この様子だと人違いをしていることにはまだ気がついていないようだ。
一目惚れというのはつまり、理想の男性像だとかそういった、憧れの感情なのだろう。ようは桜輔の見た目を気に入った、ということだろうに。大したことない憧れだ。顔の作りこそ同じだとは言え、格好は敢えて違ったものにしているのに。見間違えるだなんて。
「あのなあ……」
教えてあげようと口を開く。そうすればここを去るだろうし、平和なひとりの昼休みも守られるわけで。だが一方的に迷惑をかけられているのだと思うと、親切にしてやるのもなんだか癪だ。
「はあ。やっぱなんでもない」
「ええ、なんすか!?」
「うるさい、俺は昼飯食うんだよ」
考えるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。貴重な昼休みなのだし、まずは自分を優先したい。ヘッドホンを装着して、音楽のサブスクリプションに登録しているアプリを立ち上げる。スマートフォンを床に置き、膝の上で弁当を広げた。
「いただきます」
平成のジェイポップをランダムに流すプレイリストは、桃輔のお気に入りだ。次はどの曲を演奏できるように練習しようか。そんなことを考えつつふと隣を見ると、瀬名の視線が桃輔のスマートフォンに注がれていた。手に持った弁当を、まだ開きもしないままに。
静かにしている、と宣言した約束を律義に守っているのに、その瞳は雄弁に見えた。ヘッドホンを首に下ろし、声をかけたくなるくらいには。
「もしかして、音楽好き?」
「え」
話しかけられるとは思っていなかったらしい。丸く見開かれた瞳が勢いよくこちらに向けられ、だがすぐにふにゃりと弧を描いた。
へえ、そんな顔するんだ。柔らかな表情は、今までの様子からすると意外だった。
「っす、好きですね。そのくらいの年代のも、よく聴いてます」
「マジか……」
音楽を聴くこと自体はなにも珍しくない。むしろ、多くの同世代にとっても欠かせないものだと感じている。だが、皆が聴くのはやはり最近の、流行りのものが圧倒的だ。桃輔もそれらを聴くには聴くが、ピンポイントで趣味が合う相手には初めて会った。
高揚していることを悟られまいと、大きく息を吸って静かに息を吐く。
「奇遇だな」
「ですね。あの、オレも一個聞いてもいいっすか?」
「なに?」
「明日からもここ、来たいっす」
「あー……」
ほんの数分前なら、絶対に嫌だと突っぱねたのだけれど。音楽の趣味が合うと知った今、すぐに拒否することができなかった。それくらいなら許してやってもいいかも、なんて考えている自分に内心苦笑する。
「ダメっすか?」
「……てかそれ、質問じゃなくて宣言じゃね」
「あ。確かに……」
「変なヤツ。まあ、いいけど? 騒がないなら、喋るのも別にいい」
「え、マジっすか!? ほんとに!?」
「うん」
「うわー、よかったー」
「はは、必死すぎだろ」
安堵したように息をついて、瀬名はようやく弁当を食べ始めた。桃輔のものより一回りは大きいそれを、みるみるうちに食べ終わってしまった。呆気に取られていると、ごちそうさまと手を合わせた瀬名は体ごとこちらを向いた。どうやら話の続きをしたいらしい。
「必死にもなりますよ、一目惚れなんで」
「一目惚れね……よく知りもしないくせに」
人となりどころか、相手を間違ってすらいるのによく言う。大きく呆れる気持ちはちっとも変わらないのに。その中に、不意に一滴の罪悪感が落ちた。教えてあげればいいだけなのに、それをしていないからだ。だが、なんで俺が後ろめたさを感じなきゃいけないのか、とそっと首を振る。巻きこまれて迷惑をかけられているというのに。
桃輔も最後のおかず、好物のエビフライを口に入れて手を合わせる。顔を上げると瀬名の顔が先ほどより近くにあって、思わずのけ反った。
「びっ、くりした……」
「そんなこともないっすよ」
「え、なにが?」
「さっき、よく知りもしないくせに、って」
「あー。でもその通りだよな?」
「…………」
「どした?」
なにかを強く訴えるような、真剣な瞳が桃輔を映す。だが口は噤んだままだから、その真意はちっとも分からない。思わず首を傾げると、今度は懐っこい笑顔を見せる。
「じゃあ先輩のこと、これからたくさん教えてください」
「順番いろいろと間違ってんだろ」
そんなことないんだけどな、とまた笑って、瀬名は手を差し出してきた。
「なに」
「握手してください。水沢瀬名です、改めてよろしくお願いします」
「昨日聞いたから知ってる。はあ……しょうがねえな。俺は笹原桃輔」
「うん、知ってます。笹原先輩」
「え、こわ」
「はは!」
クールなように見えて、表情がころころと変わって、人懐っこい。さながら大型犬のようだ。こちらに合わせて大きな背を丸める仕草には、優しさも垣間見える。
最初の印象より、変なヤツではないのかもしれない。本来追いかける相手は桜輔だと自分で気づくまでの間くらい、相手してやってもいいかなと思える程度には。
桜輔のことを教えるつもりではあったが、もうしばらくは黙っていることにする。勘違いをしているのは瀬名のほうなのだから、きっと罰は当たらない。
「なあ、好きなアーティストとかいんの?」
「いますよ! オレが好きなのは、――」
まあその瞬間も、近い内に訪れるだろう。騙すみたいで多少胸は痛むが、バレた時にはお詫びにと、桜輔への橋渡しをしてやってもいい。