ひとしきり抱きしめ合って、キスをして。最後だから思い出にちょうだい、と言われて、少しだけ深いキスも初めてしてしまった。瀬名に乞われたら本当になんでもあげてしまいたくなるから、気をつけてねだってほしい。

 名残惜しかったが、ふたり並んで校門を出る。駅まで送ってくれるらしい。

「明日はうちに集合だったよな」
「っすね。昼過ぎには行こうと思ってます」
「ん、待ってる」

 音楽の道へ踏み出す一歩のため、少しずつ準備をしてきた。まだなにも投稿はしていないがユーチューブのチャンネルを作ったり、瀬名の指揮のもと、オリジナル曲のMVを撮り直したり。こんな日が来るのではと考えて、動画制作の勉強をしていたというから驚きだ。学校の屋上前、瀬名の家の近くの公園、それから自宅の部屋。様々な場所で弾き語る姿を、瀬名のスマートフォンで撮影した。

 両親へも思いを伝えた。進学はしないことに不安を感じさせたようだったが、最終的には「やれるだけやってみなさい」と背中を押してくれた。桜輔のほうは大学への推薦入学が決まっていたからそのおかげ、という部分も大きかっただろう。森本と尾方にも報告した時は、驚きながらも「すげー応援する!」と強くハグされてしまった。

 それから、新しい曲が二曲完成し、そちらもMVを制作した。好きなものはそう簡単には変わらなくて、ブルージーな世界観を追い求めたらどちらも失恋ソングになったのだが。それを聴いた瀬名が、なんと泣いてしまった。自分たちの恋が終わることを想像してしまったらしい。ただの妄想だと慰めて分かってはくれたようだが、それ以降、瀬名の愛情表現はエスカレートしてきている。現に今も歩きながらも、人目も憚らず隙あらば頬を撫でたり、腰を抱いたりしてくる。嫌ではないから構わないのだけれど。

 ドキドキとうるさい心臓には気づかないふりをして、明日の予定を確認する。

「動画の最終確認と、投稿だよな」
「っす。明日から三日連続でアップします。宣伝も頑張りますんで」
「ありがとな。てか早く見たい、瀬名が作ってくれた動画。すげー楽しみなんだよな」

 当初こそ、明日を迎える前に桃輔もチェックをする手筈だったのだが。まずは瀬名と桜輔で確認したところ、これでいこうと太鼓判を押してもらえたらしい。せっかくだから本人であるmomoには当日のサプライズで、という話でまとまったとのことだ。

「気に入ってもらえるといいんすけどね」
「ああ、それは大丈夫」
「え?」
「気に入る自信すげーあるから。だって瀬名のこと想いながら作った曲のMV、瀬名が作ってくれるとか。こんな最高なことねえもん」
「モモ先輩……」

 桜輔は四月から東京の大学、瀬名は高校二年生に進級。自分の生活があるのに、桜輔はマーケティングを、瀬名は今後も動画制作を主に担ってくれることになっている。そんなふたりが後悔しないだけではなく、やってよかったと思えるように誰より自分が頑張りたい。ふたりの努力に報いるように、道を切り開くのは自分だ。

 駅に到着し、瀬名と向かい合う。辺りを少し見渡して、瀬名の手を握る。

「瀬名、俺頑張るから」
「っす」
「見ててな、いちばん近くで」
「……っ」
「はは、また泣いた」

 もう人目なんて別にいいか。瀬名の頭を引き寄せて抱きしめる。今日は卒業式だったから、それだけで胸いっぱいだろうに。これからの宣言をしたせいで、泣かせてしまった。責任をもって抱きしめて、愛をもって大切にしたい。抱きしめ返してくれる腕は、伝わった印だ。

「あーあ、やっぱり今日もずっと一緒にいたかった」
「ん、俺もだよ」
「でも友だちも大事にする先輩が好きなんで。ちゃんと見送ります。楽しんできてくださいね」
「…………」

 腕をほどいた瀬名が、笑顔でそう言う。ああ、その感情をよく知っている。初めてのオリジナル曲でも唄った心だ。“君の明日は今日よりひとつ楽しくて、美味しくて、綺麗なほうがいい”と。それなのに、なぜだろう。それをまっすぐ向けられてみれば、無性に寂しい。やっぱり一緒がいい、と駄々を捏ねているのだ。身勝手でみっともない恋を、今もしているのかもしれない。

 でももう、ひとりで泣く恋ではないから。わがままに移り変わってしまったこの心も、渡してみたくなる。

「瀬名、あのさ。今日打ち上げ終わったら、瀬名んち行っていい?」
「……え?」
「打ち上げは楽しみだけど、やっぱり今日の最後は、瀬名といたい、っつうか……あー、わがままだよな、悪い」
「全然悪くないっす! だってオレ今、すげー嬉しい」
「マジ? あ、でも瀬名の家の人困るよな。遅くなるかもだし」
「全然平気ですって! 来るって言っとく!」
「……ほんとに? いい?」
「もちろんっす。そのままお泊りにして、明日一緒にモモ先輩んちに帰りましょ」
「あ、それいいな」

 ああ、受け取ってもらえた。それが泣きそうなくらいに胸を打つ。瀬名を好きになってからこっち、両想いになってもなお、もう何度泣いたことだろう。情けないなと思いつつ、瀬名を想ってのものだから、べつにいいかと自分を甘やかしてしまっている。

「ふ」
「モモ先輩? どうしたの? 泣きながら笑ってる」
「いや、なんかさ、幸せっていつでも切ないのと隣り合わせだなって思って」
「え? あーでも分かる気がする。モモ先輩のこと大好きで幸せで、嬉しいことでもよく泣けてくるから。モモ先輩にだけ、そうなる」
「うん。一緒だな」
「ねえ先輩、あれどういう意味でしたっけ。あの曲のタイトルにも入ってる、ブルージー。最初の頃に教えてくれましたよね」
「ああ、それは……」

 今度こそと、改札の目の前まで一緒に歩く。

「物悲しいとか、切ないとか。そんな感じだな」
「そうだ、そうだった。じゃああの曲は片想い中の曲だけど、今にもマッチしてるってことっすね。誰かを好きでいるって、ずっとブルージーだ」
「たしかに」
「モモ先輩天才じゃん」
「はは! じゃあ気づいた瀬名も天才じゃね」

 じゃあまたあとで、とハイタッチをして、勢いよく改札を通る。そうしないとこの口が、もう打ち上げもいいかななんて言いだしそうだったから。

 いつかの夏休みのように、スマートフォンをポケットから取り出してお揃いのねこのぬいぐるみを振ってみる。すると瀬名もすぐに意図を汲んでくれたようで、同じように振ってくれた。

「終わったら連絡する」
「そしたら迎えに来ますね」
「いや、それはいい」
「え。なんでっすか」
「高校生はお子ちゃまだから、そんな遅くに出てきちゃダメだろ」
「いやそれは先輩も同じじゃん」
「残念、俺はついさっき大人の階段のぼっちゃったんで」

 そう言って、今度は卒業証書の入ったバッグを掲げてみせる。

「はあ? はは、そんなこと言ってる先輩のほうがお子ちゃまみたいっすよ」
「うっせ。じゃあほんとに、また」

 進行方向に背を向けたまま歩いて、手を振り続ける。階段にたどり着いて、最後の最後まで見送ってくれる瀬名をもう一度振り返り、また手を振った。


 ホームで電車の到着を待っていると、スマートフォンが通知音を鳴らした。確認してみると、インスタにDMが届いた報せだ。

「は? ふは、瀬名のヤツなにやってんだ?」

 それはアンミツからのもので、つい周りも気にせず吹き出してしまった。気を取り直してメッセージを確認する。

<momoさんこんにちは。今日は大好きな人が卒業してしまったので、momoさんの歌を聴きにきました。切ない歌詞、メロディを唄いあげるmomoさんの声がマッチして、泣けてきます。すごく寂しいけど、好きな人の門出に立ち会えたことは幸せだなとも思っています>
「瀬名……」

 今日はもう何度泣いたか本当に分からない。滲んできた涙は、けれどすぐに冷たい風に冷える。泣いていると通行人に知られないようこっそり拭っていると、続けてもうひとつメッセージが届いた。

<ちなみに、聴いてるのはもちろんこの曲です! あれから毎日聴いています!>
「はは。知ってる」

 バッグからヘッドフォンを取り出し、瀬名もといアンミツが貼りつけてくれたリンクをタップする。流れてくるのは初めて作った曲、“君を唄うブルージー”だ。一年前までは出逢ってもいなかった瀬名と、今この瞬間、離れた場所で同じ音楽を共有している。瀬名が懸命に結んでくれたからこそある今だ。奇跡なんかよりずっと愛おしい。

 今でこそ萎んでいる劣等感は、これから目指す世界でまたみるみると膨らむのだろう。けれど――気丈に立っていられる気もするのだから不思議だ。自信なんて今もなくても、瀬名と歩く自分のことは、信じていられる。幸せで切なくて、強くいられる恋を、瀬名としているから。

 電車がホームに滑りこんでくる。乗りこんだら、間もなく線路の上を走り出す。

 窓の外に流れる街。線路の音、きっといつか懐かしくなる匂い。口の中には、まだ瀬名の名残りがあることに気づく。

「もう会いたくなっちゃったじゃん」

 ああ、この瞬間も切り取って唄いたい。くたくたのノートを取り出し思いのままに言葉を書き出せば、瀬名の味はブルージーな歌詞と音色に変わる。これを聴かせる時がきたら、また泣かせてしまうだろうか。でもその時は伝えよう、これは愛してると叫ぶ歌なのだと。そしたら笑い合える、絶対に。

 そう思える自分を今、たしかに生きている。