あっという間に3月になった。卒業式は滞りなく終わり、森本と尾方に「また後でな」と手を振って廊下へ出る。泣いている者たちや、解放感からか大騒ぎをしている者たち。式を終えたばかりの校内は賑やかなのに、どこか空気が澄んで厳かにも感じられるから不思議だ。


「モモ先輩!」
「瀬名。待ったよな、ごめん」

 廊下を埋めつくすような人波を縫って、想定外に少し足止めを食らって。屋上前へとたどり着いた。卒業式の後にここで会いたい、と言い出したのは瀬名だった。それなのに、不覚にも遅くなってしまった。

「いや、全然いいんすけど……もしかして告られたりしました?」
「え。なんで分かんの?」
「……胸んとこの花、なくなってる。あげたんすね、うちのクラスの女子に」
「……瀬名ってエスパーだったんか」
「あの子、前から先輩のこと狙ってたの知ってたんで。協力してって言われたこともあるし」
「え、マジ?」
「……協力なんかするかっつうの」

 屋上にくるまでに時間がかかってしまったのは、一年の女子に呼び止められたからだった。どこかで見たことがある子だな、と思ったら。少し離れたところで、瀬名にいつもくっついて恋する目を見せていた女子が見守るように立っていた。それを見て思い出した。目の前で恥じ入った様子を見せているのは、その女子の隣にいつもいた子だ。瀬名を目で追ってしまう時に、目が会ったことも何度かあった。

 一体なんの用だろう。そう思ったのも束の間、「好きです!」なんて言われるものだから、面喰ってしまった。

「え……え、俺!?」
「そうです、笹原先輩です」
「ええー……ちなみに笹原違いでもねえの? 桜輔なら俺じゃねえけど」
「間違ってないです。桃輔先輩のことです」
「あ、そう……変わってんね」

 そんな会話をした後、付き合っている人がいるのだと伝えた。まさか、泣かれてしまうとは思わなかった。告白されることも、自分のせいで女子が泣くのも慣れていなくて。どうにかして泣き止んでもらえないかと必死に考え、せめてもと胸ポケットに飾られていたコサージュを渡してきたのだった。

「もしかして瀬名も欲しかった? あの花」
「そうじゃないっすけど……他のヤツの手に渡ったのは面白くない」
「まあ、確かにそうだよな」

 差し出された手を取って、階段のいちばん上に座る瀬名の隣に腰を下ろす。瀬名の頬は少し膨らんでいて、失敗したなあと思う。捨てられてしまうゴミですら、瀬名を想う誰かに瀬名の手から渡ったら――そう想像してみればなるほど、たしかに面白くない。

「瀬名」
「…………」
「せーな」

 少し腰を浮かせて、瀬名の頬にくちびるを押しつける。一瞬のくちづけに、瀬名は勢いよくこちらを向いた。

「うわ、今のはずるい……」
「嫌だった?」
「最高だった」
「あはは! よかった。ごめんな、瀬名。花はなくなっちゃったけど、あとは全部あげるよ」
「全部?」
「うん。瀬名が欲しいものは全部。ネクタイとか? いっそブレザー? は、入らないか」

 愛されている、大事にされている。そんな風に心から信じられる日がくるなんて、思ってもいなかった。

 例えばこんな風にキスをすることで、恋人の気分を上げられると分かるようになった。自惚れもいいところだ。思った通りに受け取ってくれる、そう自負しているということだから。

 信じられるくらいの想いをもらっていて、それくらいの想いをきっと捧げられている。バカップルと誰かに呼ばれても、言い訳ひとつできない。

「じゃあモモ先輩」
「うん」
「卒業しないでください」
「……え?」
「学校に来ても明日から先輩がいないの、すげー寂しい」

 そろそろと指が絡んで、ぎゅっと力が込められた。

 卒業したって、これからだって外で、家で、いろんなところで会える。けれど、そういう意味じゃない。瀬名の考えていることが、繋いでいる手から滾々と流れこんでくるみたいだ。

「瀬名……あの公園で見つけてくれて、この学校に来てくれてありがとな。瀬名のおかげで、俺すげー変わったなって思うよ。俺ってこんなに、色んな感情持ってたんだなーって。そんなことも知らなかった。瀬名に出逢うまで、どう生きてきたのかもう覚えてないくらい。大袈裟に聞こえるかもだけど、マジだよ」
「先輩……」
「ここでの最後の一年、瀬名といて本当に楽しかった。瀬名にとっての一年も、俺がいたことでそうで、惜しんでもらえるのってすげーよな。だから……置いてくみたいで、俺もめちゃくちゃ寂しい。瀬名の高校での思い出全部に、俺もいたかった。あー……はは、クラスでも別に泣かなかったのに。瀬名のことだと俺ダメだわ」

 照れ隠しに鼻を啜ると、涙をいっぱい瞳に溜めた瀬名が抱きついてきた。勢いのあまりか、気がつくと床に背が付いていた。見上げると、瀬名の涙がひとつぶ落ちてくる。冷えた床、ぬるい指先に熱い頬。ああ好きだなあ、と吐息がこぼれる。

「オレも、モモ先輩に会えて本当によかった。モモ先輩が音楽を好きで、唄ってくれて、それを世界に見せてくれて……どれかひとつなかっただけで出逢えなかったのかなって思うと、怖いくらい。寂しいけど、すげー寂しいけど。先輩に出逢えた今があるから、頑張るよ」
「うん、応援してる。瀬名がくれる心強さを俺もあげられるように、頑張るよ」
「もうもらってるっすよ、いっぱい」

 階段へ投げ出された足に、瀬名のそれが絡まる。瀬名の顔がゆっくりと近づいてきて、頬にくちびるにとキスが落ちてくる。それからまつ毛を濡らす涙を吸われて、お返しにと瀬名の涙にもキスをした。ひとしきりそうしたら、満たされた心が笑顔を連れてくる。

「……ふ」
「はは。瀬名、かーわいい」
「モモ先輩もだいぶかわいいっすよ。あと、かっこいい」
「瀬名もな。かっこいいよ、すげーかっこいい。なあ、俺のいないとこであんまモテんなよ。まあ今更だろうけど」
「最近はオレ、付き合ってる人いるって宣言してるんで」
「え、そうなん?」
「っす。それより、先輩こそっすよ。応援してるけど、あんまり人気者になったら妬けるかも」
「マジか。ちなみにアンミツ的には?」
「古参として自慢しまくりっすね。momoは最初っから最高だったんだよなーとかコメントする」
「あはは! 即答!」
「cherryにも絶対に負けないんで」
「ふはっ、分かった、分かったから」

 なあ瀬名、本当に色んな感情に出逢えた日々だった。泣き笑いが似合うこの恋は、なによりの宝ものだ。

「今日はクラスの打ち上げとかあるんすよね……」
「だなあ」

 離れがたいといった顔をする瀬名の背中に、腕を回す。引き寄せて、抱きしめ合って。ああ、やっぱり宝ものなのは瀬名自身だな、なんて思う。探し当てられたのはこちらでも、今この手に自分こそが宝を抱いているのだ。

「瀬名~」
「はは、なんすか。モモ先輩~」

 両想いになれたから、彼氏だから大切にするんじゃない。最初からずっと大切だった瀬名に、この一生をかけてそう伝られたらいい。まずは手始めにその名前を。愛しくて口の中で転がしたら、似た笑顔の愛が返ってきた。