訳も分からないまま、瀬名の家までの道を歩く。先ほどからずっと手は繋がれたままで、指摘したら離したくないと言われてしまった。

「俺汗かくかも」
「全然平気っす」
「子どもじゃねぇんだから、ちゃんと瀬名についていけるし」
「ですね。でも繋いでたくて」
「……男同士でなにやってんだって、変な目で見られるかもしんねぇぞ」
「全然平気。あ、モモ先輩は困る?」
「俺も別に、他人がどうとかは気にしないけど……」
「よかった。じゃあこのままで」

 なにを言っても納得してくれるどころか、駄々っ子みたいに力を込められてしまった。もう諦めて、されるがままになるしかない。

 だが桃輔だって本当は、こうしているのが嫌なわけじゃない。誰かの好奇の目が瀬名に向けられることとか、ドキドキと忙しい心臓が慣れなくて戸惑うだけだ。手を繋ぐなんてこの先ないかもしれないのだから、味わっていたい。
 そっと握り返すと、瀬名の親指が桃輔の手の甲をそろそろと撫でた。白く逃げる息が、やけに熱くて困る。


「ただいまー」
「お邪魔します」
「あ、この時間は誰もいないっす」
「そっか」

 途中、以前よく行っていた公園の前を通りつつ、五分ほど歩いた。ここがオレんちです、と瀬名が立ち止まったのは、二階建ての一軒家の前。本当に学校のすぐそばだ。

 繋いだままの手を引かれ、リビングに入った。ソファに座ってと促され、離れた手がエアコンをつける。それからすぐに瀬名も隣に座った。

 瀬名の家族は不在だとは言え、なんだか落ち着かない。そわそわとしていると、なにかが足にぶつかった。足元を見下ろすと、猫がこちらを見上げていた。

「っ、猫だ……」

 そう言えば、結局写真すら見せてもらうことは叶わないままだった。桃輔にとっては幻だった水沢家の猫との対面に、つい気分が高揚する。

「瀬名、この子撫でていい?」
「抱っこしても大丈夫ですよ、懐っこい子なので」
「マジか……おいで、抱っこさせてな」

 毛並みは三毛の、日本猫。しっぽが長く、もうすっかり大人であろう大きさだ。そっと横抱きして、ゴロゴロと鳴いてくれる喉を撫でる。気持ちよさそうに目を眇めているのが、たまらなくかわいい。

「うわー、すげーかわいい……名前はなんていうんだ?」
「…………」
「瀬名、この子の名前……瀬名?」

 返事がないのを不思議に思い、隣に目を向けると。瀬名はなぜか困ったように眉を下げて、微笑んでいた。どうしたのだろう。首を傾げると、目が逸らされた。くちびるは薄く噛まれている。

「見覚えありませんか? モモ先輩はうちの子の名前、知ってるはずです」
「え……?」

 どういう意味だろう。今日の今日まで写真を見せてもらったこともなかったのに。名前を知っている?

 不思議に思いながら、手の中で甘えてくれている猫を見つめる。グリーンがかった丸い瞳、足先は靴下みたいに柄が入っていて。そこまで観察して、「ん?」と声が漏れた。もう一度顔を見ると、ピンクの鼻の先にちょこんと入る黒色が、よくよく見るとハートの形に見える。

「え……アンミツ?」

 まさか、と思いながらも思い浮かんだのはその名前だった。特徴が全てよく似ている。弾き語りの動画を投稿すると、いつもコメントやメッセージを送ってくれるアンミツ。そのアカウント名は、よく投稿している三毛猫の名前をそのまま付けられたものだ。

 いや、でもまさか。勢いよく隣を見ると、瀬名はどこか気まずそうに頷いた。

「正解です。その子の名前はアンミツで……先輩の動画にコメントしたりしてるアンミツは、オレです」
「……いやいや。え、マジ?」
「はい」
「……うそだろ。そんなわけ……」

 ついそんな言葉が口をついて出たが、瀬名のことが信じられないわけじゃない。ただ、「そうだったんだ」と簡単には言えないほどの衝撃だ。アンミツとは本当にずっと、瀬名と出逢うより前からインスタでのやり取りをしてきたから。

「モモ先輩の初めての弾き語り動画、見つけたのは本当にたまたまで。投稿されて二日後くらいだったかな。オレが中二の時だったから、もう二年前だ。一瞬で好きになりました」
「……そ、うだったんだ」
「歌上手いし。声もすごく好きです」

 瀬名が経緯を説明し始める。面と向かって歌を褒められるのは初めてのことで、どう反応していいか分からない。頬がじわりと熱い。

「うわー……うん、わかった、うん」
「ううん、まだです」
「…………? えっと?」

 ふたりの間にあったすき間を、瀬名が詰めてきた。桃輔の上でアンミツの伸ばした手が、簡単に瀬名に触れるくらいの距離だ。たったそれだけのことでも、心臓が跳ねる。

「昨年の学校説明会の日、帰りにさっき通った公園の前を通ったんです。そしたらそこに、今行ったばかりの高校の制服を着た男の人がいて」
「…………」

 説明会の日の記憶はもう定かではないが、あの公園には当時よく寄り道をしていた。野良猫に会うのが主な目的だったから、姿が見えなくなってからはぱったりと行かなくなってしまったけれど。

「髪の色が茶色くて、ピアスもいっぱいしてて。不良だーって思ったんですけど、野良猫をすごくかわいがってるみたいでした。その顔が優しくて、なんだかドキドキして……もうその瞬間には一目惚れでした。ふ、なんかあれっすよね、よくある少女マンガのパターン? 読んだことないけど。恋なんてしたことなかったのに、一瞬で好きって気持ちが理解できて自分でもびっくりでした」
「は……? 待った、いや……」

 まさか、とさらに頭が混乱する。だって、瀬名が語るその生徒はたしかに自分のことだ。いやでも――と、にわかには信じられない。だが、瀬名の柔らかく笑んだ瞳は雄弁で。震えるくちびるを自覚する前に、瀬名の手が頬へ伸びてきた。

「触ってもいいですか?」
「……っ、うん」

 瀬名と足がくっついて、アンミツが膝から下りた。絨毯の上で気持ちよさそうに伸びをして、どこかへと行ってしまうのが横目に映る。頬をそっと撫でてくる瀬名の手は、少し冷たくて。思わず桃輔もそこに手を重ねた。

「話の続きなんすけど……その人を見かけた時、目が離せなくなりました。知り合いでもないヤツにずっと見られてたら嫌かな、気づいたら怒るかなって思ったんですけど。ほら、一目惚れだから。どうしても目が離せなくて。そしたらその人が、鼻歌を唄いはじめたんです、平成に大ヒットしたバンドの曲。めちゃめちゃ衝撃的でした。一目惚れした人から、大好きな歌声が聴こえてきたから。運命だって思いました」
「……マジ?」
「はい、大マジです。オレが一目惚れしたのはモモ先輩だよ。ずっと、モモ先輩だけが好きです」
「っ、マジかよぉ」

 ついに堪えきれず、鼻を啜る。瀬名の親指が涙を拭ってくれて、額がコツンと合わさった。

 まさかの展開にたしかに思考は追いついていないはずなのに、瀬名の仕草ひとつひとつが必死に伝えてくる。モモ先輩が好きだ、というその言葉を疑いようがない。

「俺はずっと、瀬名は桜輔と俺を見間違えたんだ、って思ってて」
「そうだったんすね。もっとちゃんと言えばよかった」
「……体育祭のあれは? 借り物競争。なんで桜輔だったんだよ」

 それでも、確認したいことがあった。口を開くと思いのほか拗ねているような口調になってしまった。子どもみたいで恥ずかしくて、顔を伏せる。

「あれは……お題が“恋の相談相手”だったんです」
「あー……“恋のお相手”じゃないんだ?」
「うん、違いますね」
「マジか……瀬名が好きなのは桜輔だってずっと思ってたから、絶対そうだとしか考えられなくて……ん? 相談相手? 桜輔が?」
「はい、話聞いてもらってました」
「っ、はあ!? マジで!?」

 今日は何度驚いたらいいのだろう。恥ずかしかったのもすぐに忘れ、勢いよく顔を上げる。まんまるになっているだろう目に映るのは、瀬名のどこか気まずそうな微笑みだ。

「春くらいに声かけてもらって、それからっすね」
「春って? 具体的にいつ?」
「んー、確か五月くらい?」
「五月……あの野郎」

 五月と言えば、あの頃だ。昼休み終わりの廊下で、瀬名に関わるなと桜輔に忠告したことがある。それから間もなくして、桜輔は瀬名にコンタクトを取ったということだ。

「俺と話してることは絶対にモモには内緒だよ、って言われてたんで、言えなくて。体育祭でも司会の人に、お題発表しないでってお願いしました」
「マジかあ……」

 さっきからマジかマジか、とそればかりしか言っていない気がする。脱力してソファに肩を預ける。ああでもやはり、もう一度きちんと謝りたい。ずっとずっと好いてくれていたのなら、一体どれだけ傷つけてしまったのだろう。それがどんなに苦しかったのか。同じく恋をしている今なら、よく想像ができるから。

 瀬名のほうへと体ごと向き直り、まっすぐに瞳を見つめる。好きな相手へそうするのは恥ずかしくて仕方ないが、今は自分の感情に構ってなんかいられない。

「勘違いしてたのは俺のほうだったんだな。本当に、悪かった。瀬名のこと、いっぱい苦しめたよな。連絡も全部無視して、バイバイとか言って……逆の立場だったら俺、死んでたかも」
「モモ先輩……いいんすよ、今こうして話せてるし。それに、勘違いさせたのは俺のせいだから」
「…………? そんなことないだろ」
「ありますよ。だって、歌ってみた投稿してるmomoさんですよね? って言ったらストーカーだって嫌われる……とか考えて、一目惚れした時のこと、詳しく言えなかったし。猫の写真見せなかったのも、アンミツだってバレないためだったし。そうやってたくさんのこと、モモ先輩に秘密にしてました」
「それは……すげービックリしたけど、ストーカーなんて思わねえよ。むしろ、オレはアンミツのDMとかにずっと救われてたから。それが瀬名だったとか、俺も、その……運命みたいだって思う。だから、瀬名だってなんも悪くねえよ」
「先輩……ちょっと待っててください」

 瀬名が唐突に立ち上がった。やけに真剣な顔をしていて、息を飲む。瀬名はそのまま、リビングを出ていってしまった。今度はなんだと多少身構えつつ、今まで聞いたこと以上に驚くことはないだろう、と高を括っていたのだが。甘い考えだったとすぐに思い知ることになる。

 一分にも満たないほどで瀬名は戻ってきて、その腕には猫を抱いていた。アンミツではない。あの公園でしばらく遊んでいた子と同じような、キジトラ柄だ。