「今日から俺も教室で昼飯食う」
「え……どうした!?」
「モモ?」

 体育祭が終わって、土日を挟んで迎えた月曜日。昼休み、森本と尾方にそう宣言すると、大袈裟なくらいに目を大きく見開かれた。ついムッとするが、それも仕方がないとよく分かっている。屋上に行くのは、入学してすぐからずっと続く習慣だったから。

「別に……もうすぐ卒業だし、教室でも食っとこうかな、とか?」
「とかって……いや俺らは一緒に食えんの嬉しいけどさ。瀬名くんは? いいのか?」
「ん、だいじょう……」
「おーい、笹原ー」

 大丈夫、と言いかけたところで、クラスの女子に名前を呼ばれた。何事かと声のしたほうを見ると、教室の前の入り口のところに瀬名の姿があった。反射的に体が強張って、思わず目を逸らしてしまった。ぎりりとくちびるを噛む。

「いや瀬名くん来てんじゃん」
「言ってなかったん?」
「…………」

 瀬名からは、あれから何度も連絡が入っている。メッセージは軽く10通を超え、通話のコールも何度も鳴っていた。だがそのメッセージを開くことも、通話に応じることも一切していない。こわくてできなかった。

「なあ、瀬名くんもここで食えばいいんじゃね?」
「っ、それは、無理」
「……なんだか知らねえけど、俺言ってくるわ。モモはここで食うらしいって。それでいいんだよな?」
「ごめん、助かる……」

 合わせる顔がなく俯いていると、尾方が気を利かせてくれた。入り口のほうへと向かう尾方の一歩一歩ごとに、胸が強張る。

 説明してくれている尾方の声は薄らと届いてくるが、瀬名の声は聞こえない。終わったらしい会話に恐る恐る顔を上げると、背中を丸めて帰っていく瀬名が見えた。ああさせてしまったのは自分のせい。罪悪感に苛まれるが、どうしてやることもできない。

「瀬名くん、分かったって。ライン見て、連絡ほしいって言ってたぞ」
「……ん」
「どうしたんだよモモ~、喧嘩でもした?」
「喧嘩っつうか……俺が全部悪い。もう俺は関わらないほうが、アイツは幸せになれんだよ」
「なんだそれ……そんな深刻な話? なにがあったか聞かないほうがいいヤツ?」
「……ん、ごめん」
「そっか……分かった」

 瀬名への恋情を痛いくらいに自覚するほど、とんでもないことをしてしまったのだなとそればかりを考える。悪戯心なんてうっかり働かせて、人違いだとすぐに教えなかったから。瀬名は約半年という貴重な時間を無駄にしてしまった。

 こんな風に胸をいっぱいにして、瀬名は桜輔を好きなのだ。手を繋ぐのもキスがしたいと勇気を振り絞ってねだってみるのも、瀬名にとって桜輔としたかったことなのに。いつか返す、なんて決意とも呼べない逃げ道を作って、瀬名から奪ってしまった。そんな自分が瀬名のためにできることなんて、消えること以外にあるわけがない。

「よし! じゃあ、飯食うか!」
「だな。そうだ、モモ知ってたか? 森本のヤツ、最近コロッケパンにハマってそればっか食べてんだぞ」
「へえ。知らなかった」
「モモも今度食ってみろよ、すげー美味いから」
「でもさ、そんなに毎日食ったらさすがに飽きね? 俺見てるだけなのにもう飽きた」
「全然飽きねー!」

 森本と尾方に気を使わせて悪いと思う反面、その優しさがひしひしと身に沁みる。失恋した、とそれだけのことが言えずにいるのに、そっとしておいてくれるのがどれほどありがたいか。飲みこみ切れない涙を見られたくなくて、弁当をゆっくり開くふりをしてそっと鼻を啜った。



「モモ、話があるんだけど。今ちょっといい?」
「よくない」
「あ、モモ! 今日は何時ごろ帰る? 俺もう部活引退したしさ、今夜だったら時間あるか……」
「無理」

 ここ最近、なぜか桜輔が急に構ってくるようになった。それも、体育祭のあった夜からだ。これまでは劣等感に苛まれていただけだが、今や桜輔の存在は失恋の象徴になってしまった。

 目すら合わせられないのに、話すための時間なんてとりたくない。なにを言われるのかは大体予想がついている。きっと瀬名のことだろう。あの借り物競争を機に告白でもされたか。瀬名とつるんでいたことは桜輔に知られているから、どうしたらいいか相談されるのかもしれない。邪魔する気も権利もないが、それはさすがに勘弁してほしい。片割れの前でみじめに泣くなんて、絶対にごめんだ。

「ごちそうさま」
「俺もごちそうさま。ねえモモ……」
「わりい、もう部屋行くから」
「モモくーん、ちゃんとお勉強しなさいよー」
「んー」

 今日も今日とて声をかけてくる桜輔をあしらい、夕飯後はさっさと自室に引き揚げる。閉めた扉に背を預け、首をもたげて息を吐いた。

 力なくベッドに崩れ落ちる。スタンドに立てかけてあるギターには、体育祭からこっち触れていない。それどころか、音楽を聴くことすらしなくなっている。音楽には弱った心を奮い立たせたり、励ましてくれる力があると感じている。だが今は、それに頼るだけの余裕も残っていなかった。あんなにたくさん、失恋の歌を好んで聴いてきたのに。いざとなった時に、聴く力すら残っていないなんて。

「こんなしんどいの、どうすんだよ……」

 ぐずぐずの泣き言が、天井に当たることもなくぽとりと布団に落ちる。それくらいに弱弱しくて、情けなくてみっともない。こんな想いをよく音楽に昇華できたよなと、好きなアーティストたちの顔が浮かぶ。もはや神なのかもしれない。こちとら、再生ボタンを押すことすら叶わないのに。

 また熱くなってくるまぶたを閉じる。いつになったら大丈夫になれるだろう。そんな日は来ない気がする。目の上に腕を乗せてじっと堪えていると、ポケットに入れているスマートフォンが震えた。インスタの通知音だ。投稿だって体育祭以降はストップしている。誰かの更新を報せるものかもしれない。

 緩慢な動作でスマートフォンを取り出し、アプリをタップする。まず目についたホーム画面には、アンミツの猫の投稿があった。よく見慣れた三毛猫が、腹を天に向けて気持ちよさそうに眠っている。

「ふ、かわいい」

 こんな時にだってやわらかな気持ちにさせてくれるのだから、猫は偉大だ。リアクションボタンをタップして、それからDMのページに移る。通知はこちらのものだったようだ。アンミツから一通届いている。

<momoさんこんばんは、ちょっとお久しぶりです。momoさんの歌、毎日聴いています。新曲もずっと待っています>

「…………」

 投稿できていない時にまで気にかけてもらえるのは、本当にありがたい。思いやりを持った人なのだろう。だがなんと返事をしたらいいのか、今はちょっと考えられない。これまではすぐに返していたから、変に思われるだろうか。当たり障りのない文章すら出て来ず、やはりため息が零れる。

 申し訳ないな、と思いながらなんとなく画面をスクロールしていた桃輔は、とある日のメッセージで指を止めた。

<momoさんはオリジナル曲を作ったりはしないんですか?>

「オリジナル……」

 オリジナル楽曲の製作なんて、するつもりはない。それにこの状況で、なんて。自分は神でもなんでもないのだから、できるはずもない。だがなぜだろう、初めてそう尋ねられた時よりも、その単語が色濃く胸に残る。

「いや、ないない」

 乾いた笑いを零して、すうっと息を吸い、吐く頃には重たくなって体に纏わりつく。それなのに――久しぶりに、視界の端に映ったギターを無性に恋しく思った。