長い夜が明けて、芽衣は目を覚ますと、自分の肩にかかったブレザーに気づいた。
(あれ、このブレザー……。湊くんの?)
そのブレザーが、湊のものだと気づくのに、時間はかからなかった。
芽衣はブレザーを丁寧にたたみ、テーブルの上に置くと、となりで眠っている彼の姿をしばらく見つめた。
(湊くんのおかげで、少し眠れたよ。ありがとう……)
芽衣は、心の中でお礼を言うと、湊をできるだけ自然に起こそうと思い、立ち上がってそっとカーテンを開けた。
カーテンを引くと、柔らかい朝の光が部屋に差し込み、窓越しから車道を行き交う車の音やバイクの音が、かすかに聞こえた。
今日もまた暑くなりそうで、まぶしい日差しに目を細めると、芽衣は湊を見た。
湊はリビングのテーブルに突っ伏したまま、微動だにしなかった。昨夜の疲れが残っているのか、深い眠りに落ちているようだった。
玄関先に両親の靴がないのを見て、芽衣は「やっぱり……」と思った。
その一方で、肩にかけられた湊のブレザーから、彼の優しさと気遣いを感じていた。自分たちが昨日食べたコンビニ弁当の容器も、きっちり袋の中にまとめてゴミ箱に捨てられている。
(湊くんの、こういうところが優しいんだよね……)
それでも面と向かって、素直になれない自分を芽衣は感じていた。
(湊くんを朝から困らせたくないよ。昨日は昨日、今日は……、今日だよね)
芽衣は新しく始まる一日のことだけを考えようと思い、湊に近づくと、そっと声をかけた。
「湊くん……、朝だよ。起きないと、学校に遅れちゃうよ」
「……ん、もう朝か」
湊はゆっくりと目を開け、少しぼんやりとした表情で芽衣を見た。
昨日の疲れがまだ残っているのか、湊は少しだるそうだった。目が少し赤く、充血していた。
湊は目をこすりながら、大きくあくびをし、腕を伸ばしながら言った。
「つい寝ちゃったな……」
「……声かけるの迷っちゃったよ」
湊は軽くまばたきしながら、芽衣が自分を起こしてくれたことに気づき、ほっとしたようにほほえんだ。
「……鈴城もちゃんと寝れたみたいだな。それならいいけど」
「湊くん、私のことばっかり」
「だって、少しでも寝れたならよかったよ。夜通し起きてるよりはさ」
まだ寝ぼけているのか、それともそれが、湊の本心なのか。自分のことを心配する気持ちを、あまりにも素直に湊が言って、芽衣は驚いた。
「なんだよ? じっと見て」
「あ、ううん。別に」
「それより鈴城、早いな。いつもこの時間、目が覚めるのか?」
湊から「早い」と言われて、芽衣は吹き出しそうになった。
もう八時過ぎた。それでもいつもよりずっと「遅い」。
「コンビニで朝ごはんでも買う? 中のイートインで食べて、そのまま学校行こうか?」
「あ、俺、いらない。朝、食べないし」
「ダメだよ、湊くん。ちゃんと朝は食べないと」
「朝からいろいろ言うなよ。また頭痛くなる」
湊が少しうるさそうに言って、芽衣はこらえきれずに、ぷっと吹き出した。
湊は芽衣が笑ったのを見て、不思議そうに芽衣を見た。
「どうした、鈴城?」
「だって、おかしいんだもん。湊くん、いつもあんなにクールなのに」
「ん? ああ、俺、朝弱いから……」
湊の弱点を見せてくれた気がして、芽衣はどこか嬉しかった。
カッコつけずに、自然体でいてくれると、芽衣も自分らしくいられる気がした。
「ちょっと待っててね。お母さん、スペアの歯ブラシ、買ってあるはずだから」
「ああ、いいよ、適当で」
「あ、ほら。やっぱりあった」
芽衣は、新品の歯ブラシとコップを湊に手渡して、その上に、洗い立てのタオルも置いた。
「顔も洗うといいよ。あ、歯ブラシもあるから、使ってね」
ようやく目が覚めた湊は、自分の上にいろいろ置く芽衣を見て、くすっと笑った。
「それから、髪もといて……。あ、ごめん。いろいろ言いすぎかな?」
「心配しすぎだって。大丈夫、ちゃんと整えるよ」
湊はそう言いながらも、じっと芽衣の顔を見つめた。
その視線に気づいた芽衣は、どきっと心臓が跳ねるのを感じた。
芽衣は自分の方がいろいろ世話を焼いていたと思っていたのに、今は逆に、湊に世話を焼かれているようで、心の中まで見透かされそうだと芽衣は思った。気まずさと恥ずかしさで視線を外したくなるのに、なぜか芽衣は、体が動かなかった。
「……なに?」
芽衣が少し戸惑いながら問いかけると、湊は軽くほほえんで、静かに答えた。
「いや、鈴城も疲れてるのに、気を遣ってくれてるんだなって思ってさ」
「恥ずかしいから、そういうこと言わないで……」
「あれ? ごめん、俺、なんかまずいこと言った?」
その言葉に、芽衣は少し恥ずかしくなり、顔が熱くなるのを感じた。
「なんかごめんな。俺、人との距離取るの、難しくってさ」
湊はそう言いながら、少し困ったように頭をかいた。目線を外し、無意識に芽衣との距離をとるように後ずさりする。
「いやだったら、いやって言ってくれよな。でないと、俺……」
(俺? 何……?)
芽衣は、湊のその後の言葉が聞きたくて、湊の表情を探るように見つめた。
湊の肝心の思いが、言葉が、差し込む陽光に溶けて、消えていく。
湊は言いかけた言葉を飲み込むと、自分の手を見つめた。まるで、芽衣に触れてしまいそうな自分を恐れるかのように、その手を握りしめる湊を見て、芽衣はぎゅっと胸が締め付けられた気がした。
「……これ以上、踏み込んじゃダメだよな」
湊は小さくそうつぶやき、深く息を吐いた。その声には、自分を押さえ込むような葛藤がにじみ出ていて、芽衣は、言葉が出なかった。
芽衣はそっと息を吸い込み、湊の手に自分の手を重ねようとした。
「……そんなことないよ、湊くん」
二人の手が重なり合いそうになり、芽衣の頭に一瞬、忘れていた誰かの声が聞こえた気がした。
それは自分を優しく呼ぶような声だった気がしたが、同時に、「鈴城」と自分を呼ぶ悲痛な声にも聞こえた。
(この声は、誰? 湊くん……!?)
重なり合えばきっと記憶がよみがえり、その記憶が鮮明になる。
それが怖くて、知りたくもある──。
「……やめろ、鈴城……」
けれど、湊は反射的に手を引き、その声はすぐに音のない静寂にかき消されてしまった。そんな湊を見て、芽衣は一瞬戸惑い、そのまま固まった。
「ごめん、私……」
「あ、俺の方こそ、ごめん。昨日のことがあって……、まだよく整理できてないんだ」
湊は、昨日自分が抱いた考えが正しいかどうか、今ここで話すべきかどうか迷った。触れた瞬間に、何かが胸の奥でざわめく。それが記憶か、それとも違う何かなのか……、まだわからない。その不可思議な感覚と訪れる痛み──。
おそらく間違いないだろう、という確信が湊にはあった。
けれど、それを話すことで、芽衣との間に距離ができそうで、湊は話すのが怖かった。
『でも、話さないと、もっと距離を置かれるよな……』
自分のことを”拒否”されたと思いこんでいる芽衣を目の前にして、湊は仕方ないというかのように息を吐いた。
湊は一度息を吸い込み、ためらいがちに口を開いた。
「鈴城……、昨日のことなんだけどさ」
芽衣は、湊の目をまっすぐに見据えた。湊が何かを真剣に話そうとしていることを感じ取り、自然と姿勢を正した。
「じつは俺、昨日の夜からずっと考えててさ……」
「なにを?」
そんなふうに改まって言われると緊張すると思いながら、芽衣は少し不安そうに問いかけた。
湊は目を伏せ、言葉を選んでいるようで、待っている間にも、芽衣の心臓はどきんどきんと鳴った。
ややあって、湊は芽衣に視線を戻すと、決意したように続けた。
「触れると、なんていうか……、胸の奥で、何かがざわつくんだ。最初は気のせいかと思ってたけど、二回も同じ感覚があってさ……。鈴城もそうじゃなかった?」
芽衣は驚きのあまり、すぐに言葉が出なかった。
湊の言葉には戸惑いがあったが、それだけではなかった。芽衣は、湊の言葉を聞いて、自分でも知らないうちに、どこかに痛みを伴う記憶がよみがえっていることに気づいた。
「まさか、二人とも同じ記憶を見て、同じ痛みまで共有するってこと?」
芽衣が正面から問いかけると、湊は少し困った表情を見せ、芽衣から視線を外した。
「まだ、はっきりとは言えないんだけど……。昨日、俺が芽衣に触れた瞬間、何かが思い出されるような感じがして……、それと同時に、頭が痛くなって……」
芽衣はその言葉を聞いて、驚きと共に、自分でも知らないうちに体がこわばっているのを感じた。
「湊くん……。それって、私のせい……?」
「いや、違う! 鈴城のせいじゃない。ただ……、俺自身がよくわかってないだけなんだ」
湊は急いで否定し、視線を戻し、芽衣の目を見て真剣に言った。
「なんでもかんでも、自分のせいにするなよ」
「ごめん、つい……」
その瞬間、芽衣は少しほっとしたように肩の力を抜いたが、同時に湊の言葉の重みが残っていることに気づいた。
(触れた瞬間、何かが思い出される……)
消えていく記憶を取り戻すのに、思い出す手段や可能性があるものの──、手放しで喜べる状態じゃなかった。
湊は、芽衣の反応を確かめながら、さらに続けた。
「だから、もしこれからも俺が変なことを言ったり、急に距離を置いたりしても……、怖がらないでくれよ」
芽衣は、湊の肩が震えているのを見て、苦しくてたまらなくなった。
「なんでもかんでも、自分のせいにするなって私に言うくせに、湊くんは、なんでもかんでも、一人で背負いこもうとしてるじゃない」
「俺はいいんだよ」
「いいんだよって、何が!?」
「そういうのに、慣れてるから」
「バカ……。ダメだよ、そんなのに慣れないで……」
芽衣は、自分のことを想ってくれるように、湊自身のこともちゃんと大切にしてほしかった。
それなのに湊は、優しい瞳を向けて、芽衣に向かってほほえんでくる……。
(私が知っていたほほえみなんて、いつも冷たく、心を傷つけるものばかりだったのに……)
芽衣は、自分がかつて経験した「いじめゲーム」の記憶が鮮明によみがえってきていた。傷つけられることで、クラスメートたちは満足感や優越感を得ていた。その冷たい目線が今でも忘れられず、脳裏に深く焼きついている。あの時、苦しむ自分を見て、クラスメートのみんなは笑っていた。なのに今、目の前にいる湊のほほえみは、それとは真逆で、温かく、優しさに満ちている。それが、かえって芽衣の心を揺さぶり、動揺させるのだった。
その無償の優しさが逆に、湊が自分の痛みを受け入れてしまうようで、芽衣の心は苦しくなった。
「俺自身が、どう対処していいのかまだ分からないんだ。だから、無理に触れるのは……、避けたほうがいいのかもしれない」
芽衣は湊の手を見つめ、ためらいながらも小さな声で答えた。
「無理にじゃないよ」
「鈴城?」
「だって……、私は湊くんを嫌いじゃないから……」
湊は一瞬、言葉を失ったが、すぐにほほえみ、優しく答えた。
「いいよ、鈴城。無理はしないでくれ。俺も、もっとちゃんと考えるから」
あくまで冷静に対処しようとする湊を見て、芽衣は声をつまらせた。
「湊くん、私のこと、嫌い?」
「……いや、そんなことは……」
湊が一瞬、視線を外し、無意識に後ろへ下がろうとすると、芽衣はその動作に気づいて、切なそうに湊を見た。
「なら、湊くんまで私を避けないでよ」
芽衣がそう言うと、湊は息を呑んで、眉をひそめながら芽衣の顔をじっと見つめた。
「カッコ悪いな、俺。俺が……、俺自身がどうすればいいのか、まだわからないんだ」
湊は軽く唇を噛みしめ、顔を少しうつむけた。
眉間に寄った深いしわから、湊が内に秘めた葛藤が滲み出ているようで、芽衣はその姿に思わず息を飲んだ。
湊は無意識に握りしめた手を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「俺が踏み込んだら、君も同じ痛みを感じることになるかもしれない。俺はそれが怖いんだ」
「湊くん……」
「もちろん、鈴城の痛みを全部理解してるわけじゃない。でも、人の痛みってやつ……、俺なりに分かってるつもりだ。心の痛みも、体の痛みも……」
湊は肩を少し落として、深く息を飲み込むようにして、芽衣を見つめた。
「俺は鈴城、君を……、苦しめたくないよ」
芽衣は、湊の言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
湊の優しさは、確かに温かくて心地よいものだ──けれど、それと同時に、どこか遠く感じてしまう。
いつも一歩引いて、誰にも負担をかけまいとする湊の姿が、逆に本当の彼を遠ざけている気がしてならなかった。
「私は、湊くんほど、頼りにならないかもしれない。でも、もっと頼ってよ」
「鈴城?」
「だって、そうでしょう? 痛みなら、私だって怖いよ!」
芽衣は、心の中で思った気持ちをそのまま口にした。湊の優しさが、自分を守るためではなく、自分との距離を保とうとするためのものだと感じて、寂しさが込み上げてきていた。
「昨日、あの瞬間に感じたのは、ただの感覚じゃなかったし。何か深い、記憶みたいな……、痛みで……」
昨日の痛みをうまくできない自分をもどかしく感じながら、芽衣は言葉を続けた。
「それでも、湊くんと一緒に悩むことくらいできる。痛みがあるときには、一緒に傷ついて……、一緒に考えるの」
「鈴城……」
「……拒絶されるより、一緒に悩んでくれるほうが、私は嬉しいよ」
(あれ、このブレザー……。湊くんの?)
そのブレザーが、湊のものだと気づくのに、時間はかからなかった。
芽衣はブレザーを丁寧にたたみ、テーブルの上に置くと、となりで眠っている彼の姿をしばらく見つめた。
(湊くんのおかげで、少し眠れたよ。ありがとう……)
芽衣は、心の中でお礼を言うと、湊をできるだけ自然に起こそうと思い、立ち上がってそっとカーテンを開けた。
カーテンを引くと、柔らかい朝の光が部屋に差し込み、窓越しから車道を行き交う車の音やバイクの音が、かすかに聞こえた。
今日もまた暑くなりそうで、まぶしい日差しに目を細めると、芽衣は湊を見た。
湊はリビングのテーブルに突っ伏したまま、微動だにしなかった。昨夜の疲れが残っているのか、深い眠りに落ちているようだった。
玄関先に両親の靴がないのを見て、芽衣は「やっぱり……」と思った。
その一方で、肩にかけられた湊のブレザーから、彼の優しさと気遣いを感じていた。自分たちが昨日食べたコンビニ弁当の容器も、きっちり袋の中にまとめてゴミ箱に捨てられている。
(湊くんの、こういうところが優しいんだよね……)
それでも面と向かって、素直になれない自分を芽衣は感じていた。
(湊くんを朝から困らせたくないよ。昨日は昨日、今日は……、今日だよね)
芽衣は新しく始まる一日のことだけを考えようと思い、湊に近づくと、そっと声をかけた。
「湊くん……、朝だよ。起きないと、学校に遅れちゃうよ」
「……ん、もう朝か」
湊はゆっくりと目を開け、少しぼんやりとした表情で芽衣を見た。
昨日の疲れがまだ残っているのか、湊は少しだるそうだった。目が少し赤く、充血していた。
湊は目をこすりながら、大きくあくびをし、腕を伸ばしながら言った。
「つい寝ちゃったな……」
「……声かけるの迷っちゃったよ」
湊は軽くまばたきしながら、芽衣が自分を起こしてくれたことに気づき、ほっとしたようにほほえんだ。
「……鈴城もちゃんと寝れたみたいだな。それならいいけど」
「湊くん、私のことばっかり」
「だって、少しでも寝れたならよかったよ。夜通し起きてるよりはさ」
まだ寝ぼけているのか、それともそれが、湊の本心なのか。自分のことを心配する気持ちを、あまりにも素直に湊が言って、芽衣は驚いた。
「なんだよ? じっと見て」
「あ、ううん。別に」
「それより鈴城、早いな。いつもこの時間、目が覚めるのか?」
湊から「早い」と言われて、芽衣は吹き出しそうになった。
もう八時過ぎた。それでもいつもよりずっと「遅い」。
「コンビニで朝ごはんでも買う? 中のイートインで食べて、そのまま学校行こうか?」
「あ、俺、いらない。朝、食べないし」
「ダメだよ、湊くん。ちゃんと朝は食べないと」
「朝からいろいろ言うなよ。また頭痛くなる」
湊が少しうるさそうに言って、芽衣はこらえきれずに、ぷっと吹き出した。
湊は芽衣が笑ったのを見て、不思議そうに芽衣を見た。
「どうした、鈴城?」
「だって、おかしいんだもん。湊くん、いつもあんなにクールなのに」
「ん? ああ、俺、朝弱いから……」
湊の弱点を見せてくれた気がして、芽衣はどこか嬉しかった。
カッコつけずに、自然体でいてくれると、芽衣も自分らしくいられる気がした。
「ちょっと待っててね。お母さん、スペアの歯ブラシ、買ってあるはずだから」
「ああ、いいよ、適当で」
「あ、ほら。やっぱりあった」
芽衣は、新品の歯ブラシとコップを湊に手渡して、その上に、洗い立てのタオルも置いた。
「顔も洗うといいよ。あ、歯ブラシもあるから、使ってね」
ようやく目が覚めた湊は、自分の上にいろいろ置く芽衣を見て、くすっと笑った。
「それから、髪もといて……。あ、ごめん。いろいろ言いすぎかな?」
「心配しすぎだって。大丈夫、ちゃんと整えるよ」
湊はそう言いながらも、じっと芽衣の顔を見つめた。
その視線に気づいた芽衣は、どきっと心臓が跳ねるのを感じた。
芽衣は自分の方がいろいろ世話を焼いていたと思っていたのに、今は逆に、湊に世話を焼かれているようで、心の中まで見透かされそうだと芽衣は思った。気まずさと恥ずかしさで視線を外したくなるのに、なぜか芽衣は、体が動かなかった。
「……なに?」
芽衣が少し戸惑いながら問いかけると、湊は軽くほほえんで、静かに答えた。
「いや、鈴城も疲れてるのに、気を遣ってくれてるんだなって思ってさ」
「恥ずかしいから、そういうこと言わないで……」
「あれ? ごめん、俺、なんかまずいこと言った?」
その言葉に、芽衣は少し恥ずかしくなり、顔が熱くなるのを感じた。
「なんかごめんな。俺、人との距離取るの、難しくってさ」
湊はそう言いながら、少し困ったように頭をかいた。目線を外し、無意識に芽衣との距離をとるように後ずさりする。
「いやだったら、いやって言ってくれよな。でないと、俺……」
(俺? 何……?)
芽衣は、湊のその後の言葉が聞きたくて、湊の表情を探るように見つめた。
湊の肝心の思いが、言葉が、差し込む陽光に溶けて、消えていく。
湊は言いかけた言葉を飲み込むと、自分の手を見つめた。まるで、芽衣に触れてしまいそうな自分を恐れるかのように、その手を握りしめる湊を見て、芽衣はぎゅっと胸が締め付けられた気がした。
「……これ以上、踏み込んじゃダメだよな」
湊は小さくそうつぶやき、深く息を吐いた。その声には、自分を押さえ込むような葛藤がにじみ出ていて、芽衣は、言葉が出なかった。
芽衣はそっと息を吸い込み、湊の手に自分の手を重ねようとした。
「……そんなことないよ、湊くん」
二人の手が重なり合いそうになり、芽衣の頭に一瞬、忘れていた誰かの声が聞こえた気がした。
それは自分を優しく呼ぶような声だった気がしたが、同時に、「鈴城」と自分を呼ぶ悲痛な声にも聞こえた。
(この声は、誰? 湊くん……!?)
重なり合えばきっと記憶がよみがえり、その記憶が鮮明になる。
それが怖くて、知りたくもある──。
「……やめろ、鈴城……」
けれど、湊は反射的に手を引き、その声はすぐに音のない静寂にかき消されてしまった。そんな湊を見て、芽衣は一瞬戸惑い、そのまま固まった。
「ごめん、私……」
「あ、俺の方こそ、ごめん。昨日のことがあって……、まだよく整理できてないんだ」
湊は、昨日自分が抱いた考えが正しいかどうか、今ここで話すべきかどうか迷った。触れた瞬間に、何かが胸の奥でざわめく。それが記憶か、それとも違う何かなのか……、まだわからない。その不可思議な感覚と訪れる痛み──。
おそらく間違いないだろう、という確信が湊にはあった。
けれど、それを話すことで、芽衣との間に距離ができそうで、湊は話すのが怖かった。
『でも、話さないと、もっと距離を置かれるよな……』
自分のことを”拒否”されたと思いこんでいる芽衣を目の前にして、湊は仕方ないというかのように息を吐いた。
湊は一度息を吸い込み、ためらいがちに口を開いた。
「鈴城……、昨日のことなんだけどさ」
芽衣は、湊の目をまっすぐに見据えた。湊が何かを真剣に話そうとしていることを感じ取り、自然と姿勢を正した。
「じつは俺、昨日の夜からずっと考えててさ……」
「なにを?」
そんなふうに改まって言われると緊張すると思いながら、芽衣は少し不安そうに問いかけた。
湊は目を伏せ、言葉を選んでいるようで、待っている間にも、芽衣の心臓はどきんどきんと鳴った。
ややあって、湊は芽衣に視線を戻すと、決意したように続けた。
「触れると、なんていうか……、胸の奥で、何かがざわつくんだ。最初は気のせいかと思ってたけど、二回も同じ感覚があってさ……。鈴城もそうじゃなかった?」
芽衣は驚きのあまり、すぐに言葉が出なかった。
湊の言葉には戸惑いがあったが、それだけではなかった。芽衣は、湊の言葉を聞いて、自分でも知らないうちに、どこかに痛みを伴う記憶がよみがえっていることに気づいた。
「まさか、二人とも同じ記憶を見て、同じ痛みまで共有するってこと?」
芽衣が正面から問いかけると、湊は少し困った表情を見せ、芽衣から視線を外した。
「まだ、はっきりとは言えないんだけど……。昨日、俺が芽衣に触れた瞬間、何かが思い出されるような感じがして……、それと同時に、頭が痛くなって……」
芽衣はその言葉を聞いて、驚きと共に、自分でも知らないうちに体がこわばっているのを感じた。
「湊くん……。それって、私のせい……?」
「いや、違う! 鈴城のせいじゃない。ただ……、俺自身がよくわかってないだけなんだ」
湊は急いで否定し、視線を戻し、芽衣の目を見て真剣に言った。
「なんでもかんでも、自分のせいにするなよ」
「ごめん、つい……」
その瞬間、芽衣は少しほっとしたように肩の力を抜いたが、同時に湊の言葉の重みが残っていることに気づいた。
(触れた瞬間、何かが思い出される……)
消えていく記憶を取り戻すのに、思い出す手段や可能性があるものの──、手放しで喜べる状態じゃなかった。
湊は、芽衣の反応を確かめながら、さらに続けた。
「だから、もしこれからも俺が変なことを言ったり、急に距離を置いたりしても……、怖がらないでくれよ」
芽衣は、湊の肩が震えているのを見て、苦しくてたまらなくなった。
「なんでもかんでも、自分のせいにするなって私に言うくせに、湊くんは、なんでもかんでも、一人で背負いこもうとしてるじゃない」
「俺はいいんだよ」
「いいんだよって、何が!?」
「そういうのに、慣れてるから」
「バカ……。ダメだよ、そんなのに慣れないで……」
芽衣は、自分のことを想ってくれるように、湊自身のこともちゃんと大切にしてほしかった。
それなのに湊は、優しい瞳を向けて、芽衣に向かってほほえんでくる……。
(私が知っていたほほえみなんて、いつも冷たく、心を傷つけるものばかりだったのに……)
芽衣は、自分がかつて経験した「いじめゲーム」の記憶が鮮明によみがえってきていた。傷つけられることで、クラスメートたちは満足感や優越感を得ていた。その冷たい目線が今でも忘れられず、脳裏に深く焼きついている。あの時、苦しむ自分を見て、クラスメートのみんなは笑っていた。なのに今、目の前にいる湊のほほえみは、それとは真逆で、温かく、優しさに満ちている。それが、かえって芽衣の心を揺さぶり、動揺させるのだった。
その無償の優しさが逆に、湊が自分の痛みを受け入れてしまうようで、芽衣の心は苦しくなった。
「俺自身が、どう対処していいのかまだ分からないんだ。だから、無理に触れるのは……、避けたほうがいいのかもしれない」
芽衣は湊の手を見つめ、ためらいながらも小さな声で答えた。
「無理にじゃないよ」
「鈴城?」
「だって……、私は湊くんを嫌いじゃないから……」
湊は一瞬、言葉を失ったが、すぐにほほえみ、優しく答えた。
「いいよ、鈴城。無理はしないでくれ。俺も、もっとちゃんと考えるから」
あくまで冷静に対処しようとする湊を見て、芽衣は声をつまらせた。
「湊くん、私のこと、嫌い?」
「……いや、そんなことは……」
湊が一瞬、視線を外し、無意識に後ろへ下がろうとすると、芽衣はその動作に気づいて、切なそうに湊を見た。
「なら、湊くんまで私を避けないでよ」
芽衣がそう言うと、湊は息を呑んで、眉をひそめながら芽衣の顔をじっと見つめた。
「カッコ悪いな、俺。俺が……、俺自身がどうすればいいのか、まだわからないんだ」
湊は軽く唇を噛みしめ、顔を少しうつむけた。
眉間に寄った深いしわから、湊が内に秘めた葛藤が滲み出ているようで、芽衣はその姿に思わず息を飲んだ。
湊は無意識に握りしめた手を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「俺が踏み込んだら、君も同じ痛みを感じることになるかもしれない。俺はそれが怖いんだ」
「湊くん……」
「もちろん、鈴城の痛みを全部理解してるわけじゃない。でも、人の痛みってやつ……、俺なりに分かってるつもりだ。心の痛みも、体の痛みも……」
湊は肩を少し落として、深く息を飲み込むようにして、芽衣を見つめた。
「俺は鈴城、君を……、苦しめたくないよ」
芽衣は、湊の言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
湊の優しさは、確かに温かくて心地よいものだ──けれど、それと同時に、どこか遠く感じてしまう。
いつも一歩引いて、誰にも負担をかけまいとする湊の姿が、逆に本当の彼を遠ざけている気がしてならなかった。
「私は、湊くんほど、頼りにならないかもしれない。でも、もっと頼ってよ」
「鈴城?」
「だって、そうでしょう? 痛みなら、私だって怖いよ!」
芽衣は、心の中で思った気持ちをそのまま口にした。湊の優しさが、自分を守るためではなく、自分との距離を保とうとするためのものだと感じて、寂しさが込み上げてきていた。
「昨日、あの瞬間に感じたのは、ただの感覚じゃなかったし。何か深い、記憶みたいな……、痛みで……」
昨日の痛みをうまくできない自分をもどかしく感じながら、芽衣は言葉を続けた。
「それでも、湊くんと一緒に悩むことくらいできる。痛みがあるときには、一緒に傷ついて……、一緒に考えるの」
「鈴城……」
「……拒絶されるより、一緒に悩んでくれるほうが、私は嬉しいよ」