『俺がここにいることが、本当にいいのか……』
湊はふと、芽衣の両親のことを考えた。
『自分がこの場に居続けることで、鈴城の家族に対してどんな影響を与えるのか──』
そう考えると、芽衣のことを守りたい気持ちがありながらも、ここにいることが正しいのか悩んでいた。
いつもなら”それなりに”やり過ごせる人間関係も、先ほどの記憶の再生といい、体に走った痛みといい……、すべてが湊を追いつめて、うまく立ち振る舞える自信がなかった。
「……やっぱり、今日は帰るよ」
湊は決心したように、静かに言った。
「鈴城の両親が帰ってきたら、挨拶だけして早めに出る。俺がここにいると、また何か鈴城言われるかもしれないしさ……」
自分の不安を打ち消すように、少し軽い口調で付け加えた。
「……帰っちゃうの?」
芽衣は、一人になるのが不安だった。それでも今、この状況で、湊との関係を両親から聞かれても、うまく説明できる余裕がないのは、自分でも分かっていた。
「もう少しいるよ。けど、もし鈴城の両親の帰りが、あんまり遅くなりそうだったら、先に帰るよ」
「うん」
「……なにか食べないか? せっかく買ってきたんだし」
湊はできるだけ明るい声でそう言った。
先ほどの痛みのことを忘れたかった。話題を変えれば、気持ちが少し軽くなると思ったからだ。
「これだよ」とわざと大きな声で言いながら、買ってきたコンビニ弁当の袋を探し、「あった」と軽く笑みを浮かべた。
湊も本当は食欲なんてまったくなかった。
けれど、このままだと、芽衣が何も食べなさそうで心配だった。
「ここの卵焼き、うまいんだよね。こっちの弁当にも卵焼き入ってるから、この卵焼き、鈴城にやるよ」
湊は、弁当を開けると、中の卵焼きを箸でつまんだ。
「どこか皿、ある?」
そう聞くのに、まるで反応しない芽衣を見て、湊は「仕方ないな」と軽く笑った。
「今日だけだからな。口、開けてみろよ」
「え? あ、なに?」
芽衣は、自分の唇の先に、何かが当たったのを感じて、ようやく湊が自分の口元に卵焼きを運んでいるのを感じた。
「腕、しびれる。早く口、開けろって」
湊からそう言われて、芽衣が慌てて口を開けると、柔らかく甘い食感が口の中に広がった。
「はふっ」
芽衣がそう言うと、湊はくすっと笑った。
「噛むか話すか、どっちかにしろよ」
こんなに甘い卵焼きは初めてだ、と芽衣は思った。それは、まるで心の中にまで広がっていくような甘さだった。
「俺の大事な卵焼き、一つやったんだから、少しは元気出せよ」
湊のそのほほえみが、一瞬で、芽衣を現実世界に引き戻した。
気づけば、湊の顔がすぐそばにあった。
湊の少し長めの前髪が、眉のあたりにかかり、自分を吸い込むようなまなざしで見つめられていることに気づいて、芽衣の顔はかっと赤くなった。
湊の顔立ちはどこか鋭さや険しさがあるものの、今のように笑うと、それは温かさに変わり、湊の優しい一面が表れる。鼻筋がすっと通っていて、湊の頬にかかる髪が、芽衣の吐く息でそっと揺れた。
芽衣が、ほんの少しだけ顔を近づけると、湊の頬がわずかに赤みを帯びているのが見えた気がした。
芽衣がふと視線を外すと、湊の広い肩が視界に飛び込んできた。湊の紺色のTシャツが汗ばんで肌にぴったりと張り付いて、一瞬、視線がそこに無意識にとどまり、胸が軽く高鳴るのを感じた。
(なんでこんなときに……、私、何考えてるの?)
部屋に二人きりでいることに、緊張で汗ばむのは、芽衣も同じだった。制服のリボンを外して、襟元の第一ボタンを開けると、空気がすっと入り込んで、呼吸が少し楽にできる気がする。芽衣は、先ほどよりも楽になった気がして、ふうっと息を吐いた。
湊は芽衣が少し落ち着いたのを確認すると、夕食の弁当を食べだした。
芽衣も少しずつ食事をとりながら、大好きなお菓子も、ときどきつまんだ。
「湊くんがいてくれてよかった。いなかったら、私……」
芽衣は、自分の言葉で、自分の気持ちを伝えようと必死だった。
けれど、湊は「ああ」と話を聞きながら、なにか別のことを考えているようだった。
「ねえ、湊くん、聞いてる?」
「ごめん、なに? 俺の鮭も欲しいの?」
(違うよ、そんなことじゃなくて……)
芽衣は、話の腰を折られた気がして、そっぽを向いた。
「悪かったよ。ちょっと考えごとしててさ」
「それって、私の話より大事なこと?」
「ん? どうかな」
湊ははぐらかなしながら、頭上を仰いだ。
湊は、芽衣の両親が帰ってくる前に帰ろうと思っている一方で、万が一、両親が帰ってきたらどう言おうか、ずっと考えていた。
先に芽衣の母親が帰ってきたパターン。
先に芽衣の父親が帰ってきたパターン。
同時に芽衣の両親が帰ってきたパターン。
『まずは、そうだな。挨拶だろ……。鈴城が体調不良で、俺が今まで付き添ってたということにするのが自然かな』
何度も頭の中でシミュレーションして、湊は芽衣を見て、笑った。
「まあ、なんとかなるだろ」
無理に楽観的な声を出してみたものの、落ち着かない気持ちが顔に出たらしい。
「なんか一人で勝手に納得してる」
芽衣が少し茶化すように言って、湊はバツが悪そうに頭をかいた。
「そう怒るなよ。っていうか、鈴城……」
湊はいつ玄関のドアが開いても平気なように、覚悟していたものの、ふと壁にある時計を見上げて、顔をしかめた。
──もう九時過ぎだ。
「鈴城、君の両親って、いつもこんなに遅いのか?」
芽衣はどきっと胸が鳴った。
(え、もうこんな時間?! いつもならとっくに帰っているはずなのに……)
不安がよぎり、芽衣は思い出したようにスマホを確認した。
(着信がない……! どうして?)
九時過ぎまで両親のどちらからもまったく連絡がなく、二人とも帰ってこなかったことは、今まで一度もなかったのだ。
「お母さん、まだ仕事なのかもしれない……」
芽衣は、今の現状を受け止めたくなくて、笑顔を作ろうとしたものの、唇が少し震えた。
「そうだよね、だって看護師だし……。急患とかで忙しいのかも」
「鈴城」
「きっと連絡できないだけだよね……」
胸がぎゅっと締め付けられるような感覚が芽衣を襲った。手が震え、スマホを握りしめる力が強くなる。
湊はその様子に気づき、何も言わずにそっと芽衣の手元を見つめた。
湊の手が一瞬、芽衣の肩に触れそうになる。
『あ……』
その瞬間、つい先ほどのことが、フラッシュバックして、自分の感情を抑え込みながら、その手を引っ込めた。
「大丈夫。大丈夫よね、ねえ、大丈夫だから……」
湊は、呪文のようにそう繰り返す芽衣が痛々しく見え、胸が締め付けられるのを感じた。それでも何も言わないわけにはいかず、少し強い口調で「鈴城!」と呼びかけた。
湊から強い口調で言われて、芽衣はびくっと体を震わせた。
「え? あ、なに……」
「鈴城……、俺の声、聞こえる? 頼むから、落ち着いて」
「……」
「いいから、電話、かけてみろって……」
湊がじっと見つめて、それでも芽衣が何も言えずにいると、湊は優しく彼女の名を呼んだ。
「鈴城」
「……わかった。お母さんに、電話してみる……」
両親が家にいなくても、いつかは帰ってくるという、漠然とした安心感が一気に覆って、芽衣は青ざめながら電話をかけた。
(お母さん……!)
祈るような気持ちで電話をかけ続けても、一向に出る気配がなく、芽衣は唇を噛みしめながら、小さくつぶやいた。
「出ない、どうしよう……」
「それなら、父親の方は?」
「かけてみる……」
芽衣はいったん電話を切り、着信履歴を確認したが、そこに父の名前がないことを思い出し、アドレス帳から父の名前を探した。
(出てよ、お父さん……!)
芽衣が何度電話をかけても、やはり母親と同じように、父親にも電話はつながらなかった。
「……ダメ?」
湊から聞かれて、芽衣は力を失ったように、静かに湊の方へ視線を向けた。
「俺、もしかして待ってた方がいいか? なんか、嫌な予感がするんだよ」
湊は落ち着かない様子で、あたりを見渡した。
今のところ、部屋に異変はなかった。
けれど、何かがまた二人の世界から静かに消え去ろうとしているような気がした。
ただ待つ時間は、いつもよりずっと長く感じた。
湊が再び時計を見上げると、時間はすでに10時を過ぎていた。
湊は眉をひそめ、考え込んだ。
「鈴城、もう一度電話してみるか?」
「何回かけても、出ないと思う……」
芽衣はうつむいたまま、スマホを握りしめた。
湊も、それは分かっていた。
けれど、何か話をしないと、目の前にいる芽衣が壊れてしまいそうで、湊はひどく心配だったのだ。
「なあ、鈴城。考えたくないけど、もし事故とかだったら、警察から電話があると思うから」
「うん。でも、もしどこからも電話なかったら……?」
湊の心にある不安に、芽衣は気づいているようだった。
(今度は……、両親が消えるの?)
芽衣は、言い出せないその不安を、胸の中で吐き出した。
「鈴城、もう少しだけ待ってみよう」
湊の言葉に、芽衣は不安を隠しきれないまま、軽く唇を噛んで静かに息を整えた。そして、湊の方へ小さくうなずくように顔を向けた。
二人は外の世界に耳を傾けて、意識を耳に集中させた。
いろいろな音が、聞こえてくる──電車の走行音に、犬の鳴き声、救急車のサイレン。
その音に混じって、マンションの廊下を歩く足音が聞こえてこないか、ただじっと耳を澄ました。
その時、玄関の方から音がした。
「お母さん?!」
芽衣が急いで玄関の方へ走っていき、湊もそのすぐ後を追いかけたが、ドアは開く気配すらなかった。
「なんだ、風か……」
ただの風がそっとドアに当たっただけのようで、芽衣は、自分が極度に神経質になっていることに気づいた。
湊は、疲れ切った芽衣の表情を見ながら、どう声をかけていいか、分からなかった。
いくら待っても、玄関のドアが開く音は聞こえないだろうという、漠然とした確信と同時に、湊の胸の中には、もう一つの不安が大きくなっていった。
──もしかして、明日また何かが消えるかもしれない。
けれど、その不安を誰に話したところで、誰にも分かってもらえないだろう。
湊は茫然と立ち尽くす芽衣の後ろで、自分のブログに、その気持ちをつづった。
もし誰かが、この思いに共感してくれたら、誰かがコメントを残したり、メッセージを送ってくれるはずだ。
『……誰も読んでくれてないかもしれないけど、それでも書くしかないよな』
湊はブログを更新しながら、静かに息を吐いた。
湊のブログに反応したのは、芽衣だけだった。
湊は、芽衣がブログに気づいてからもずっと、ブログのアクセス数を見ていた。
芽衣のほかに、誰かが湊のブログを訪れて、読んだ様子はない。
『……八方ふさがりだな』
湊は、無意識にこぶしを握りしめた。
もしこの現象が続くなら、明日と言わず、今、この瞬間にも、どんどん他のものが消えていっているのかもしれない。
湊には、どうにかしてこの現象を止めたいという強い思いが湧き上がった。そして、ひとつだけ試してみたいことがあった。
もし芽衣の両親が消えているのなら、この現象は進んでいる。おそらく消えていくものを止めるには、過去の記憶を取り戻すことが必要だろう。
しかし、過去の記憶を知るには、触れ合う必要がある──先ほど芽衣と触れ合ったとき、記憶がよみがえったのは偶然だったのか、まだ確かめていない。
『鈴城、もう一度触れたら、何かが分かるかもしれない……。けど、今は……』
湊は、小さく震えている芽衣をじっと見つめた。
『今、こんなにも不安定になっている鈴城にそれを話すのか? 話したら、君は受け入れるかもしれない。けれど、俺は……、自分の考えに確証が持てないよ』
そう考えながら、湊の顔をまじまじと見つめているうちに、ふと湊は、自分が芽衣の顔をしっかりと見たことがなかったことに気がついた。
『なんだ、小さい肩だな……』
人と関わることを面倒だと思い、極力避けていた湊にとって、こんなふうに誰かを長く見つめるのは初めてのような気がした。
どこか頼りなく、不安そうな表情の中にも、芽衣の柔らかな瞳が静かに揺れている。
芽衣の長いまつげがそっと伏せられた瞬間、湊は芽衣の細やかな顔立ちを初めて意識した。
芽衣の黒髪は肩までまっすぐに流れ、顔周りの髪が少し汗ばんで、ほほにはりついている。
普段は制服に包まれていて気づかなかった芽衣の小さく、華奢な体つきも湊の視界に入ってきた。リボンを外し、襟元のボタンを一つ開けたことで、わずかにあらわになった鎖骨が、芽衣の繊細さを強調し、湊の心を揺り動かしていた。
今の芽衣に、ただ”確認”するために触れるのは、湊はひどく残酷な気がした。
『そもそも、異性として意識しているつもりはないんだから……』
湊は、そう思いながら、無理やり自分に納得させようとした。彼女の表情や体に目が行ってしまうのは仕方がない。これは確認のためなんだ──と何度も自分に言い聞かせた。
「鈴城……」
湊は、自分の思考を引き戻し、目の前にいる芽衣の震える肩をじっと見つめ、そっと息を吐いた。
その声に反応して、芽衣は湊を見つめ返した。
『もう、そんな顔しないでくれ……』
湊は芽衣の揺れる瞳に目を奪われ、心の中で思わず叫んだ。
芽衣の瞳は、いじめを受けていたあの日と同じで、湊は胸の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。
──あの日、自分が助けられなかったことが、ずっと心の中に引っかかっている。芽衣が不登校になったと聞いたとき、湊はひどく後悔し、密かに心に誓ったのだ。
『今度こそ、絶対に守る……』と。
けれど、今の芽衣は、あの時とは違う。湊には、芽衣がこんなにも弱々しく見えるのが初めてだった。
戸惑いを抱えつつ、湊は自然と芽衣の肩をそっと抱きしめた、気づけば、芽衣の肩に触れていた──。
『……!!』
湊は、芽衣の肩に触れた瞬間、まるで電流が全身を駆け抜けたような感覚を覚え、目を見開いた。
『この感覚……前にもあったような……?』
引き寄せた瞬間に芽衣のぬくもりが体に伝わり、湊の記憶の奥底から何かが鮮明によみがえったかのようだった。
「もう、そんな顔しないでくれ……」
その言葉は確かに、湊の口から出ていた。だが、いつの記憶か、どこで言った言葉かはわからない。
湊は、自分の中に潜む感覚と、今ここで芽衣を抱きしめる現実が重なるような気がして、驚きのあまり、とっさに芽衣から体を離した。
その瞬間、湊の頭に、ずきんと鋭い痛みが走った。
『勘弁してくれよ……。今度は、頭痛か?』
湊は、後頭部にこぶしを押し当て、痛みに耐えた。
弱い痛みから徐々に強くなるそのリズムが、湊の集中力を奪い、湊は顔をしかめた。
「鈴城……、大丈夫か?」
震える声で問いかけながら、湊は自分を落ち着かせようと、深く息を吸い込んだ。頭を抱えこむ芽衣の苦しそうな様子が視界に入り、焦りと不安が湧き上がってくるのを感じながら、芽衣の混乱が痛いほど伝わってくる。
「ごめん、いろんなことがありすぎて……、頭が痛くなっちゃったみたい」
芽衣のかすれた声に、湊は胸が締め付けられた。
「……ごめん、俺が……」
湊が口を開くと、芽衣はすぐに否定した。
「どうして湊くんが謝るの?」
困惑する芽衣の表情を見て、湊はさらに胸が苦しくなった。
「ここにいてくれて、私、安心してるんだから」
「ああ、ごめん……」
「だから、謝らないでって言ってるじゃない。湊くんが消えてしまいそうで、いやだから……」
「鈴城、今は休んで。俺がなんとかするから」
湊は芽衣を落ち着かせようと、静かに言った。
『なんとかするっていっても、どうしようもできないじゃないか』
湊は、自嘲的に笑った。
『まさかさっき俺がやったように、鈴城のこぶしをテーブルに叩きつけるか? そんなこと、できるはずないよな』
芽衣の苦しさに共鳴するように、自分の頭痛が痛みを増していく。
けれど、その痛みは今までのどんなものとも違った。
いっそ責めてくれたら、と湊は思った。
「おかしいよ! さっきも湊くんが触ったとき、変な感じがした。湊くんのせいじゃないの!?」
自分の今の母親のように、なんでもかんでも自分のせいにして叫んでくれたら──、痛みに鈍感になれた。
自分の痛みには素通りで、相手の痛みにも鈍感でいられた。
『なのに、鈴城、君は……』
目の前で痛みに耐え、それでも自分を求めて必要とされることが、湊にとって初めてのことだった。
なにも気づかない芽衣を見つめると、湊の胸の奥に痛みが広がった。言葉にならない感情が喉にこみ上げ、その気持ちを吐き出すように、湊はゆっくり深呼吸した。
「痛いよ、助けてよ。痛いよ、痛いよー……」
そんなふうに小さな子どものように泣き叫んでくれ方が、まだいいと湊は思った。
『感情をぶつけてくれれば、自分も何とか反応できたかもしれない──』
けれど、湊にとってそれは、ただのなぐさめに過ぎないことを、痛いほど感じていた。
「俺がここにいるから、大丈夫だよ」
確証も何もない。それでも、芽衣の表情が和らいだ気がして、湊はその表情を見ながら、苦しむ中で精一杯ほほえんだ。
芽衣のまぶたがゆっくりと閉じられ、その呼吸が静かに落ち着いていく……。
湊がそっと椅子に座りなおしたとき、芽衣はすでに深い眠りに落ちていた。
湊は自分のブレザーを芽衣の肩にかけ、その寝顔をじっと見つめた。少し乱れた髪、静かに閉じられたまぶた、その一つ一つが、湊の心を揺り動かした。
静寂の中で、湊の心臓だけが不規則に鼓動を打つ。
触れることへの恐怖──それでも至近距離に”彼女”がいる。
「……長い夜になりそうだな」
湊が小さくつぶやき、その言葉は静かな部屋の中に溶け込んでいくのだった。
湊はふと、芽衣の両親のことを考えた。
『自分がこの場に居続けることで、鈴城の家族に対してどんな影響を与えるのか──』
そう考えると、芽衣のことを守りたい気持ちがありながらも、ここにいることが正しいのか悩んでいた。
いつもなら”それなりに”やり過ごせる人間関係も、先ほどの記憶の再生といい、体に走った痛みといい……、すべてが湊を追いつめて、うまく立ち振る舞える自信がなかった。
「……やっぱり、今日は帰るよ」
湊は決心したように、静かに言った。
「鈴城の両親が帰ってきたら、挨拶だけして早めに出る。俺がここにいると、また何か鈴城言われるかもしれないしさ……」
自分の不安を打ち消すように、少し軽い口調で付け加えた。
「……帰っちゃうの?」
芽衣は、一人になるのが不安だった。それでも今、この状況で、湊との関係を両親から聞かれても、うまく説明できる余裕がないのは、自分でも分かっていた。
「もう少しいるよ。けど、もし鈴城の両親の帰りが、あんまり遅くなりそうだったら、先に帰るよ」
「うん」
「……なにか食べないか? せっかく買ってきたんだし」
湊はできるだけ明るい声でそう言った。
先ほどの痛みのことを忘れたかった。話題を変えれば、気持ちが少し軽くなると思ったからだ。
「これだよ」とわざと大きな声で言いながら、買ってきたコンビニ弁当の袋を探し、「あった」と軽く笑みを浮かべた。
湊も本当は食欲なんてまったくなかった。
けれど、このままだと、芽衣が何も食べなさそうで心配だった。
「ここの卵焼き、うまいんだよね。こっちの弁当にも卵焼き入ってるから、この卵焼き、鈴城にやるよ」
湊は、弁当を開けると、中の卵焼きを箸でつまんだ。
「どこか皿、ある?」
そう聞くのに、まるで反応しない芽衣を見て、湊は「仕方ないな」と軽く笑った。
「今日だけだからな。口、開けてみろよ」
「え? あ、なに?」
芽衣は、自分の唇の先に、何かが当たったのを感じて、ようやく湊が自分の口元に卵焼きを運んでいるのを感じた。
「腕、しびれる。早く口、開けろって」
湊からそう言われて、芽衣が慌てて口を開けると、柔らかく甘い食感が口の中に広がった。
「はふっ」
芽衣がそう言うと、湊はくすっと笑った。
「噛むか話すか、どっちかにしろよ」
こんなに甘い卵焼きは初めてだ、と芽衣は思った。それは、まるで心の中にまで広がっていくような甘さだった。
「俺の大事な卵焼き、一つやったんだから、少しは元気出せよ」
湊のそのほほえみが、一瞬で、芽衣を現実世界に引き戻した。
気づけば、湊の顔がすぐそばにあった。
湊の少し長めの前髪が、眉のあたりにかかり、自分を吸い込むようなまなざしで見つめられていることに気づいて、芽衣の顔はかっと赤くなった。
湊の顔立ちはどこか鋭さや険しさがあるものの、今のように笑うと、それは温かさに変わり、湊の優しい一面が表れる。鼻筋がすっと通っていて、湊の頬にかかる髪が、芽衣の吐く息でそっと揺れた。
芽衣が、ほんの少しだけ顔を近づけると、湊の頬がわずかに赤みを帯びているのが見えた気がした。
芽衣がふと視線を外すと、湊の広い肩が視界に飛び込んできた。湊の紺色のTシャツが汗ばんで肌にぴったりと張り付いて、一瞬、視線がそこに無意識にとどまり、胸が軽く高鳴るのを感じた。
(なんでこんなときに……、私、何考えてるの?)
部屋に二人きりでいることに、緊張で汗ばむのは、芽衣も同じだった。制服のリボンを外して、襟元の第一ボタンを開けると、空気がすっと入り込んで、呼吸が少し楽にできる気がする。芽衣は、先ほどよりも楽になった気がして、ふうっと息を吐いた。
湊は芽衣が少し落ち着いたのを確認すると、夕食の弁当を食べだした。
芽衣も少しずつ食事をとりながら、大好きなお菓子も、ときどきつまんだ。
「湊くんがいてくれてよかった。いなかったら、私……」
芽衣は、自分の言葉で、自分の気持ちを伝えようと必死だった。
けれど、湊は「ああ」と話を聞きながら、なにか別のことを考えているようだった。
「ねえ、湊くん、聞いてる?」
「ごめん、なに? 俺の鮭も欲しいの?」
(違うよ、そんなことじゃなくて……)
芽衣は、話の腰を折られた気がして、そっぽを向いた。
「悪かったよ。ちょっと考えごとしててさ」
「それって、私の話より大事なこと?」
「ん? どうかな」
湊ははぐらかなしながら、頭上を仰いだ。
湊は、芽衣の両親が帰ってくる前に帰ろうと思っている一方で、万が一、両親が帰ってきたらどう言おうか、ずっと考えていた。
先に芽衣の母親が帰ってきたパターン。
先に芽衣の父親が帰ってきたパターン。
同時に芽衣の両親が帰ってきたパターン。
『まずは、そうだな。挨拶だろ……。鈴城が体調不良で、俺が今まで付き添ってたということにするのが自然かな』
何度も頭の中でシミュレーションして、湊は芽衣を見て、笑った。
「まあ、なんとかなるだろ」
無理に楽観的な声を出してみたものの、落ち着かない気持ちが顔に出たらしい。
「なんか一人で勝手に納得してる」
芽衣が少し茶化すように言って、湊はバツが悪そうに頭をかいた。
「そう怒るなよ。っていうか、鈴城……」
湊はいつ玄関のドアが開いても平気なように、覚悟していたものの、ふと壁にある時計を見上げて、顔をしかめた。
──もう九時過ぎだ。
「鈴城、君の両親って、いつもこんなに遅いのか?」
芽衣はどきっと胸が鳴った。
(え、もうこんな時間?! いつもならとっくに帰っているはずなのに……)
不安がよぎり、芽衣は思い出したようにスマホを確認した。
(着信がない……! どうして?)
九時過ぎまで両親のどちらからもまったく連絡がなく、二人とも帰ってこなかったことは、今まで一度もなかったのだ。
「お母さん、まだ仕事なのかもしれない……」
芽衣は、今の現状を受け止めたくなくて、笑顔を作ろうとしたものの、唇が少し震えた。
「そうだよね、だって看護師だし……。急患とかで忙しいのかも」
「鈴城」
「きっと連絡できないだけだよね……」
胸がぎゅっと締め付けられるような感覚が芽衣を襲った。手が震え、スマホを握りしめる力が強くなる。
湊はその様子に気づき、何も言わずにそっと芽衣の手元を見つめた。
湊の手が一瞬、芽衣の肩に触れそうになる。
『あ……』
その瞬間、つい先ほどのことが、フラッシュバックして、自分の感情を抑え込みながら、その手を引っ込めた。
「大丈夫。大丈夫よね、ねえ、大丈夫だから……」
湊は、呪文のようにそう繰り返す芽衣が痛々しく見え、胸が締め付けられるのを感じた。それでも何も言わないわけにはいかず、少し強い口調で「鈴城!」と呼びかけた。
湊から強い口調で言われて、芽衣はびくっと体を震わせた。
「え? あ、なに……」
「鈴城……、俺の声、聞こえる? 頼むから、落ち着いて」
「……」
「いいから、電話、かけてみろって……」
湊がじっと見つめて、それでも芽衣が何も言えずにいると、湊は優しく彼女の名を呼んだ。
「鈴城」
「……わかった。お母さんに、電話してみる……」
両親が家にいなくても、いつかは帰ってくるという、漠然とした安心感が一気に覆って、芽衣は青ざめながら電話をかけた。
(お母さん……!)
祈るような気持ちで電話をかけ続けても、一向に出る気配がなく、芽衣は唇を噛みしめながら、小さくつぶやいた。
「出ない、どうしよう……」
「それなら、父親の方は?」
「かけてみる……」
芽衣はいったん電話を切り、着信履歴を確認したが、そこに父の名前がないことを思い出し、アドレス帳から父の名前を探した。
(出てよ、お父さん……!)
芽衣が何度電話をかけても、やはり母親と同じように、父親にも電話はつながらなかった。
「……ダメ?」
湊から聞かれて、芽衣は力を失ったように、静かに湊の方へ視線を向けた。
「俺、もしかして待ってた方がいいか? なんか、嫌な予感がするんだよ」
湊は落ち着かない様子で、あたりを見渡した。
今のところ、部屋に異変はなかった。
けれど、何かがまた二人の世界から静かに消え去ろうとしているような気がした。
ただ待つ時間は、いつもよりずっと長く感じた。
湊が再び時計を見上げると、時間はすでに10時を過ぎていた。
湊は眉をひそめ、考え込んだ。
「鈴城、もう一度電話してみるか?」
「何回かけても、出ないと思う……」
芽衣はうつむいたまま、スマホを握りしめた。
湊も、それは分かっていた。
けれど、何か話をしないと、目の前にいる芽衣が壊れてしまいそうで、湊はひどく心配だったのだ。
「なあ、鈴城。考えたくないけど、もし事故とかだったら、警察から電話があると思うから」
「うん。でも、もしどこからも電話なかったら……?」
湊の心にある不安に、芽衣は気づいているようだった。
(今度は……、両親が消えるの?)
芽衣は、言い出せないその不安を、胸の中で吐き出した。
「鈴城、もう少しだけ待ってみよう」
湊の言葉に、芽衣は不安を隠しきれないまま、軽く唇を噛んで静かに息を整えた。そして、湊の方へ小さくうなずくように顔を向けた。
二人は外の世界に耳を傾けて、意識を耳に集中させた。
いろいろな音が、聞こえてくる──電車の走行音に、犬の鳴き声、救急車のサイレン。
その音に混じって、マンションの廊下を歩く足音が聞こえてこないか、ただじっと耳を澄ました。
その時、玄関の方から音がした。
「お母さん?!」
芽衣が急いで玄関の方へ走っていき、湊もそのすぐ後を追いかけたが、ドアは開く気配すらなかった。
「なんだ、風か……」
ただの風がそっとドアに当たっただけのようで、芽衣は、自分が極度に神経質になっていることに気づいた。
湊は、疲れ切った芽衣の表情を見ながら、どう声をかけていいか、分からなかった。
いくら待っても、玄関のドアが開く音は聞こえないだろうという、漠然とした確信と同時に、湊の胸の中には、もう一つの不安が大きくなっていった。
──もしかして、明日また何かが消えるかもしれない。
けれど、その不安を誰に話したところで、誰にも分かってもらえないだろう。
湊は茫然と立ち尽くす芽衣の後ろで、自分のブログに、その気持ちをつづった。
もし誰かが、この思いに共感してくれたら、誰かがコメントを残したり、メッセージを送ってくれるはずだ。
『……誰も読んでくれてないかもしれないけど、それでも書くしかないよな』
湊はブログを更新しながら、静かに息を吐いた。
湊のブログに反応したのは、芽衣だけだった。
湊は、芽衣がブログに気づいてからもずっと、ブログのアクセス数を見ていた。
芽衣のほかに、誰かが湊のブログを訪れて、読んだ様子はない。
『……八方ふさがりだな』
湊は、無意識にこぶしを握りしめた。
もしこの現象が続くなら、明日と言わず、今、この瞬間にも、どんどん他のものが消えていっているのかもしれない。
湊には、どうにかしてこの現象を止めたいという強い思いが湧き上がった。そして、ひとつだけ試してみたいことがあった。
もし芽衣の両親が消えているのなら、この現象は進んでいる。おそらく消えていくものを止めるには、過去の記憶を取り戻すことが必要だろう。
しかし、過去の記憶を知るには、触れ合う必要がある──先ほど芽衣と触れ合ったとき、記憶がよみがえったのは偶然だったのか、まだ確かめていない。
『鈴城、もう一度触れたら、何かが分かるかもしれない……。けど、今は……』
湊は、小さく震えている芽衣をじっと見つめた。
『今、こんなにも不安定になっている鈴城にそれを話すのか? 話したら、君は受け入れるかもしれない。けれど、俺は……、自分の考えに確証が持てないよ』
そう考えながら、湊の顔をまじまじと見つめているうちに、ふと湊は、自分が芽衣の顔をしっかりと見たことがなかったことに気がついた。
『なんだ、小さい肩だな……』
人と関わることを面倒だと思い、極力避けていた湊にとって、こんなふうに誰かを長く見つめるのは初めてのような気がした。
どこか頼りなく、不安そうな表情の中にも、芽衣の柔らかな瞳が静かに揺れている。
芽衣の長いまつげがそっと伏せられた瞬間、湊は芽衣の細やかな顔立ちを初めて意識した。
芽衣の黒髪は肩までまっすぐに流れ、顔周りの髪が少し汗ばんで、ほほにはりついている。
普段は制服に包まれていて気づかなかった芽衣の小さく、華奢な体つきも湊の視界に入ってきた。リボンを外し、襟元のボタンを一つ開けたことで、わずかにあらわになった鎖骨が、芽衣の繊細さを強調し、湊の心を揺り動かしていた。
今の芽衣に、ただ”確認”するために触れるのは、湊はひどく残酷な気がした。
『そもそも、異性として意識しているつもりはないんだから……』
湊は、そう思いながら、無理やり自分に納得させようとした。彼女の表情や体に目が行ってしまうのは仕方がない。これは確認のためなんだ──と何度も自分に言い聞かせた。
「鈴城……」
湊は、自分の思考を引き戻し、目の前にいる芽衣の震える肩をじっと見つめ、そっと息を吐いた。
その声に反応して、芽衣は湊を見つめ返した。
『もう、そんな顔しないでくれ……』
湊は芽衣の揺れる瞳に目を奪われ、心の中で思わず叫んだ。
芽衣の瞳は、いじめを受けていたあの日と同じで、湊は胸の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。
──あの日、自分が助けられなかったことが、ずっと心の中に引っかかっている。芽衣が不登校になったと聞いたとき、湊はひどく後悔し、密かに心に誓ったのだ。
『今度こそ、絶対に守る……』と。
けれど、今の芽衣は、あの時とは違う。湊には、芽衣がこんなにも弱々しく見えるのが初めてだった。
戸惑いを抱えつつ、湊は自然と芽衣の肩をそっと抱きしめた、気づけば、芽衣の肩に触れていた──。
『……!!』
湊は、芽衣の肩に触れた瞬間、まるで電流が全身を駆け抜けたような感覚を覚え、目を見開いた。
『この感覚……前にもあったような……?』
引き寄せた瞬間に芽衣のぬくもりが体に伝わり、湊の記憶の奥底から何かが鮮明によみがえったかのようだった。
「もう、そんな顔しないでくれ……」
その言葉は確かに、湊の口から出ていた。だが、いつの記憶か、どこで言った言葉かはわからない。
湊は、自分の中に潜む感覚と、今ここで芽衣を抱きしめる現実が重なるような気がして、驚きのあまり、とっさに芽衣から体を離した。
その瞬間、湊の頭に、ずきんと鋭い痛みが走った。
『勘弁してくれよ……。今度は、頭痛か?』
湊は、後頭部にこぶしを押し当て、痛みに耐えた。
弱い痛みから徐々に強くなるそのリズムが、湊の集中力を奪い、湊は顔をしかめた。
「鈴城……、大丈夫か?」
震える声で問いかけながら、湊は自分を落ち着かせようと、深く息を吸い込んだ。頭を抱えこむ芽衣の苦しそうな様子が視界に入り、焦りと不安が湧き上がってくるのを感じながら、芽衣の混乱が痛いほど伝わってくる。
「ごめん、いろんなことがありすぎて……、頭が痛くなっちゃったみたい」
芽衣のかすれた声に、湊は胸が締め付けられた。
「……ごめん、俺が……」
湊が口を開くと、芽衣はすぐに否定した。
「どうして湊くんが謝るの?」
困惑する芽衣の表情を見て、湊はさらに胸が苦しくなった。
「ここにいてくれて、私、安心してるんだから」
「ああ、ごめん……」
「だから、謝らないでって言ってるじゃない。湊くんが消えてしまいそうで、いやだから……」
「鈴城、今は休んで。俺がなんとかするから」
湊は芽衣を落ち着かせようと、静かに言った。
『なんとかするっていっても、どうしようもできないじゃないか』
湊は、自嘲的に笑った。
『まさかさっき俺がやったように、鈴城のこぶしをテーブルに叩きつけるか? そんなこと、できるはずないよな』
芽衣の苦しさに共鳴するように、自分の頭痛が痛みを増していく。
けれど、その痛みは今までのどんなものとも違った。
いっそ責めてくれたら、と湊は思った。
「おかしいよ! さっきも湊くんが触ったとき、変な感じがした。湊くんのせいじゃないの!?」
自分の今の母親のように、なんでもかんでも自分のせいにして叫んでくれたら──、痛みに鈍感になれた。
自分の痛みには素通りで、相手の痛みにも鈍感でいられた。
『なのに、鈴城、君は……』
目の前で痛みに耐え、それでも自分を求めて必要とされることが、湊にとって初めてのことだった。
なにも気づかない芽衣を見つめると、湊の胸の奥に痛みが広がった。言葉にならない感情が喉にこみ上げ、その気持ちを吐き出すように、湊はゆっくり深呼吸した。
「痛いよ、助けてよ。痛いよ、痛いよー……」
そんなふうに小さな子どものように泣き叫んでくれ方が、まだいいと湊は思った。
『感情をぶつけてくれれば、自分も何とか反応できたかもしれない──』
けれど、湊にとってそれは、ただのなぐさめに過ぎないことを、痛いほど感じていた。
「俺がここにいるから、大丈夫だよ」
確証も何もない。それでも、芽衣の表情が和らいだ気がして、湊はその表情を見ながら、苦しむ中で精一杯ほほえんだ。
芽衣のまぶたがゆっくりと閉じられ、その呼吸が静かに落ち着いていく……。
湊がそっと椅子に座りなおしたとき、芽衣はすでに深い眠りに落ちていた。
湊は自分のブレザーを芽衣の肩にかけ、その寝顔をじっと見つめた。少し乱れた髪、静かに閉じられたまぶた、その一つ一つが、湊の心を揺り動かした。
静寂の中で、湊の心臓だけが不規則に鼓動を打つ。
触れることへの恐怖──それでも至近距離に”彼女”がいる。
「……長い夜になりそうだな」
湊が小さくつぶやき、その言葉は静かな部屋の中に溶け込んでいくのだった。