「ここじゃ、ちょっと目につく。とりあえず、中、入ろうか」
 湊からそう言われても、芽衣は冷静になれなかった。
(どうしよう……。頭が真っ白で、何も考えられない……。あの人が……、私を覚えていない? なんで? 何が起きてるの?)
 芽衣は、わなわなと震えながら、起きている現象に、不気味さを感じた。
 カギをバッグから出しても、カギ穴にうまくカギがさせずに、カチャカチャと音だけが鳴った。
(なんで、こんなことに……! もう、どうすればいいの!?)
「俺に貸して」
 湊がカギを受け取ろうとして、渡そうとした芽衣の手は震え、カギが湊の手に落ちそうになった。
「大丈夫か?」
「平気……」
 芽衣は立っていることさえ辛くなり、体が重く感じた。
 目の前で、自分の代わりにドアを開ける湊を、どこか遠い目で見ていた。
「電気は……、あ、ここか」
 自分の家ではなく、他人の家ということもあって、湊は少し戸惑っていた。それでも、真っ青な顔をしている芽衣を見て、芽衣の動揺が伝わってくるようだった。
 湊はどうにかして芽衣を落ち着かせたかった。そう思いながら、冷静さを装った。

 芽衣の家は、広くはなかった。
 ドアを開けるとすぐ右に洗面所、左斜めには細長いキッチンが見える。
 靴を脱いで左に曲がると、細長いリビングがあり、そこにはダイニングテーブル、芽衣の机、両親の机、そしてドレッサーが、限られた空間に整然と置かれていた。
 一年中置きっぱなしと思われるこたつは、一番奥の窓際にあり、その右隣には別の部屋へ続くドアがあった。
「こっちが、鈴城の部屋?」
「ううん、そこは両親の部屋。私の部屋はこっち」
 芽衣は、リビングとつながっている手前の空間を指さした。
 リビングは左手にも広がり、その先に五畳ほどの小さな部屋があった。角部屋で、窓が二面にあり、オレンジ色の光が部屋の中に薄く差し込んでいる。夕暮れの柔らかな光が、部屋の中にある家具やぬいぐるみをほんのりと照らしていた。
 部屋の中にはベッド、本棚、ハンガーと鏡が一体になった姿見、収納クローゼットが整然と配置されていた。
「本当はここ、仕切れるんだけど、そんな広くないし、仕切る必要もないかなって」
 リビングと部屋のちょうど境に、仕切りとなる引き戸があった。
 その前には、大きなクマのぬいぐるみが置かれていて、引き戸は閉まらないようになっていた。
「……このクマ、ここに置いてるのわざと?」
 湊は軽く笑いながらも、どこか優しくそう言った。
「なんか、ひとりでいるのが嫌って言ってるみたいだな」
 湊の言葉に、芽衣は驚いたように湊を見た。
「……そんなことないよ」
 そう言いながらも、芽衣の肩は、小さく震えていた。
 マンションは消えて、そのことを湊以外、誰にも理解してもらえず、知り合いだった明菜さんからも忘れられて……、奇妙にゆがんでいく現実に対する不安と今までの寂しさが、湊の何気ない一言で浮き上がったようだった。
 芽衣はクマのぬいぐるみを見つめながら、ぽんぽんと頭をなでた。
 そのクマは、初めて来た芽衣の”友達”を歓迎するかのように、穏やかな表情でほほえんでいるように見えた。

 湊は、芽衣がクマのぬいぐるみをなでている様子をしばらく見守っていた。
 芽衣が湊の視線にようやく気づき、彼の方を見ると、湊は静かに口を開いた。
「なんか暑いな……」
 そう言うと、湊はブレザーの前を軽くつかみ、一瞬ためらうようにしてから、ゆっくりと脱ぎ始めた。
 芽衣の目は、自然とその動作に引き寄せられ、湊の視線の先を追った。
 湊は制服のブレザーを脱いで、気まずそうにベッドを見た。
「とりあえず、ここに座るのは、あれだし……」
 そう言いながら、リビングにあるダイニング用の椅子を指さすと、湊は静かに息をついた。
「鈴城、あそこで話そう」
 湊がリビングを指さすと、芽衣はそれに少しほっとしたように表情を和らげ、湊のあとに続いた。
「湊くんがブレザー脱ぐなんて、めずらしいね」
 芽衣は、リビングへ向かう途中、ふと湊の体に目を向けた。いつもブレザーに隠れていたその体つきが、初めてはっきりと見える。湊のすらり伸びた背筋に加え、やや筋肉質な腕が、ブレザーを脱いだことで目立つようになっていた。
 いつも制服に隠れていた湊の肩や腕が、思った以上にがっしりとしているのがわかり、芽衣は少し驚いた。
 Tシャツ越しに浮かび上がる筋肉のラインが、自分とは違う体のつくりに、湊の男らしさを無意識に感じさせる。
 そのことに気づくと、芽衣の心臓は自然と速くなり、体が少し熱くなるのを感じた。
 湊がブレザーを軽く背もたれにかけると、芽衣はふと目をそらし、湊がどこに座るのか気にしながら、彼の隣の席を選んで座った。

「……さっきの女性、鈴城の知り合いだったんだな」
 湊は、芽衣が少し落ち着いたのを確認して、静かに口を開いた。
「うん、もう忘れてるみたいだったけど」
 芽衣の声がかすれて、それを聞いた湊は、困惑しながらも、言葉を選んで続けた。
「消えたのは、家だけじゃなかったのか……」
 二人はどうしていいか分からず、沈黙が続いた。
 微妙に近いこの距離で、お互いの心臓の音が聞こえる気がする。不安や緊張が入り交じり、頭がうまく働かない。
 何を手掛かりに、この奇妙な出来事の謎を解けばいいのか、まったくアイデアが浮かばなかった。

 芽衣が不安そうに窓の外を見つめる中、湊はふと思い出したように口を開いた。
「なあ、あのときのこと覚えてる?」
 突然の問いに、芽衣は驚き、思わず顔を上げた。
 湊は、芽衣の表情を一瞬確認し、そっと続けた。
「ほら、おととしの夏休み、補習に呼ばれたこと」
 芽衣は少し首をかしげて、しばらく考えた。
「ああ……。確か、富岡先生が急にみんなを集めて、補習やってたよね」
「そうそう、それ」
 湊は、当時を思い出して、懐かしそうに目を細めると、苦笑した。
「富岡先生さ、まるで俺らが来月、受験するかのような勢いで問題解説してたんだよな。『今、この瞬間が大事なんだ!』って言ってさ」
 芽衣も思わずふっと笑みがこぼれた。
「そうそう、真剣な顔でさ……」
 湊は富岡先生が熱心に問題を解説していた時の様子を思い出しながら、再び口を開いた。
「みんなを集めたかと思えば、結局来たのって、成績がよくなかった……」
「例えば、私とか」
「まあ、そうだな、鈴城とか……」
「その頃から出席率が悪かった湊くんとか……」
「そうそう、そんな奴らばっかり集められてさ」
 湊は静かに笑うと、ゆっくりと言葉を続けた。
「でも、あの先生、ほんと熱かったよな。俺たちが飽きてくると、『しっかりしてくださいよ!』だもんな。3年になって、富岡先生が担任になって『うわっ』って思ったけど、なんかこうなってくるとさ……、明日、富岡先生の顔見るのも、悪くない気がするよな」
 窓越しに車のエンジン音やバイクの音が聞こえる中、静まり返った部屋で、芽衣は湊の言葉に耳を傾けながら、軽く息をついた。その胸には、うまく伝えきれない感情が静かに広がっていた。芽衣は、湊が自分の不安を紛らわせようとして、話しかけてくれるのを感じていた。
 湊は、本当はもっと楽しい話題を振りたかった。
 けれど、そんな余裕がない自分に苛立つように、湊は口惜しそうに唇を噛んだ。
「鈴城」
「うん?」
「なんか、悪いな。もっと楽しい話してやれなくて」

 芽衣は一瞬、言葉が喉に詰まったような感覚を覚えた。
 本当は、「ありがとう」と言いたいのに、どうしてもその言葉が出てこない。
 芽衣は、もうずっと長く、自分の気持ちに素直になることを、心の中に抑え続けてきた。
 家庭内で甘えたかったたくさんの日々も──、「もうできるでしょ?」いつしか両親からそう言われ続け、求めてはいけない気がしていた。
”いじめゲーム”のターゲットにされたあの日から、感情を持つことをやめた。
 感情のボタンをオフにすれば、悲しみは、鈍い痛みに変わっていく気がした。
 
 芽衣は、もどかしくて、ぎゅっと両こぶしを握った。
 心の奥底にある感情が、複雑にからみあって、素直になる方法をもう忘れてしまっていた。
「……そうじゃなくて……」
 どうにかして気持ちを伝えようとするのに、思ったようには言えない。
 芽衣は、視線を下げ、唇を噛んだ。
「……ごめん、なんでもない……」
 結局、別の言葉が、芽衣の口をついて出た。不器用なことが苦しくて、そんな生き方しかできないことに、やるせなさが込み上げた。
「鈴城」
 湊に呼ばれて、芽衣はそっと視線を上げ、湊に軽くほほえんだ。
 けれど、そのほほえみはどこか頼りなく、揺れていた。
 湊は芽衣の揺れるほほえみに気づき、優しく口を開いた。
「……無理しなくていいよ」
 それだけの言葉だったが、芽衣にはその一言でじゅうぶんだった。
 どれだけ長く、その一言がほしかったのだろう。
 温かさのにじむ湊の声に、芽衣は涙腺がゆるんだ。
(やばっ、泣いたら、また湊くんを困らせちゃう)
 芽衣が慌てて目元をぬぐおうとすると、湊はそっと彼女の腕を取り、その動きを止めた。
「だから、無理しなくていいんだよ」
 それは、湊が初めて芽衣に触れた瞬間だった。
 湊の優しい声とともに、握られた腕から湧いてくる温もりが、芽衣をひどく安心させた。

 けれど、幸せな時間は、ほんの一瞬のものだった。
(これは、なに……?!)
 湊が芽衣に触れた次の瞬間、二人の脳裏に光が走った。湊が芽衣の腕に触れたその一瞬で、まるで別の時間に飛ばされたかのような感覚が彼らを包み込んだ。

 芽衣の前には、教室の風景が広がっていた。
 放課後の薄暗い教室、寂しい夕焼け、長く伸びた影──。
 教室には、数名のクラスメートたちのくすくすという笑い声が響きわたっている。
 その中央に、芽衣は立ち尽くしていた。
 まるで透明人間のように扱われて、わざと体当たりされて、芽衣が少しでも悲鳴を上げれば、歓声が増す。
「あれ、誰かなんか言った?」
「え、ここに誰かいる?」
「ゴミなら落ちてるけど」
「それ、言い過ぎ」
「ごめん、間違えたわ。ゴミはゴミでも粗大ごみだったわ」
「きゃはは、やばいって」

 床の上には、芽衣の教科書やノートが、散らばっていた。
 芽衣は震えながら、教科書やノートを拾っていたが、誰一人として拾うのを手伝ってくれる人はいなかった。
(誰も助けてくれない、誰も、誰も……!)
 そのときの悲痛な芽衣の心の叫びが、今また、芽衣の心にまざまざと思い起こされた。

 湊の視界もまた、その光景を共有していた。
 湊は、目の前で苦しむ芽衣を見ていた。
 芽衣が一人ですべてを抱え込んで、苦しんでいる瞬間を、まざまざと目撃している。
 芽衣の肩が小さく揺れて、湊にはその苦しみが直接伝わってくるようだったのに、湊には何もしてやれなかった。
 湊は、他人に干渉することが怖かった。
 父親が再婚し、新しい母親が来てからは、「お母さん」と呼びかけても、二人きりのときは何度も無視された。
 それからほどなくして、妹が生まれた後、湊への風当たりは強くなった。
 湊は、日に日に、無力感を感じることが増えた。
 芽衣がいじめられているのを見て、心の中では、何度も助けに行こうと思ったけれど、自分が何をしたところで、どうせ何も変わらないじゃないかという絶望感が、湊を支配していたのだ。
 それはきっと、何度もまだ小学生で幼かった湊が、父親に「助け」を求めても、
「頼むから、母さんと仲良くやってくれよ。わかるだろ? おまえには新しい母親が必要なんだ」 
 と言われ続けてきたからだ。
 湊は少し成長し、やっと気づいた。
 必要だったのは、湊に「新しい母親」ではなく、父親に「新しい女性」が必要だったのだと。

 そして、再び現実に戻ると、芽衣は短く、荒い呼吸を繰り返していた。
 湊は、静かに息を吸い込んだ。芽衣の過去を目撃し、湊がずっと背負ってきた孤独と寂しさの重さを知った。
『まさか俺たちが触れ合うことで、記憶の一部が、再現されるのか?』
 そんな考えが、一瞬、湊の脳裏によぎったものの、今、目の前にいる芽衣を見ると、それ以上は何も言い出せなかった。

 触れ合って、思い出されるのが、記憶だけならどんなに良かっただろう──。
『何だ……。この痛みは?!』
 湊は、心の中で叫んだ。体の中に、鋭い痛みが走ったのを感じたのだ。
 左の足先から左の太ももにかけて、シャーっとナイフで切られるような鋭い痛み。
 それはまるで冷たい刃が、自分の皮膚を裂いていくかのようだと湊は思った。
 あまりの痛みに太ももを押さえると、痛みは左のふくらはぎに移った。
「うっ……」
 反射的に湊の体は硬直した。
 湊が苦しそうに息を吐くと、目の前の芽衣も同じように太ももを押さえていることに気づいた。
 芽衣は、浅い呼吸を繰り返しながら、その眉間には深いしわが寄っていた。
 芽衣もまた、同じ痛みに耐えている――湊はそのことに気づき、息を飲んだ。
「これが……、記憶を取り戻す代償なのか……!?」
 湊は、震える声でつぶやいた。
「記憶だけじゃない……。この痛みは……」
 湊の頭の中で、考えがまとまらず、とにかく目の前で苦しむ芽衣を見て、どうにかしてあげたかった。
 湊は、芽衣に手を伸ばした。手を握って、芽衣を落ち着かせたかった。
 けれど、また触れ合うことで記憶が戻り、思い出すことで痛みが生じるかもしれないと思うと、湊はひどく躊躇して、差し伸べた手を引っ込めた。
 湊は、悔しさのあまり、テーブルを強く叩いた。自分のこぶしに痛みを集中させることで、意識をそちらに向けようとしていた。こぶしの痛みが広がる一方で、足に走っていた激痛が少しずつ和らいでいくのを感じたが、まったく安心できなかった。これが一時的なもので、次に痛みが再び襲ってくるのではないかという不安が、湊を激しく混乱させた。
 しかし、痛みは徐々に引いていき、ようやく湊は、痛みにばかり気を取られていた自分に気づき、はっとして芽衣の方を見た。
「鈴城……?」
 湊は緊張した声で彼女の名前を呼んだ。
「……湊くん……」
 憔悴しきった表情で芽衣が湊を見返した。その目はどこか焦点が定まらず、痛みと疲れがどっと押し寄せているかのようで、芽衣の額には汗がびっしりとにじみ、湊をさらに動揺させた。
「大丈夫か?」
 ほかにどんな言葉をかければいいんだろう。
 湊の辞書には、それ以上の言葉が見つからずに、湊はじっと芽衣を見た。
「とにかく君が、今……、俺の視界から消えなくてよかったよ」
 湊は、そう言うと、短く息をついた。
 けれど、その言葉を発した後も、自分の中に残る不安を消し去ることはできなかった。