翌朝、芽衣は六時半過ぎに家を出たものの、いつもの場所にネコはいなかった。
 ネコどころか、通学路の裏道ともいえるその道に、まだ誰もいない。
 学校の正門が開くのが七時半とあって、まだ誰もその道を歩いていなかった。

 芽衣は、あたりを見渡しながら、考え込んでいた。
 
(よく考えれば、このハイツの前で夜を明かすのは無理だよね。不審者として通報されるかもしれないし)
 
 そう思うと、どこかほかのところで夜を明かして、今朝、またここに来ると考えた方がよさそうだった。

 芽衣は、その場でじっと待った。腕時計の針が七時を過ぎると、ちらほらと人が歩き始め、自分の前を通るたびに、芽衣は期待を込めて視線を向けた。
 あの人かも? あの人かも! 毎回そう期待しながら視線を向けるのに、その視線の先に、該当すると思われる人物は現れなかった。

(まだなの!?)

 そんな気持ちが、芽衣の中でぐるぐる回っていた。最初こそ余裕を持って見ていたものの、時間が押してくる。気づけば八時前で、登校時間のピークを迎えて、 緑色のプリーツスカートに白シャツにチェックの赤リボンの組み合わせといった──自分と同じ制服を着たほかの生徒たちが登校している姿が、芽衣の目に映った。
 芽衣はいらだちを覚えながら、腕時計を見た。
 学校の登校時間は八時二十分までだ。その時間を一分でも過ぎると、遅刻扱いになってしまう。
 距離的には目と鼻の先にあるものの、学校が坂の上にあるので、教室に着くまで最低でも八分はかかる。
(八時十分。もう限界!)
 芽衣は、誰もいなくなった通学路を見て、一気に走り出した。
 芽衣の学校は、規則が厳しい。
 遅刻すると、その理由をしつこく聞かれて、なにかと面倒なのだ。

 芽衣が走っていると、横を自転車でスーッと通り過ぎる男子がいた。
 背中にからったリュックは、チャックが開いており、中からペンケースが落ちたのが見えた。
「あの! 落ちましたよ!」
 芽衣が叫ぶと、自転車がキキキッとブレーキをかけて、止まった。
 自転車を運転していた彼が、ちょっとこちらを振り返る。
 黒い髪がさらっと揺れ、その冷たい瞳が、芽衣をとらえた。
 その瞬間、芽衣は呼び止めたことを後悔した。
 そこにいたのは、同じクラスメートの北川湊だった。

 芽衣は、湊のことが苦手だった。
 いや、芽衣のクラスメートなら、誰もが苦手の存在だ。
 中高一貫の芽衣の学校では、クラス替えがないことが有名で、クラスメート全員を下の名前で呼び合う習慣がある。
 もちろん北川湊も、その習慣にのっとれば、「湊」と呼ぶべきなのだろうが、「湊」と誰かが呼んでも、いつも不愛想な返事が返ってくるだけだ。
 成績はいつもトップなのに、授業をまじめに聞くそぶりはなく、いつも机の上に突っ伏して眠っている。先生の言うことを、きちんと聞いたこともない。それでも課題が出れば、誰よりも早く余裕でこなし、授業もふらっとやってきては受ける感じで、神出鬼没の存在だった。
 そんな湊を「ミステリアス」として気に入った女子が一人いた。彼女は勇気を振り絞って、教室で湊に告白したが──その場面を目撃したクラスメートたちは、湊の冷淡な返事に驚愕したらしい。
「……興味ない」
 湊が眉一つ動かさずに、無感情な声でそう言ったことは有名だ。
 しかも、告白した女子がショックで固まっていると、「悪いけど、そういうの面倒なんだよね」ととどめの一言を放ったらしく、その女子が泣きながら走り去った後も、湊は何事もなかったかのように席に戻り、本を開いて読み始めたというのだから、湊の冷徹さは徹底していた。
 そんなこともあって、誰もが湊と距離を置くようになった。湊に近づこうとする者はいなくなり、芽衣もまた、湊の無愛想さと冷たい態度が怖かった。

 湊は、容姿だけで言えば、決して悪い方じゃなく、むしろモデルのようだと芽衣は思っていた。
 スラリとした体型に長身の湊は、芽衣が見上げるほど背が高く、細身ながら肩幅も広く、さらに運動神経も抜群だった。
 まじめに生活すれば、先生からも、生徒からの評価も変わるのに──と芽衣は、ひそかに思っていた。
 湊は、いつも規則違反の制服を着ており、標準のシャツの代わりに紺色のTシャツを合わせていた。その上に羽織る緑色のブレザーは学校指定だが、そもそも湊は、学校の規則を破ることになんの抵抗もないようだった。今のこの時期、まだみんな夏服を着ているのに、湊だけは相変わらずのスタイルで、まるで湊だけが別の季節を生きているかのようだった。

 芽衣は、湊が笑っているところを見たことがなかった。
 湊の顔立ちは端正だが、どこか冷たさを感じさせ、その端正さよりも、自然と冷たいひとみに目がいった。
 教室で、お弁当を食べているところも、見たことがない。
 気づいたらそこにいて、気づいたらそこからいなくなっている。
 ただ同じクラスメートという共通点だけで、芽衣はどう接すればいいか、わからなかった。
 その湊が、今、自分の方へ歩いてきているのを見て、芽衣の心臓はどきどきと鳴った。
 湊の黒髪が、歩くたびに軽く揺れる。少し長めの前髪が、風に揺れて、湊の目にかかり視界をさえぎるのに、湊はそんなことを気にする様子もなく、芽衣の前までやって来ると、無表情で芽衣を見た。

「これ、ペンケースです」

 芽衣が緊張した面持ちでそう言って、拾ったペンケースを湊に渡すと、彼は無言で受け取った。
 芽衣は、何か言われるのかと思って、身構えた。
 瞬間、湊は一言、ぶっきらぼうにつぶやいた。

「……ああ、悪かったな」

 湊はそう言うと、くるっと芽衣に背を向けた。
 湊が口を開いたことは、芽衣にとっては意外だった。
 別にそのまま不愛想に受け取って立ち去っても不思議じゃないのに、たった一言でも、声をかけてきたことが、芽衣にとっては新鮮だった。

「ねえ、チャック! また落ちちゃうよ!」

 バッグにペンケースを入れて、そのまま自転車にまたがった湊を見て、芽衣は叫んだ。
 聞こえているはずなのに、振り返ろうともしない。
 湊は自転車をこぎながら、「気にするな」と言わんばかりに、軽く右手をあげた。

(何? やっぱり変わってる……)

 一人取り残された芽衣は、はっとした。
 周りにほかの生徒は、もう誰もいない。
 時計を見ると、もう八時十五分だった。

 芽衣は、坂を一気に駆け上った。
 こんなとき、坂の上にある自分の学校はうらめしい。
 どんなにがんばって走っても、オリンピック選手みたいに、新記録達成なんてなかなかできないものだ。

「鈴城、今朝は遅刻か。遅刻は自分だけの問題じゃない。クラスの秩序を乱す行動でもあるんだぞ。しっかりしてくださいよ」

 担任の富岡先生は、冷たい視線を芽衣に向けた。
 学年主任でもある富岡先生は、規律や調和を特に重んじる。
 富岡先生の口癖でもある「しっかりしてくださいよ」が出たときは、要注意。
 静かに、激しく怒っていることは、クラスの誰もが知っていることだった。

「で、今朝はどうして遅刻したんだ? 理由を聞こうか」
「家を早く出たんですけど……」
「早く出たなら、間に合うはずだろう?」
「それが、ちょっとネコが……」
「ネコ? まさか寄り道でもしたのか?」
「はい、あの……気になるネコがいて……」
「ネコだと?! 鈴城、あなたには通学が最優先だろう! もう少し考えて行動しなさい」
 富岡先生は、きちんと締めたネクタイを軽く整えながら、小さくため息をついた。
 どんなに暑い日でも、富岡先生は、ネクタイを外さない。
 それだけに、富岡先生の一言、一言は、ずしりと芽衣の心に響いた。

 芽衣は、湊の席に目をやったが、彼はまだ来ていない。
(もう湊くん、どこに行ったのよ……)

 そのとき、教室のドアががらっと開き、湊が悪びれた様子もなく入ってきた。

「北川、またおまえか……」
「購買部で、今日の昼の弁当、買ってきました。今日は午後の授業、受けます」
「午後の授業を受けるのは当たり前だ。何を言っているんだ? まったく、しっかりしてくれよ」
 富岡先生は、きっちりした身なりが崩れないよう、厳しい口調で注意を続けた。

 芽衣はちらっと湊を横目で見ながら、内心でつぶやいた。
 
(もう勘弁してよ……)
 
 少しくらい反省しているそぶりを見せてくれればいいものの、何事もなかったかのように自分の席についた湊を見て、富岡先生の怒りはマックスになった。

「鈴城!」
「はい! はい、はい! 私はちゃんと聞いてます!」
「”はい”は、一回でいい!」
「はい!」

 芽衣は泣きそうになりながら、ひたすら謝るのだった。

 そんなこともあって、午前中は、いつもより早く時間が過ぎ去った気がした。
 昼休みになり、芽衣は「やれやれ」と自分の肩を左こぶしでたたくと、教室を出た。
「あれ? 芽衣、お昼、食べないの?」
 クラスメートの誰かが声をかけてきて、「いらない」と芽衣が答えると、「そっかー」と短く声が聞こえただけで、その直後、きゃぴきゃぴとした楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
 自分がそこにいても、いなくても、世界はなにも変わらないような虚無感を覚えながら、芽衣は学校の中庭に出た。
 中学、高校の校舎に囲まれた中庭があって、そこにいくつかベンチも用意されている。
 時折そこで昼食をとる生徒もいるけれど、芽衣は今日はただゆっくりと歩きたいだけだった。

 すると、誰かが、ベンチに横たわって、スマホをいじっている姿が見えた。
 食べたパンの袋の上にペットボトルを置いて、彼はそこにいた。
(またあいつ……、北川湊……)
 芽衣は、胸がざわざわした。
 いまさら来た道を戻るのは不自然で、できるだけ自然に通り過ぎようと思い、唇を噛みしめた。

「鈴城」
 不意に呼び止められた。
「えっ!?」
 声のした方向を見ると、湊がベンチに横たわったまま、スマホを片手に芽衣を見ていた。
 教師以外で苗字を呼ばれたのは久しぶりで、そもそも湊がクラスメートの苗字を知っていることが、芽衣にとって大きな驚きだった。
「こんな時間に、どうした? 昼飯は?」
 まるで昼は、そこが自分の定位置かのように、湊は芽衣に話しかけてきた。
「今朝のことなら、気にするなよ。あの先生、怒ると、いつもああなんだ」
 芽衣が黙っていると、湊は続けた。
「明日になれば、鈴城に対しては、もう普通になってるよ」
 湊はそう言うと、またスマホを見て、スマホをいじりだした。
 別に今朝のことを引きづっているわけじゃない、と芽衣は思った。
 それより気になるのは、湊の持っているスマホだった。
「ねえ、やめなよ。校内でスマホ、禁止だよ」
「だから?」
「見つかったら、またうるさく言われちゃうし」
 芽衣がそう言うと、湊は上体を起こして、「ふうん?」とまっすぐに芽衣を見つめた。
「鈴城は、自分の気になること、ないんだ?」
 湊がそう言いながら少しほほえんで、芽衣はその言葉にどきっとした。
「え? 何のこと……」
「別に。誰かのブログでも見てるんじゃないかって思ってさ」
「……!」
 一瞬、芽衣の鼓動が速くなった。
 まるで芽衣の心の中を、湊から見透かされているようだった。
(どうして私がブログを読んでること、知ってるの? まさか、湊が、ブログの主……?)
 秋の風が、ざわざわと中庭の木々を揺らした。
 そのざわめきが、芽衣の心の中にも広がっていくようで、芽衣は食い入るように湊を見た。
 その瞬間、風がひゅうっと吹き、ベンチの上に置かれたペットボトルが倒れ、その拍子に下に敷いてあったパンの袋がふわっと舞い上がった。
「おっと」
 湊は素早く反応し、手を伸ばして、飛んでいきそうな袋をキャッチすると、軽くため息をついた後、中庭の隅にあるゴミ箱に捨てた。
 芽衣は、湊といると、どうも調子が狂った。
(パンの袋なんて、片足で踏みつぶしそうなのに……)
 芽衣がじっと見ていると、湊はちょっとだけ芽衣の方を振り返った。
「その場所、譲るよ」
「え?」
「鈴城も、持ってるんだろ、スマホ」
「ねえ、どこ行くの!?」
「そこ、いい場所だよ。職員室からはちょうど死角になってるし」
「ちょっと! 人の話、聞いてる!?」
「そこなら、バレないだろ。何かしたいこと、あるんじゃないの?」
 そんなふうに挑発的に言われて、芽衣は返答に困った。

 湊に言われるがまま、ブログをチェックするのは、なんだかしゃくだった。
 けれど、もし湊がブログの主なら──、これを接点に、なにかわかるかもしれない。
 そう思うと芽衣は、アクセスすることへの迷いが消えていく気がした。
「更新されてる……」
 芽衣は、食い入るように画面を見つけた。
 更新時間は、ついさっき、十分前だ。

 ──このブログ、知り合いに見つかったかもしれない。だとしたら、ここ、閉鎖するかな。

 芽衣は背筋がぞくっとした。
 やっとできたと思った唯一の接点だ。

「湊くん!」

 芽衣は、先ほど湊が行った方へと走っていき、湊の姿を探した。
 
「湊くん、どこ!?  湊くん!」

「やっぱり、鈴城、君だったのか」

 中庭にある大きな樹の下で、湊はその木にもたれかかるようにして、立っていた。

「今朝、君がずっとあの場所にいるから、おかしいと思ったんだ」
「あの場所って……、湊くん、見てたの?」
「ああ」
「どうして? いたのなら、声かけてくれても、よかったじゃない!」
 そう言うと、湊はふっと笑った。
「なあ、鈴城」
 湊はそこで一呼吸置くと、じっと芽衣を見つめた。
「君も家が消えたのか?」
 確信をつかれて、芽衣は動揺した。

「君もって……、じゃあ、やっぱり湊くんも?」
「ああ、こつぜんとね。家が消えたんだよ」

 湊は、腕組みすると、ぽつりと吐き捨てるように言った。

「まあ……、消えたって言っても、正直、そんなに困るような家じゃなかったけどね」

 芽衣は、湊が一瞬見せた寂しそうな横顔をじっと見つめたが、それ以上何も言えなかった。
 湊の言葉が胸に残り、何かを聞きたい気持ちが湧き上がってくるが、ためらってしまう。

(湊くんも、家族に何かあるの……?)

 芽衣は、風に舞う落ち葉をつかんで、湊の言葉が聞こえなかったフリをした。

「あ、ごめん、なんだっけ?」  

 芽衣が気をそらすようにそう言うと、湊は目を細め、少し笑った。

「それで、鈴城の家も消えたのか?」

「私は……、引っ越したはずのマンションがなくなってて、昔住んでたマンションに戻ったんだ」

「へえ、昔の家か……。それはそれで、ラッキーだったんじゃないの? ちゃんと帰れる場所があったわけだし」

「そうかもしれないけど……。湊くんは?」

「……あんまり話したくないんだけどさ、仕方ないよな、状況が状況だし」

 言い終えた湊の目が一瞬、遠くを見るような感じで、芽衣は言葉を失った。
 ためらいがちなその物言いに、簡単に触れてはいけないような湊の過去がある気がした。
「昔の家、戻ったんだけどさ、やっぱり落ち着かなくて」
「昔の家って、湊くんも、引っ越したの?」
「……まあね。親が離婚したから」

 湊がつぶやいた瞬間、風が強まり、周囲の木々がざわめき始めた。
 その音が、芽衣の耳に深く響いて、芽衣がどう言葉にすればいいか分からずにいると、湊はぽつりと話を続けた。

「そんな顔するなよ。両親が離婚したのは、俺が小学生の頃だし、久しぶりに昔の母親にも会えたわけだし」
「それで……、お母さんの反応はどうだった?」
「予想通りかな。『あなたの帰る場所はここじゃない』ってきっぱり言われた」

 その言葉に、芽衣の心の中もざわざわと揺れ動いた。

「湊くん……、今の家は?」
「まあ、一応、母親はいるけどね」

 その物言いは、決してじゅうぶんに愛されているとは言えない孤独な感情が込められていた。
 ひょうひょうと言い放つ湊は、すべての現実をもう受け止めていて、自分の中で消化しているようだった。
 誰にも求められないから、自分からも求めない。
 今朝、芽衣を見て、自分から声をかけなかったのも、試すようなブログの書き方をして、ブログを見ているのが芽衣かどうかを確認したのも、湊の複雑な家庭環境が彼をそうさせているようだった。
 気づいたら、芽衣のほほに、一筋の涙がこぼれ落ちていた。
 
「鈴城、なんで君が泣くんだよ?」
「あ、ごめん。泣いたつもりじゃなかったのに。あれ、なんでだろ」
「泣くなよ。俺の話なんかでさ」

 芽衣は自分でもその気持ちがわからずに、ポケットからハンカチを取り出して、涙を拭った。
 誰にも言えず、長く内に秘めていた湊の思いを聞いて、言葉より先に涙が流れていた。