湊の手が、芽衣の背中をゆっくりと滑りながら、もう片方の指先は彼女の髪をそっとすくい上げた。
「柔らかい髪だな……。それに、肩も、背中も、こんなに小さくて……」
湊の言葉に、芽衣は静かにほほえんだ。湊の指先が自分の肌に触れるたびに、体が熱くなっていく。
「もっと……触れて。もっと、湊くんを感じたい……」
芽衣の声は、少し震えていた。
けれどその震えは恐怖ではなく、心地よい緊張感と温もりだった。
「寒くない?」
湊はそう言いながら、芽衣の肩に静かに手をかけた。
「少し暑いくらい……」
湊が芽衣の肩に触れた瞬間、芽衣はゆっくりとブレザーを肩から滑らせ、ブラウスだけの状態になった。芽衣の指が、整えられた赤いリボンに伸びる。芽衣は、少し緊張した指先でそれを軽くつまみ、カチリと留め具を外すと、そっと床に落とした。襟元のボタンを一つ外すと、芽衣は再び湊を見上げ、全身で彼の視線を感じた。
湊は芽衣のその動作をじっと見つめ、少し息を吸い込んで、口を開いた。
「俺たち、無我夢中で、生きようとしてたよな……」
「うん……」
「生き方なんて分からずに、やってくる明日にいつも翻弄されてた」
湊はふと軽く息を吐き、「俺も少し暑いな……」と呟くと、ゆっくりと自分のブレザーを脱いで床に放った。
「俺、ずっと思ってたんだ。自分が痛みに鈍感になれば……、生きていけるって。何も感じなければ、これ以上傷つくことはないんだなって」
「湊くん……」
「俺は、今の自分が好きだよ。痛みも苦しみも寂しさも知ったからこそ……、鈴城の心の深さを知って、その優しさに触れられたから」
湊の優しい声に、芽衣は包まれていた。湊の手がそっと芽衣の背中をなでるたびに、心も体も温かさに包まれていく。気がつけば、芽衣は無意識にブラウスのボタンを一つずつ外し、指先が最後のボタンに触れる頃には、芽衣の心は穏やかな温もりと愛情がいっぱいに広がっていた。
「なあ、鈴城……。人ってさ、明日死ぬことが分かっていたら、今を幸せに生きられるのかな」
「分からないよ。私だって一回、自分の人生終わらせようとしたし……」
「ああ。あれね……」
湊は、芽衣が飛び降り自殺を図ろうとしたことをあえてぼかして答えると、ふっと笑った。
「よかったよ。あのとき、鈴城の人生、終わってなくて」
「……でも、結局は……、一緒だったのかな。生きようとがんばったのに、死んじゃった」
「全然違うよ。誰かを愛そうと思って、愛する人がいないよりずっと……」
湊は、芽衣の動きを静かに見守りながら、自然と手を動かしていた。Tシャツの襟元に指先が触れた瞬間、芽衣とふと目が合い、湊は芽衣の視線を感じながら、一瞬ためらったように動きを止めた。
けれど、芽衣が小さくうなずいたのを見て、湊はゆっくりとTシャツを頭から引き抜いた。引き締まった肩、胸、汗で少しだけ光る肌──芽衣の視線は、湊の体に引き寄せられるように止まった。湊はそのままTシャツをテーブルの上にそっと置くと、湊は芽衣を穏やかに見つめた。まるで重荷が取れたように、湊の体は軽く感じられた。
二人は言葉を交わすことなく、ただ見つめ合っていた。
──きっとこれが最後の夜になる。それがもう二人には、分かっていた。
湊は芽衣の優しい瞳に引き込まれるように、そっとその手を取り、そのまま引き寄せた。
「……湊くんが、近いな」
「もっと近くまでいこうか?」
湊は芽衣の髪に指を通すと、その小さな肩をそっと支えながら、ゆっくりと芽衣をリビングのテーブルへと導き、静かに押し倒した。
芽衣は自然とその手に導かれるようにして、湊に体を預けた。芽衣は湊が着ていた紺色のTシャツにふと意識を向けた。湊の匂いが鼻をくすぐり、心が安らぐ。
けれど、その瞬間、湊が低い声でささやいた。
「鈴城……、俺を見て」
芽衣は湊の言葉に驚いて、一瞬戸惑ったように視線をそらした。
「え?」
その瞬間、湊は芽衣の小さな顎にそっと手を添え、優しく持ち上げた。湊の指先の温もりが、芽衣の肌に伝わり、芽衣は全身で湊を感じた。
「そこにあるのは、俺のシャツ……。俺は、ここだから」
湊の瞳は深く、まるで芽衣の心の奥底を見透かすようだった。湊の指先がゆっくりと芽衣の足先まで滑り、もう片方の指先が床に落ちていたリボンをそっと拾い上げる。湊はそのまま静かに指先を芽衣の体に沿わせながら、再びテーブルの上へと戻ると、自分のTシャツの上にリボンを重ねた。
湊は芽衣の体をさらに優しく引き寄せながら、静かにささやいた。
「鈴城、俺たち……、これでずっと一緒だよ」
「あ……」
芽衣の背中がテーブルに触れた瞬間、芽衣は柔らかい息を漏らし、湊を見上げた。
二人の距離がぐっと近くなって、湊は静かに芽衣に尋ねた。
「怖い?」
「ううん……」
「でも、震えてるよ?」
「……寒いから」
「さっきは、”暑い”って言ってたよね?」
芽衣は湊の言葉に困ったように笑い、真っ赤になりながら、少し視線をそらした。
すると、湊はふっと笑みを浮かべて、少しからかうように言った。
「……仕方ないだろ。そんなかわいい顔されると、ついいじめたくなる」
芽衣が驚いて顔を上げると、湊はその表情を見て、優しくはにかんだ。
「ごめん、俺もちょっと余裕なくてさ。いじわるしちゃった……」
湊の言葉に、芽衣は安心したようにほほえんだ。
(なんだ、緊張してるの……、私だけじゃなかったんだ……)
見つめ合っていると、まるで湊の鼓動も、芽衣の耳に届くような気がした。
湊の指先が、芽衣の髪に触れ、頬に触れ……、形のいいその唇に触れる。そのたびに、芽衣の体がかすかに震え、芽衣は熱い吐息を漏らした。
「……大丈夫? やめる?」
「やめないで。もうこれ以上、いじわるしないでよ……」
「ごめん」
湊はそう言うと、優しく芽衣のひたいにそっと唇を押し当てて、そっと耳元でささやいた。
「俺たち、永遠にこうしていられるんだ。触れ合っていよう、ずっと……」
次の瞬間、二人の視線が絡み合い、お互いの唇が触れ合いそうになった。
(この時間が永遠に続いてほしい──)
芽衣の心の叫びが頂点に達したとき、芽衣は近づいてくる湊の唇を気配で感じながら、目を閉じた。
二人が同時に死んだのは偶然だった。
けれど、芽衣には一つの確信があった。それはただの偶然ではないということ──。
「なあ、鈴城。俺たちは、きっと……、結ばれる運命だったんだよ」
その言葉が湊の口から漏れた瞬間、芽衣の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。湊と同じ思いだったことがただ嬉しくて、湊と共に生きた証を、芽衣の全身が、この触れ合いで感じていた。
湊は、芽衣の唇にそっと自分の唇を当てた。しだいにその感触が強くなっていく。優しく、穏やかに、そして深く──。
(湊くん……)
二人は時間が止まったかのように、初めてのキスを交わした。心の中でお互いを強く求め、お互いの名前を呼び、触れ合い続けた。
「俺たち、きっとさ……、あの事故がなくても、どこかでこうして求め合ってたよ」
「ふふっ、分からないよ。湊くん、あんまり学校に来ていなかったし」
「そのときは、外の世界へ鈴城を探しに行って……、やっぱり何かがきっかけで出会っていたさ」
「湊くんったら……、どこまで私を探しに行くつもりよ」
「ん? 地球の裏側まで」
その瞬間、湊のその愛情の深さに、芽衣は言葉を失った。
「……好きだよ、鈴城……」
その告白に、芽衣の全身は震えて、かあっと熱くなった。それは、初めて湊から受ける愛の告白だった。
芽衣は、声を出そうとしたが、うまく言えずに湊をじっと見つめた。
「鈴城も言って……」
芽衣は恥ずかしそうに視線を下げると、小さく「私も好き……」とつぶやいた。
「もっと強く……」
湊の声に促されて、芽衣は今度は湊の目をしっかりと見つめ、少し震えながらも、はっきりと言った。
「好きよ、湊くん」
「足りないよ、鈴城」
「大好き……」
「ん……、俺も」
「湊くんだって……。そんなんじゃ足りないよ」
「……これなら伝わる?」
二人の心が一つになった瞬間、湊は芽衣に深く口づけた。
先ほどのキスよりも少しだけ情熱的に、けれど、その根底には優しさと愛にあふれていた。
「湊くん、私ね……、湊くんがそばにいるだけで、何も怖くなくなったよ」
「……俺もだよ」
「いつかこの世界から、私たちは忘れられていくんだね……」
ふいに芽衣が思い出したように言った。
唇に宿る幸せな感触と、忘れられていく悲しみの中で、芽衣は湊を見つめた。
「俺たちが生きた証なら……。ずっと残るんだよ、鈴城」
芽衣は驚いて湊を見上げた。
「何?」
「ブログだよ。俺がずっと書いてたあのブログ……。あれが、”俺たち”が生きた証だ」
瞬間、芽衣の目が、再びうるんだ。
「そうだね……。あれが、残るんだね」
「そう、だからもう何も心配しなくていい。俺がずっと……、そばにいるから」
湊が少しだけ強く唇を芽衣に重ねた瞬間、芽衣は背中に伝わるテーブルの硬さを再び意識した。
けれど、それ以上に湊の温もりが全身を包み込み、湊の体温をもっと近くに感じたいという衝動に駆られ、芽衣はゆっくりと両腕を持ち上げ、湊の首にそっとからめた。
「湊くん……」
それでも、芽衣は消えていく自分たちを思うと、涙が止まらなかった。
せっかく強がって「湊くんがそばにいるだけで、何も怖くなくなったよ」とやっとの思いで言えたのに──最後くらい湊を安心させたいと思うのに、言葉だけは強がって、気持ちが全然ついていかない。
湊の名前を呼びながら、芽衣はさらに湊を引き寄せるように、腕に少し力を込めた。その仕草は、まるで二人の距離を縮めたいという芽衣の心の叫びを表しているかのようだった。
(私たちのこの想いを、何か形にできればいいのに──……)
「湊くん、あれ……見て」
芽衣は片方の腕を湊から外し、ゆっくりと赤いリボンに手を伸ばすと、そっと握りしめた。
「湊くん、これ……、くわえてみて」
湊は、芽衣の突然の提案に戸惑いながらも、差し出されたリボンを口にくわえた。湊が不思議そうに見つめていると、芽衣はテーブルの上にあったハサミを手に取り、リボンを一本のひも状に切った。
パサッと、切り取られたリボンの端が胸の鎖骨付近に落ちる──。
湊は、芽衣の予期せぬ行動に一瞬息を呑んだ。
「鈴城……?」
驚く湊を見つめながら、芽衣は涙をこらえながら小さくほほえんだ。
「これじゃダメ? こんな指輪じゃ……、湊くん……、してくれない?」
芽衣が鎖骨に落ちたリボンを湊の薬指に巻こうとすると、その指先に湊の涙がぽとりと落ちた。
「ダメだよ、湊くん。滑って……、うまく結べなくなっちゃう……」
「……大丈夫。責任とるよ」
そう言うと、湊は芽衣を抱きしめ、空いたもう片方の指先と自分の唇を使いながら、自分の薬指と芽衣の薬指に赤いリボンを巻きつけていった。芽衣が初めて自分から動き、気持ちをまっすぐに伝えてくれたことがただ嬉しくて、湊はただ夢中で唇と指を動かし続けた。
二人はもう、何も持っていなかった。
けれど、二人はもう──……何もいらなかった。
嫉妬、悲しみ、怒り、寂しさ……、すべてがゆっくりと消えていく。
永遠にほどけない”二人の赤い糸”が結ばされて、二人は最後に見つめ合い、静かにほほえんだ。
「これで……、永遠に一緒だね」
芽衣はそう言うと、静かに目を閉じた。
湊は最後までその姿をじっと見つめ、ややあって、芽衣の後を追うように、ゆっくりと目を閉じた。
それでも二人の間には、感じていた温もりがまだ残っていた。触れ合うたびに、お互いの息も、体温も感じる──。
けれど、その温もりが少しずつ遠のいていくことに、芽衣は気づき始めていた。
「湊くん……」
芽衣はささやくように湊の名前を呼んだが、もうその声が届かないような気がして、心が締め付けられるように痛んだ。
「もう、離れないよ……」
湊の言葉が、いつもよりも優しく、けれど遠く感じた。
お互いの手に伝わるはずの温もりさえ、どこか淡く感じられて、それでも二人はただお互いを求め続けた。
世界から、愛した人の声が、温もりが消えていく……。
触れ合う指先の感覚を失っても、二人は指先を絡め合い、体を重ね合わせ続けた。
冷たくなっていく湊の唇が、最後に優しくそっと芽衣の唇に触れた。
その瞬間、芽衣の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、湊と生きた証であり、二人が最後に一緒にいた証だった。
「鈴城……。俺が見える?」
目を閉じたまま、湊は尋ねた。
芽衣はかすかに目を開けたものの、視界は閉ざされて、もう何も見えなかった。
芽衣は心の目で湊を見つめた。
「見えるよ、湊くん。優しい目だね……」
芽衣がそう言うと、湊も最後にふっと目を開けた。
「ああ、鈴城の目も……。こんなにもはっきり見える……。俺が大好きな目だな」
湊の視界ももはや暗闇の中にあり、閉ざされた世界で、湊は答えた。
『鈴城のその髪、目、柔らかい肌、全部好きだよ……』
心の目で、湊は芽衣を見つめ続け、力のなくなった両腕で芽衣を精一杯抱きしめた。
「湊くん、温かいね……」
冷たくなってしまった湊の胸に、芽衣は手を当てた。
「鈴城も、温かいよ……」
氷のような二人の体は、永遠に溶けることなく、魂だけがそこで激しく呼応した。
──忘れないで。ずっと、大好きだよ……。
二人の思いが、どこか遠くの空でこだまする。
九月の雨がしとしとと降り、静かに二人の時間を包み込んでいくのだった。
「柔らかい髪だな……。それに、肩も、背中も、こんなに小さくて……」
湊の言葉に、芽衣は静かにほほえんだ。湊の指先が自分の肌に触れるたびに、体が熱くなっていく。
「もっと……触れて。もっと、湊くんを感じたい……」
芽衣の声は、少し震えていた。
けれどその震えは恐怖ではなく、心地よい緊張感と温もりだった。
「寒くない?」
湊はそう言いながら、芽衣の肩に静かに手をかけた。
「少し暑いくらい……」
湊が芽衣の肩に触れた瞬間、芽衣はゆっくりとブレザーを肩から滑らせ、ブラウスだけの状態になった。芽衣の指が、整えられた赤いリボンに伸びる。芽衣は、少し緊張した指先でそれを軽くつまみ、カチリと留め具を外すと、そっと床に落とした。襟元のボタンを一つ外すと、芽衣は再び湊を見上げ、全身で彼の視線を感じた。
湊は芽衣のその動作をじっと見つめ、少し息を吸い込んで、口を開いた。
「俺たち、無我夢中で、生きようとしてたよな……」
「うん……」
「生き方なんて分からずに、やってくる明日にいつも翻弄されてた」
湊はふと軽く息を吐き、「俺も少し暑いな……」と呟くと、ゆっくりと自分のブレザーを脱いで床に放った。
「俺、ずっと思ってたんだ。自分が痛みに鈍感になれば……、生きていけるって。何も感じなければ、これ以上傷つくことはないんだなって」
「湊くん……」
「俺は、今の自分が好きだよ。痛みも苦しみも寂しさも知ったからこそ……、鈴城の心の深さを知って、その優しさに触れられたから」
湊の優しい声に、芽衣は包まれていた。湊の手がそっと芽衣の背中をなでるたびに、心も体も温かさに包まれていく。気がつけば、芽衣は無意識にブラウスのボタンを一つずつ外し、指先が最後のボタンに触れる頃には、芽衣の心は穏やかな温もりと愛情がいっぱいに広がっていた。
「なあ、鈴城……。人ってさ、明日死ぬことが分かっていたら、今を幸せに生きられるのかな」
「分からないよ。私だって一回、自分の人生終わらせようとしたし……」
「ああ。あれね……」
湊は、芽衣が飛び降り自殺を図ろうとしたことをあえてぼかして答えると、ふっと笑った。
「よかったよ。あのとき、鈴城の人生、終わってなくて」
「……でも、結局は……、一緒だったのかな。生きようとがんばったのに、死んじゃった」
「全然違うよ。誰かを愛そうと思って、愛する人がいないよりずっと……」
湊は、芽衣の動きを静かに見守りながら、自然と手を動かしていた。Tシャツの襟元に指先が触れた瞬間、芽衣とふと目が合い、湊は芽衣の視線を感じながら、一瞬ためらったように動きを止めた。
けれど、芽衣が小さくうなずいたのを見て、湊はゆっくりとTシャツを頭から引き抜いた。引き締まった肩、胸、汗で少しだけ光る肌──芽衣の視線は、湊の体に引き寄せられるように止まった。湊はそのままTシャツをテーブルの上にそっと置くと、湊は芽衣を穏やかに見つめた。まるで重荷が取れたように、湊の体は軽く感じられた。
二人は言葉を交わすことなく、ただ見つめ合っていた。
──きっとこれが最後の夜になる。それがもう二人には、分かっていた。
湊は芽衣の優しい瞳に引き込まれるように、そっとその手を取り、そのまま引き寄せた。
「……湊くんが、近いな」
「もっと近くまでいこうか?」
湊は芽衣の髪に指を通すと、その小さな肩をそっと支えながら、ゆっくりと芽衣をリビングのテーブルへと導き、静かに押し倒した。
芽衣は自然とその手に導かれるようにして、湊に体を預けた。芽衣は湊が着ていた紺色のTシャツにふと意識を向けた。湊の匂いが鼻をくすぐり、心が安らぐ。
けれど、その瞬間、湊が低い声でささやいた。
「鈴城……、俺を見て」
芽衣は湊の言葉に驚いて、一瞬戸惑ったように視線をそらした。
「え?」
その瞬間、湊は芽衣の小さな顎にそっと手を添え、優しく持ち上げた。湊の指先の温もりが、芽衣の肌に伝わり、芽衣は全身で湊を感じた。
「そこにあるのは、俺のシャツ……。俺は、ここだから」
湊の瞳は深く、まるで芽衣の心の奥底を見透かすようだった。湊の指先がゆっくりと芽衣の足先まで滑り、もう片方の指先が床に落ちていたリボンをそっと拾い上げる。湊はそのまま静かに指先を芽衣の体に沿わせながら、再びテーブルの上へと戻ると、自分のTシャツの上にリボンを重ねた。
湊は芽衣の体をさらに優しく引き寄せながら、静かにささやいた。
「鈴城、俺たち……、これでずっと一緒だよ」
「あ……」
芽衣の背中がテーブルに触れた瞬間、芽衣は柔らかい息を漏らし、湊を見上げた。
二人の距離がぐっと近くなって、湊は静かに芽衣に尋ねた。
「怖い?」
「ううん……」
「でも、震えてるよ?」
「……寒いから」
「さっきは、”暑い”って言ってたよね?」
芽衣は湊の言葉に困ったように笑い、真っ赤になりながら、少し視線をそらした。
すると、湊はふっと笑みを浮かべて、少しからかうように言った。
「……仕方ないだろ。そんなかわいい顔されると、ついいじめたくなる」
芽衣が驚いて顔を上げると、湊はその表情を見て、優しくはにかんだ。
「ごめん、俺もちょっと余裕なくてさ。いじわるしちゃった……」
湊の言葉に、芽衣は安心したようにほほえんだ。
(なんだ、緊張してるの……、私だけじゃなかったんだ……)
見つめ合っていると、まるで湊の鼓動も、芽衣の耳に届くような気がした。
湊の指先が、芽衣の髪に触れ、頬に触れ……、形のいいその唇に触れる。そのたびに、芽衣の体がかすかに震え、芽衣は熱い吐息を漏らした。
「……大丈夫? やめる?」
「やめないで。もうこれ以上、いじわるしないでよ……」
「ごめん」
湊はそう言うと、優しく芽衣のひたいにそっと唇を押し当てて、そっと耳元でささやいた。
「俺たち、永遠にこうしていられるんだ。触れ合っていよう、ずっと……」
次の瞬間、二人の視線が絡み合い、お互いの唇が触れ合いそうになった。
(この時間が永遠に続いてほしい──)
芽衣の心の叫びが頂点に達したとき、芽衣は近づいてくる湊の唇を気配で感じながら、目を閉じた。
二人が同時に死んだのは偶然だった。
けれど、芽衣には一つの確信があった。それはただの偶然ではないということ──。
「なあ、鈴城。俺たちは、きっと……、結ばれる運命だったんだよ」
その言葉が湊の口から漏れた瞬間、芽衣の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。湊と同じ思いだったことがただ嬉しくて、湊と共に生きた証を、芽衣の全身が、この触れ合いで感じていた。
湊は、芽衣の唇にそっと自分の唇を当てた。しだいにその感触が強くなっていく。優しく、穏やかに、そして深く──。
(湊くん……)
二人は時間が止まったかのように、初めてのキスを交わした。心の中でお互いを強く求め、お互いの名前を呼び、触れ合い続けた。
「俺たち、きっとさ……、あの事故がなくても、どこかでこうして求め合ってたよ」
「ふふっ、分からないよ。湊くん、あんまり学校に来ていなかったし」
「そのときは、外の世界へ鈴城を探しに行って……、やっぱり何かがきっかけで出会っていたさ」
「湊くんったら……、どこまで私を探しに行くつもりよ」
「ん? 地球の裏側まで」
その瞬間、湊のその愛情の深さに、芽衣は言葉を失った。
「……好きだよ、鈴城……」
その告白に、芽衣の全身は震えて、かあっと熱くなった。それは、初めて湊から受ける愛の告白だった。
芽衣は、声を出そうとしたが、うまく言えずに湊をじっと見つめた。
「鈴城も言って……」
芽衣は恥ずかしそうに視線を下げると、小さく「私も好き……」とつぶやいた。
「もっと強く……」
湊の声に促されて、芽衣は今度は湊の目をしっかりと見つめ、少し震えながらも、はっきりと言った。
「好きよ、湊くん」
「足りないよ、鈴城」
「大好き……」
「ん……、俺も」
「湊くんだって……。そんなんじゃ足りないよ」
「……これなら伝わる?」
二人の心が一つになった瞬間、湊は芽衣に深く口づけた。
先ほどのキスよりも少しだけ情熱的に、けれど、その根底には優しさと愛にあふれていた。
「湊くん、私ね……、湊くんがそばにいるだけで、何も怖くなくなったよ」
「……俺もだよ」
「いつかこの世界から、私たちは忘れられていくんだね……」
ふいに芽衣が思い出したように言った。
唇に宿る幸せな感触と、忘れられていく悲しみの中で、芽衣は湊を見つめた。
「俺たちが生きた証なら……。ずっと残るんだよ、鈴城」
芽衣は驚いて湊を見上げた。
「何?」
「ブログだよ。俺がずっと書いてたあのブログ……。あれが、”俺たち”が生きた証だ」
瞬間、芽衣の目が、再びうるんだ。
「そうだね……。あれが、残るんだね」
「そう、だからもう何も心配しなくていい。俺がずっと……、そばにいるから」
湊が少しだけ強く唇を芽衣に重ねた瞬間、芽衣は背中に伝わるテーブルの硬さを再び意識した。
けれど、それ以上に湊の温もりが全身を包み込み、湊の体温をもっと近くに感じたいという衝動に駆られ、芽衣はゆっくりと両腕を持ち上げ、湊の首にそっとからめた。
「湊くん……」
それでも、芽衣は消えていく自分たちを思うと、涙が止まらなかった。
せっかく強がって「湊くんがそばにいるだけで、何も怖くなくなったよ」とやっとの思いで言えたのに──最後くらい湊を安心させたいと思うのに、言葉だけは強がって、気持ちが全然ついていかない。
湊の名前を呼びながら、芽衣はさらに湊を引き寄せるように、腕に少し力を込めた。その仕草は、まるで二人の距離を縮めたいという芽衣の心の叫びを表しているかのようだった。
(私たちのこの想いを、何か形にできればいいのに──……)
「湊くん、あれ……見て」
芽衣は片方の腕を湊から外し、ゆっくりと赤いリボンに手を伸ばすと、そっと握りしめた。
「湊くん、これ……、くわえてみて」
湊は、芽衣の突然の提案に戸惑いながらも、差し出されたリボンを口にくわえた。湊が不思議そうに見つめていると、芽衣はテーブルの上にあったハサミを手に取り、リボンを一本のひも状に切った。
パサッと、切り取られたリボンの端が胸の鎖骨付近に落ちる──。
湊は、芽衣の予期せぬ行動に一瞬息を呑んだ。
「鈴城……?」
驚く湊を見つめながら、芽衣は涙をこらえながら小さくほほえんだ。
「これじゃダメ? こんな指輪じゃ……、湊くん……、してくれない?」
芽衣が鎖骨に落ちたリボンを湊の薬指に巻こうとすると、その指先に湊の涙がぽとりと落ちた。
「ダメだよ、湊くん。滑って……、うまく結べなくなっちゃう……」
「……大丈夫。責任とるよ」
そう言うと、湊は芽衣を抱きしめ、空いたもう片方の指先と自分の唇を使いながら、自分の薬指と芽衣の薬指に赤いリボンを巻きつけていった。芽衣が初めて自分から動き、気持ちをまっすぐに伝えてくれたことがただ嬉しくて、湊はただ夢中で唇と指を動かし続けた。
二人はもう、何も持っていなかった。
けれど、二人はもう──……何もいらなかった。
嫉妬、悲しみ、怒り、寂しさ……、すべてがゆっくりと消えていく。
永遠にほどけない”二人の赤い糸”が結ばされて、二人は最後に見つめ合い、静かにほほえんだ。
「これで……、永遠に一緒だね」
芽衣はそう言うと、静かに目を閉じた。
湊は最後までその姿をじっと見つめ、ややあって、芽衣の後を追うように、ゆっくりと目を閉じた。
それでも二人の間には、感じていた温もりがまだ残っていた。触れ合うたびに、お互いの息も、体温も感じる──。
けれど、その温もりが少しずつ遠のいていくことに、芽衣は気づき始めていた。
「湊くん……」
芽衣はささやくように湊の名前を呼んだが、もうその声が届かないような気がして、心が締め付けられるように痛んだ。
「もう、離れないよ……」
湊の言葉が、いつもよりも優しく、けれど遠く感じた。
お互いの手に伝わるはずの温もりさえ、どこか淡く感じられて、それでも二人はただお互いを求め続けた。
世界から、愛した人の声が、温もりが消えていく……。
触れ合う指先の感覚を失っても、二人は指先を絡め合い、体を重ね合わせ続けた。
冷たくなっていく湊の唇が、最後に優しくそっと芽衣の唇に触れた。
その瞬間、芽衣の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、湊と生きた証であり、二人が最後に一緒にいた証だった。
「鈴城……。俺が見える?」
目を閉じたまま、湊は尋ねた。
芽衣はかすかに目を開けたものの、視界は閉ざされて、もう何も見えなかった。
芽衣は心の目で湊を見つめた。
「見えるよ、湊くん。優しい目だね……」
芽衣がそう言うと、湊も最後にふっと目を開けた。
「ああ、鈴城の目も……。こんなにもはっきり見える……。俺が大好きな目だな」
湊の視界ももはや暗闇の中にあり、閉ざされた世界で、湊は答えた。
『鈴城のその髪、目、柔らかい肌、全部好きだよ……』
心の目で、湊は芽衣を見つめ続け、力のなくなった両腕で芽衣を精一杯抱きしめた。
「湊くん、温かいね……」
冷たくなってしまった湊の胸に、芽衣は手を当てた。
「鈴城も、温かいよ……」
氷のような二人の体は、永遠に溶けることなく、魂だけがそこで激しく呼応した。
──忘れないで。ずっと、大好きだよ……。
二人の思いが、どこか遠くの空でこだまする。
九月の雨がしとしとと降り、静かに二人の時間を包み込んでいくのだった。