芽衣はその答えを知りたくて、湊をじっと見つめたまま、その答えを待っていた。
けれど、湊はなかなか答えようとはしなかった。ただ黙って、遠くを見つめるような表情を浮かべているだけで、芽衣は胸の中に、じれったさと不安がじわじわと広がっていくのを感じた。
(どうして何も言ってくれないの?)
湊の沈黙が、答えたくないという意味なのか、それともただ言葉を探しているだけなのか──芽衣は、湊の気持ちがつかめないまま、自分の足が無意識に動いていることに気づいた。ふと気がつけば、二人はマンションの前に立っていた。
(いつの間に……)
芽衣は自分の心の鼓動が早まるのを感じた。ドキドキとした胸の高鳴りが、今までにないくらい、大きく響いていく。湊の横顔を見るたびに、湊が何を考えているのか知りたくてたまらなくなる。
湊は、何も言わなかった。
けれど、ふと芽衣が湊の顔を見上げた瞬間、湊がわずかにほほんでいるのがわかった。穏やかな、その優しい表情に、芽衣の胸の中の不安がゆっくりと消えていき、心がすうっと楽になった。
(ああ……。大丈夫なんだ)
芽衣は、その表情から湊の心の中の優しさを感じ取っていた。
その視線に気づいた湊もまた、そうやってほほえむことでしか、気持ちを伝えられなかった。
『ほんとうに伝えたい気持ちがあると……、言葉ってなかなか出てこないものだな』
湊は、ここに着くまでに、ずっと言葉を探していた。芽衣に伝えたいことが山ほどあるはずなのに、その気持ちをどう表現すればいいのかがわからなかった。言葉にすることで、その感情が軽くなってしまうような気さえしていた。
芽衣と湊はマンションのエントランスを通り抜けると、二人は一瞬、見つめ合い、小さくうなずいた。
自動ドアが静かに開き、冷たい空気が二人を包み込む。エレベーターに乗り込むと、狭い空間に二人の呼吸音だけが響き、外の世界の音が遠のいていった。
「706……」と芽衣は小さくつぶやき、七階のボタンを押した。その指先の震えを湊は見逃さなかった──。
エレベーターが静かに上昇する中、二人の間には言葉がなかった。
けれど、その静寂の中で、二人の気持ちは重なりあい、言葉以上に深い絆で結ばれていくようだった。芽衣の胸の高鳴りが、エレベーターの動く振動と同じリズムで、湊にも伝わっている気がした。
『ただ触れるだけじゃ、もう足りないな……。もっと、鈴城に伝えたいことがある……』
エレベーターが停止する音が響き、芽衣がゆっくりと外に出て、湊もそれに続いた。芽衣は静かに歩みを進めながら、ドアプレートの「706」という数字を見つめていた。湊も足を止め、芽衣の横に立った。芽衣の手元には、彼女が出したカギがあり、二人は黙ってその扉を見つめていた。わずかな風の音さえも遠のいていくような感覚を覚えながら、芽衣はゆっくりとカギをかぎ穴に差し込んだ。
けれど、カギを回そうとした瞬間、ふと手が止まり、芽衣は表情を硬くして、震える声で湊に尋ねた。
「湊くん……。本当にここでいいの?」
「鈴城? どうしたんだよ、急に……」
「ここがいいって言ったのは、私だよね。湊くんにもほかに……、大切な思い出の場所が……、あったんじゃないの?」
湊は一瞬、驚いたように目を開いたものの、芽衣の問いに答える代わりに、優しくほほえんだ。
「ここでいいんだ、鈴城。君がここにいたいと言ったから……。だからここで」
そう言いながらも、どこかそのニュアンスがしっくりこないという表情を浮かべ、ややあって湊は自分の気持ちに気づいたかのように「あ」と短く声を漏らした。
『まどろっこしい言い方は、もうやめだ』
湊は自分自身の気持ちにようやく気づいて、芽衣をまっすぐに見つめながら、力強く答えた。
「ここがいい」
「湊くん……」
「俺の思い出はもう遠すぎて、その場所は消えた……。今ある二人の思い出を、大切にさせてくれよ」
湊がそう言うと、芽衣は思わず両手で口元を覆った。言葉にならない思いがあふれ出て、芽衣は立ち尽くした。
「いい? 開けるよ」
湊はそんな芽衣の代わりに、カギに手を伸ばすと、ゆっくりとカギを回し、静かにドアを開けた。
「……入ろうか」
湊の声に促され、芽衣は一歩部屋の中に足を踏み入れた。湊もその後に続く。扉を閉めた瞬間、外の世界と完全にさえぎられた気がして、二人だけの静かな空間がそこに広がった。
「……鈴城は、毎朝ここから学校行ってたんだな」
「うん……」
「なんだか鈴城の匂いがする気がする」
「なによ、それ」
「ん? 鈴城は?」
芽衣はふと振り返り、湊を見上げた。
「私はそうね……。懐かしい匂い……」
湊は芽衣の表情が柔らかくなったのを見て、ようやく部屋の中に上がった。そのまま二人は無言のままリビングに入り、窓際に並んで立った。芽衣がさっとカーテンを引くと、湊も外の景色に目をやった。日が暮れた街並みは、まるで絵画を見ているようで、二人はほうっと息をついた。
ふと、湊は芽衣の横顔に目をやり、胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。芽衣が抱えている悲しみや不安がどれほど深いか、湊にもわかっていた。
けれど、それをどうしていいか、どうすれば芽衣を本当に救えるのか、自分でも答えが出ないままだった。湊は、胸の中でわき上がる感情を飲み込み、芽衣の耳元でそっとささやいた。
「鈴城……。俺は、ただ思い出したいから、君に触れるわけじゃないよ」
湊の言葉を聞いた瞬間、芽衣の体が一瞬、固くなり、全身にじわじわと熱が湧きあがった。
「今、ここにいる鈴城に触れたいんだ。過去じゃなくて、今の鈴城に……」
湊は、まだ開け放されたままのカーテン越しに、薄暗くなった外の景色を見た後、ゆっくりと芽衣を見つめ直した。芽衣の表情に、かすかに揺れる不安と期待が入り混じっているのが湊にはわかった。
「鈴城……。もう一度、触れてもいい?」
湊はそう言いながら、そっと手を伸ばし、カーテンに手をかけた。芽衣が小さくうなずくと、湊はゆっくりとカーテンを閉じた。部屋の中は柔らかな薄闇に包まれて、湊は再び芽衣の方に向き直った。
「鈴城、今の君に触れたいんだ……」
目と目が合った瞬間、二人は自然に手を伸ばし、そっと指先が触れ合った。湊は、優しく芽衣の手を取り、そっと握りしめた。その手の温もりが、芽衣の全身にじわりと広がっていった。
(これが……、湊くんの温もり……。ずっと、こんなふうに触れてほしかった……)
湊の手が、芽衣の頬に優しく触れ、その指先が、芽衣の髪をかきあげるようにして耳元へ寄り、静かにその場所に留まる。
芽衣は、自分でも気づかないうちに、湊にそっと身を寄せていた。湊の触れる場所が熱を持ち、感じたこともない幸福感や愛情が、芽衣の体を優しく包み込み、心の奥底から温かくあふれ出していくようだった。
湊の指先が芽衣の耳元に触れたまま、湊がゆっくりと唇を近づけようとした瞬間、ふと、湊の頭の中に一瞬の光景がよみがえった。
『あの日……』
突然、鮮明によみがるのは、あの事故の瞬間だった。午後4時50分、雨が降りしきる中、自転車で交差点を渡っていたときの光景だ。滝のような雨に打たれながら、重い空気の中で、自転車のハンドルを強く握っていた自分の手──。偶然、隣を歩いていた芽衣の白いスニーカーが、雨に濡れた歩道を滑るように進んでいた。
『なぜ……、あのとき鈴城を見てしまったんだ?』
今、思い返せば、あの頃から無意識に目で追っていたのかもしれない、と湊は思った。その時だった。記憶の中で、湊の視線の端に、大きな影が動いた。見慣れた通学路が一瞬にして変わり、バスが信号を無視して、突進してくる。視界の端で、芽衣が驚いて顔を上げるのが見えた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。芽衣もまた、動揺した湊の姿を見ていた。雨が降りしきる中、バスが歩道に突っ込んでくるその瞬間──全身が恐怖で凍りついた。避けようにも体は動かず、時間が止まったように感じられた。何かを叫んだ気がするが、芽衣の悲鳴は横転したバスの音にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。
──次の瞬間、最後の衝撃がすべてを包み込んだ。
『本当に、一瞬だったんだ……』
その時、湊は初めて自分が死んだことを理解し、納得した。何の予告もなく命が奪われたことを──。
芽衣の温もりを感じながら、湊は目を閉じた。
芽衣は、記憶の中で、目の前の景色が急に歪んでいくのを、静かに見ていた。塾に遅刻しそうになると、大雨の中急いでいて……、次に覚えているのは、身体が宙に浮いた感覚だ。そして、最後に誰かの名前を呼びかけて、すべてが途切れた。
(ああ、あのとき……、私は……)
芽衣は唇を噛みしめて、ぐっと涙をこらえた。
(「お母さん」……、そう言いかけたんだった)
何度、家を出るとき、お母さんとケンカしただろう。
「もういい!」と言って、ドアを乱暴に閉めてしまった日々。
「行ってきます」と言えば、明日はまた勝手にくると信じて疑わなかった。
毎朝作ってもらっていたお弁当が、「昨日の残り物」だの「冷凍食品の詰め合わせばっかり」だの、文句ばっかり言って、お弁当を残した日もあった。お弁当には必ず毎回好物の果物がわずかに入っていて、確かにお母さんの愛を感じていたのに、と芽衣は胸を痛めた。最後にあの日、お弁当で食べた二粒のシャインマスカットの味が、口の中で広がっていく。
「お母さん、ごめんね……。ごめんなさい」
「……親より先に逝くのって……、俺ら親不孝だよな」
芽衣と湊は同時に、その記憶を心に刻みながら、今、再び触れ合っていた。湊は芽衣の痛みを知り、一瞬黙り込むと、深呼吸して、その小さな肩を包み込むようにそっと抱き寄せた。芽衣の悲しみの渦に押しつぶされそうになりながら、それでも湊は優しく彼女を支え続けた。
「親不孝かもしれないけどさ……。こうやって最後に一緒にいられるなんて、奇跡そのものだろう? 今だけは後悔しないように、精一杯生きた証を残したいんだ。鈴城といられて、本当に良かったって、心からそう思える瞬間を……」
湊は芽衣が抱えている不安をすべて受け止めるように、優しく芽衣の体を抱きしめた。
「鈴城、泣くなよ。鈴城が泣くと、俺まで悲しくなる」
「……でも、私…...」
「鈴城の悲しい記憶も、痛みも、全部俺にぶつけろよ。俺が全部……、受け止めるから」
その言葉とともに、湊は芽衣の唇へと顔を近づけていった。ゆっくりと距離が縮まり、二人の呼吸が重なり合った瞬間、湊の唇が、そっと彼女のひたいに触れた。芽衣は思わず目を閉じ、全身が彼に包み込まれるような感覚に浸った。湊の温もりが、芽衣の体に深く染み渡っていく。
(唇じゃなくて、ひたい……)
芽衣は、それが何よりも優しくて、自分を守ってくれているみたいだった。
(湊くんは、私を本当に大切にしてくれている……)
そのことが、ただ温かくて、芽衣の胸にじんわりと広がっていった。
「鈴城……。ずっと、触れていたいんだ」
「触れてよ、湊くん」
「鈴城は平気? どこも痛くない?」
「そういえば、どうして? まだ痛みがない」
「おかしいな。もう痛みがくるのに」
「そうだよね。いつもなら、もう湊くんが私から手を離して……」
その瞬間、芽衣はばらばらだったピースがつながる気がした。
「湊くんがずっと触れて……、私たちが触れ合っているから」
「え……」
「触れ合っているときは、きっと私たち……、痛みがない」
湊はその言葉に「……ああ」と小さくうなずいた。すべてが自然に理解できたかのように──。
今まで何度も芽衣に触れ、記憶を取り戻してきた。その後、芽衣から手を離した瞬間に痛みが襲ってきたことを、湊は思い出した。
「そういえば、いつもそうだった。鈴城と触れ合っているときは……、痛みがない」
ふと芽衣を見つめると、芽衣はほほえんでいた。ふふふと、優しい声を漏らしている。
「鈴城、何がおかしいんだ?」
「嬉しいのよ……、湊くん。触れ合っている間は、心の痛みも、体の痛みも、全部消えてる。……私、今とても幸せなんだよ」
「鈴城……」
「幸せなのよ、湊くん。最期の日まで、最期の瞬間まで一緒に……。それが湊くんだったことが、本当に嬉しい。湊くん……、ありがとう」
「……こんなときに、“幸せ”なんて言うなんてさ……」
湊はそう言うと、目に涙を浮かべて、優しく笑った。
「……でも、俺もだよ、鈴城。今、君が隣にいてくれて、ほんとによかった……」
けれど、湊はなかなか答えようとはしなかった。ただ黙って、遠くを見つめるような表情を浮かべているだけで、芽衣は胸の中に、じれったさと不安がじわじわと広がっていくのを感じた。
(どうして何も言ってくれないの?)
湊の沈黙が、答えたくないという意味なのか、それともただ言葉を探しているだけなのか──芽衣は、湊の気持ちがつかめないまま、自分の足が無意識に動いていることに気づいた。ふと気がつけば、二人はマンションの前に立っていた。
(いつの間に……)
芽衣は自分の心の鼓動が早まるのを感じた。ドキドキとした胸の高鳴りが、今までにないくらい、大きく響いていく。湊の横顔を見るたびに、湊が何を考えているのか知りたくてたまらなくなる。
湊は、何も言わなかった。
けれど、ふと芽衣が湊の顔を見上げた瞬間、湊がわずかにほほんでいるのがわかった。穏やかな、その優しい表情に、芽衣の胸の中の不安がゆっくりと消えていき、心がすうっと楽になった。
(ああ……。大丈夫なんだ)
芽衣は、その表情から湊の心の中の優しさを感じ取っていた。
その視線に気づいた湊もまた、そうやってほほえむことでしか、気持ちを伝えられなかった。
『ほんとうに伝えたい気持ちがあると……、言葉ってなかなか出てこないものだな』
湊は、ここに着くまでに、ずっと言葉を探していた。芽衣に伝えたいことが山ほどあるはずなのに、その気持ちをどう表現すればいいのかがわからなかった。言葉にすることで、その感情が軽くなってしまうような気さえしていた。
芽衣と湊はマンションのエントランスを通り抜けると、二人は一瞬、見つめ合い、小さくうなずいた。
自動ドアが静かに開き、冷たい空気が二人を包み込む。エレベーターに乗り込むと、狭い空間に二人の呼吸音だけが響き、外の世界の音が遠のいていった。
「706……」と芽衣は小さくつぶやき、七階のボタンを押した。その指先の震えを湊は見逃さなかった──。
エレベーターが静かに上昇する中、二人の間には言葉がなかった。
けれど、その静寂の中で、二人の気持ちは重なりあい、言葉以上に深い絆で結ばれていくようだった。芽衣の胸の高鳴りが、エレベーターの動く振動と同じリズムで、湊にも伝わっている気がした。
『ただ触れるだけじゃ、もう足りないな……。もっと、鈴城に伝えたいことがある……』
エレベーターが停止する音が響き、芽衣がゆっくりと外に出て、湊もそれに続いた。芽衣は静かに歩みを進めながら、ドアプレートの「706」という数字を見つめていた。湊も足を止め、芽衣の横に立った。芽衣の手元には、彼女が出したカギがあり、二人は黙ってその扉を見つめていた。わずかな風の音さえも遠のいていくような感覚を覚えながら、芽衣はゆっくりとカギをかぎ穴に差し込んだ。
けれど、カギを回そうとした瞬間、ふと手が止まり、芽衣は表情を硬くして、震える声で湊に尋ねた。
「湊くん……。本当にここでいいの?」
「鈴城? どうしたんだよ、急に……」
「ここがいいって言ったのは、私だよね。湊くんにもほかに……、大切な思い出の場所が……、あったんじゃないの?」
湊は一瞬、驚いたように目を開いたものの、芽衣の問いに答える代わりに、優しくほほえんだ。
「ここでいいんだ、鈴城。君がここにいたいと言ったから……。だからここで」
そう言いながらも、どこかそのニュアンスがしっくりこないという表情を浮かべ、ややあって湊は自分の気持ちに気づいたかのように「あ」と短く声を漏らした。
『まどろっこしい言い方は、もうやめだ』
湊は自分自身の気持ちにようやく気づいて、芽衣をまっすぐに見つめながら、力強く答えた。
「ここがいい」
「湊くん……」
「俺の思い出はもう遠すぎて、その場所は消えた……。今ある二人の思い出を、大切にさせてくれよ」
湊がそう言うと、芽衣は思わず両手で口元を覆った。言葉にならない思いがあふれ出て、芽衣は立ち尽くした。
「いい? 開けるよ」
湊はそんな芽衣の代わりに、カギに手を伸ばすと、ゆっくりとカギを回し、静かにドアを開けた。
「……入ろうか」
湊の声に促され、芽衣は一歩部屋の中に足を踏み入れた。湊もその後に続く。扉を閉めた瞬間、外の世界と完全にさえぎられた気がして、二人だけの静かな空間がそこに広がった。
「……鈴城は、毎朝ここから学校行ってたんだな」
「うん……」
「なんだか鈴城の匂いがする気がする」
「なによ、それ」
「ん? 鈴城は?」
芽衣はふと振り返り、湊を見上げた。
「私はそうね……。懐かしい匂い……」
湊は芽衣の表情が柔らかくなったのを見て、ようやく部屋の中に上がった。そのまま二人は無言のままリビングに入り、窓際に並んで立った。芽衣がさっとカーテンを引くと、湊も外の景色に目をやった。日が暮れた街並みは、まるで絵画を見ているようで、二人はほうっと息をついた。
ふと、湊は芽衣の横顔に目をやり、胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。芽衣が抱えている悲しみや不安がどれほど深いか、湊にもわかっていた。
けれど、それをどうしていいか、どうすれば芽衣を本当に救えるのか、自分でも答えが出ないままだった。湊は、胸の中でわき上がる感情を飲み込み、芽衣の耳元でそっとささやいた。
「鈴城……。俺は、ただ思い出したいから、君に触れるわけじゃないよ」
湊の言葉を聞いた瞬間、芽衣の体が一瞬、固くなり、全身にじわじわと熱が湧きあがった。
「今、ここにいる鈴城に触れたいんだ。過去じゃなくて、今の鈴城に……」
湊は、まだ開け放されたままのカーテン越しに、薄暗くなった外の景色を見た後、ゆっくりと芽衣を見つめ直した。芽衣の表情に、かすかに揺れる不安と期待が入り混じっているのが湊にはわかった。
「鈴城……。もう一度、触れてもいい?」
湊はそう言いながら、そっと手を伸ばし、カーテンに手をかけた。芽衣が小さくうなずくと、湊はゆっくりとカーテンを閉じた。部屋の中は柔らかな薄闇に包まれて、湊は再び芽衣の方に向き直った。
「鈴城、今の君に触れたいんだ……」
目と目が合った瞬間、二人は自然に手を伸ばし、そっと指先が触れ合った。湊は、優しく芽衣の手を取り、そっと握りしめた。その手の温もりが、芽衣の全身にじわりと広がっていった。
(これが……、湊くんの温もり……。ずっと、こんなふうに触れてほしかった……)
湊の手が、芽衣の頬に優しく触れ、その指先が、芽衣の髪をかきあげるようにして耳元へ寄り、静かにその場所に留まる。
芽衣は、自分でも気づかないうちに、湊にそっと身を寄せていた。湊の触れる場所が熱を持ち、感じたこともない幸福感や愛情が、芽衣の体を優しく包み込み、心の奥底から温かくあふれ出していくようだった。
湊の指先が芽衣の耳元に触れたまま、湊がゆっくりと唇を近づけようとした瞬間、ふと、湊の頭の中に一瞬の光景がよみがえった。
『あの日……』
突然、鮮明によみがるのは、あの事故の瞬間だった。午後4時50分、雨が降りしきる中、自転車で交差点を渡っていたときの光景だ。滝のような雨に打たれながら、重い空気の中で、自転車のハンドルを強く握っていた自分の手──。偶然、隣を歩いていた芽衣の白いスニーカーが、雨に濡れた歩道を滑るように進んでいた。
『なぜ……、あのとき鈴城を見てしまったんだ?』
今、思い返せば、あの頃から無意識に目で追っていたのかもしれない、と湊は思った。その時だった。記憶の中で、湊の視線の端に、大きな影が動いた。見慣れた通学路が一瞬にして変わり、バスが信号を無視して、突進してくる。視界の端で、芽衣が驚いて顔を上げるのが見えた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。芽衣もまた、動揺した湊の姿を見ていた。雨が降りしきる中、バスが歩道に突っ込んでくるその瞬間──全身が恐怖で凍りついた。避けようにも体は動かず、時間が止まったように感じられた。何かを叫んだ気がするが、芽衣の悲鳴は横転したバスの音にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。
──次の瞬間、最後の衝撃がすべてを包み込んだ。
『本当に、一瞬だったんだ……』
その時、湊は初めて自分が死んだことを理解し、納得した。何の予告もなく命が奪われたことを──。
芽衣の温もりを感じながら、湊は目を閉じた。
芽衣は、記憶の中で、目の前の景色が急に歪んでいくのを、静かに見ていた。塾に遅刻しそうになると、大雨の中急いでいて……、次に覚えているのは、身体が宙に浮いた感覚だ。そして、最後に誰かの名前を呼びかけて、すべてが途切れた。
(ああ、あのとき……、私は……)
芽衣は唇を噛みしめて、ぐっと涙をこらえた。
(「お母さん」……、そう言いかけたんだった)
何度、家を出るとき、お母さんとケンカしただろう。
「もういい!」と言って、ドアを乱暴に閉めてしまった日々。
「行ってきます」と言えば、明日はまた勝手にくると信じて疑わなかった。
毎朝作ってもらっていたお弁当が、「昨日の残り物」だの「冷凍食品の詰め合わせばっかり」だの、文句ばっかり言って、お弁当を残した日もあった。お弁当には必ず毎回好物の果物がわずかに入っていて、確かにお母さんの愛を感じていたのに、と芽衣は胸を痛めた。最後にあの日、お弁当で食べた二粒のシャインマスカットの味が、口の中で広がっていく。
「お母さん、ごめんね……。ごめんなさい」
「……親より先に逝くのって……、俺ら親不孝だよな」
芽衣と湊は同時に、その記憶を心に刻みながら、今、再び触れ合っていた。湊は芽衣の痛みを知り、一瞬黙り込むと、深呼吸して、その小さな肩を包み込むようにそっと抱き寄せた。芽衣の悲しみの渦に押しつぶされそうになりながら、それでも湊は優しく彼女を支え続けた。
「親不孝かもしれないけどさ……。こうやって最後に一緒にいられるなんて、奇跡そのものだろう? 今だけは後悔しないように、精一杯生きた証を残したいんだ。鈴城といられて、本当に良かったって、心からそう思える瞬間を……」
湊は芽衣が抱えている不安をすべて受け止めるように、優しく芽衣の体を抱きしめた。
「鈴城、泣くなよ。鈴城が泣くと、俺まで悲しくなる」
「……でも、私…...」
「鈴城の悲しい記憶も、痛みも、全部俺にぶつけろよ。俺が全部……、受け止めるから」
その言葉とともに、湊は芽衣の唇へと顔を近づけていった。ゆっくりと距離が縮まり、二人の呼吸が重なり合った瞬間、湊の唇が、そっと彼女のひたいに触れた。芽衣は思わず目を閉じ、全身が彼に包み込まれるような感覚に浸った。湊の温もりが、芽衣の体に深く染み渡っていく。
(唇じゃなくて、ひたい……)
芽衣は、それが何よりも優しくて、自分を守ってくれているみたいだった。
(湊くんは、私を本当に大切にしてくれている……)
そのことが、ただ温かくて、芽衣の胸にじんわりと広がっていった。
「鈴城……。ずっと、触れていたいんだ」
「触れてよ、湊くん」
「鈴城は平気? どこも痛くない?」
「そういえば、どうして? まだ痛みがない」
「おかしいな。もう痛みがくるのに」
「そうだよね。いつもなら、もう湊くんが私から手を離して……」
その瞬間、芽衣はばらばらだったピースがつながる気がした。
「湊くんがずっと触れて……、私たちが触れ合っているから」
「え……」
「触れ合っているときは、きっと私たち……、痛みがない」
湊はその言葉に「……ああ」と小さくうなずいた。すべてが自然に理解できたかのように──。
今まで何度も芽衣に触れ、記憶を取り戻してきた。その後、芽衣から手を離した瞬間に痛みが襲ってきたことを、湊は思い出した。
「そういえば、いつもそうだった。鈴城と触れ合っているときは……、痛みがない」
ふと芽衣を見つめると、芽衣はほほえんでいた。ふふふと、優しい声を漏らしている。
「鈴城、何がおかしいんだ?」
「嬉しいのよ……、湊くん。触れ合っている間は、心の痛みも、体の痛みも、全部消えてる。……私、今とても幸せなんだよ」
「鈴城……」
「幸せなのよ、湊くん。最期の日まで、最期の瞬間まで一緒に……。それが湊くんだったことが、本当に嬉しい。湊くん……、ありがとう」
「……こんなときに、“幸せ”なんて言うなんてさ……」
湊はそう言うと、目に涙を浮かべて、優しく笑った。
「……でも、俺もだよ、鈴城。今、君が隣にいてくれて、ほんとによかった……」