「どうした? チャイムが鳴っただろう。早く席に着け」

 落ち着いた声が、突然教室の前方から響き渡った。ざわめいていた教室が再び静まり返り、湊と芽衣はハッと顔を上げた。教室に入ってきたのは、いつも冷静な富岡先生だった。
 けれど、その視線が湊、芽衣、そして涙を浮かべる夏帆に向けられた瞬間、富岡先生の顔はこわばった。

 教室全体は、その異様な空気を感じ取ったかのように、沈黙のままだった。

(沈黙が重いよ。先生、何か言ってよ……)

 芽衣はどうすればいいのかわからず、胸の内がかき乱されるような感覚に襲われた。隣に立つ湊もまた、心臓が鼓動を早め、動揺しているのが自分でもわかった。

 富岡先生はしばらく全員を見渡した後、一歩前に進み、生徒たちに静かに言った。

「……今日は自習だ。教科書を開いて各自、進めなさい」

 その声は普段通りの落ち着きを保っていたものの、かすかに震えており、隠しきれない動揺が感じられた。
 生徒たちは戸惑いながらも、富岡先生の指示に従い始めた。
 けれど、教室の中にはまだ緊張が残り、誰も心から落ち着けない様子だった。

 富岡先生はちらっと夏帆を見た後、湊と芽衣の前に歩み寄ると、重い口調で言った。

「影山、早く席に着きなさい。北川、鈴城、おまえたちは……、ちょっと廊下に出てくれないか」

 自分たちの名前だけ呼ばれて、芽衣はどきっとした。

「二人に話したいことがある」

 その言葉に、芽衣の心臓が、さらに速く打ち始めた。まるで冷たい斧で切り裂かれるかのように、息をするのが苦しくなった。芽衣は、背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、富岡先生の顔を見上げた。

(なんなの? あの夏帆の涙、突然のブログ消失、そして先生の異様な静けさ──)

 すべてが重なり合い、芽衣の不安は胸の中でじわじわと膨らみ、ついに限界に達していた。
 芽衣は隣にいる湊をおそるおそる見つめると、湊は小さくうなずいた。

「わかりました。鈴城、ほら、行こう」

 湊に促され、芽衣は教室を出た。心臓が締め付けられるような痛みを感じながら、二人はただ先生の後に従うしかなかった。
 廊下を歩く足音が、こつこつと静かに響き渡る。芽衣は、その音が自分たちの不安を一つ一つ刻むかのように感じていた。

(なぜこんな状況になった? これから何を聞かされるの?)

 不安が募るばかりで、芽衣は唇を嚙み締めた。

 富岡先生は二人のほんの少しだけ先を行くと、静かに足を止め、振り返った。
 廊下の隅、人目につかない場所で、富岡先生は深く息を吸い込んだ。

「北川、鈴城……。まずは、私の感謝の気持ちを伝えさせてほしい」

 芽衣は一瞬驚き、目を見開いた。

(こんな状況で”感謝”?)

 芽衣には、その言葉が意味するものが、まったく想像できなかった。

「まず北川……。おまえには本当に感謝している。五年前、私が学年主任になったばかりの頃、指導方針に迷っていたんだ。正直、どうすればいいのか分からなかった。でも、北川に『先生も迷ってるんだね。俺と一緒だ』と言われてな」

 湊はその言葉を耳にした瞬間、信じられないという表情で富岡先生を見つめた。あのとき、湊の何気ない一言が、富岡先生の背中を押したことを、今はっきりと知った。

「先生……、俺、あの時はそんな深く考えてなくて……」

 湊が戸惑いながら答えると、富岡先生は穏やかにほほえんだ。

「それが、北川のいいところだよ。北川の言葉で私は変わった。今、ぶれずに教師を続けられているのは、あの時の北川のおかげだ。本当にありがとう」

 その瞬間、芽衣は湊がこんなにも富岡先生に影響を与えていたことに驚きつつも、湊の強さを改めて感じた。
 富岡先生は言葉を少し間を置き、湊の表情を見つめながら、そのまま話を続けた。

「言葉は、人の生き方を変える。誰かの支えになることもあれば、誰かを傷つけることもある。言葉にしないかぎり、人の気持ちはなかなか伝えづらくて、気づきにくい……」

 次の瞬間、富岡先生の視線が芽衣に向けられると、その顔にははっきりとした苦しみが表れた。

「鈴城……、おまえには謝らなければならない」

(謝る? 先生が、私に……!?)

 芽衣は富岡先生の視線に少し身を引き、表情を硬くした。
 去年の出来事が頭に浮かぶ。いじめ事件……そして、彼女が自殺未遂に追い込まれたあの瞬間が──。

「去年、いじめ事件があったとき、私は担任じゃなかったが……、それでも力になってやれなかったことがずっと心に引っかかっている。そして、解決したと思っていたのに……、そのあと鈴城が自殺未遂まで追い込まれたこと、教師として救えなかったことが、今でも私を苦しめているんだ」

 富岡先生の言葉に、芽衣は涙をこらえることができなかった。

(あのときは、孤独だった。誰にも助けを求められず、ただ暗闇の中にいた。でも、今は──、きっともう違う)

 芽衣はそう信じたくて隣にいる湊を見つめた。
 けれど、湊は表情を変えずに前を見つめ、まるでこれから起こることを冷静に受け入れる覚悟を決めたかのようだった。
 湊の息は落ち着いていたものの、視線は鋭く、どこか静かな決意が感じられた。

「私は、鈴城が本当に立ち直れるように道を示したかった。でも……、私は君たちを救えなかった」

「先生、どうしてそんなこと言うんですか……。まるで、もう手遅れみたいに!」

 芽衣は焦りを感じながら、一歩前に踏み出そうとしたが、その瞬間「やめろ、鈴城」と湊が静かに言い、芽衣の前に立ちふさがった。

「……先生、俺たちに何か隠しているんですか?」

 湊は富岡先生をまっすぐに見つめ、冷静な声で問いかけた。

(……湊くん!?)

 湊は何かに気づいているかのようだった。

「隠しているわけじゃない。ただ、君たちに伝えるべきことがある」

 富岡先生の言葉に、芽衣は心臓が早鐘のように鳴り始めた。何かが起こる、そんな予感が胸を打って、全身が硬直するのを感じた。

「今年の夏休み中、大型バスにはねられて亡くなった生徒の事故……。ニュースでも取り上げられていたな?」

 富岡先生の低い声が、静かな廊下に響く。その言葉に、芽衣と湊の心臓は、一瞬止まったかのようだった。芽衣は、目の前の現実を理解しようと必死に富岡先生の顔を見つめたものの、頭の中は混乱し、何も言葉が出てこなかった。

 富岡先生は一度視線を落とし、深く息を吸い込んだ。その瞬間、富岡先生の顔にかすかに浮かぶ苦しみの表情が、芽衣と湊に鋭く突き刺さった。しばらくの間、富岡先生は何も言わず、口を開こうとしては閉じ、何度かためらいを見せた。
 湊は、富岡先生がズボンのポケットの中でなにかを握りしめ、その肩が小刻みに震えているのを、見逃さなかった。
 沈黙の長さが湊の胸に重くのしかかる中、富岡先生は言葉を発する代わりに、静かにズボンのポケットからスマホを取り出し、画面を二人に向けた。

『嫌な予感がする。やめてくれ……』

 湊の心が強く脈打ち、耳鳴りが響いた。

『大型バスにはねられ自転車の高3男子生徒と歩行中の高3女子生徒が死亡』

 画面に映し出された記事の見出しに、湊の視界はぐにゃりと歪んだ。

『8月20日午後4時50分ごろ、福岡市中央区薬院大通の交差点で、自転車で横断していた近くに住む高校3年の男子生徒(18)と歩行中の高校3年生の女子生徒(18)が大型バスにはねられ、約2時間後に搬送先の病院で死亡した。

 福岡市中央区薬院大通は、緑豊かな並木道で知られているが、事故当日は雨が降っていたため、視界が悪く、さらに混雑していた。

 福岡県警は、自動車運転処罰法違反の疑いで、バスを運転していた福岡市のバス運転手、相澤隆成容疑者(54)を現行犯逮捕。容疑を認めているという。

 同署によると、現場は信号のある交差点で、相澤容疑者は高速バスを運転中だったが、事故当時は乗客がいなかった。同署は容疑を過失致死に切り替えて、事故の詳しい状況を調べている』

 湊はすぐに芽衣の方を振り向いた。
 芽衣もまた、そのニュースを目にして凍りついていた。目の前の現実が急に遠のいていく感覚に襲われ、足元がふらついた。

(違う、違う、そんなはずはない……)

 芽衣は心の中で何度も叫び続けたが、声にならなかった。涙だけが抑えきれずに頬を伝っていく。
 湊は何とか芽衣に言葉をかけたいと思ったものの、何も言葉が見つからなかった。
 湊の胸の中にも、現実を否定しようとする声が響いている。
 けれど、冷たい現実が二人に迫っていることを、湊は感じざるを得なかった。

「……どういうことですか、先生……」

 湊の声はかすれ、まるで言葉を絞り出すようだった。頭の中でぐるぐると考えが回り続け、理解しようとすればするほど、心の中に広がる絶望感がそれを妨げた。

 富岡先生は深く息を吐き、言葉を続けた。

「……おまえたちは、あの事故で……、命を落としたんだ」

 その瞬間、芽衣は息が詰まったように感じ、足元がふらついた。自分の体がどこにあるのかわからない感覚に襲われ、立っているのがやっとだった。湊にすがりたい気持ちが湧き上がったものの、体は動かない。

(どうして……。まさかそんな……)

 芽衣は、無意識に震える手をつかんだまま、息をするのも苦しいほどの動揺を感じていた。思考が混乱し、目の前がぼやけていく。

(嘘よ……。嘘だって言って……)

 芽衣は心の中で何度もそう叫びながらも、声が喉に詰まって出てこなかった。
 湊はそんな芽衣に触れることができず、ただその震えを感じ取りながら、どうすることもできない自分に苛立ちを覚えた。
『こんなときくらい、何かしてやれよ……』
 湊は自分自身を責め続け──、それでも手を伸ばす勇気が出なかった。触れるのが、恐ろしくて仕方ない。触れたその先にあるものを知っているから、なお怖い。芽衣を守りたいという気持ちと、自分がその願いを叶えられないという無力感が胸に広がり、苦しみが湧き上がった。

「今見えてる……、この景色は? ……この感覚は?」
 芽衣の唇が、震えた。
 富岡先生は眉をひそめ、唇を一瞬噛み締めながら、無言で芽衣を見つめた。ややあって、その重い口を開いた。
「鈴城の記憶が、今の景色や感覚を生み出しているんだ」
「そんな……」
「鈴城が心から立ち直れるように道を示したかった。だが、あの事故があって……、私は鈴城を救うことができなかった。もしかしたら、この思いが……おまえたちをここに引き留めてしまったのは、私のせいかもしれない。すまない……」

 芽衣は無意識に自分の両腕を抱きしめ、まるで氷の海に落とされかのように体を丸めた。芽衣の呼吸はますます短くなり、息を吸うたびに胸が締め付けられるような感覚が広がった。胸の中に渦巻く不安が芽衣の体を支配し、手が小刻みに震えてくる。
 芽衣は信じられず、現実から目を背けようとした。
 けれど、湊の沈んだ表情と、富岡先生の言葉が、否定しがたい現実のものとして芽衣に迫ってきた。

「鈴城……」

 湊は一瞬ためらった後、静かに芽衣の名前を呼んだ。芽衣に触れたい、でもそれができない自分に苛立ちを感じながらも、芽衣を放っておくこともできなかった。

「俺たち、本当に……。終わりなのか?」

 湊の言葉が途切れた瞬間、芽衣は小さく息を呑んだ。
 沈黙が重く流れ、次の瞬間、芽衣の目から涙が溢れ出し、叫び声が喉に詰まった。
 富岡先生はそんな芽衣を見つめ、痛みに耐えるように深く息を吸い込んだ。

「すまない……、鈴城、北川……。本当にすまない……。おまえたちを救えなかった。教師として、ただおまえたちのそばにいることしかできなかったんだ……」

 富岡先生の声は震えていて、その中にこめられた後悔の重さが二人の心に届いた。
 湊はしばらく無言でその言葉を受け止め、静かに顔を上げた。

「先生……」

 湊もまた、心の中で現実を整理しようとしていた。
 けれど、芽衣のすすり泣く声が、思考を邪魔し続けて、すぐに言葉が出なかった。
 芽衣の泣き声は、湊にとって一層現実を突きつけるものであり、富岡先生と共に過ごしてきた日々が心に浮かんだ。

「俺たちが今、ここにるのは……、先生だけのせいではないですよ」
「北川……」
「きっと俺たち……、いろんなものが……、心残りだったんだと思います」

 湊はそう言いながら、まっすぐに富岡先生を見つめた。

「……俺、いっぱい反抗してましたね」
「ああ、手がかかって、仕方なかったよ」
「ご迷惑……、おかけしました」
「本当は……、もっとたくさん迷惑かけてほしかったよ。そんなおまえを叱って、励まして……、おまえたちが笑って卒業する日を見たかった」

 そう言うと、富岡先生は、自分の目頭をおさえて、ぐっと涙をこらえた。

「俺たちは……、もう戻れないんですか?」

 湊の声には、どこか希望の糸を探すかのような響きがあった。
 けれど、富岡先生はただ静かに、目を伏せたまま首を振った。

「もう戻ることはできない。ただもし……、まだもう少しだけ残された時間があるのなら、その時間をどうか大切にしてほしい……。……最後に、私が教えられることは、それだけだ」

 その言葉に湊は一瞬、目を閉じた。富岡先生の後悔は伝わってきたが、もう選択の余地がないことを知っていた。

『残された時間──つまり、この世にとどまれる時間か』

 湊は心の中で呟くと、短く思い息を吐いた。

 瞬間、芽衣の嗚咽がますます大きくなり、突然、芽衣は廊下を走りだした。

「鈴城!」

 湊は急いで芽衣を追いかけようとした。
 けれど、これが富岡先生と最後の別れになるかもしれない──そう思うと、湊の足はすぐに動かなかった。
 湊は富岡先生を一瞬見返し、短い沈黙が流れた。

「先生……、今までありがとうございました」

 湊は静かにそう言うと、決意を固めたように富岡先生に深く頭を下げた。
 入学してから、一度も頭を下げたことのない湊が、唯一深々と頭を下げた瞬間だった。
 湊は、自分にできることがもう限られていることを理解していた。
 それは湊の中で、この世の決別の──ひとつの区切りだった。

「北川、もう行くんだ。鈴城のもとへ……」

 富岡先生は、最後まで冷静であろうとしたが、その声にはかすかな震えがあった。

「はい」

 短い返事の中に、湊は全ての決意を込めた。湊は、それ以上もう言葉が出なかった。
 湊は富岡先生の元を離れ、芽衣を追いかけて廊下を走り出した。

『鈴城……。俺たちは、もう一緒だろ……』