翌日、芽衣の部屋はまだ静まり返っていた。窓から差し込む秋の日差しが柔らかく部屋を照らしているものの、どこか薄暗さも感じさせた。
 昨晩は遅くまで湊と一緒に過ごしていたせいか、芽衣の体に疲れが残っていた。
 けれど、ベッドで眠る湊の寝顔を見ていると、そんな疲れも吹き飛ぶ気がした。
 芽衣が先に起きたことに気づかず、端っこで眠る湊を見て、芽衣はふっと笑った。
 湊が無防備に眠っている姿は、まるで小さな子供のようで、普段見せない柔らかな一面がそこにあった。芽衣はその様子をじっと見つめているうちに、胸の中に温かい感情が広がっていくのを感じた。

(湊くんは、こんなにもたくさんのものを一人で背負ってきたんだね……)

 芽衣は湊の静かな寝顔を見つめながら、そう思った。
 普段は強がって、感情を表に出さない湊だからこそ、その背後にある本当の湊の姿を、芽衣はもっと知りたくなった。
 湊が抱える孤独や、誰にも見せない弱さ──それをすべて抱きしめてあげたい。守ってあげたいという気持ちが、芽衣の中でますます強くなって、胸の奥が熱くなった。

(久しぶりに湊くんのブログ、最初から読み返そうかな)

 ふと芽衣は自分のスマホを手に取った。

(湊くんに聞いても、はぐらかされそうだし……)
 
 心配をかけまいとして、こちらを気遣う優しさは、湊らしい。そんな湊の孤独や寂しさ、しまい込んだ想いを共有して、湊のすべてを受け止めるには、湊のブログを読み返すことが一番いい気がした。
 それと同時に、湊がいつもつづっていた言葉たちは、湊が存在した証そのものだと、芽衣は感じていた。
 以前、湊が言った「この言葉は、確かに俺たちが今、ここにいた証明みたいなものだから」という言葉は、湊の心の奥深くに刻まれている想いだった。
 湊が書いたブログは、湊がここに生きている証拠で──、それが芽衣にとっても、大切なものだった。

「あった」

 芽衣は湊のブログを見つけて、画面を見つめた。ゆっくりとスクロールしていくと、湊の心の声が鮮明によみがえってくる。

 ──いつもの場所に、またあの捨て猫がいた。俺を見ると、寄ってきた。ネコなら、寄ってきてくれるのに。

 その一文に、芽衣の心がぎゅっと締め付けられた。普段は強がっている湊が、どこかで孤独を感じていることが、この短い文章からにじみ出ている。

(表に出すことが苦手だもんね。こんなふうにブログでしか……、自分の感情を吐き出せなかったんだよね……)

 そんな湊の姿を思い浮かべると、芽衣は思わず胸が痛くなった。

 ──感情を出すのは、得意じゃない。出したところで、誰かが気づいてくれるとは限らないからね。

「湊くん……」

 その言葉に芽衣は、湊がどれほど誰かに理解されたいと望んでいたのかを痛感した。自分もそうだった。感情を表に出しても、誰も気づいてくれないことがある――その切なさを、湊はどれほど味わってきたのだろう。
 芽衣は、その湊の苦しみや孤独をもっと抱きしめてあげたいと思った。湊が一人で背負ってきたその思いを、自分も一緒に支えたい。湊のすべてを、もっと深く知りたい――芽衣の中で、湊への想いがますます強くなっていった。

 ──グラウンドから歓声が聞こえてくる。俺とは180度違う生き方。高校生活って、こんなものかも。

『ああ、この気持ち……』

 芽衣は、深く息を吸いこんだ。
 芽衣もまた、周囲の人々とは違うリズムで生きているような感覚を持っていた。湊のこのつぶやきはまるで自分の心の声を代弁してくれているようで、湊の言葉に触れるたびに、二人が抱える寂しさが重なり合い、芽衣はますます湊の存在を近くに感じた。

 湊のブログを読むと、まるで魂が触れ合い、お互いに一つになれるような感覚だった。

 湊の孤独を癒してあげたいと思う一方で、注いだ愛情が、まるで鏡のように返ってくる。
 湊をもっと守りたいと思う一方で、いつの間にか湊から守られている。
 それが湊の大きな愛情だと気づくまで──。

(ごめんね、湊くん。だいぶ時間がかかったよ……)

 芽衣は熱くなった目頭をぐっと抑えながら、画面をスクロールした。

「あれ……?」

 しかし、次の日記を読もうとした瞬間、芽衣は違和感を覚えた。

「日記がない……?」

 スクロールを続けても、八月九日を最後にすべてが消えていた。
 湊がこれまで続けてきたはずのブログが、まるでなかったことのように途絶えている。

「湊くんのブログが消えた……どうして?」

 芽衣の胸に、言葉にできない不安感が広がっていった。
 
(あんなに大切にしていたブログが、突然消えてしまうなんて)

 まるで湊の存在そのものが消えてしまったかのような喪失感に襲われて、芽衣は胸が苦しくなった。

 芽衣は何度もスマホをスクロールし直したが、結果は同じだった。八月九日を最後に、湊のすべての投稿がきれいさっぱりと消えている。その光景が信じられず、画面を凝視する芽衣の手が、いつしか震え始めていた。

(何度か湊くんがブログを更新しているところを見たはずなのに……)

 芽衣はその記憶をたどりながらも、しだいに胸の奥でざわつく何かが大きくなっていくのを感じた。頭の中で何かがズレているような、目に見えないパズルのピースが一つ一つはまっていかないような感覚。自分が知っている現実が崩れていく――そんな奇妙な恐怖が芽衣の中に湧き上がってきた。

(これはただの操作ミスじゃない……)

 芽衣はふいにそんな考えが頭をよぎり、スマホを握りしめる手が汗ばむのを感じた。
 湊が自分の意思でブログを消したとは思えない。湊にとって、ブログは大切な居場所であり、証でもあったはずだ。

(私たちの知らない間に何かが起こったの……?)

 焦りと不安が入り混じり、芽衣の心拍数は上がっていった。
 湊が目覚めるのを待ちきれない感情が胸に広がり、答えを探そうとする衝動に駆られた。

「……なにかが、おかしい」

 芽衣の口から、思わず言葉がこぼれた。奇妙な違和感が広がっていき、時間が止まってしまったかのような感覚を覚えながら、芽衣がふと時計を見ると、午後一時を過ぎていた。

「えっ、もうこんな時間?」

 昨晩の疲れもあってか、芽衣はここまで眠り続けてしまったのだ。学校に行くには遅い時間だと感じながらも、芽衣はベッドに横たわる湊を見て、この状況をどう説明すればいいのか分からなかった。

「……湊くん、起きて……。お願い、起きて……」
 
 芽衣は不安に駆られながらも、湊に触れることなく、ただ彼の名前を呼んだ。
 芽衣の声はどこか震えていて、焦りが混じっていた。その声が静かに部屋に響く中、湊はかすかに反応した。まつげがわずかに動き、芽衣はそれをじっと見つめた。

「湊くん……」

 声に込められた切実な思いが、まるで湊に届いたかのように、湊はゆっくりと目を開けた。

「ん? 鈴城……。どうした?」

 芽衣は、まだ寝ぼけた様子で、芽衣を見つめ返した。
 湊の問いに、芽衣は一瞬戸惑いながらも、不安な気持ちを抑えきれず呟いた。

「湊くん……、ブログが……全部消えてるの……」

 湊はゆっくりと目を開け、まだぼんやりとした様子で芽衣を見つめた。

「……ブログが消えた? どういうことだ……」

 芽衣の言葉を理解しようとしている湊の表情が、少しずつ変わっていった。焦りと戸惑いが、湊の目に浮かんでくる。
 湊もまた、自分でブログを消した記憶はないのだから当然だった。

「俺……、消してないよ。確かに、あれから何回か更新してたはずだ……」

 湊はまだ夢の中にいるような感覚を振り払うかのように、ベッドの上に起き上がった。

「どうして……?」

 芽衣は不安げに言葉を続けて、湊に自分のスマホの画面を見せた。

「見て。湊くんが書いてたブログが、全部消えてるなんて……。変だよ、絶対におかしいよ……」

 湊は眉をひそめ、芽衣の持つスマホをのぞき込んだ。

『俺のブログが完全に消えている──』

 まるでその存在自体が消し去られたかのように、八月九日以降の投稿がきれいに消えていた。

「……俺も覚えてるよ。確かに、この後も更新してたのに……」

 芽衣も湊も、目の前で起きていることの意味をつかみかねていた。

(知らないうちに何かが起こっている……。この不安感は、なに?)

「……学校、行ってみようか。遅刻だけど……」

 芽衣は、昨日の夏帆とのやり取りを思い出した。
 今となっては、湊以外、夏帆と富岡先生としか、二人のことを知る人間はいない気がした。

「ああ、とにかく、学校行こう……。影山に会えば、何か分かるかもしれない」

『そうだ、俺たちは、確かめるしかない──』

 芽衣と湊は、学校へと向かう道を歩き始めた。二人の足取りはどこか落ち着かずに、湊は無言のまま、芽衣の隣を歩いていた。

(なにかがおかしい……)

 芽衣は、心の中でそう感じながらも、その言葉をもう口にすることはなかった。秋の涼しい風がほほをかすめても、その心地よさが今はまったく感じられなかった。

 学校に近づくにつれて、二人の歩調は自然と早まっていった。やがて校門が見えてきた時、湊が小さく呟いた。

「……まるで、俺たちだけ別の時間にいるみたいだな」
「こんな時間の登校だから?」
「もちろんそれもあるよ。でもそれ以上に……」
「言わないで、湊くん。分かってるよ。何かが違ってる気がするって」

(それ以上聞くのは、もう怖いよ──)

 校門をくぐると、二人はさらに足早になり、教室へ向かって階段を急いで駆け上がった。ちょうど五時間目の授業が終わったところで、廊下には楽しそうに話しながら歩く生徒たちがあふれていた。
 芽衣と湊は、ぶつかりそうになりながらも、何とか人混みをかき分けて進んでいった。廊下には昼下がりの柔らかな光が差し込み、窓越しに見えるグラウンドでは、生徒たちの楽しそうな声が聞こえていたが、その光景がどこか遠い世界のように感じられた。

「まるで、私たちだけ別の時間にいるみたい……」

 ややって、教室の前にたどり着くと、二人は一瞬だけ足を止めて顔を見合わせた。
 芽衣は緊張した表情を浮かべ、湊もまた険しい表情をしていた。
 湊はふと、芽衣に小さな笑みを浮かべてみせたが、その笑顔にはどこかぎこちなさがあった。

「……行こう、鈴城」

 湊がそう言って、教室のドアを開けた。その瞬間、二人の視線は教室の中で待っていた夏帆に向けられた。
 ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、まるでずっと待っていたかのように立っている夏帆の姿だった。
 夏帆の表情は緊張で引きつり、目には何かを抑え込んでいるような、暗い影が浮かんでいた。

「夏帆……?」

 芽衣が声をかけようとした瞬間、夏帆は顔を両手で覆い、突如として泣き出した。

「ずっと待ってた……。本当に、よかった。来てくれて……」

 その声は震えていて、芽衣と湊はその場に立ち尽くした。

「……ごめんね……。ごめんね……」

 夏帆は繰り返し謝罪の言葉を口にし、その小さな肩は震えていた。

「夏帆、どうしたの?」

 芽衣の声もまた震えていた。
 夏帆の突然の涙に動揺を隠せず、昨日の夏帆の冷静さとはまったく違う姿に、芽衣は戸惑いを覚えた。

(ごめんなんて言わないで……。まるで最後の別れみたいじゃない……)

 芽衣はそう叫びたかったが、その言葉を心の中で押し殺した。夏帆の言葉がまるで何か大きな事実を隠しているように感じられ、不安が募り、口に出せばその不安は真実になってしまう気がした。

「夏帆、やめてよ。何か変だよ……」

 芽衣が必死に問いかけるが、夏帆は「ごめん……」と涙をこぼしながら謝るばかりで、具体的な答えが返ってこない。

「……あたし、思い出したんだよ……」

 夏帆がようやく顔を上げたとき、その瞳には悲しみと苦しみが混じり合っていた。

「思い出したって、何を……?」

 湊が一歩前に進み、静かに問いかけるものの、夏帆はその答えを口にできず、目を伏せたまま小さく震えつづけた。

「なあ、影山……」

 最初、静かに問いかけていた湊も、夏帆の震える姿に次第に苛立ちを募らせた。
 今、こんな状態で、湊にももう余裕はなかった。

「昨日、芽衣に話してから……、ずっと忘れてたことを思い出したの。でも……」

 言葉を発するたびに、夏帆の肩はさらに震え、まるで何かを抑え込むかのようだった。

「だから、なにをだよ! 影山!」

 湊の声が急に強くなり、教室の空気が張り詰めた。普段は冷静な湊が、こんなにも感情を露わにするのは珍しい。
 芽衣は、湊がこんなに感情をむき出しにするのは、今まで見たことがなかった。湊が追い詰められているのが、痛いほど伝わってきて、ぎゅっと胸が締め付けられそうになった。

「影山……何があったんだ? ちゃんと言えよ!」

 湊の拳は無意識のうちに固く握られており、湊の腕の筋肉がピンと張っていた。息が乱れ、湊の呼吸は浅く速くなっていく。
 そんな湊を見ているのがつらくて、芽衣は唇を噛みしめた。

「言えないって、何がだよ! はっきりしろよ!」

 湊がさらに一歩前に出ると、夏帆はびくっと体を震わせた。
 湊の瞳は鋭く、夏帆の答えを求めているが、同時にその答えを聞くことへの恐怖も隠せないでいた。

 芽衣はその様子を見つめながら、湊が抱える不安と焦りが痛いほど伝わってきた。
 湊の肩が上下し、荒い呼吸が抑えきれない苛立ちをそのまま表していた。

「湊、やめて……」

 か細く声を絞り出したものの、その声は湊の耳に届かないように思えた。

「もうやめてよ。お願いだから」

 芽衣は夏帆の方に歩み寄ると、かばうように、優しく夏帆の肩に手を置いた。

「夏帆、大丈夫だよ。何があっても、責めないから……、話してくれる?」

 指先から夏帆の震えが伝わってきて、芽衣の心は締め付けられるように痛んだ。一方で、夏帆は芽衣の温もりを肩に感じながら、涙をこらえきれず、自分の肩に顔を埋めた。

「……ごめんね。だって、言えないの……。私の口からは……、言えない」

 夏帆の声はかすれ、悲しみに沈んでいた。
 夏帆は、知っていた──芽衣と湊が笑っていた、それなりに楽しかったはずの日常。それがあまりに鮮明で、まるで普通の日常が続いているように思えるのに、それが崩れ去る瞬間が迫っていることを夏帆は知っていた。だからこそ、口にできない。事実を語ってしまえば──、二人がここにいる現実が壊れてしまうと感じていたのだ。

 芽衣はそんな夏帆の気持ちを知る由もなく、夏帆の背中をそっと撫でながら、心の中でどうすればいいのかを必死に探していた。湊もまた、こぶしをほどき、ふと視線を逸らした。

「悪かったよ、影山。つい……。言えないのなら、無理に言わせない……。でも、俺たちはここにいるから」

 自分の苛立ちを抑えようとする湊の声は、いつもよりかすれていた。湊のその言葉を聞くと、夏帆はその場に泣き崩れた。
 泣き続ける夏帆の姿に、芽衣と湊はますます胸が締め付けられるような不安感でいっぱいになった。何が起きているのか、確かめることができないまま、ただその場に立ち尽くしていると、静まり返った教室にチャイムの音が鳴り響いた。
 その一瞬、教室全体が凍りついたかのようだった。すべてが止まっていたかのような一瞬が、チャイムの音で再び動き始めた。
 六時間目の開始を告げる音だ──。チャイムが鳴り終わると、教室の中で誰かが小さな声で話し始め、それが次第に広がっていった。椅子を引く音や、軽いため息が重なり合い、ざわざわとした波が教室中を包み込んだ。