湊は、ふと目を覚ました。まだ夜明け前の薄暗い時間だ。時計を見ると、朝の六時前だった。街灯はまだ消えずに光り続けている。

「……夜明けか」

 湊は軽くため息をついた。心の中に残る不安は消えることなく、湊をじわじわと侵食していた。

『このまま、もう何も消えずに過ごせるんだろうか……』

 車道の音は、まるで聞こえない。時折どこかから聞こえてくる鳥の音に、湊は目を細めた。
 夜明けが近づいているのか、東の空がわずかに明るくなり始めているように見えた。
 湊は隣で眠る芽衣を見て少しほほえむと、再び目を閉じた。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか──。
 湊は浅い眠りに引き込まれ、時間の感覚はゆっくりと遠のいていった。

 そんな中、芽衣は、ぼんやりとした意識の中で誰かの話し声を聞き取った。耳を澄ますと、それが近くを通る学生たちのにぎやかな声だとわかった。
 うっすらと目を開けると、制服を着たみんなが学校へ向かう姿が目に入り、芽衣はふと、自分たちがその流れから外れていることを実感した。

 誰も自分たちに声をかけることもなく、まるで二人がそこにいないかのように、みんなが通り過ぎていく。その様子を見て、芽衣は胸の中に小さな寂しさが広がるのを感じた。

(私たち、ここにいるのに……。誰も気づかないんだ)

 芽衣はそっとこぶしを握りしめ、公園のベンチに座ったまま、隣で眠る湊の方をちらりと見た。湊はまだ眠っている。
 芽衣は、湊が一度起きたことも知らずに、湊の寝顔を見つめながら、彼が自然に起きるのを待っていた。
 けれど、やがて、遠くから聞こえてきたのは、学校の始業を告げるチャイムの音だった。
 チャイムの音が静かに響き渡り、芽衣はその音を聞いて少しだけ覚悟を決めた。

「……湊くん、起きて」

 芽衣が湊に声をかけると、湊はゆっくりと目を開け、眠そうに芽衣を見つめた。

「……鈴城?」

「うん、もう学校が始まっちゃったよ」

 湊は少し目をこすりながら、周囲を見渡し、学生たちの姿がもうない通学路をぼんやりと眺めた。

「そっか……。もうそんな時間か」

 湊は芽衣に軽く笑って見せたが、その笑顔にはどこか切なさが混じっていた。

「なんだか今日は空気が重いな」

 湊が、ぽつりと呟いた。雲が空を覆い尽くして、雨の前ぶれのような湿った空気が体にまとわりつく。遠くで雷鳴が小さく響くのが聞こえて、まだ降り出していない空を見て、湊はふうっと息を吐いた。

「湊くん、憂鬱なの? それって、私のお母さんのところに行くから?」

「バカだな。天気が悪いだけだよ」

 湊は、こんなときまで、すぐに自分のせいにする芽衣を見て、はかなく笑った。

『こんなとき、”バカだな”って言いながら、鈴城の頭をぽんぽんってなでてあげられればな……』

「湊くん……?」

「え、ああ……、そういえば、鈴城のお母さんの職場ってどこ? ここから近い?」

「すぐそこよ。渡辺通。薬院駅の次のバス停で降りたら、そこから歩いて三分くらい」

「なるほど、あのあたりか」

「うん、お母さん、七階の回復期病棟で働いてるから」

「まだ少し早い? 少しここで時間をつぶしてから、行こうか? 鈴城、なにか食べる?」

 湊から聞かれて、芽衣は首を横に振った。
 いろいろなことが重なりすぎてか、芽衣は、食欲がまったくなかった。

「そうか。じつは、俺もなんだ。ブログの更新でもするか……」

『……とは言うものの、もう書きたいことがないんだよな』

 湊は、ふと笑った。ブログにつづっていたのは、誰にも言えないひそかな気持ちだった。
 寂しくて、悲しくて、耐えきれない気持ちを吐き出すことで、湊は救われていた。
 けれど、今、芽衣が現れて、湊はスマホの画面ではなく、芽衣に気持ちをぶつけたかった。
 そう思うと、湊の指先は、画面の上で微動だにしなかった。

 ブログを更新するフリをして、湊はただ時が静かに流れるのを待った。
 何度見ても、訪問者のいない自分のブログを見ながら、そうするしかなかった。

『……無駄だな』

 湊は自分にそう言い聞かせ、スマホをポケットにしまい込んだ。

「そろそろ行こうか」

 湊は芽衣に声をかけ、ようやく腰を上げた。

「うん……」
 
 二人が重い足取りでバス停に着くと、ほどなくして博多駅行きのバスがやってきた。先に芽衣がバスに乗り込み、湊もそれに続くと、二人は静かに座席に腰を下ろした。並んで座るのに、その距離がどこか遠い。芽衣は手元を何度も握りしめたり開いたりしながら、窓の外をぼんやりと見つめた。

(なんだか、この静けさが怖い……)

 時間が経てば経つほどに、なんだか言いようのない不安が芽衣の胸に広がっている気がした。
 それはただ単に天気のせいなのか分からないまま、やがてバスは、病院の最寄りの渡辺通一丁目バス停に到着した。
 芽衣と湊がバスを降りると、重たい曇り空が、さらに二人の心を押しつぶすようだった。
 病院に向かって歩きながら、芽衣はぽつりと言った。

「……本当に、お母さんに会えるのかな……」

「会えなくても、確かめるしかないだろう」

 湊は淡々とした声で答えたが、その表情はどこか強ばっていた。
 芽衣はもう分かっていた。こんなとき、嘘でもいいから「大丈夫、きっと会えるよ」なんて、湊は言わない。
 けれど、どんな結末を迎えても、湊ならそばにいてくれる、そんな確信にも似た気持ちが、重い芽衣の足取りを一歩前に進ませていた。

 芽衣は黙って病院の入口に足を踏み入れた。湊もその隣から寄り添うように、芽衣に続いた。
 受付では守衛が二人をじっと見つめ、「面会は二時からです」と硬い口調で言った。制服姿の二人を見て、少し怪訝な表情を浮かべる守衛に対し、湊は静かに言った。

「一昨日から連絡が取れなくて、彼女のお母さんに会いたいんです」
「……なるほど。君、名前は?」
「鈴城芽依です」

 公園で一夜を明かしたこともあり、二人の制服はくたびれて、”普通”でない様子が守衛伝わってしまったようだった。
 守衛は二人の姿を上から下までじっと見た後、電話を手に取り、現場に確認の連絡を入れた。
 けれど、返答を受け取った守衛の表情はさらに険しくなり、二人に目を向けた。

「おそらく『そんな子は知らない』って言われたんだろうな……」

 湊は小さく呟き、芽衣に目を向けると「行こう」と言い、今来た道を戻ろうとした。

「え? 湊くん、だって、まだ……」

「いいから、鈴城。早く来るんだ」

 湊が思わず、芽衣の腕を強く引いた瞬間、触れたその感触が、ふと湧き上がるかつての記憶を呼び覚ました。

(――あの日……)

 芽衣の脳裏に、五階の教室が鮮やかに浮かび上がった。窓の外に広がる空は、今の重たい曇り空とは違い、まばゆいほどに晴れ渡っていた。
 けれど、その空とは対照的に、心は今の曇り空のように暗く、出口のない閉塞感に満ちていた。

 芽衣は教室の窓に手をかけ、静かに立ち尽くしていた。
 夏休みだと言うのに、課外授業の毎日。
 なんのための授業なのか、なんのための進路なのか。
 進学するって、夢も目標もないのに、どこへ?
 就職するって、やりたいことも見つからないまま、どこへ?
 うわべだけの人間関係に疲れ果てて、この先の人生もそれがずっと続くかと思うと、苦しくてたまらなかった。

(……ここから飛び降りたら、すべて終わるのかな……)

 そんな思いが、まるで渦を巻くように頭の中を駆け巡っていた。足元がぐらつく感覚がする。全身に冷たい汗がにじみ、視界がぼんやりと揺れている。

 そのとき――。

「鈴城! やめろ!」

(ああ、声が聞こえる)

 芽衣は、そう思った。
 湊の声が響き、彼の手が強く芽衣の腕を掴んだ。あのときも、今と同じように──。
 その瞬間、湊の温もりが、確かに芽衣を現実へと引き戻したのだ。

(……湊くん……)

 その感覚は、今の湊の手の感触と重なり合う。 
 湊が腕を引く力が、現実へと芽衣を引き戻していたあの瞬間とまったく同じだ。
 記憶の中で感じた湊の焦り、そして絶望的な状況でも彼女を救おうとする必死さが、今よみがえって、芽衣は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。呼吸が止まり、体が一瞬硬直する。
 湊もまた同じ記憶を目の当たりにし、その先を知るのが怖くて、衝動的に手を離した。
 その直後、突然、二人の腹に鋭い痛みが走った。同時に体に重さがのしかかるような感覚を覚え、芽衣は顔をしかめて、湊はじっと耐えた。
 ますます不審がる守衛を見て、湊はひたいに流れ落ちる冷や汗を拭いながら、芽衣に「出よう」と短く伝えた。

『なんだ、あの記憶。俺は、あの日の鈴城を救えたのか』?

 外に出ると、湿った空気が湊の体にまとわりつき、天気はいつ急変してもおかしくない状態だった。
 湊は、空を見つめたまま、抱いた懸念を口にできずにいた。

『まさか、俺たち──……、死んでないよな?』

 その瞬間、遠くで雷鳴が再び響いた。
 初めて抱いたその気持ちが恐ろしくて、湊はぶるっと身震いした。

『でも、だとしたら、この痛みは? この感覚は? 俺には確かにこの湿った風も、感じられるのに……!』

 湊は、つかめない風をつかむかのように、必死に手を伸ばした。
 湊の手が何度も空を切り、湊は切なげに目を見開いた。

『どうしてなんだ!』

「湊くん、あれ……」

「なんだよ!?」

 無意識にいらだちを芽衣にぶつけてしまい、湊の強い口調に、芽衣は驚いた。

「あ、ごめん。でも、ほら、あそこ……」

 湊が謝る暇なく、芽衣は申し訳なさそうに、横断歩道を歩いている夏帆を指さした。

『影山? なんで!?』

 二人の存在に気づかず、こちらへ向かってくる夏帆の顔色は悪く、顔面蒼白だった。

『……早退? また、”あいつ”とケンカしたのか??』

 夏帆はぼうっとしたまま歩いていて、二人の前まで来ても、そのまま通り過ぎようとしていた。

「待てよ、影山」

 湊が呼び止めると、夏帆はびくっとその肩を震わせて、湊たちの方を振り返った。

「影山、学校は?」
「早退よ。見てわかんない? 自分たちだって……」
「俺たちは、さぼり」

 湊がそう言うと、夏帆は泣き崩れるように頭を抱えこんだ。

「わかんない。ほんとあんたち、なんなの?! あたしが芽衣、あんたをいじめたから? だから、なに? 復讐してるの? みんなで知らないフリして、あたしを苦しめてるの?」
「影山、落ち着けよ」
「気づいたんでしょ? 表面上の和解で……、あたしが全然反省してないって。そうよ、悪いなんて思ったこと、一度もなかった!」

 夏帆はすすり泣きながら、声高に叫んだ。
 道行く人がそんな夏帆を見ても、気にもせずに、夏帆は続けた。

「ずっと心にひっかかってた。あたしが悪いみたいに言われて、なんでって……。いじめられる芽衣にも、弱さがあって、悪いんだって思ってた」

 それは初めて聞く夏帆の本心で、芽衣は胸の前でぎゅっとこぶしを握った。

「でも、あたしだって、笑って卒業したいよ。別に許してくれとも思わないし、悪いなんて……、思ってないよ。だからこの間、初めて芽衣に挨拶したよね。なのに、なんで? 今になってこんな仕打ち……」
「影山、落ち着けよ、誤解だって」
「なにが? 浩平は急に冷たくなって、紀香だって……、ひどいよ。人の彼氏をうばうなんて」

 今朝、学校で夏帆に何があったのか、芽衣には詳細はわからなかった。
 それでも、夏帆の声には、信じていた人に裏切られたという深い悲しみと、怒りがこもっていて、その声を聞くだけで、芽衣は自分の胸が苦しくなるのを感じた。

(紀香――夏帆の親友だったはずなのに……)

 紀香が、夏帆の彼氏であった浩平に急接近して、付き合い始めるなんて、普通なら考えられないはずだった。
 けれど、かつていじめを受けたことのある芽衣にとって、人間の裏切りがどんな形で訪れるのかはわからなかった。
 誰がいつ、どんな理由で傷つけ、また誰が傷つけられるかなんて、決して予測できないのだ。

 彼氏や親友だと信じていた人たちからの裏切りの矛先は、芽衣に向かい、夏帆は息を大きく吐き出し、まるでその重苦しさを外に追い出すように、顔を上げた。

「あたし、謝らないから。芽衣、あんたに、絶対謝らないから!」

 顔を上げて、大粒の涙を流しながら芽衣に向かってそう叫び続ける夏帆の言葉は、まるで「ごめんね」と言っているかのように芽衣には聞こえた。強がりの裏に隠された夏帆の本当の感情を感じ取って、芽衣は悲しくほほえんだ。

(あたしが、湊くんに自分の気持ちを言えないのと同じなんだね)

 浩平にどれだけ「ありがとう」と伝えたかっただろう。
 もっとその先の気持ちを──、どれほど伝えようとしただろう。
 夏帆がすなおになれないそのもどかしさを感じ取って、芽衣も静かに膝をつき、視線を夏帆の高さに合わせてほほえんだ。

「もういいよ」
「なに……」
「私、もう許してるから」

 芽衣の静かな声が、二人の間に落ちた。
 その瞬間、夏帆は一瞬言葉を失い、ただ芽衣の顔を見つめた。何かを言いたそうに唇を開くものの、声は出ない。
 芽衣の言葉は、夏帆の心に深く突き刺さったようで、夏帆は目を伏せ、震える肩を必死に抑え込むように息を整えようとしていた。

 驚いたのは、芽衣だけでなく、そばにいた湊も同じだった。
 湊は、一歩後ろに立ちながら二人のやり取りを見守っていた。正直、自分がどうすればいいのか分からなかった。ただ、芽衣と夏帆の過去が複雑に絡み合い、今この瞬間にその感情が爆発する様子を、黙って受け止めるしかない気がしていた。

『これで、本当に良かったのか?』

 湊の胸の中には、かすかな不安がよぎった。

『鈴城はこれで本当に影山を許せた……? それともまた、無理をしているんじゃないか?』
 
 芽衣の優しさが逆に彼女を苦しめてしまわないか、湊はふと心配になった。

 けれど、その考えを口にすることはできなかった。今、この瞬間に入り込むことは、二人の間にある長い時間と複雑な感情を壊してしまうような気がした一方で、慈愛に満ちた芽衣の眼差しを見て、湊は安心したように胸をなでおろした。

(鈴城は……、強いな)

 そう思いながらも、湊の心の奥にわだかまる感情があった。
 それは、芽衣が他の誰かと向き合う姿に対する、嫉妬にも似た複雑な感情だった。

『鈴城、どうして俺にはぶつかってこない? ……俺が本音でぶつからないからか?』

 湊は目を伏せ、気づかれないように小さく息を吐いた。そして再び、二人のやりとりに視線を戻した。

『自分の役割は、ただここにいて、二人を見守ることだよな。それでいい』

 ――そう自分に言い聞かせながら。

「……なんで? あたし、そんなこと……、言われたくないよ」

 涙がこぼれるのを耐え切れず、とうとう夏帆はしゃくり上げるように声を漏らした。今まで押し込んでいた感情が、ゆっくりと表に溢れ出し、やがてせきを切ったように涙が止まらなくなった。
 夏帆は自分の頬を伝う涙を手でぬぐいながらも、次々とあふれ出す感情をどうすることもできず、ただそこに立ち尽くしていた。

 芽衣は、そっと夏帆の髪に触れ、その背中をなでた。夏帆の震える背中からは、言葉にできないほどの悲しみが伝わってきて、芽衣も自然と目頭が熱くなった。

「やめてよね、そういうの!」

 夏帆は、芽衣の手を払いのけ、急に立ち上がった。

「あたし、あんたなんか……、大きらいなんだから!」

 その言葉にこもった力は、どこかの照れ隠しのようにも見えて、芽衣は小さく笑みをこぼした。

「明日はさぼるんじゃないよ! さぼったら、ますますきらいになるからね!」

 夏帆はそう言うと、いまさらながらに自分の泣き顔に気づいて、制服の袖でごしごし自分の顔をこすると、勢いよく走り去っていった。
 芽衣はそんな彼女を見送りながら、静かに立ち上がり、湊の方に目を向けた。

『鈴城、どうしてそんなふうにほほえんでいられるんだ……。こんな状況でも、俺を見つめて、まるで何もなかったかのように……』
 
 湊は黙って芽衣の隣に立っていたが、その顔には少しだけ安堵の表情が浮かんでいた。
 けれど、その裏側には、押し寄せる不安が湧き上がっていた。