今日も、いつもと変わらない日常のはずだった。
 退屈な授業に、神経がはりつめた人間関係。
 みんなが笑えば、自分も笑う。
 放課後になれば、どこかホッとして、急いで家へ帰る。
 慣れた手つきで、マンションのオートロックのカギ穴にカギを差し込んで、ドアが開錠されるのを待つだけ。
 そんないつものルーティンとは明らかに違う。
 鈴城芽衣は、マンションの前にぼうぜんと立ち尽くしていた。
「……家がない」
 マンションがないのだ。
 建物が跡形もなく消えて、ただの空き地となっている。

 芽衣は、目をしばしばさせながら、食い入るように空き地となっている場所を見た。
 何度見ても、そこは空き地だ。
 けれど、確かに自分はそこで、今朝、食事をとり、家を出た……。
 朝、いつものように六時半に起きた。月曜日の朝は、他の朝よりほんの少しだけゆううつになる。終わっていなかった宿題を片づけ、冷蔵庫のおかずを電子レンジで温めて、一人で朝ごはんを食べた。テーブルの上の鏡に視線を向けると、疲れた顔をしていないか少し気になって、長い黒髪を指でといたっけ。155センチの自分の背丈は、周りの友達と比べても小柄だと感じることが多い。ほっそりとした体型で、制服のスカートも少し長めに見えることが多いから、いつも気にして、制服の少し大きめの赤いリボンを整えたりしていた。
 そして、準備が終わって、八時少し前に家を出て、何事もなく学校へ向かった。
 芽衣がどこをどう思い返しても……、今朝は特に変わったことはなかった。
 マンションの解体の話など一切聞いていないし、そもそも、このマンションはつい最近建てられたばかりの新築だ。

「あの、ここにあったマンション、知りませんか?」
 道行く人にそんなことを聞くのはおかしいかもしれない、と一瞬芽衣は思った。
 けれど、今の芽衣には、そう聞くしか方法がなかった。
 ちょうど犬の散歩をしていた女性を呼び止めると、女性は、驚いたような顔をして、不思議そうな表情で芽衣を見つめた。
 制服を着ていなかったら、もっと不審な目で見られていただろう。
「ここにマンションなんて、ないけど?」
「最近建ったばかりのマンションです」
 芽衣が必死に説明すればするほど、女性の顔は、さらに困惑したように曇っていった。
「ほかと勘違いしてるんじゃない? このあたり、マンション多いから」
 そう言いながら、女性は犬のリードを軽く引っ張り、「散歩中だから」という態度で、芽衣の前を通り過ぎて行った。

 芽衣は、どうしていいのか、まったくわからなかった。
 さっきのあの女性の目。なんてへんなことを言うのかしら、とでも言いたげな感じだった。
 犬の散歩をしているくらいだから、このあたりのどこかに住んでいるはずだろう。
 このあたりに引っ越してまだ三か月くらいの芽衣より、彼女のほうが地理に詳しいのかもしれない。
 けれど、このあたりの地理なら、芽衣もかなり自信があった。
 中高一貫の学校に通い、高校三年生の今年で、この通学路ももう六年目になる。
 学校が終わって、いつも利用するバス停の向かい側の空き地に、「建設予定地」とマンションが建つ立札の看板が立ったころから、この場所をずっと見てきた。建物の骨組みから、出来上がるまで日々目の当たりにして、ちょうどバス停の真正面だったこともあり、室内が見えないようにと、背の高い木をマンションの前に植えられたことも知っている。
 そのマンションが、ないと言う。しかも、はじめから、そこに存在しないかのように。
 ありえないと思うのに、実際、今、芽衣の前にはなにもないのだ。
 そこはただの空き地で、かつてあった立札の看板すらない。
「どうしよう……。どこに帰ればいいの……」
 芽衣は腕時計を見た。まだ夕方五時過ぎだ。
 両親に電話をかけても、電話に出てくれないだろう。
 学校に戻って、「家がなくなっているんです」と言っても、先ほどの女性と同じ反応が返ってきたらと思うと、うかつに引き返せない。
 空き地の前でうろうろしている芽衣を見ても、行きかう人は、誰一人として芽衣に声をかけなかった。
 これが福岡という街なのかもしれない、と芽衣は思った。
 小学校まで田舎のおばあちゃんの家で育った芽衣は、ご近所全員が知り合いで、困ったときは声を掛け合い、助け合うのが日常だった。
 中学受験をきっかけに、田舎から福岡市内に引っ越してきたとき、最初は街がきらきらして見えた。
 家の近くにバス停すらなかったのに、ここではひっきりなしにバスが来る。
 三十分、一時間とバスや電車を待っていた田舎とは大違いだ。
 わざわざバスに乗らなくても、徒歩圏内でじゅうぶん買い物ができた。
 カフェの多さ、コンビニの多さ、雑誌に載っているような服が普通に街のお店に売ってあって、まるで雑誌の世界に飛びこんだかのように思ったものだ。
 けれど、そのワクワクも、ドキドキも初めだけだった。
 仕事で忙しい両親は、芽衣が家に帰っても、いない。
 いつも真っ暗な部屋に電気をつけて、冷蔵庫にあるおかずを温めなおして、一人で食べる。
 福岡のマンションに引っ越して、ご近所さんとまったく顔を合わさないわけじゃない。
 もちろん顔を合わせる。会釈する。あいさつする。ただそれだけだ。
「これ予約していた梨。とれたてなのよー」
 頼んだわけじゃないのに、誰かがいつもなにかを持ってきたり、困っていると、誰かが必ずといっていいほど、声をかけてくれることがとても多かった。それをわずらわしく思ったこともあったけれど、いざそういうのが一切なくなって、自分の横を通り過ぎ去っていく人々を見て、芽衣は複雑だった。
 助けてほしいわけじゃない。ただ、一言、「どうしたの?」って言ってほしいだけなのに。

 芽衣は田舎のおばあちゃんに電話をかけようと、スマホをバッグから取り出しかけて、思い直した。
 おばあちゃんは、今年で八十になる。
 おばあちゃんに、「マンションが消えた」なんて言ったら、おばあちゃんがパニックになるに決まっている。
 芽衣は、別の相談相手を探すしかなかった。
 けれど、ほかに話すって誰に? 
 スマホのアドレス帳を開いてみても、話せる相手なんて誰も見当たらなかった。
 友達ならいるはずなのに、こんなとき、「冗談きついー」と笑う友達はいても、心配してくれる友達の顔が思い浮かばない。
 芽衣は、戻るしかなかった。かつて引っ越す前の家に。
 幸い、引っ越す前の家も、ここからバスで四駅ほどいったところだ。
 もともと卒業も間近で、引っ越さなくても良かった。
 それでも母親が、昔からこの浄水地区にあこがれのようなものがあったらしく、浄水通りに新築の分譲マンションが建つと、目を輝かせていた。
「浄水通りって、住んでみたかったの。閑静な住宅街で、街の景観もいいし」
 芽衣は、閑静な住宅地というより、「高級住宅街」の間違いではないかと思った。
 芽衣にとって、ここにあったマンションは、ただたんに坂の多い場所にあるマンションで、すぐ近くにコンビニもなく、学校が近いことしかメリットはなかった。
 それがなくなった今、嬉しいという感情より、とまどいがあふれ出ていた。
「とりあえず、戻ってみよう」
 芽衣は、反対車線側にあるバス停を見た。
 来た道を少しだけ戻り、博多駅行のバスに乗り込むと、深呼吸しながら、きゅっと唇を噛みしめた。

(昔、住んでいた薬院駅前のマンションに戻れば、なにか分かるかもしれない……)
 
 部屋番号ははっきり覚えている。706号室だ。
 そこに別の人が住んでいても、703号室の明菜さんとは顔なじみだ。
 明菜さんが何をしている人なのかは知らないけれど、学校が早く終わる日、三時半過ぎくらいに帰ると、マンションのエントランスやエレベーター前の廊下ですれ違うことが多かった。
「あらー、芽衣ちゃん、今、帰りなの?」
 年はおそらく四十代。少し厚化粧で、物腰は柔らかい。いつも落ち着いた笑顔を浮かべているのに、どこか作り物のように完璧で、仮面のように見えることもある。
 芽衣は、明菜さんから声をかけられると、いつも作り笑顔を浮かべなくてもすんだ。それは、明菜さんの笑顔が自分よりもずっと不自然なほど作り込まれていて、逆にそれが自然に見えたからかもしれない。
 会えば気軽に話せる相手なので、どこか安心感があって、そのせいか、明菜さんに声をかけられると、芽衣は少し緊張が解けるのを感じていた。

 そんなことを考えているうちに、車内にアナウンスが流れた。
「次は薬院駅、次は薬院駅です。お降りの方は、お知らせください」
 薬院駅で降りるほかの乗車客が、すでにもうお知らせブザーを押したあとで、芽衣ははっとした。
 この調子だと、終点の博多駅まで乗って行ってしまいそうだ。
 バスが薬院駅前に着いて、降りる人の流れに沿って、芽衣は降りた。
 どきどきする心臓を抑えて、すぐ目の前の横断歩道に向かって歩いた。横断歩道を渡ってすぐ先に見えるマンションが、かつて芽衣が住んでいたマンションだ。
 三か月も前に退去したから、違う人が住んでいるに決まっている。
 確か、退去したときも、「もう次の人は決まっています」と不動産の人が言っていた気がする。
 もちろん、もう当時のカギは持っていないし、たとえ持っていたとしても、使えるわけがない。

(やっぱり明菜さんと話すしかない……)

 芽衣は、赤信号を見ながら、横断歩道の手前で止まった。
 いっそこのままずっと赤ならいい。
 信号が変わって、真実を確かめに行かないといけないのは、気が重かった。
 容赦なく信号が変わり、芽衣は横断歩道を渡った。
 築三十年の白い建物がすぐ目の前に見えてくる。
 芽衣は、かつて住んでいたマンションのオートロックの玄関前で立ち止まった。
 深呼吸して、明菜さんのいる部屋番号を押し、呼び出しボタンを押す。
(お願い……。出て……!)
 何度押しても、応答する気配はなかった。
 思い返せば、明菜さんと会うのは決まって午後過ぎで、夕方に会うことはなかった。
(ひょっとしたら、この時間、明菜さんはいないのかもしれない)
 仕方なく、芽衣は、かつて自分が住んでいた部屋番号を押してみた。
 もし違う人が応答したら、そのときは「間違えました」と謝るつもりだった。
 けれど、今度も、応答はなかった。
 知り合いは、ほかにいない。
 
(こうなったら、両親のどちらかか、明菜さんが帰ってくるのを待つしかない……) 

 誰かを待つ時間は、どうしてこれほど長く感じるのだろう。
 芽衣は、落ち着かない様子で、エントランスの前を何度も行ったり来たりした。
 そのとき、宅急便のトラックがやってきて、芽衣の前で停まった。
 いくつか荷物を抱えて、小走りでこちらへ向かってやってくる。
 芽衣がさっとよけると、宅配のお兄さんは軽く頭を下げた。
 呼び出し音が何度か響いて、お兄さんは荷物を抱えたまま戻ってきた。
 どうやら不在だったらしい。
 芽衣はなんとなしにその様子を見ていたが、お兄さんが、芽衣の前を通り過ぎて、エントランスのすぐとなりにある白いドアを開けて、はっと思い出した。
 そうだった。このマンションには、エントランスのほかに、郵便ボックスと宅配ボックスがいっしょになった小さな部屋があって、そこには誰でも入れるのだ!
 芽衣は、そのことを思い出し、宅急便のお兄さんが帰ったあと、もう一度、そのドアを開けた。
 ずらっと並んだ郵便ボックスが見える。
 このマンションの総戸数は、四十個だ。すべてのダイヤルはロック式になっていて、解除する仕組みになっているものの、郵便を入れるために開いた窓の部分は、郵便ポストの口が広く感じられ、手を伸ばせば簡単に中の郵便物が取れそうだった。
 かつて自分が住んでいた706号室の郵便ボックスの前で、芽衣は顔を少し寄せた。
 手を伸ばし、中のものを無作為に取るものの、どれも投函されたチラシばかりだった。
 芽衣はため息をつきながら、備え付けのゴミ箱にチラシを捨てて、もう一度、手を突っ込んだ。
(こんなところ、誰かに見られたら困る……)
 そう思いながら、手を伸ばし続けて、手当たりしだい、中のものを無造作につかんだ。
「これは!?」
 茶封筒のようなものが手に当たり、芽衣はそれを引っ張った。
 手紙だ。送り主は塾らしい。塾の名前が、封筒の下部に大きく書かれている。
 また塾からの案内……、どこも同じような内容だ。ついこの間、芽衣のもとにも、夏期講習の案内が届いていた。夏休みといっても、夏休みらしい日常はなくて、やれ補習授業だ、やれ特別授業だといったぐあいで、結局、あっという間に夏休みが終わってしまった。先週、二学期が始まったものの、新学期という感覚がなく、芽衣にとっては日常の延長のようなものだった。
「今度はなに? 秋の特別講習とか?」
 苦笑いしながら封筒を見て、芽衣はぎょっとした。
「鈴城芽衣様」
 宛名には、はっきりそう書かれていた。