トートバッグを肩にかけて立ち上がると、教室に残る生徒の数人が顔を上げた。

「レンレン、もう帰るのー?」
「バイトだってよ」
「そうなのね! 頑張ってね!」

 窓から差し込むオレンジ色の光に照らされて笑うクラスメイトたちに、俺は黙ったまま会釈した。絵の具と筆を手に画用紙を彩っていく姿に背を向けて教室をでる。
 あんなに親しげに話しかけられると、今までのように全力無視をすることができなくなった。そのためのこの格好なのに。

(話しかけてこなくていいのに……)

 俺は疲れている。
 学校は今、絶賛文化祭の準備中だ。
 去年は劇をするってことで、俺は空気に徹していたし練習にも参加せずすぐ帰っていた。当然クラスメイトたちも関わってこなかった。

 今年は画用紙に色を塗ってデカイ四枚の絵を作って展示するらしい。初めは個々の作業が多いみたいだったから黙々と画用紙に色を塗っていた。それがいけなかったようだ。

 教室にいると文化祭準備中のマジックなのか、ポツポツと話しかけてくるやつが出てきたのだ。不良っぽく去年みたいにサボればよかった。
 最初は無視していたが、何度も話しかけられるとずっと無視しているのもしんどいんだよな。相槌だけ打つようになった。
 そこから少しずつ会話するようにしたら、目つきが悪くて喋らないだけで意外と無害な人間だとバレてしまったみたいで。

 心臓の強い宇宙人たちがガンガン話しかけてくるようになってしまった。
 どうしてこうなってしまったんだ。勘弁してくれ。俺は話すのが嫌いなんだ。
 舌打ちしたり悪態ついたりすればよかったんだろうか。

 ふらふらといつもの商店街を歩いていると、駅の方から見慣れた長身が歩いてきたのを見つける。
 俺は知らず知らずのうちに足を早めて片手を上げた。

「大和」
「蓮君、今日は文化祭の準備いいの?」

 向こうも大股ですぐに寄ってきてくれる。
 癒しだ。
 鼓膜を引っ掻くこともない落ち着いた低音も、必要以上に動かない表情も。それに加えて、俺の顔見て嬉しそうなのも。
 こんなの、生まれてこの方大和しか会ったことがない。

「今日はバイトだって抜けてきた」
「嘘つけるようになったんだ。すごいね」
「褒めちゃダメだろ」
「結構大事だと思うんだよね」

 笑う大和が定食屋の暖簾をくぐるのに、少しソワソワしながらついていく。気がついた大将と女将さんは、

「おー! いらっしゃい」
「あら蓮くん、夕飯食べてく?」

 なんて、当然のようにニコニコしてるからホッと力が抜けた。嘘をついて抜けてきたって罪悪感も、この温かい空間だと溶けて流れていった。

「お前といると落ち着くー」
「最近疲れてるよね」

 大和の部屋に入ると、二種類のクッキー缶が勉強机に置いてあるのが真っ先に目に入って毎回口元が緩む。見ながら勉強すると、捗るらしい。本当に好きだよな。
 俺がいつもの座椅子を倒してうつ伏せに寝そべると、近くで胡座を掻いた大和が頭を撫でてくれた。

「赤色の絵の具で何か描いてたの?」
「んー、そう……ってなんで分かった?」
「髪の毛に少し色がついてた。血かと思ってちょっとびっくりしたよ」

 どうやら知らないうちに絵の具に髪が付いたか、絵の具の付いた手で髪を触ってしまったらしい。
 確かに色が赤だとビビるよな、と笑ってしまう。

 我ながら、他人の部屋とは思えないくつろぎっぷりだ。こんなことをする日がくるとは思わなかった。
 体が座椅子のクッションに吸い付くままに脱力した俺は、大和の手の温もりが気持ち良過ぎて目を閉じる。

「クラスのやつがやたら話しかけてきて。こっちは一言返すだけで神経すり減らしてるってのに」
「蓮君にとっては災難だねぇ」

 一般的には喜ばしいことらしい。
 担任が「最近は友だちができてきたんだな」ってわざわざ声を掛けてきたくらいだ。新しく出来た友だちは大和一人なんだけど、俺「はぁ」という適当な返事をして横をすり抜けてしまった。

 色んな生徒がいるからって放っといてくれるいい人だと思ってたけど、本当はクラスに馴染んで欲しかったらしい。
 余計なお世話だ。好きでぼっちやってんだよ。

 俺はクッションに額を擦り付けてため息を吐く。

「昼休みもせっかく一人でいるのに寄ってくるやついるし。どんな話でも聞いてくれて優しいじゃねぇんだよもー」

 金髪を梳くみたいにゆったり動いていた大和の手がピタリと止まった。相槌もない。
 たったそれだけで、俺は急激に不安になった。

(愚痴っぽくなりすぎた? それとも俺だけ喋りすぎ?)

 座椅子にうつ伏せになっている俺と、俺の頭に手を乗せているだけの大和。なんとも間抜けな絵面でしばらく硬直状態になる。
 部屋の壁にかけてある木製の針時計が秒を刻む音しかしなくなった。

 俺が秒針の動きを数えるのも飽きてきて胃がキリキリし始めたころ、ポツンと大和が口を開いた。

「蓮君のこと、好きなんじゃない?」
「……」
「蓮君?」

 もしかして、それを言うための間だったんだろうか。そんな、ありえないことを。
 言うかどうかを迷ってた間だったのかもしれないな。そういえば恋愛の話とかしたことがなかったから、話題に出すのを躊躇したのかもしれない。

「んー……うーん……」

 そんな訳ねぇだろって思っても、大和の声のトーンが真剣すぎて一蹴していいものなのか迷う。
 向こうが一方的に話しかけてくるだけだし、俺にそこまで興味があるとは思えない。本当に、ただ話を聞いて欲しいだけって感じなんだ。

「違う、と思う」
「そっか」

 考え過ぎて歯切れの悪い返事になってしまった。
 大和はそれっきり黙ってしまって、手も離れていく。俺はうつ伏せ状態で、顔を上げるタイミングを見失ってしまった。

 どんな顔をしているのだろう。少しでも見れば、意外と普通の顔をしていて安心出来るのだろうか。
 何か喋らないと。せめて座ろう。
 そう思って体を起こすと、大和は膝に握り拳を置いて俺を見下ろしていた。

 初めて会った時よりも感情の見えない顔だった。

 俺は、きっと「何か」間違えたんだろう。
 でもそれが「何か」分からなくて、混乱した頭のまま立ち上がろうとする。

「そろそろ帰るな。お前も疲れてるだろ」
「あ、蓮君」

 座ったままの大和が俺の手首を握った。反動で体が傾き、座椅子の骨がギシリと鳴る。大和は反対の手で俺の肩を支えてくれた。
 半袖の上から感じる手のひらの体温に安心した俺は、恐る恐るだけどもう一度大和の顔を見る。

「どうした?」
「……なんでもない。気をつけて帰ってね」
「おう……おやすみ」

 心に秘めたものを押し込めた無表情。
 最近気づいたことがある。大和は感情が表に出にくいわけじゃなくて、出さないように気をつける癖がついている。
 それがなんでかは聞いたことはないが、人と仲良くなり過ぎないため、なんだろう。

 俺が「言いたいことがあるなら言え」って食い下がったら話してくれるのかもしれない。
 でもそれは嫌われる可能性がある諸刃の剣に思えて、俺は一歩踏み込めないまま大和から離れる。
 いつもなら玄関まで見送りに来る大和は、立ち上がらずに手を振った。

 部屋のドアを閉めると、せっかく開いていた大和の心の扉も閉まった音がする。

 どうして?
 さっきまで、すごく優しかっただろ。
 俺は何を間違えた?

 本人に聞かなきゃ答えは出ないのに、俺は怖くて逃げてしまった。