今日から五月に入った。ヴィオレッタは、レジ台の横にある壁掛けカレンダーをめくり、ビリリと破る。
 来週から、モン・プチ・ジャルダンに女の子がやってくる。期間限定で、いわゆる職業体験をしてもらうのだ。
 兵庫県では、県内の公立中学校に通う二年生を対象に、職場体験などを通して地域について学ぶ活動を実施している。
 期間は一週間で「トライやる・ウィーク」と呼ばれる。一九九八年度から始まったらしい。
 地元民を自称するヴィオレッタは、残念ながらつい最近までこの活動を知らなかった。
 屈んでレジ台の下をのぞくと、昼寝をするモネの姿があった。ヴィオレッタはしゃがみ込んで、モネを揺り起こす。
「モネ、来週から女の子がひとり来るからね! ちゃんとお利口にしててよ?」
 ユサユサと揺らされたモネが、薄目を開ける。
「わたしは人間で、普通のお姉さん。モネは、わたしに飼われているごくごく一般的なわんこだからね。魔法使いだとか、使い魔だとか。ぜったいにバレちゃダメだからね!」
 ヴィオレッタは、モネに念を押した。
「ん? なんだ? 女の子……?」
 眠たい目を前足でこすりながら、モネが訊ねる。
「もう! 来週の月曜日から働いてもらう話、ちゃんとしたでしょ?」
「き、聞いてないぞ! 新たにバイトを雇うのか?」
 モネは飛び起きて、ヴィオレッタに詳細を確認する。
「働いてもらうのは、一週間だけだけどね」
「なんだそれ。短期バイトか? 一週間だけ雇って、何か意味があるのか?」
「ぜったいにあると思うわ! トライやる・ウィークは、素晴らしい取り組みだと思うの」
 ヴィオレッタが腕組みしながら、うんうんと納得していると。
「なんだ? とらい……?」
「トライやる・ウィークよ。簡単に言うと職業体験ね。毎年、この時期になると実施されているみたいなのよ。わたし、すっかり神戸を地元だと認識していたけど、知らないことってまだまだたくさんあるのねーー!」
「そ、その職場体験とやらで、人間の女の子がうちに来るのか……?」
「そうよ!」
「冗談だろ?」
「あら、わたしは大真面目よ。なんかね、最近は受け入れ先の企業を探すのがたいへんみたいなの。先生方も、とっても苦労されているみたいでね」
 常連のお客様に、中学の先生がいるのだ。
 あれは、先々月のこと。先生が来店した際、職業体験の話題になった。受け入れ先を見つけるために奔走していると聞き、それならとヴィオレッタは立候補したのだった。
「すごくお困りのようだったし、話を聞いていると興味もあって。受け入れても良いかなって。ほら、うちはお菓子を作ったり、接客をしたり、ハーブのお世話をしたり。たくさん仕事があるじゃない? とりあえず、ひとりなら受け入れ可能かなって思って!」
 男子でも女子でも受け入れ可能。ただし、なにぶん初めてのことなので、受け入れる生徒はひとりとお願いした。
 結果、お菓子作りが趣味だという女生徒が来てくれることになったのだ。
 先生から連絡を受けたときは、とにかく嬉しかった。同時に責任を感じた。
「ちゃんとお預かりしなきゃね!」
 と、モネに話した記憶があるんだけど……。
 そういえば、あのときもモネは微睡んでいた。まさにここ、レジ台の下で。
「俺はムリだぞ。子ども相手なんて! ぜったいにお断り!」
 モネが地団駄を踏む。
「社会貢献にもなるのよ?」
「魔女が社会貢献なんてして、どうするんだよ!」
「もうOKの返事しちゃったもの。来週から、うちでも『トライやる・ウィーク』が始まるのよ!」
「な、そんな勝手に……」
「忙しくなるわ~~! とりあえず、大夏くんと詳しい打ち合わせしなくっちゃ!」
 モネのことはサクッと放置して、ヴィオレッタは大夏のいる作業場へと向かった。
「とりあえず、笑顔の練習をしています」
 作業場へ行くと、極めて真面目な顔をした大夏がいた。「笑顔の練習」とやらの真意が分からず、とりあえず話を聞いてみる。
「そんなもの練習して、どうするの?」
「女の子を怖がらせないようにするためです。顔の造形は変えられませんが、せめて愛想を良くすれば、好印象かと思いまして」
 そう言って、大夏が練習を始める。に、にこ……と笑顔を作った。
 残念ながら、顔が引きつっている。口角の上がり方も不自然だ。慣れないことをするものではないな……と、ヴィオレッタは心の中で思った。
「接客は、わたしが教えようと考えているんだけど。作業場のほうは、大夏くんにお願いできないかと思って。簡単な飾り付けとか、他にもいろいろ」
「分かりました」
 不自然な笑顔で大夏がうなずく。
「怖がらせたくないって思う大夏くんの気持ち、とても良いとは思うんだけど。一週間も作り笑顔でいるの大変じゃない?」
「実は、これかなりしんどいです。もうすでに表情筋が限界で……」
 不自然な笑顔から、悲しげな表情に変わる。
「大夏くんは、そのままの大夏くんで良いと思うわ! 心配しなくても、女の子は怖がらないと思う」
 ヴィオレッタの予感だ。
 魔法使いであるヴィオレッタの予感なので、間違いなく的中する。予知夢のようなものだ。
 自信満々のヴィオレッタに対して、大夏は「本当に大丈夫だろうか……」と落ち着かない様子だ。
「身体を小さくする方法ってないでしょうか? ちょっと威圧感があり過ぎますよね?」
 作業場にある鏡の前に立ち、大夏が筋肉もりもりな自分の身体をチェックする。真剣な顔つきで鏡を凝視している。
 さすがは「気にしぃ」な性格だ。
「人間の身体を小さくする方法なんて、あるわけないじゃない」
 魔法を使えば、できないこともないんだけどね……。またしても、ヴィオレッタは心の中でひっそりと思った。



 翌週、職業体験をする女子生徒がモン・プチ・ジャルダンにやって来た。
 少女の名前は、桐嶋音々(きりしまねね)
「よろしくお願いします」
 深々と頭を下げる。ひとつに結んだツヤツヤの長い髪が、さらりと揺れた。
「こちらこそ、よろしくね! わたしは、店主のヴィオレッタ。こっちは常盤大夏くん。たいてい作業場にいて、お菓子を焼いたり、ケーキにデコレーションをしたり。ときどき接客もしてくれるの!」
 紹介をしながら、肘で大夏をつつく。
「よ、よろしく……」
 ヴィオレッタに促されて、ちょっとビクビクしながら大夏が挨拶をしている。
 怖がられないか心配するあまり、無愛想になってしまったらしい大夏を見て、ヴィオレッタは苦笑いする。
 気を取り直して、モネの紹介もする。
「この白いわんこは、モネといってね。うちの看板犬なのよ」
「お、俺が看板犬……? そんなの、初めて聞いたぞ!」
 ちょっと焦ったモネの声が、頭の中に響く。
「洋菓子店に意味もなく犬がいるなんて、よくよく考えたら変でしょ? だから、急遽看板犬ということにしたのよ。ちゃんと、普通の犬のふりをしてよ?」
「……分かったよ」
「看板犬なんだから、愛想良くして」
「うるさいな」
 文句を言いながら、モネが笑顔を作る。
 ニ、ニヘァ……。
 ちらりと舌をのぞかせながら、なんともいえない顔つきになる。ぎこちない笑みだ。
 モネといい、大夏といい、どうしてモン・プチ・ジャルダンの男子は笑顔が下手なんだろう。ヴィオレッタは、密かにため息を吐いた。
 音々のために準備していたエプロンを手渡し、ちょっとたどたどしく着用する彼女をヴィオレッタは見守る。
「……フリフリのエプロンだな」
「可愛いでしょ? わたしとお揃いよ」
 モネの声に、ヴィオレッタは満面の笑みで反応した。
 真っ白な生地にレースがついたお気に入りのエプロンなのだ。
「ちょっとチグハグじゃないか?」
「……確かに、そうね」
 音々は、ブルーの体操服を着用している。残念ながら、体操服は可愛さとは無縁だ。音々の可憐さをも失わせている。
「音々ちゃん。制服じゃなくて、体操服なんだね」
 彼女が通う中学は、公立だけれど制服がけっこう可愛い。シンプルだけど、クラシカルな印象もあるセーラー服なのだ。ヴィオレッタは、密かに「いいなーー!」と思っていた。
「ふん。良い年してなにが『いいなーー!』だよ。人間の制服? まったく! 魔女として恥ずかしくないのか?」
 モネが何やら言っているけれど、そんな戯言は、さくっと無視をして。
「決まりなんです」
 後ろに手を回して、エプロンを結びながら音々が答える。
「そっかーー!」
 かなーーり、残念だ。小柄で妖精みたいに可憐な音々には、もっと似合う服があるのに……!
 二階のクローゼットに眠っている洋服を着せたい衝動に駆られる。
 繊細で可愛いドレスとか! シルエットが美しいワンピースとか!
 あれ、ワンピース……?
 ヴィオレッタは、自分が来ている淡いグリーンのワンピースをまじまじと見た。自分で縫ったワンピース。お気に入りの、とーーっても可愛い洋服。
 これは、モン・プチ・ジャルダンの制服で、作業着で……。
「音々ちゃん。お店に制服があったら、それを着ることはできるの?」
 もしかしたら、彼女に可愛いワンピースを着てもらえるかも! 
 ヴィオレッタが、音々にたずねると。
「はい」
 こくん、と音々はうなずいたのだった。



 二階の住居スペース。ソファに腰かけたヴィオレッタの手元を、ランプが明るく照らしている。
 今日は、縫い物をするのにピッタリな静かな夜だ。まだ湿気を含んでいないカラリとした風が部屋に侵入してくる。
 風に揺れるカーテンのそばで、ヴィオレッタは小一時間ほど前から針を動かしていた。
 音々のためのワンピースを縫っているのだ。
 初めは、自分とお揃いの生地にしようと思った。淡いグリーンのワンピースに、真っ白なレースのエプロン。
「わたしと音々ちゃん。ふたりで並んだら、姉妹みたいで素敵かなって思ったんだけどね」
 ふかふかのソファの上。ヴィオレッタの膝掛けを布団代わりにしたモネが、ゆっくりと顔をあげる。
「ヴィオレッタと姉妹? それは、さすがに厚かましいんじゃないか?」
「うるさいわね。この際、実年齢は関係ないの! だって、外見だけならじゅうぶん音々ちゃんの姉で通用するじゃない?」
「……まぁな」
「でも、わたしと音々ちゃんだと、髪の色がぜんぜん違うから。同じ色のワンピースにするのはやめたの。彼女の黒髪が映えるように、ちょっと深いグリーンにしたのよ!」
 裁断した生地をモネに見せる。
 白い肌、濡れたように美しい黒髪。それから、この深いグリーンのワンピース。
「ぜったいに似合うわ~~!」
 彼女が袖を通す瞬間のことを考えると、ときめきが止まらない。
「髪の色が違う姉妹! 複雑な家庭環境だな!」
 ニヒヒと笑うモネの声は、聞こえないふりをする。
 ヴィオレッタは、ランプのそばにあるガラスの器に手を伸ばした。チョコレート菓子をひとつ摘まんで、ぽいっと口に放り込む。
「ん~~! 美味しい! すっご~~く甘いわ!」
 針仕事の疲れを、一気に吹き飛ばすほどの甘さだ。
「俺にも!」
 モネがせがむので、ヴィオレッタはひとつ摘まんで、その口に押し込んだ。
「これは……甘い爆弾だな」
 モネの言う通り。見た目は小さくて可愛いのに、その甘さは暴力的。
「疲れたなーー! っていうとき、甘いものが欲しいとき。これ一粒で満足できるわね!」
「確かにな。でもこれ、初めての味だ……」
 モグモグしながら、モネが甘い爆弾を堪能している。
「コンデンスミルクとココアパウダーを混ぜ込んで作ってるのよ」
 粘り気が出るまで加熱して、冷ましてから小さな球状にする。そして、チョコスプレーをまぶしたら出来上がり。
「ブラジルのお菓子なの」
「またブラジルか……。このあいだの、ほら、やたらカラフルなゼリーのやつもそうじゃなかったか?」
 ジェラチーナ・コロリーダのことを言っているのだろう。
「そうよ。ちなみにこれは、ブリガデイロという名前らしいわ。アナマリアが新しいレシピを送ってくれたのよ。それで試しに作ってみたの」
「例の魔女友?」
「そうよ」
「アナベルじゃなかったか?」
「違うわよ。アナベルは清里に住んでる魔女で、アナマリアがブラジル在住なの」
「ややこしいな。レース編みが得意なのが……どっちだ?」
「そっちがアナベル」
「名前が似てるから、余計にややこしいぞ」
「双子なのよ」
 レース編みが得意なのがアナベル。お菓子作りが好きなのがアナマリア。容姿は瓜二つだ。ふたりの写真を見せると、モネは「ますます、分からん」と言った。
 そうして、ブリガデイロをまたひとつ、ヴィオレッタにせがんだ。
「甘いものをつまみながら、ゆったり針仕事をする。とっても素敵で、贅沢な時間よね……」
 チクチクと針を動かす。
「ご自愛とかいうやつか?」
「そうよ」
「しっかり寝るのがいちばんだけど、たまには夜更かしをするのも悪くないわ。楽しいことをすると、元気が出るじゃない?」
「ふうん。……俺は、もう寝るぞ」
 さっきから、モネの目はショボショボしている。
 ぽすっとクッションに頭を置いて、それから間もなく、ぐうぐうと気持ち良さそうなモネの寝息が聞こえてきた。



 糖分補給のおかげで、夜の針仕事はすいすいと進んだ。
 無事、音々のワンピースが出来上がった。糸の始末をして、最後にハサミで「じょきんっ!」と切る。この瞬間が好きだ。
 カーテンを開けると、空が白み始めていた。すっかり明け方だ。
 ヴィオレッタは少しだけ仮眠をとった。それから、いつもより少し濃いめのブラックコーヒーで目を覚ます。
「今日も一日が始まるわ~~!」
 ぐいぐいと身体を解すように軽い体操をしてから、身支度を整える。
 まだ半分眠っているモネを抱っこして一階に降りる。しばらくすると、大夏がやって来た。
「おはようーー!」
「おはようございます!!」
 いつもより元気いっぱいな大夏に、ヴィオレッタはちょっと驚く。
 どうやら、大夏の心配事が杞憂に終わったらしいのだ。
「俺のこと、ぜんぜん怖がっている様子がないんです!」
 大夏は嬉しそうだ。切れ長の瞳がキラキラしている。
「お前の勘違いじゃないのか? どう見てもデカいし、怖いぞ?」 
 ふわぁ……! とあくびをしながら、モネがいじわるを言う。
「すっごく良い子ですよ! 怖がらずに俺と話してくれましたし」
 相手が怖がっているのか、いないのか。大夏には、なんとなく分かるらしい。
「お前さ『良い子』の基準が低すぎないか?」
「俺が説明すると、毎回きちんとメモを取ってるんですよ! めちゃくちゃエライです!」
「そうしろって、学校で指導されてるんだろ」
「ちゃんと『おはようございます』とか『失礼します』とか、挨拶もできるし」
「そんなのは当たり前だろ」
「良い子が来てくれて本当に良かったですね! ヴィオレッタさん!!」
 モネの声は、大夏には聞こえていない。なので会話は成立していないはずなのだけれど、奇跡的に成立している気もする。
 そんなことをしていたら、音々がやって来た。
 ヴィオレッタは、明け方に完成したばかりのワンピースをサッと広げて音々に見せる。
「可愛いでしょ?」
「は、はい……」
「モン・プチ・ジャルダンの制服です」
「そうなんですか?」
 音々は驚いている。本当に制服なのであれば、初日から準備していないのはおかしい。
 更衣室で体操服からワンピースに着替えてもらう。
 着替えているあいだ、ヴィオレッタは魔法を使いたくてうずうずした。
 一瞬で着替えを完了させたい。音々がワンピースに袖を通した姿を、一刻も早く見たい……!
 しばらくすると、更衣室の扉がガチャリと音を立てて開いた。
「天使……!」
 あまりの可愛さに、ヴィオレッタはクラリとなった。
「すっごく、似合うわーー! 可愛い! とっても可愛い~~!」
「あ、ありがとうございます」
 ちょっと恥ずかしそうに、音々が頭を下げる。
 褒めすぎな自覚はあるけれど、許して欲しい。
 やはり、それぞれに似合う色というのは存在する。深いグリーンにして正解だった。ものすごく映えている。音々の良さをすべてかき消していた、あの体操服とは雲泥の差だ。
「そのワンピース、実用的で良いですよね。ヴィオレッタさんを見ていて気づいたんですが、ちょっと大きめに作られてて。いろいろ作業もしやすそうですし」
「そうなのよーー! これ実は、すっごく動きやすいの。着ていて楽チンだし!」
 大夏の言葉を聞いて、意外にちゃんと見ているのだなとヴィオレッタは感心した。
 音々には、昨日に引き続き作業場でお仕事をしてもらった。果物の皮を剥いたり、コーヒーゼリーにクリームのしぼったり。
 もともと先生からも「お菓子を作るのが好きな子」と聞いていたので、接客よりも作業場メインのほうが良いかなと判断した。
 ちらりと作業場をのぞくと、ケーキにデコレーションしている音々の姿があった。大夏に指導してもらいながら、真剣な表情で仕事をしている。
 音々は、どうやらかなり大人しい性格のようだ。表情もほとんど変わらない。なかなか笑顔を見せてくれない。初めは緊張しているのかも? と思ったけれど、どうやら違うようだ。
 でも、自分から大夏に指示を仰いだり、テキパキと動いたり。とても勤労意欲に溢れているのが見て取れる。
 そんな音々の姿を見て、ヴィオレッタは感涙していた。
「中学生なのに、お仕事してるわ……」
「なんとかウィークでここに来てるんだから、そりゃ仕事するだろ」
「何度も言わせないで、トライ・やるウィークよ。」
「はいはい」
「尊いわね……」
 ひたすら目頭が熱い。
 袖口で涙を拭いながら、ヴィオレッタは音々の姿を眺める。
「台を拭いてるだけだぞ?」
 モネは、ヴィオレッタを見てちょっと呆れている。
「わたし、こんなに涙もろかったかしら……?」
「年のせいじゃないか?」
 失礼極まりない犬のことは無視だ。無視に限る。
「若い子が一生懸命な姿って、とても感動するのね。知らなかったわ……」
 ぎゅうぎゅうと胸が締め付けられる。
「それにしても、最近の女子中学生というのは、ああいうもんか?」
「どういう意味?」
 足元にいるモネに、ヴィオレッタは訊ねる。
「暗すぎないか? 子どもというのは、もっとキャンキャンしてるもんだろ?」
「キャンキャンって……。子犬じゃないんだから。それに、音々ちゃんは暗いんじゃなくて、物静かというのよ」
「ワンピースだって、もっと喜んでもいいのに」
「じゅうぶん喜んでたわよ」
「あれで?」
「そうよ。だって、心の中の『嬉しい』っていう彼女の気持ち、すごく伝わってきたもの」
 本当に、とても嬉しそうな声が聞こえた。
 でも同時に、音々の心の中にある澱のような存在にも、ヴィオレッタは気づいてしまったのだ。



 火曜日、音々がやって来て三日目の朝。
 今日は早朝からバタバタしている。実は、昨日の夕方に大口注文が入ったのだ。フィナンシェとカヌレ、ダックワーズを五十個ずつ。
 ウェディングパーティーの引き出物に使いたいとのことだった。 
 旧レイン邸で、明日開催されるウエディングパーティー。準備していたはずの引き出物が、手違いで届かないことが判明したらしい。
 それで急遽、モン・プチ・ジャルダンに問い合わせがあったのだ。
 旧レイン邸からほど違い洋菓子店で、味はもちろん見た目にもこだわっている。ウエディングパーティーの引き出物にはピッタリだと判断されたのだろう。
 ちなみにフィナンシェは、しっとりとやわらかい食感が特徴の焼き菓子だ。アーモンドパウダーと焦がしバターをたっぷり使った香ばしさが魅力で、紅茶によく合うといわれている。
 マドレーヌと混同されることが多いけれど、ちゃんと違いがある。マドレーヌは全卵を使用するのに対して、フィナンシェは卵白のみを使う。
 食べる直前に、オーブントースターで少しだけ焼くのがおすすめ。ふわりと香りが際立って、とても美味しくいただける。
 カヌレは、釣り鐘のような形をした焼き菓子だ。「溝のついた」という意味があり、正式名称はカヌレ・ド・ボルドーという。
 日本では一九九〇年代にブームが起こり、最近になって再び流行した。中にクリームを入れるアレンジ商品も多数登場している。
 外側は香ばしく、内側はしっとり。ヴィオレッタは、冷蔵庫で冷やして食べるのが好きだ。モネはオーブントースターで焼いて、カリッとさせたものが好み。
 ダックワーズは、アーモンド風味のメレンゲを使った焼き菓子で、フランスではもともとホールケーキの土台として使われていた。現在の小さくて楕円形のものは、和菓子の最中をヒントにして考案された。
 本来のフランスの発音は「ダコワーズ」で、響きが良いため「ダックワーズ」に変えて売り出したらしい。
 表面はパリッとして、中はふわふわの食感。サンドするクリームによって味わいの変化を楽しめるのも、ダックワーズの魅力なのだ。
 ヴィオレッタは、店舗のレジ台横にあるスペースで、包装に使用するハーブのミニブーケを作っている。
 フィナンシェとカヌレ、ダックワーズは、それぞれ透明の袋に入れてから包装紙にくるむ予定だ。麻紐で十字に縛り、ハーブのミニブーケを挿せば出来上がり。今回は、時間がないのでフレッシュハーブを使用している。
「おしゃれで可愛いブーケにしないと……! なんといっても結婚式よ。ひとつひとつ、心を込めて作らないとね」 
「それにしても、急だな」
 庭から摘んできた大量のハーブを眺めながら、モネがつぶやく。
「最初は、お断りしようと思ったのよ? さすがに間に合わないと思ったし。でも、大夏くんが『大丈夫です』と言ってくれたから。お引き受けすることにしたの」
「あいつは働き者だな……」
 感心したように、モネが作業場に視線をやる。
 大夏が、朝早くからせっせと働いている。その隣には、真剣な表情の音々の姿があった。 
 普段からお菓子作りをしているという音々は、立派な戦力だ。大夏の指示に従い、黙々と作業を続けている。
「意外と良いコンビだよな」
「大夏くんと音々ちゃん?」
「そう。大夏は、弟子ができたみたいで嬉しいのかもな。やたら張り切ってるし」
「素敵な師弟関係ね……!」
 ふたりが働く姿を見て、ちょっと感動してしまった。思わず、ヴィオレッタの手が止まる。
「まぁでも、冷静に考えたらチグハグな組み合わせだよな。デカくて厳つい男と、小柄で可憐な少女」
 ニヒヒ、とモネが笑う。
「あら、麗しい魔女とずんぐりした犬の使い魔だって、かなりチグハグだと思うわよ?」
「おい、ヴィオレッタ。自分で麗しいとか言うなよ。それになんだよ『ずんぐりした犬』って! 俺は可愛い癒し犬だぞ!」
 短い前足で、ダンダンと床を叩く。
 そんな風にヴィオレッタとモネが戯れていると、大夏から声がかかった。大口の注文分が完成したらしい。
 作業台に、ずらりと並んだフィナンシェとカヌレ、ダックワーズに感動する。
「すごい数ね……!」
「なんとか間に合いそうですね」
 袋に詰める作業が残っているけれど、ここまで来たら、もう完成したも同然だ。
「ありがとう。大夏くんのおかげよ!」
 大夏は安堵した様子だ。さすがに、ちょっと疲労が滲んでいる。
「音々ちゃんも、本当にありがとう。とっても助かったわ!」
「わたしは、楽しかったです……」
 静かに、ぽそぽそと音々が言う。
 よく見ると、音々の頬に白い粉が付着していた。おそらく薄力粉かベーキングパウダーか……。とにかく何がしかの粉なので、ヴィオレッタは袖口で音々の頬を拭った。
「あ、すみません……」
 ぽそぽそと頭を下げる音々が可愛くて、ヴィオレッタの胸がぎゅうっと痛む。
 ご褒美を!
 あげたい……!!
 思わず、ヴィオレッタは心の中で叫んだ。頑張った音々にご褒美をあげたい。どんなご褒美が良いかな……? ヴィオレッタが真剣に考えていると、モネがうずくまって耳を押さえていた。
「ちょっとモネ、どうしたの?」
 ペタリと床に仰向けになり、両前足で耳をぎゅっと押さえている。初めて見る体勢だ。
「ヴィオレッタが叫ぶからだろ! いきなり大音量の声が聞こえたら、びっくりするじゃないか!」 
 どうやら、心の中で叫んだのがマズかったらしい。
「この会話方法って、便利なんだけど。やっぱりときどき不便よね……」
 うずくまるモネを見ながら、ヴィオレッタは改めて確信した。
「……それで、ご褒美って何をするんだ?」
 ヴィオレッタを忌々しく見上げながら、モネがたずねる。
「やっぱり、甘いものじゃない?」
 ヴィオレッタの提案に、モネは「またか」という顔をする。
「多めに作ってないのか?」
「もちろん、少しは多めに作ってもらったけれど。残念ながらフィナンシェもカヌレも、ダックワーズも、皆が食べられるほどには無いわね」
 どうしたものかしら……。
 ご褒美スイーツを皆で味わいたいのに。
 う~~ん、とヴィオレッタが悩んでいると。
「ご褒美、スイーツですか……?」
 大夏が反応する。どうやら、心の声が漏れていたらしい。
「突然の大口注文に対応してもらったでしょう。労いと感謝の気持ちを込めてね。今日は、店舗のほうは落ち着いているし。何か、とっておきのスイーツを皆で食べようと思って!」
 ヴィオレッタの提案に、大夏は目を輝かせる。
「あ、あの! だったらプリンアラモードとか、どうでしょうか……?」
 遠慮がちに大夏が訊いてくる。
 プリンアラモードは、カスタードプリンとバニラアイス、ホイップクリームや色とりどりの果物を盛り付けたデザートだ。
「とっても良いじゃない!」
「モン・プチ・ジャルダンのカスタードプリンが大好きなんです。飾り付けをしたら、ご褒美感もあるかなって……」
「さすが大夏くんね~~! カスタードプリンは、すでにショーケースに並んでいるし。あとは、バニラアイスとフルーツね。わたし、バニラアイスを作るわ!」
「じゃあ、俺は生クリームを泡立てます。ホイップをたっぷりしぼって、可愛く盛り付けたいので」
「可愛いもの好きな従業員がいると、頼りになるわねーー! あ、音々ちゃんには、フルーツの皮むきをおねがいするわね!」
「わかりました」
 腕まくりをする大夏の隣で、音々が小さくうなずく。
「俺は? 寝たままで良い?」
 やる気ゼロパーセントの顔で、モネが笑う。
「もう! 初めから手伝う気なんて、モネには無いんでしょう?」
 棚からバニラエッセンスを取り出しながら、ヴィオレッタはモネを軽くにらむ。
 愛嬌たっぷりなヘラヘラとしたモネの表情を見ていたら、ちょっといじわるをしたくなった。
「大夏くん! ホイップは三人分で良いからね! 今日は三人で、プリンアラモードパーティーをしましょう」
 にっこりと笑うヴィオレッタに、大夏は「はい!」と大きくうなずく。
「素敵なパーティーになりそうだわ!」
 ミルクと上白糖を混ぜながら、ヴィオレッタがうきうきしていると。
「俺は? 俺の分は?」
 モネが慌てて起き上がる。
「さぁ、どうかしら。大夏くんが途中でモネの存在を思い出したら、作ってくれるんじゃない?」
「あいつ……! 俺のことを忘れるなんて、ぜったいに許さんぞ……!」
 いつになく真剣な顔つきで、モネが作業場をうろちょろと歩き回る。
 自分の存在を精一杯、大夏にアピールしている。
「おい! こら、大夏! こっちを見ろ。俺がいるだろ! 俺の分もホイップを作れーー!」
 フガフガという荒い鼻息に大夏が気づくまで、モネはひたすらアピールを続けていた。
 ヴィオレッタは、ちょっと大ぶりなガラスの器を用意した。その中央に、カスタードプリンを配置する。
 このカスタードプリンは、モン・プチ・ジャルダンで安定した人気を誇るスイーツだ。なめらかな舌触りと、カラメルの香ばしさがたまらない一品。
 そのカスタードプリンの上に、ホイップクリームをくるくるっとしぼる。
 果物は、バナナ、イチゴ、キウイ、リンゴ。それぞれ美しいカットが施されている。
 大夏に指導されながら、音々はリンゴの飾り切りに挑戦した。
 洗ったリンゴを皮付きのまま、四等分に切る。それから芯を取り除く。端から四ミリくらいのところに包丁をあて、中心に向かってV字にカットする。切り口と平行にするのがポイントだ。
 内側に向かって同様にカットしていく。最後に形を整えれば、美しいリンゴのリーフが完成する。
 最初はたどたどしい手つきだったけれど、すぐに慣れてすいすいカットする音々を見て、大夏はちょっと驚いていた。「飲み込みが早い」と言って、どこか嬉しそうだった。
 飾り付けの最後に、ホイップの上でチェリーを乗せる。豪華で、心躍るプリンアラモードの完成だ。
「さぁ、皆で食べましょう!」
 作業場の隅っこに椅子を用意して、皆でテーブルを囲む。
 モネはヴィオレッタの足元でホイップを舐めている。小さくカットしてもらったリンゴを満足そうな顔でしゃりしゃりと頬張っている。
 ヴィオレッタは、食べる前にじいっとプリンアラモードを眺めた。
 ぷるんとしたプリンと、キラキラ輝くフルーツ。真っ白でほわほわなホイップ。美しい……! そして美味しそう……!
 向かいに座る大夏も、ヴィオレッタと同じくプリンアラモードを眺めている。きっとその美しさに感動しているのだろう。
 何から食べようか散々迷った結果、ホイップを軽くすくってみた。
 そっと口に入れると、優しい甘さに感動した。決して甘すぎず、ふわふわとした食感。続いてカスタードプリンを口に運ぶ。
「美味しい……!」
 なめらかでトロリとした舌触り。濃厚な甘さとカラメルのほろ苦さ。ホイップの甘さが控えめだから、それぞれの風味を口の中で感じる。
 新鮮なフルーツは、どれもこでも瑞々しい。飾り切りが施されているので、食べるのがもったいないくらいだった。
 大ぶりの器にぎっしりと盛られていたけれど、ぺろりと平らげてしまった。
 大夏はもちろん、音々の器も空っぽだ。
 足元を見ると、空になった器をモネが名残惜しそうにペロペロと舐めていた。
「はぁ~~! 美味しかったわねーー!」
「満タンになった気がします。お腹はもちろん心も。何だか気分が晴れやかになりました」
 大夏が満足そうな顔で微笑む。
 その隣では、音々が「ごちそうさまでした」と小さな手を合わせている。
 何だか、胸の奥がほこほこする。
 モン・プチ・ジャルダンに音々がやって来て、今日で三日目。少しずつ彼女の気持ちが、柔らかくなっている。固く閉じてひんやりしていた部分が、じんわりと温かくなっているのが気配で分かる。
 こういうとき、自分は魔女で良かったと、ヴィオレッタはいつも思うのだった。



 翌日の午後、音々の担任がモン・プチ・ジャルダンに姿を見せた。
 この浅水ゆうな先生は、常連のお客様だ。ヴィオレッタが、トライ・やるウィークを知るきっかけになった存在でもある。
「生徒さんの様子を順番に見て回ってるんですか? 先生のお仕事も大変なんですね」
 ヴィオレッタは、淹れたてのハーブティーを浅水にすすめた。
「温かいうちにどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます。……受け持っている生徒全員の様子を確認しているので、一ヵ所にあまり長い時間いることができなくて。本当は、皆が働いている姿をもっとじっくりと見ていたいんですけど」
 なかなか慌ただしいスケジュールのようだ。
 よく見ると、表情には疲労の色が滲んでいる。
 ハーブティーに口をつけた浅水が、「ふうっ」と声を漏らした。
「これ、美味しいですね……! ハーブティーって、わたし初めていただいたんですけど。こんなに飲みやすかったんですね。気分がスッキリするような、でもホッと落ち着くような……。とっても美味しいです」
 ハーブティーがお気に召したようで、ヴィオレッタも嬉しい。
「ありがとうございます。実はそのハーブ、音々ちゃんと一緒に収穫したんです」
「え、そうなんですか?」
 午前中、お客様が途切れた時間を見計らって庭に出た。その際、一緒に収穫したのだ。
「ハーブのお世話は、土に触れる作業でもあるんですけど。音々ちゃんは嫌がらずに、それどころか自分から『やってみたいです』と言ってくれて。とても熱心に作業をしてくれるんです」
 ヴィオレッタの視線の先には、庭で作業をする音々の姿がある。大夏と一緒に、肥料を撒いている最中だった。
 店内からガラス越しに、ふたりが黙々と仕事をしている様子を浅水も眺めている。とても、真剣な表情で。
「桐嶋さんが、生き生きと働いている姿を見ることができて……。わたし、とても嬉しいです」
 安堵したように、ポツリと浅水が言った。
「……桐嶋さん、お家のことで、ずっと悩んでいたと思うんです」
 浅水は、持っていたマグカップをソーサーに戻した。
 食器の触れ合う、カタリという音がやけに大きく響いた。
「お家のこと、ですか……?」
「はい……。一年ほど前に、お母さんが再婚なさって。それで、桐嶋さんには新しいお父さんと妹さんができたんです。わたし、桐嶋さんが一年生のときにも担任をしているんです。そのとき彼女は『坂井』という名字でした」
 母親の再婚で、名前が変わったのだ。
「もともと、物静かな子ではありましたけど……。でも、明らかに一年生のときとは違うんです。ずっと表情が沈んでいて……」
「そうだったんですか」
「でも今、桐嶋さん一年生のときと同じ顔をしています。顔つきが違うというか、瞳に力があるというか……。こちらのお店で働くことができて、きっと何か心境の変化があったんだと思います。良かった。本当に良かった……」
 浅水の瞳のふちに、じわりと涙がにじむ。
 その瞬間、彼女が直面している状況がヴィオレッタの中に流れ込んできた。
 先生という仕事は、ヴィオレッタが思っているよりもずっとハードらしい。 
 長時間労働は当たり前で、部活動があるため土日も休みが取れない。生徒や保護者の対応も大変で、彼女は心身ともに擦り減っている。
「さっき……。皆が働いているところ、もっとじっくり見たいと言いましたけど。学校でも同じなんです。本当は、もっとひとりひとりの生徒に向き合いたい。時間を作って、話を聞いてあげたい。何か、わたしに力になれることがあったら。でも、そう思っても日々の業務に追われて、結局はわたし、生徒たちに対して何もできなくて……」
 テーブルの上に、ポタリと涙が落ちた。
 浅水が、ズッと洟をすする。
 ヴィオレッタは、静かに語りかけるように言った。
「浅水先生、少しだけお時間ありますか?」
「え……?」
 浅水が顔をあげる。
「プリンアラモード、食べませんか?」
「……プリンアラモードって、あのたくさん飾り付けされた?」
「そうです。その飾り付け用の果物を音々ちゃんが切ってくれたので。ぜひ食べて行ってください」
 ガラスの器いっぱいにデコレーションしたプリンアラモード。ヴィオレッタが準備したそれを、浅水はまじまじと見つめる。
「食べたこと、ありませんか?」
「いえ、たぶん、子どものときに。何度か、食べた記憶はあるんですけど……」
「大人になったら、どういうわけか食べる機会がないですよね」
「はい……」
 浅水が、ゆっくりとスプーンを手にする。
「でも、本当はプリンアラモードは、大人にこそ必要なんじゃないかって思うんです」
「大人……」
「自分で自分を癒すために」
 浅水が、ハッとした表情になる。
「わたし、毎日のように、夜遅くに帰る生活なんです。休みもほとんどなくて。そういえば、もうずっと長いあいだ、自分のことを労わってあげていないです」
 浅水の心情が、辛い気持ちが、ヴィオレッタの中にじわじわと浸食してくる。
『自分を労わることなんて、必要ないと思ってた』
『特別、自分だけが頑張っているわけじゃないと思ってた。周りの皆が出来ているんだから、わたしだってやらなくちゃいけない』
『自分が望んだ仕事』
『子どもたちを放り出すわけにはいかない』
『でも、朝起きると辛い……』
 彼女の気持ちが分かって、ヴィオレッタの胸はキリキリと痛んだ。
「……先生は、ちゃんと生徒さんのことを見ておられると思います。限られた時間の中で、ちゃんと向き合っている。さっき、おっしゃっていましたよね、音々ちゃんのこと。顔つきが違う、瞳に力があるって。ちゃんとひとりひとり、生徒さんを見ている証です」
 ヴィオレッタの言葉を聞いた浅水は、泣きそうな顔になった。
 目尻を手の甲で拭って、それからプリンアラモードを見た。スプーンでカスタードプリンをすくい、ぱくりと頬張る。
 浅水は、驚いたように目を見開いて「甘い……」とつぶやいた。
 ひと口、またひと口を食べ進めていく。
「ちょうど良い甘さで、すごく美味しいです……!」
 夢中で頬張って、気づくと器は空になっていた。
「……何だか、元気になった気がします」
 浅水がポツリと言った。
「わたし、お腹が空いていたんでしょうか……? すかすかだったところに、栄養が行き渡ったような。身体全部が満たされたような……。そんな感じがします」
「それは良かったです」
 ヴィオレッタは、にこりと微笑んだ。
 浅水は、外で作業をする音々を見守るように眺めいた。それからしばらくして、店を後にしたのだった。



 モン・プチ・ジャルダンの二階。仕事を終えたヴィオレッタは、ご自愛タイムを満喫している。アロマオイルでハンドマッサージをしている最中なのだ。
 甘さと清涼感のあるゼラニウムの香りに癒されながら、指先を優しく揉みほぐす。手の甲から手首、前腕部にかけては親指をぐっと押し当て、すべらせていく。
「あ~~! 気持ち良いわ~~!」
 ちょっと痛いくらいが好きだ。この「痛気持ち好い」感覚は、かなりクセになる。
 ヴィオレッタが極楽気分に浸っていると、ソファの上で腹ばいになったモネが話しかけてきた。
「魔法を使ったな」
「浅水先生のこと?」
「そうだ」
「……溢れそうなくらいに、ギリギリだったから。心の容量を少しだけ広げたの。彼女、忙し過ぎたのね。自分が極限の状態になって初めて、その状況に気づいたんだわ。ちょっとしたおまじないをしたから、考える余裕ができたはずよ。今度は満タンになる前に、色んな決断ができると思うわ」
「同情したのか?」
 モネの言葉に、思わずヴィオレッタの手が止まる。
「違うわ。共感よ……」
 そう言って、またゆるゆるとマッサージを再開する。
 ヴィオレッタは昔、とてもよく働く魔女だった。
 今だって、モン・プチ・ジャルダンで忙しくしているけれど、もっともっと慌ただしい日々だった。
「懐かしいな。『修理屋のヴィオレッタ』だったころが」
 ゴロン、と仰向けに体勢を変えながら、モネがしみじみと言った。
「……ほんと、懐かしいわね」
 ヴィオレッタは、魔法道具の修理が得意だった。
 幼い時分から、身近にあった魔法道具に触れると、大人の魔法使いたちが気づかないほどの小さな不具合を見つけることが出来た。もちろん、その不具合を修理することも。
 自然と周囲から「修理屋のヴィオレッタ」と呼ばれるようになり、次から次へと依頼が舞い込んできた。
 魔法使いは、世界中に散らばっている。ヨーロッパからアジア、海を渡って北アメリカへ。依頼があれば、すぐに現地に向かって魔法道具の修理をした。
「忙しない毎日だったな。地球儀を回してるみたいに、あちこちへ行って」
「自分の仕事が認められて、とても嬉しかったのよ。粉々になった魔法の杖を元通りにしたり、修復不可能と言われていた魔法陣を復活させたり。皆からの賞賛が嬉しくて、良い気になって。調子に乗っていたのね」
「わたしも、彼女と同じだったわ。疲れて、へとへとになっていること。自分のことなのに、まるで気づいていなかった」
「ヴィオレッタが、ご自愛上手になったのはそのせいだな」
「自分のことをちゃんと気にかけて、しっかり労わってあげないとね」
「俺は、昔より今の生活のほうが気に入ってるぞ」
「そうなの?」
「今は心安らかに昼寝ができる! 定休日もあるしな!」
 ふかふかのソファに身を沈めながら、嬉しそうにモネが舌を出す。
「あのころのヴィオレッタは、何かに取り憑かれたみたいに仕事ばかりしていたからな」
「心配してくれていたの?」
「当たり前だろ。使い魔なんだから」
 使い魔は、魔女の影響を強く受ける。
 魔女が疲弊すれば、使い魔は弱ってしまう。
 あのころのヴィオレッタは、隣にいるモネを気遣う余裕すらなかった。気づいたときには、モネはボロボロで。ふわふわの毛は見る影もなく抜け落ちていた。表情に精気はなく、やせ細った姿が痛々しかった。
 そうしたのは自分なのだと知って、全身が冷たくなった。
 今でも、申し訳なく思っている。
 ヴィオレッタが自分を癒しているのは、モネのためだ。ヴィオレッタが元気になれば、モネも力を取り戻す。
 モネには、ずっと健やかでいて欲しい。
 愛くるしい鼻ぺちゃの顔で、いつまでもニヘへと笑っていて欲しい。
 モネに聞こえないように、ヴィオレッタは「ごめんね」と小さくつぶやいた。 



 音々がモン・プチ・ジャルダンの来て五日目。いよいよ今日で最終日だ。
「はぁ。寂しくなるわね……」
 ヴィオレッタは朝からしんみりしている。
 必要もないのに作業場へ行って、彼女が働く姿を眺めてはため息を吐いている。
「おい、ヴィオレッタ。そんな風に意味もなくウロウロしてたら、仕事の邪魔だぞ」
 作業場の隅でおすわりをしながら、モネが呆れている。
「だって、寂しいんだもの……」
 項垂れていたヴィオレッタは、ふいに良いことを思い付いた。
「音々ちゃん!」
「はい。なんでしょうか……?」
 ナパージュでケーキのおめかし中だった音々が、ピタリと手を止める。
「音々ちゃんが着ているそのワンピース、大切に置いておくからね! もし良かったら、高校生になったらアルバイトしに来て? うんと時給をはずむから!」
 ヴィオレッタの提案……というか思いつきに、大夏が食いつく。
「それ、良いですね!」
 大夏の表情は明るい。女子中学生を怖がらせないか心配で、青い顔をしていたのが嘘みたいだ。
「そういえば、ヴィオレッタさん。音々ちゃんが持って帰るケーキのことなんですけど。先に選んでもらったほうが良いと思います。すぐに売り切れになる商品もあるので」
 大夏が、思い出したように言う。
「あ、そうね!」
 ヴィオレッタがコクコクとうなずく。
 音々だけが「何のことだろう……?」という顔をしている。
「音々ちゃん、今日で最後でしょ? すっごく頑張ってもらったから、何かプレゼントをしたいねって話してたの。それで、良かったらモン・プチ・ジャルダンのケーキを貰ってもらえないかと思って」
 本当は、アルバイト代をわんさか渡したい気分だけど、そうもいかない。
 大夏と話し合ったところ、作業しながら音々が「美味しそうです」と目を輝かせていたらしいと知った。それなら、思う存分ケーキを持って帰ってもらおうということになった。
「好きなだけ選んで良いわよ~~!」
 ショーケースの前で、真剣な顔でケーキを選ぶ音々を見て、ヴィオレッタは微笑ましい気持ちになった。
「あ、ありがとうございます。でも、さすがに食べきれないので……。自分と家族の分を、いただきます」
 音々は遠慮がちに、ショートケーキと桃のタルトを指定した。
「ママは、ショートケーキが好きなので……」
 そして音々自身は、スポンジケーキよりもタルト生地が好みらしい。フルーツの中では特に桃が大好物らしく、迷わずに桃のタルトに決めたようだ。
 うきうきしながらケーキを選んでいた音々の表情が、ふっと翳った。
「音々ちゃん……?」
 どうしたのかと心配になって、ヴィオレッタは声をかける。 
「あと、ふたつ……。父と妹の分なんですけど……」
 音々が下を向いた。
「わたし、ふたりの好みがよく分からなくて。どれを選べば良いのか、分かりません……」
 どこか寂しげな、途方にくれたような音々の声に胸がつまる。
 浅水から聞いていた、音々の家庭の事情を思い出す。
 母親の再婚によって、新しくできた家族のこと。
「……このあいだ、浅水先生がいらっしゃったでしょう。そのときにね、音々ちゃんのご家族のこと、ちょっと聞いたのよ」
 音々が、こくりとうなずく。
「新しい環境に慣れなくて。ちょっと家の中がギクシャクしているんです。わたしの、せいなんですけど……」
「音々ちゃんのせい?」
「……はい。わたし以外の皆は、新しい環境に慣れて、受け入れていて。でも、わたしだけが納得していなくて。そんなわたしに、皆は遠慮してるっていうか。気を使われているんです」
 新しい環境に慣れていないのは、自分だけ。そう思うから余計に孤独なのかもしれない。
「家族が増えて戸惑う音々ちゃんの反応は、別におかしいことではないと思うわよ?」
 音々が、ゆっくりと顔をあげる。
「むしろ当然の反応だ」
 大夏がうなずきながら、ヴィオレッタに加勢する。
「わたし、ママが再婚することに反対だったわけじゃないんです。むしろ良かったと思っていて……。でも、いざそうなったら違和感というか」
 抑揚のない声で、静かに音々が語る。
 感情的にならないように、必死に抑えているのが分かった。 
 いちばん奥にある気持ちを吐露しているはずなのに、こんなときにまで自分を抑える音々を痛々しく思う。
「少し前まで、わたしは『坂井音々』という名前でした」
「お母さんが再婚して、名前が変わったのね」
「はい」
「ずっと、わたし坂井音々だったんです。それなのに、急に桐嶋音々になって……。なんだか今の自分は、自分じゃないみたいなんです。以前の自分が、どこかに消えちゃったような気がして。もうどこにもいないような……。こんな風に考えるの、変ですよね」
「ぜんぜん変じゃないわよ……」
 本当に、何も変じゃない。おかしいことはない。けれど、それ以上の言葉が見つからなくて、ヴィオレッタは途方に暮れた。
 何と言ってあげれば良いのか。どうすれば音々の心が軽くなるのか。普通の人間よりもずっと長い時間を生きているのに、こんなときに何も言えない自分がイヤになる。
 スンスンと鼻を鳴らしながら、モネが音々に近づいていく。足元をドテドテと歩き回る。ビー玉みたいな瞳で、じいっと音々を見上げている。
 モネなりに、彼女を励ましているのだろう。モネの存在に気づいて、音々がふわりと表情を緩めたのが分かった。
「……俺も子どものころ、名前が変わった。君と同じように、親の再婚で」
 ヴィオレッタの隣にいる大夏が、ゆっくりと口を開いた。
 まさか、音々と大夏が同じ境遇だったなんて。
「混乱するのは当然だ。納得していないのに、勝手に自分の名前を取り上げられたような気がするよな? 大切な名前を奪われて、俺は悲しかった。同時に腹立たしく思った。新しい姓で呼ばれると、苛立っていたよ。その名前は、俺のことじゃないと思っていた」
「大夏さんも、そんな風に思っていたんですか……?」
 ちょっと驚いたような、でもホッとしたような表情で音々が問う。
「ああ」
「そんな風に考えるのは、決してわるいことじゃないと思うぞ。馴染みがなくて当然だし、違和感を持つことも、おかしいことじゃない」
「ずっと、自分じゃないような、変な感じのままなんでしょうか……。大夏さんは、慣れましたか?」
「俺は、少しずつ馴染んでいった。……というより、違和感を忘れていったと表現したほうが正しいかもな」
「そうなんですか……」
 大夏の言葉に、音々が小さくうなずく。何度もうなずきながら、耳をかたむけている。
「俺、は魚釣りが趣味なんだが」
 ヴィオレッタが「趣味?」と少し違和感をおぼえたところで、モネの声が流れ込んできた。
「おい、大夏が急に趣味の話を始めたぞ?」
 モネも同じことを思ったらしい。
「そ、そうね。とりあえず、話の続きを聞いてみましょう」
 隣の大夏をちらりと見る。釣りの話から、少しずつ出世魚の話題に変化している。
「出世魚というと、スズキとかですよね?」
「そうだ。初めて知ったとき、俺は衝撃だった。成長するだけで名前が変わるなんて。魚を見ながら、こいつも勝手に名前を取り上げられたんだなと思っていた」
 大夏と音々の会話を聞きながら、モネがヴィオレッタを見る。
「なんか、大夏ってかなりセンチメンタルだよな?」
「感受性が豊かな少年だったのよ」
「前から思ってたけど、やっぱり例え方が変だ!」
 眉間に皺を寄せながら唸るモネを、ヴィオレッタは「まぁまぁ」と宥める。
「たとえばブリだと、地方によって呼び名は変わるらしいんだが。関東の場合だと、ワカシ、イナダ、ワラサ、ブリの順だな」
「ずいぶん変わるんですね」
「君も、また変わる可能性あるぞ」
「……また、ママが離婚するって言うんですか?」
「いや、そうじゃなくて。君自身が結婚したら変わるだろ。……いや、今は夫婦別姓とかあるのかもしれないが」
「け、結婚ですか……。それは、ちょっと、想像がつかないです」
 音々が目をパチパチさせている。
「まぁ、どっちみち当分先だろうな」
「一生しないかもしれませんよ」
「それじゃあ『桐嶋音々』とは長い付き合いになるな」
「そうですね。大夏さんは?」
 音々が大夏を見上げる。
「俺?」
「変わる予定があるんですか?」
「俺は、今の名前と添い遂げようと思ってるんだ」
 生涯独身を宣言する大夏は、謎に誇らしそうだった。
 強張っていた音々の表情が和らいでいて、ヴィオレッタは胸を撫でおろした。
「ふん! 良い風に言うなよ。モテないだけだろ」
 モネが大きく鼻を鳴らす。
 大夏に向かって「もっと例え上手になったほうが良いぞ」「そのほうがモテるぞ」とモネが上から目線のアドバイスをしている。もちろん、大夏には届いていない。
 あと残りふたつ。父と妹のケーキを、大夏のアドバイスを聞きながら選んでいる。
「……良いコンビね。音々ちゃんが、いつか本当に大夏くんの弟子になってくれたら理想なんだけど」
 泣きそうになるのをグッと堪えて、心の中でモネに語りかける。自分の声を聞いて、ヴィオレッタは驚いた。
「心の中でしゃべっても、涙声になるのね。知らなかったわ……」
「長生きしていても、新発見がある。良いことじゃないか」
「確かに、そうね」
「それにヴィオレッタは、魔女なんだから。ふたりの未来が気になるなら、力を使って視れば良いだけだろ」 
 モネの提案に、ヴィオレッタは首を振った。
「あえて視えないようにしてるの。全身に力を入れて、これでもけっこう踏ん張っているのよ。気を抜いたら、ふたりの未来が今にも流れ込んでくる気がするわ」
「良い未来か? それくらいは分かるだろ?」
 興味津々の顔で、モネが迫ってくる。
「もちろんよ。だから、視ないようにしてるの」
 ヴィオレッタの返答に、モネは舌を出した。そしてニヘヘッと、愛嬌たっぷりの顔で笑ったのだった。



 ショーケースをキュッキュと磨きながら、ヴィオレッタはため息を吐いた。
「今ので、何度目のため息だ?」
 足元に寝転がったモネに指摘される。
「さぁ、分からないわ……」
 音々が帰ったあと、ヴィオレッタは急に寂しくなった。
「ぽっかりと心に穴が開いたような気分だわ」
「店を出てから、まだ十分だぞ」
 音々は、無事に一週間の職業体験を終えた。
 そしてつい先ほど、大事そうにケーキが入った箱を抱えて、モン・プチ・ジャルダンを出て行った。
「寂しいわ……」
 ショーケースはすでにピカピカで、磨く必要はない。けれど拭いている。妙に手持ち無沙汰なのだ。
「俺がいるじゃないか」
 だらんと寝転がったまま、ニヒヒとモネが笑う。
「そうね」
 ヴィオレッタが適当に返事をする。
 そして、再び手を動かし始めたとき。開け放たれていた窓から、湿った風が入ったきた。
「雨の匂いがするな」
 モネが鼻をクンクンさせている。
 しばらくすると、ポツポツと雨音が聞こえてきた。
 庭をのぞくと、ハーブたちが嬉しそうに雨粒を受けている。
「そろそろ梅雨入りだものね」
 雨のせいで、辺りは急に薄暗くなった。
 ヴィオレッタは窓を閉じて、カーテンに手をかけた。その瞬間。
 とてもイヤな感じがした。訪れて欲しくない、未来の予感。ひどく胸騒ぎがする。
 頭の中で、パシャリと音がした。水たまりを蹴る音だ。
 ビジョンが流れ込んでくる。薄暗い歩道。音々が歩いている。学校指定の大きな斜めかけバッグ。その中に、箱が入っている。ケーキが四つ入った箱。
 音々はバッグを揺らさないように、そっと歩いている。
 背後から、バイクが近づいて来た。二人乗りのバイクだ。
 イヤな予感が、どんどん増してくる。
 バイクのエンジン音が響く。バイクの存在に気づいた音々が、振り返った。
 そこで、ぷっつりと映像は途絶えた。
 ヴィオレッタは、呆然と立ち尽くした。
 無表情で棒立ちのヴィオレッタに、モネが気づいたらしい。
「おい、ヴィオレッタ? どうかしたのか?」
 ヴィオレッタは、持っていた布巾を投げ捨てた。そして、作業場へ向かって駆けだす。
「わわ……! ぷえっ! ふ、布巾が、顔に……!」
 投げ捨てた布巾は、モネの顔に見事着地した。突如として視界を覆われたモネが、転げ回って暴れている。
「大夏くん、わたし。ちょっと出てくるから。戸締りお願いね!」
 それだけ言って、放り投げるようにして大夏に店の鍵を預ける。
「え、ヴィオレッタさん?」
 戸惑う大夏を無視して、ヴィオレッタは二階に向かう。
 階段を駆け上って、クローゼットを開けた。ガサガサと漁っていると、布巾から逃れてきたらしいモネが息を切らして二階にやって来た。
「おい、ヴィオレッタ? 一体どうしてんだよ。そこで何してるんだ?」
 クローゼットを漁るヴィオレッタを見て、モネが首をかしげる。
「黒いワンピースを探してるのよ」
 滅多に着ることがないから、黒い魔女服は奥のほうで眠っている。ポイポイと服を放り出しながら、目当ての黒い衣装を探す。
「黒い服はイヤなんじゃなかったのか?」
「夕闇に紛れるには、黒い服が最適よ。それに、力を使うには一番だもの!」
 黒いワンピースは魔道具でもある。雨風を凌げる優れもの。そして、魔法の力も発揮しやすくなる。
「……まさか、ホウキに乗るのか?」
 モネが驚いた声を出す。
「音々ちゃんを助けるには、そのほうが早いわ! あ、あった!」
 一番奥に仕舞ってあった漆黒のワンピース。その裾をぐいっと掴み、ヴィオレッタはクローゼットから顔を出した。
 頭からすっぽりと被るようにして着用する。代々受け継がれてきた魔女服だ。
 大きめのサイズで、フィット感は皆無。なんともいえないダボッとした感じがするけれど、今は着心地のことを言っている場合ではない。
「助けるって、何かあったのか?」
「音々ちゃんがピンチなの! ほら、モネも早く準備するわよ!」
 使い魔にも黒い服がある。前後ろの足と、頭まですっぽりと入るタイプ。ひと言で説明するなら、わんこ用のレインコートに似ている。
「滅多に着ないから、もう! うまく足が入らないわね……!」
 犬に服を着せるのはむずかしい。レインコートにもなると、かなりの難易度だ。
「お、おい。ちょっと苦しいんだが!」
「もう! 暴れないでよ」
 耳が出ないように、顔の部分はゴムになっている。そのゴムがズレて、顔にかかっている。ちょっと苦しそうなのだけど、時間がないためこれでOKにする。
「行くわよ!」
 モネを横抱きにして、二階から一階に向かう。ホウキは外の掃除用具入れにあるのだ。
「このままか? ちょっとズレてないか?」
「大丈夫よ!」
 気にするモネを一刀両断しながら、ヴィオレッタは階段を駆け下りた。
 一階の店舗から外に出て、石畳をダッシュする。掃除道具入れを開け、ホウキをガシッと掴む。勢い余って、ブリキ製のバケツまで一緒に出てきた。「えいっ」と足で元に戻し、扉を閉める。
「行くわよ!」
 ホウキにまたがり、モネに声をかける。
「よ、よし! いいぞ」
 モネは、ホウキではなくヴィオレッタに抱き着いている。丸太にしがみつくような格好で、太ももにべたりとくっついているのだ。
 ヴィオレッタのスカートの裾がふわんと揺れた瞬間。
 びゅいーーん! と一気に空に舞い上がった。そしてそのまま、一直線に進んでいく。
「は、早すぎないか!?」
「落ちないでよ」
「やっぱり、いくらなんでも早すぎると思うんだが!」
 さらにゴムがズレて、半分顔が見えなくなったモネが叫ぶ。 
「どれだけスピードを出しても、違反にならないもの! 良かったわ、人間の運転する車みたいに取り締まりがなくて!」
 音々の感情が、ヴィオレッタの頭の中に流れ込んできた。
『痛い』
『すごく、痛い』
 今、彼女はとても痛がっている。怖い思いをしている。それがヴィオレッタには分かった。
「音々ちゃんが待ってるんだもの! スピードを緩めるなんて、できないわ!」
 上体を低くして、さらにスピードをあげた。
 山側の住宅地から、海側の街に向かって一直線に降下する。
 北野異人館街のメインエリアを抜けたところ。
 教会の前に音々がいた。尻もちをついた状態で座り込んでいる。ヴィオレッタは上空を旋回して、協会の裏手でホウキを降りた。
「音々ちゃん!」
 教会の表にまわって、音々の名前を叫ぶ。
「ヴィオレッタさん……?」
 音々が、驚いたように目を見張る。
「大丈夫!? どこが痛い?」
「あ、ちょっと。転んじゃって……」
 右足の膝の辺り。体操服が破れて、血が滲んでいた。
 ヴィオレッタは瞬時に、治癒魔法を使う。音々自身は自覚がないようだけれど、足首を捻っている。
「捻挫、けっこうひどいな」
 ヴィオレッタの横で、モネが怪我の様子を確認する。 
「バッグを取られてしまって。ひったくりだと思うんですけど。中学生のバッグなんて盗んで、意味あるのかな……?」
 背後からやって来たバイクにバッグを掴まれ、バランスを崩したらしい。
「そのときは、何とか踏みとどまったんですけど。追いかけようとして、転んじゃったんです」
「お、追いかける……!?」
「マジかよ。危ないだろ」
 ヴィオレッタは驚いて、思わずモネと顔を見合わせた。
「バッグの中に、ケーキを入れていたんです。とても大切なケーキだったから。皆でケーキを食べて、それがきっかけになると思ったんです。今日、わたしモン・プチ・ジャルダンで話をして、名前のこととか。それから、大夏さんの話を聞いて。お店を出たあと、歩きながら、自分の中にあったわだかまりが無くなっていることに気づいたんです。なんだか、そのことがすごく嬉しくて……」
 音々が手の甲で涙を拭う。
「わたし、妹に優しくできていなくて。自分のほうが年上なのに、冷たい態度で……。そのことを、ずっと後悔していて。まだ、妹がどんなケーキを好きかも分からないけど、モン・プチ・ジャルダンのケーキはどれも美味しいから。このケーキを渡して謝ろうと思って。やっと、それが出来ると思って。たくさんを話をしようって考えてて。それで……」
 気づいたら、夢中でバイクを追いかけていたのだという。
「そうだったの……」
 隣でブシュブシュと音がする。モネが洟をすすっていた。
「音々は良い子だぁ……」
 どうやら、もらい泣きしたらしい。
 そして気づけば、雨は上がっていた。通り雨だったらしい。
「あれ……? 何だか、思ったより痛くないかも……?」
 音々が、何か違和感に気づいたように、そっと自分の膝を確認する。
 彼女の怪我は、ヴィオレッタの魔法でほとんど治っている。ほぼかすり傷程度まで快復させた。
「血が出てるわりには、ぜんぜんひどい怪我じゃないみたいです。おかしいな……。さっきまで、ジンジンしてて、すごく痛かったんですけど」
 患部を見ながら、不思議そうに音々が首をかしげている。
「ヴィオレッタの治癒魔法のおかげだな! 久々に見たけど、やっぱり見事だった!」
 うなずきながら、モネが自慢げな顔になる。
「明日には、きれいさっぱり治るはずよ。傷跡も残らないわ」
 本当は、今すぐにでも完治させたい。けれど、それはそれで音々に怪しまれると思った。
「わたしのバッグ、どうなっちゃったんでしょう……?」
 ひったくられたバッグの行方が心配で仕方ないようだ。ヴィオレッタには、バッグが今どこにあるか分かっている。ビジョンで追跡済みだ。
 中学校の指定バッグを盗んだことに、犯人たちはすぐ気づいたようだった。
 落胆して、すぐにバッグを捨てている。角を曲がって、しばらく進んだところに空き地がある。そこが音々のバッグの現在地だ。
「雨が降って、急に暗くなったからな。犯人たちもよく見えてなかったんだろう」
 ビジョンを共有すると、モネがそんなことを言った。
「懲らしめるわよ」
 ヴィオレッタが、めずらしく怖い顔つきになった。冴え冴えとした表情だ。能面のような顔。
 今は、どこから見ても冷酷な魔女にしか見えない。そんなヴィオレッタに気圧されながら、モネが同意する。
「もちろんだ!」
 犯人たちのバイクを故障させ、ちょっとだけひどい目に合わせる。「ちょっとだけ」というのは魔女の主観なので、人間が思う「ちょっと」とはかなり違う。
 魔女の仕打ちを目の当たりにしたモネが、ぶるっと身震いしている。
「久しぶりに見たな~~! ヴィオレッタの『お仕置き』。はーー、怖い怖い。ちょっと、ちびりそうだったぞ。この世で一番怒らせちゃいけないのは、やっぱり魔女だよな」
 ぶるぶると震えながら、本気でモネが怖がっている。
「ちょっと、こんなところでおしっこしないでよ? 今はわんこ用のオムツ持って来てないんだから」
 すっかり元の顔に戻ったヴィオレッタが、心配そうにモネのおしりを触る。
「こんなところでするわけないだろ! 俺は普通の犬じゃないんだからな! ヴィオレッタの顔が怖くて、ちょっと尿意を催しただけだよ!」
 犯人たちを懲らしめたあと、ヴィオレッタは音々のバッグを元通りにした。
 汚れたところは綺麗にして、傷がついてしまった箇所は治して。箱の中で崩れてしまったケーキは、何事もなかったかのように。
 傷ひとつないバッグを見て、音々は目を丸くしていた。
 おそるおそるケーキの箱を開ける。そして、音々の瞳からぶわっと涙があふれた。
「ケーキも無事です……! ぜんぜん型崩れしてない。良かったぁ……」
 大事そうに、音々が箱を撫でる。
 ヴィオレッタの頭の中には、幸せな家族の風景が映っている。
 四人家族だ。皆でテーブルを囲んでいる。テーブルの上にケーキが並ぶ。そのひとつひとつを、音々が説明している。ホイップクリームはなめらかで、甘さ控えめで、とても美味しいこと。フルーツは、どれも新鮮で瑞々しいこと。
 音々は、ちょっと得意げだった。
 その音々を優しい眼差しで両親が見守っている。
 幼い妹は、嬉しそうにケーキを見ていた。そして音々から、フルーツがたっぷり乗ったケーキをもらい、目をキラキラさせている。
「めちゃくちゃ妹が喜んでるな」
 同じ映像を見ているモネが、ニヘへと笑う。
 音々の妹は、頬の辺りまでクリームで汚しながら、口いっぱいにケーキを頬張っていた。思わず、ヴィオレッタの表情がゆるむ。
「そうね。あ、どうやら、ふたりの好みも分かったみたいよ」
 今までたくさん映画を観たけれど、こんな幸福なエンディングは知らない。
 ずっとこの幸せな風景を見ていたいと、ヴィオレッタは祈るように願った。



 雨の日から一週間後。閉店作業を終えたヴィオレッタは、いつものようにソファに倒れ込んだ。
「ふぅ~~! 今日も疲れたわねーー!」
「雨なのに客足は悪くなかったな」
「本当ね。ありがたいことだわ。……それにしても最近、雨が多いわね。そろそろ本格的に梅雨入りかしら」
 うつ伏せの状態で、そっと目を閉じた。心地よい疲労感を感じながら微睡む時間は、格別だとヴィオレッタは思う。
「ジメジメするのはイヤだな」
 ヴィオレッタのふくらはぎに顎を乗せたモネが、渋い顔をする。ふくらはぎを枕にしているのだ。モネ曰く、ちょうど良い高さらしい
「新しい寝具に変えようかしらね。ジメジメ対策として」
「それ良いな!」 
「筋肉痛も治ったことだし、ササッとやっちゃうわよ!」
 寝具の交換は、意外と重労働なのだ。
「ヴィオレッタ、筋肉痛だったのか?」
「ほら、久しぶりに治癒魔法を使ったじゃない? ホウキにまたがったのも久々だったし。身体中がバキバキだったのよ。でも、すっかり良くなったわ!」
 あの日の三日後から、筋肉痛の症状が現れはじめた。
「年を取ると……」
 モネは何かを言いかけて、ハッとした。それから一切の口をつぐむ。
「何よ?」
「な、なんでもない!」
 ぶんぶんと首を振っている。魔女を怒らせてはいけないと、改めて実感した結果だろう。
 ヴィオレッタは、鼻歌をうたいながら寝具の交換をはじめた。
 ついでに、ルームウェアも新しいものにする。肌ざわり良好。夏仕様のダブルガーゼのワンピース。もちろん、見た目は最上級に可愛い。
「寝具とルームウェアを新しくすると、なんだかワクワクするのよね。子どものころに、プレゼントをもらったときみたいな。嬉しい気持ちになるの」 
 うっとりしながら、ヴィオレッタは真新しいワンピースに袖を通す。
「そんなもんか?」
 乙女心の欠片も持ち合わせていないモネが、フンッと鼻を鳴らす。
 ヴィオレッタは、小箱を取り出した。中にはアロマオイルがいくつか入っている。どれもこれも、気持ち良く眠れるようにブレンドしてある。
 今日の気分でオイルを選び、数滴を枕に垂らした。
「良い香りね~~!」
 布団の中に入り、柔らかい感触の寝具に満足する。明かりを消すと、ヴィオレッタの顔の付近にモネがやってきた。鼻でちょいちょいと掛け布団を持ち上げるような仕草をする。
 これは「布団の中に入れてくれ」という図だ。ぺちゃっとした鼻で、一生懸命に布団をちょいちょいする姿に癒される。
 掛け布団をめくってやると、ズンズンと勢いよく侵入してくる。そして、布団の中でモゾモゾとする。
 しばらくすると、ドテンと寝転がった。同時に、フフンッ! という粗い鼻息が聞こえる。わんこには、気に入ったポジションというものがある。どうやらお気に入りの場所で、寝転ぶことが出来たようだ。この粗い鼻息は、ベストポジションに大満足した証なのだ。
 ヴィオレッタは、モネのぬくもりを感じながら、そっと柔らかな毛並みを撫でた。アロマオイルの優しい香り。真新しい寝具の、心地よい肌ざわり。
 また、明日も早起きをしよう。そしてたくさんケーキを焼こう。初夏限定のメニューも考えなくっちゃ。
 善き日々に、胸がいっぱいになる。とても満たされた気分で、ヴィオレッタはそっと目を閉じた。