四月に入ってすぐの週明け。モン・プチ・ジャルダンでは、ちょっとした撮影会が行われていた。
 麗しいケーキをアンティークテーブルに並べ、ヴィオレッタがカメラのシャッターを切る。大夏は、ホワイトボードを掲げながら光の調節をしている。
 ふたりの足元では、邪魔するつもりはないものの、床にドテンと転がっているせいで結果的に邪魔をしているモネが日課である昼寝に興じていた。
「可愛いわね~~!」
 カメラをのぞき込みながら、ヴィオレッタは満面の笑みだった。
「どれもこれも、最高の出来です」
 うなずきながら、大夏が同意する。
 今、ふたりが撮影しているのは、春の新商品だ。
 この時期になると、様々な店で桜にちなんだ商品を目にする。桜あんぱん、桜ドーナツ、桜フローズンドリンクなど。
 モン・プチ・ジャルダンでも毎年、春になると桜シリーズを展開している。
 今年は、ロールケーキとシフォンケーキ、それからチーズケーキの三種類だ。
 ロールケーキは、桜色の生地に、ほのかに塩味を感じる桜クリームをたっぷり巻き込んだもの。アクセントとして、塩漬けにされた桜の花びらがちょこんと上に乗っている。
 シフォンケーキは、ふわふわの抹茶シフォンの上に、桜風味のホイップを可愛く絞ったカップケーキに仕上げた。ふわっととける軽い食感の抹茶ケーキと、口いっぱいに広がる桜の香りがベストマッチな一品だ。
 チーズケーキは、満開の桜をイメージした。濃厚なベイクドチーズの上に、花びらに見立てた桜色のチョコレートがたっぷり。薄くスライスしているから、口に入れた瞬間にとろけてしまう。花びらの絨毯のような、見た目にも華やかなケーキだ。
「愛しいケーキたち……! 画像加工なしでもこんなに麗しいなんて。やっぱり、わたしって可愛いケーキを作る天才ね」
 木製のスツールに腰かけたヴィオレッタが、上機嫌で画像を確認している。
「はい! 可愛いを作る天才です!」
 撮影に使った機材を片付けながら、大夏が元気よくうなずく。
「可愛いを作る天才……? それって褒めてるのか?」
 目を覚ましたらしいモネが、顔を前足で掻きながら訊ねる。
「もちろんよ!」
「それにしても、大夏はヴィオレッタのイエスマンだな」
「イエスマン……? 大夏くんが?」
 キョトンとした顔で、ヴィオレッタがモネを見る。
「気づいてなかったのか? あいつは、ヴィオレッタに心酔しているんだ。外見が理由で居場所を失くしたけど、この店は受け入れてくれた。『可愛いもの好き』だと言っても揶揄われないし、それどころか、店の雰囲気に合致すると歓迎されている」
「心酔って、大げさよ。それに『可愛いもの好き』だからと言って、どうしてそれが揶揄いの対象になるの?」
「……ああいう厳つい大男が、キラキラした可愛いものを愛でていると変に思われるんだよ。普通はな」
 ヴィオレッタの感性が、普通とは若干違っているのだとモネが暗に匂わす。
 もちろん、そんな匂わせには気づかないヴィオレッタなので「普通って、変わってるのね!」とサラリと笑う。
「まぁ確かに、どんな仕事を頼んでも大夏くんに『ノー』と言われたことはないわ」
「そうだろ」
「このあいだなんて、モネのシャンプーまでお願いしちゃったくらいだし」
 放っておくと犬は臭くなる。モネは使い魔だけど犬なので、定期的にシャンプーをしている。もちろん犬用シャンプーで。
 丸洗いされたばかりなので、モネの体毛はフワフワしている。ふかふかのほわほわの鼻ぺちゃ犬。愛しさが募る。
「そ、そうだ……! 大夏にシャンプーされるなんて、俺は聞いてなかったぞ! まったく、あいつは洗い方がぜんぜんダメだ! シャワーの湯加減もイマイチだし、それから泡を全部流せていないし……」
 モネは大夏のシャンプーが気に入らなかったようだ。文句が止まらない。
「仕方ないでしょ。大夏くんは、わんこのお世話をするのは初めてなんだから。でも大丈夫よ。あっという間に慣れて、シャンプーが上手くなるわ」
 ヴィオレッタはスイスイと指先を動かし、撮影した画像をSNSに投稿した。モン・プチ・ジャルダンのアカウントがあるのだ。
 新しい商品が発売になると、必ずSNSで共有するようにしている。
 今日の撮影は、このためだった。
 お店の商品はもちろん、庭の様子もこまめに投稿している。かなりの種類のハーブを育てているから、まだまだ紹介できていない品種がある。
 凝った内装やアンティーク調のショーケース、スツールなどもおしゃれだと好評だし、元は異人館だった建物自体も「可愛い」「映える」「本当に日本なの?」と反応をもらう。
 続々と増えていく「よき」に、ヴィオレッタの気持ちは弾む。口元を緩めながら眺めていると、モネが足元にやって来た。
 そして、思いっきり「はぁーー!」とため息を吐く。
 いかにも構って欲しそうな、反応が欲しそうなため息だった。
「どうかしたの?」
 ヴィオレッタは心やさしいので、きちんと構ってやる。
「魔女がSNSをやるなんて、世も末だよ」
「人間社会で暮らしているんだから、当然じゃない?」
「売り上げのために、商品の紹介をするならまだ分かるぞ。でも、店の様子とか庭の風景なんか投稿したって意味ないだろ」
「あら、そんなことないわよ? お店の雰囲気は大事なの。素敵なお店でご褒美を買うと、気分があがるじゃない? 素敵な場所へ行って、そこから自分のお家に、自分のためのご褒美を連れて帰るの。贈り物も一緒よ。大切なひとへのプレゼントは、何を買うかはもちろん、そこで買ういかも重要なのよ」
「そんなもんか?」
「そうよ。それにね、わたしのお庭は大人気なんだから。毎回きちんと『よき』のハートをくれたり、丁寧なコメントを送ってくれるファンだっているんだから」
「ファン!?」
 モネが素っ頓狂な声をあげる。
「そうよ。あ、ほら。もうコメントをくれてる!」
 ケーキの画像を投稿する前に、庭のハーブを数種類ほどアップしておいた。その投稿に、もうすでにコメントがついているのだ。
 ヴィオレッタは嬉々として、モネに見せる。
「この『カシオ』さんっていう名前のひとなんだけどね」
「誰だよ、その『カシオ』とかいうヤツは。本名か?」
「さぁ……? SNSでの名前だから。でもね、コメントから察するに、どうやら外出が出来ない事情があるみたいなの。ご病気なのかしらね……。それで、太陽をいっぱい浴びて、元気にすくすく育ってるハーブを見てると、癒されるんだって。自分が外に出て、ハーブ畑を歩いてる気分になれるって、すごく喜んでくれているのよ」
「相手を喜ばせても、売り上げに繋げないと意味がないだろ。うちはボランティアで洋菓子を作ってるわけじゃないんだからな。商売なんだぞ」
「分かってるわよ」
 その商売を一ミリも手伝っていないモネに言われると、なんだか釈然としない。
 むうっと頬をふくらませながら、ヴィオレッタはSNSに視線を戻した。
 すると、すみかからの「よき」がついていることに気づいた。
「朝野様だ……!」
 続いてコメントも送られてくる。
『可愛いケーキたちですね。また近いうちにお伺いいたします』
 ヴィオレッタは、うれしさに瞳を輝かせながら「ありがとうございます! ご来店をお待ちしております!」と返信した。
 すみかは、ツナグ書林で開催される次のおはなし会への参加を決めたらしい。
 理由は、楽しかったから。そして、上手く出来なかったから。緊張してまるでダメだったと、本人は言っていた。
 悔しさがあるのだろう。意外に負けず嫌いなところもあるのだなと、ヴィオレッタはちょっと感心している。
 そして、ありがたいことに子どもたちにプレゼントするお菓子は、引き続きモン・プチ・ジャルダンに任せてもらえることになった。
 子どもたちや保護者からの評判が良かったらしい。
 おかげ様で、忙しい日々だ。
 ふいに、庭のほうから足音が聞こえてきた。生い茂るハーブの中にひっそりと敷かれた石畳を歩く音だ。
 それから間もなくして、カラン、コロンと耳に馴染んだドアベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
 ヴィオレッタはいつものように、お客様に向かって笑顔を見せた。
 店に入って来たのは、スーツ姿の青年だった。
 初めて見るお客様だ。整った顔立ちで、かなり若く見える。
 真新しいスーツだし、ちょっと着慣れない感じもする。もしかしたら、この春、社会人になったばかりかもしれない。
「ここって、モン……ジャン? なんとかって店で合ってます?」
 スマートフォンを片手に、お客様がキョロキョロと店内を見まわす。ちょっと疲れたような、苛立っているような。そんな雰囲気だった。
「そうです。ここは、洋菓子店『モン・プチ・ジャルダン』でございますよ」
「……はぁーー! やっと着いた。マジで分かりにくいんだけど」
 ネクタイを緩めながら、お客様が大きなため息を吐く。構って欲しいタイプのため息ではなく、正真正銘の「ダルい」感じが出ている。
「申し訳ございません。この辺りは細い路地が多くて、目立つ建物もありませんから」
「洋館を改築した店って聞いてたからさ。すぐに分かると思うじゃん。でも来てみたら、そこらじゅう洋館だらけなんだもん」
「本当に、申し訳ございません」
 お客様の横柄な態度を気にした様子もなく、ヴィオレッタはニコニコと謝罪をする。
 ヴィオレッタの足元では、モネが憤怒の表情になっていた。
「なんだ! このクソ生意気な人間は! ここは北野異人館街なんだから、洋館がたくさんあって当然だろ。バカ! 無知のくせに威張るな! 人間の分際で魔女に楯突くとは良い度胸だな。火あぶりにしてやるぞ! お前なんて丸焼きだ!」
 物騒なことを叫ぶ使い魔に苦笑いしながら、ヴィオレッタは接客を続ける。
「ご注文はお決まりですか?」
「……これ。欲しいんだけど」
 お客様がスマートフォンの画面をヴィオレッタに見せる。
 アプリのメモに、焼き菓子やプリン、ケーキなどのリストがあった。
 そのラインナップを見て、ヴィオレッタはピンときた。
「もしかして、香椎舎(かしいしゃ)の方でいらっしゃいますか?」
 香椎舎は、生活雑貨を扱うチェーンストアだ。
 全国に店舗を展開しており、ネットストアにも力を入れている。
 現在は東京に本社があるけれど、もともとは神戸の居留地に本店を構えていた。
「確かに、俺は香椎舎の社員だけど……。何で分かったんですか」
「よくご利用いただくんです。なんでも、重役の方が当店のお菓子をたいへん気に入ってくださっているとかで。神戸支店には、ときどき視察に来られると聞いています。うちのお菓子があれば、その重役の方は終始ご機嫌なんだとか。それで、社員の方がうちによくお見えになるんです」
 ヴィオレッタが説明していると、青年の眉根がギュッと寄っていく。 
「チッ」
 青年が軽く舌打ちをした。
「なんだよ。完全に子どものおつかいじゃん。わざわざ俺が来なくたって、誰にでも出来る仕事なのにさ」
 レジ台に寄り掛かるようにして、青年が肘をつく。
 それを見たモネが、フガフガと鼻息を荒くする。
「ふん! 誰でもできる仕事だから、上司はお前に頼んだんだろうが。なーーにが、子どものおつかいだよ。おつかいに来る子どもは、もっと可愛げがあるぞ! お前は可愛げ皆無。欠片もない。これっぽっちもない! 気配すらなし! ゼロだ!」
 思いっきり、ベエーー! と舌を出している。もともと鼻ぺちゃなので、かなりの変顔になっている。
 ヴィオレッタは吹き出しそうになりながら、つとめて平静を保った。リストにある商品を手際よく箱に詰めていく。
 モン・プチ・ジャルダンは、包材にもこだわっている。ラッピングはもちろん、ご自宅用の簡素な包みでも、お客様から思わず「可愛い」と声が漏れるほどなのだ。
 たとえば、焼き菓子の詰め合わせボックス。麻紐でボックスを十字に縛り、ドライハーブのブーケを挿したら、華やかで可愛いラッピングの出来上がり。
 モン・プチ・ジャルダンでは、どんなに小さな包みにもドライハーブを添えている。ユーカリの小枝をひとつ挿すだけでも、ぐっと美しくなるのだけれど……。
「どーも」
 美しさと可愛さが混在する包みを前にしても、青年はこれといった反応を見せなかった。
 ヴィオレッタから商品を受け取り、くるりと踵を返す。そうして、ダルそうな足取りで店を後にした。
 扉が閉まる際、カラン、コロンとドアチャイムが鳴った。なんだか、いつにも増してやる気がない音だなと、ヴィオレッタは思った。



 一日の労働を終えたヴィオレッタは、二階の住居スペースにあるふかふかのソファに身を沈めていた。
 うつ伏せの体勢でクッションを抱き締めながら、ほっと全身の力を抜く。
「今日もたくさん働いたわ……」
 気を抜くと、自然と瞼が重くなってくる。
「ふん! 俺は、あの生意気なクソガキに苛立った一日だったぞ」 
 プンプンとモネが怒る。
 ぼんやりと昼間の青年の顔が頭に浮かんだ。疲れた顔をしていた。きっと、社会人になったばかりで、慣れない仕事に追われているのだろう。
 横たわるヴィオレッタを踏まないよう気をつけながら、モネがのしのしとソファの上を歩く。
 目を閉じたまま、ヴィオレッタは浅い呼吸を繰り返した。眠ってしまえそうだけれど、きっとうまく眠れない。そんな感じがする。
「ねぇ、モネは、体がざわざわすることある?」
「ざわざわ?」
「落ち着かない感じよ。上手に眠れないの」
 たぶん、知らないあいだに心と体が疲弊している。どんなに好きな仕事でも。楽しいと思っていても。働くということは、たぶんそういうことだ。
「うーーん。あ、腹に物がたまってないと、俺は寝れないな。空腹感で気持ち悪くて、どうにも落ち着かない。そういうとき、どしっと重たいものを食べると、安心してスッーーと睡眠に入れるんだがな」
 食いしん坊なモネらしい意見だ。
「今日は、たくさん食べる気分じゃないのよね……」
 こういうとき、ヴィオレッタを癒してくれるもの。
 それは、ハーブたちだ。
 琺瑯のたらいに湯をはり、フレッシュハーブを入れる。それだけでフットバスが完成するのだ。
 ヴィオレッタは、心地よいハーブの香りを想像した。湯につかりながら、ハーブの香りに包まれる。なんとも贅沢な癒しの時間……。
「わたし、今からフットバスをするわ!」
 ヴィオレッタは目をぱちりと開け、ガバッとソファから立ち上がった。
 勢いが良すぎたせいで、隣でくつろいでいたモネがソファからずり落ちていく。
「あぁ~~!」
 無防備な体勢のまま、モネがフローリングに着地する。
「おい、ヴィオレッタ! 危ないだろ!」
 モネがひっくり返ったまま憤る。クッションと一緒に落下したので、まったくの無傷のはずなんだけれど。
 ヴィオレッタはさっそく、たっぷりの湯を沸かした。琺瑯のたらいを引っ張り出し、フレッシュハーブを投入する。くるぶしが浸かるくらいの湯を注ぎ入れ、さし水をしながら温度を調節していく。
 だいたい四十度くらいが良いと言われているけれど、ヴィオレッタは細かく温度を気にしたことはない。ちょっと熱いかな? というくらいが好きだ。
 裸足になり、ちょんちょんとつま先で温度を確かめる。
「うん、これくらいが良いわね」
 ソファに腰かけ、両足をたらいに入れる。
 フレッシュハーブの香りに包まれ、思わず「ふっーー!」と声が漏れた。
 ヴィオレッタが選んだフレッシュハーブは、カモミール、レモンバーム、ローズマリーの三種類。
 カモミールは、フルーティーで甘い香りがする。心も身体もリラックスさせてくれるような、やさしい香りだ。
 レモンバームは、すっきり爽やか。嗅いでいると爽快な気分になる。
 ローズマリーは、シャキッとした香り。少量でも強く香るので、他の二種よりは少なめで良い。血行促進作用があるといわれているから、むくみやすいひとにはおすすめのハーブだ。
 凝り固まった体が、ほどけていくような感覚になる。
 全身がじんわりと温かくなって、心地よい。何より香りに癒される。
「気持ち良いわ~~!」
 最高の癒し時間。自分へのご褒美。
「明日もがんばれそうよ……!」
 夢見心地でリラックスしていると、モネの鼻息が聞こえた。
 フガフガと何かを訴えている。
 そういえば、頭の中に流れ込んでくる言葉を意図的に遮断していた。リラックス効果を最大限にするためだ。
 モネの声に耳を傾けると……。
「おい、ヴィオレッタ! 聞いてるのか? 無視するなよ! 俺は腹が減ったんだ! 肉が食いたい。骨付ラムをソテーしろ。ソースはぜったいに多めだぞ。バルサミコソースがバシャバシャかかってるやつじゃないとダメだからな!」
 食へのこだわりが強すぎる使い魔だ。
 面倒くさいメニューだなぁと思っていたら、モネはさらにサラダや付け合わせについても希望を述べ始めた。
「付け合わせはジャガイモ一択だ。ゴロッとした揚げたてのやつ。ハーブ塩で食べるんだ。間違っても、あま~~い人参なんかにするなよ」
 モネが心底イヤそうな顔で人参を拒否する。モネの言う「あま~~い人参」というのは、おそらく人参グラッセのことだろう。 
 付け合わせの定番だし、作り方もシンプルなのでヴィオレッタは好きなのだけど。
「それからサラダは、トマトとアボカド! ぜったいに粒マスタードのドレッシングにしてくれよな!」
 粒マスタードとオリーブと酢。それから塩コショウで味を調えたこのドレッシングが、モネのお気に入りなのだ。
 グルメな使い魔を満足させるのは大変だ。
 でも、想像したら美味しそう……。
 ヴィオレッタのお腹が、きゅるるると鳴った。
 どうやら、フットバスに癒された結果、食欲が完全復活したようだ。無性に食べたい。たくさん食べたい。
「仕方ないわね。モネのお望み通り、作れば良いんでしょう?」
 そう言ってヴィオレッタは、琺瑯のたらいから足を出したのだった。



 数日後、不機嫌な新入社員が再びモン・プチ・ジャルダンにやって来た。
「もーー! マジでやってられない! 雑用ばっかさせられるし、ぜんぜん面白くない!」
 彼は、間木勇馬(まきゆうま)というらしい。受け取った名刺を眺めながら、ヴィオレッタは笑顔で相槌をうつ。
「大変ですね……。でも今は、研修期間なんでしょう? それが終わったら、きっと間木様も、大きな仕事を任せてもらえると思いますよ」
「研修期間が終わるまで、持たないかも……」
 勇馬が肩を落としている。
「ふん! 堪え性のないガキだな。最近の若い奴は軟弱だ。けしからん!」
 モネが勇馬を見ながら小言をいう。かなり年寄りじみた小言だけれど、モネは正真正銘の「長生き犬」なので、仕方がない。
「そんな風に言っちゃダメよ。間木様は今、初めて社会の荒波にさらされてるんだから」
「荒波? 本人の様子からして、ほぼ絶望的じゃないか?」
 モネが、しょんぼりした勇馬に視線をやる。
 確かに、ぺったんこになった彼の心情が透けて見える気がする。
 荒波の中、遭難寸前のような感じだ。溺れそうになりながら、必死に小舟にしがみついているような……。 
 そんな勇馬は、ぼそぼそとヴィオレッタに愚痴を吐いた。
「俺は、本社勤務が良かったんですよ。でも希望が通らなくて。それで神戸支社勤務になって……。俺は、東京生まれの東京育ちなんですよ? 関西に住むとか、初めからムリだったんです」
 レジ台に肘をつきながら、間木の愚痴が止まらない。
「俺は、お前みたいな奴がムリだけどな」
 ヴィオレッタの足元で、モネがボソリとつぶやく。
「神戸は良いところですよ。夜景が綺麗だし、美しい街並みがあるし。中華街の肉まんも美味しいです」
 神戸で洋菓子店を始めて、早や数年。すっかり神戸に馴染んだヴィオレッタが、地元愛を語る。
「……俺も、ここに来る前はそう思ってましたよ。オシャレで、華やかで、住みやすい街だって」
「実際に来たら、違ってたんですか?」
 ヴィオレッタが訊ねると、間木が大きくうなずく。
「まず、坂道がムリです。俺、神戸に坂道のイメージとか、まるで無かったんですけど。やたら坂が多いじゃないですか。この店に来るのだって大変なんですよ! どれだけ坂道を上って来たと思ってるんですか」
 疲れた顔で、勇馬がふくらはぎをさする。
「俺、足パンパンですよ」
「ふん、ひ弱な奴だな」
 モネが鼻で笑う。
「特にひどい雑用の仕事があるんですよ」
 勇馬が、疲労の色を滲ませながらため息を吐く。
 ヴィオレッタは、聞いて良いものか迷いながら、遠慮がちに「どんな雑用なんですか?」と促してみた。
 結果、促して良かったらしい。勇馬の口調に力がこもる。相当愚痴がたまっているようだった。
「神戸支社のすぐ近くに『別館』という建物があるんです。二階建てのビルで、もともとは倉庫だったらしいんですけど。しばらく使われていなかったそのビルで、数年前からひとりの社員が働いているんです」
「たった、おひとりで……?」
「そうです。変ですよね? お客様相談室に所属しているんですけど、お客様相談室は、ちゃんと神戸支店にあるんです」
「それなのに、その方だけ、別の建物にいると……?」
「そうなんです。謎でしょ? だから、皆は『謎の社員』って呼んでるんです。話した印象だと、暗ーーい感じですね」
「お話されたことがあるんですか?」
「雑用係ですから、俺。その女性社員の」
 どうやら「謎の社員」というのは、女性らしい。声の感じから、おそらく二十代後半ではないかと勇馬は推察しているようだ。
「その方の雑用係というのは、具体的にどういうお仕事なんですか?」
「書類とか、マズい商品……たとえば、不具合があった商品とかですけど。クレームになった商品とか、これからクレームが発生しそうな商品の現物を運ぶんです。俺が、別館まで」
 書類などは、たいていデータでやり取りをするものの、一部は紙ベースで閲覧する場合があるらしいのだ。クレームの電話やメールに対応するため、不良品が出たらすぐに部署内で共有しているという。
「俺は、総務部なんですよ? 部署が違うのに、若手だからって雑用をさせられて。おまけに、別館がまた意味不明だし……」
 勇馬がうなだれる。声も弱々しいので、ヴィオレッタは心配になった。
「意味不明というのは、どういうことなんですか?」
「ちょっと薄暗いビルなんですよ。不気味なくらいに、ひとの気配がなくて。エントランスには、管理人室があるんですけど。誰もいないんです。ずっと無人で、カーテンも閉まってて。そのカーテンの向こうに、ハンドベルが置いてあるんですよ。やたら凝った模様のハンドベルです。それを鳴らすと……」
「……な、鳴らすと?」
 なんだか、怪談でも聞いているような感じになってきた。
 ヴィオレッタとモネ、その背後では大夏までもが、固唾を飲んで勇馬の話の行方を見守っている。
「音がするんです。廊下の奥のほうから。やけに仰々しくて、重たい『ガチャッ』という金属音が響いてくるんですよ」
 ヴィオレッタとモネ、大夏が無言でうなずく。
「音の正体は、鍵が開いた音なんです。エレベーターが手動式で。いやもう、令和の時代に手動式のエレベーターって何? って感じなんですけど。とにかく時代物で、謎に鍵がかかってるんです。そのエレベーターに乗って二階に行くと、奥に『お客様相談室・分室』と書かれた扉があるんです」
 どうやら、エレベーターを使用しないと二階には行けないらしい。
『お客様相談室・分室』の扉は、一部がすりガラスになっており、ひとの気配を感じるというのだ。
「その扉は、ぜったいに開けちゃいけないんです」
 先輩社員や上司から、何があっても開けるなときつく言い含められたらしい。
「でも、いい加減、俺だって腹立つじゃないですか」
「いや、腹は立たないが……?」
 モネが、真剣な顔で勇馬に言う。もちろん、モネの声は聞こえていないのだけど。
「だから俺、開けてやったんですよ」
 ヴィオレッタは、なんだか背筋が寒くなった。
 大夏も同じらしい。青い顔で「幽霊とかじゃないよな……」とつぶやいている。
 モネは、ひたすら呆れ顔だ。
「そ、それで……? どなたか、いらっしゃったんですか?」
 ヴィオレッタは、おそるおそる間木に聞いてみた。
「誰もいませんでした」
「でも、気配を感じたんですよね?」
「はい。絶対に誰かいたはずなんです。その証拠に、飲み物が温かかったんです」
 デスクにはマグカップが置いてあり、湯気が立ち上っていたらしい。
「パソコンの画面には、書きかけの日報があって。かなり不自然なところで終わってましたから。俺が部屋に入る寸前に『謎の社員』は、部屋から消えたんだと思います」
「き、消えた……?」
 やっぱり、怪談だ。ホラーだ。
 ヴィオレッタは、ブルッと身震いをした。
「結局、決まりを破って部屋に入ったこともバレて。上司には怒られるし、散々ですよ」
 勇馬は「あの陰険上司め……!」と、くちびるを尖らせる。
「規則を守れないなら、サラリーマン勤務はムリだな」
 一度も社会経験などないのに、モネが知った風な口をきく。
「それ以降、俺は『謎の社員』が大キライなんですけど。俺がこの店におつかいに行っていることを、どこからか聞きつけたらしくて。ついでに自分のぶんも買って来いとか言いやがるんですよ……!」
 勇馬がワナワナと震える。かなり怒っているらしい。
「そして憎らしいことに、かなり有能らしいんです……!」
「有能?」
「そうです。お客様相談室なんで、クレームの対応をするんですけど。こっちで対応できない相手……たとえば、相手がめちゃくちゃ怒ってるとか、なかなか電話を切ってくれないとか。そういう『ヤバい相手』を別館に回すんですよ」
「そ、それで……?」
 気になったヴィオレッタは、勇馬にたずねた。
 モネも興味津々なようで、食い入るように話を聞いている。後ろの大夏も。
「しばらくしたら、対応完了の連絡が来ます。納得させて、相手から電話を切らせるんですよ」
「すごいですね……!」
 感嘆するヴィオレッタとは反対に、勇馬は不満そうだ。
「いつか俺も有能な社員になって、おつかい係から卒業します。それで後輩をアゴで使ってやるんだ……!」
「自分がされてイヤなことは、しないほうが良いんじゃないか?」
 モネが尤もな意見を述べる。勇馬には届かないけれど。
 ヴィオレッタは『謎の社員』からの注文を確認する。正体不明のホラーな社員であっても、お客様には違いない。包みを開けた瞬間から、素敵な気分に浸ってもらいたい。
「その方の好きなハーブとか、ご存知ないですか? 小さなブーケを飾りで付けているので、もしご要望があれば……」
「知りませんよ。何でもいいです。というか、飾りとかいらないです。春の新商品? 何て言ってたっけ? あ、そうそう。桜のケーキでしたっけ? それが食べたいだけだと思うんで」
 勇馬も、モネと似た感性の持ち主のようだ。
「……そうですか」
 ヴィオレッタは張り付いた笑みで返事をしながら、しっかりとブーケの飾り付けはしておいた。これがモン・プチ・ジャルダン流なのだ。
「げえ。上司から着信だ」
 ヴィオレッタがケーキの包みを渡す寸前、勇馬のスマートフォンが鳴った。
 勇馬は電話に出て、しばらくすると通話を終えた。
「ちょっと長居しちゃったみたいですね。叱られちゃいました」
 てへっと舌を出す。勇馬がやると、不思議と可愛げを感じる。
 これは間違いなく武器だろう。使えるのは、新入社員である今だけかもしれないけれど。
「じゃ俺、社に戻ります! またおつかいに来ると思うんで。そのときはまた話、聞いてください」
 叱られたはずなのに、そんなことを言いながらバタバタと勇馬が店を出ていく。
「まったく、忙しない奴だな! 」
 呆れたように、モネが扉に向かってブスブスと鼻を鳴らした。



 勇馬が慌てて店を飛び出した、少しあとのこと。
「あら、忘れ物だわ」
 ヴィオレッタは、レジ台に小さな包みが残されていることに気づいた。
 包みの大きさからして、例の「謎の社員」から頼まれたケーキだ。
 ヴィオレッタは作業場にいる大夏に、店番をするよう言いつけた。それから、エプロンの結び目をほどく。
「悪いんだけど、ちょっと届け物をしてくるから。そのあいだ、お店のことをお願いね。作業場と行ったり来たりで大変だけれど」
「任せてください! 作業場のほうは、あとは片付けをするだけでしたから。全く問題ありません」
 笑顔で承諾する大夏とは反対に、モネは渋い顔をしている。
「わざわざ届けてやるのか? 忘れて行ったあいつが悪いのに」
「レジで死角になっていたとはいえ、すぐに忘れ物に気づかなかったのは、こちらの落ち度だもの。それに、せっかく作った可愛いケーキよ。食べてもらわないと困るわ」
「それは、そうだが……」
 渋い表情のまま、モネがうなずく。
「それに、ちょっと興味もあるのよね」
「興味?」
「例の『謎の社員』のこと。秘密の部屋とか、合図のベルとか。すっごく、面白そうじゃない? 魔女の血が騒ぐわ……!」
 ヴィオレッタは、瞳を輝かせている。魔女は総じて好奇心旺盛なのだ。
「確かに、俺もちょっとは気になるけど……」
「じゃあ、一緒に行きましょう! 間木様の話を聞きながら、だいたいの場所は見当がついてるのよ。行ってみたら、すぐに分かると思うわ」
 ヴィオレッタは、うきうきとリードの準備をする。
 それを見たモネが「げっ」と声をあげた。
「お、おい。ヴィオレッタ。まさか、歩いて行くなんて言わないよな……?」
「歩くのよ。決まってるじゃない。久しぶりの街歩きよ~~! 神戸って素敵な風景がたくさんあるから、歩いていると楽しいのよね。今日は小春日和だし、きっと気持ちが良いわ!」
 浮かれるヴィオレッタを見て、モネがげんなりしている。
「ホウキに乗ろうぜ。魔女なんだからさ」
「モネは歩きたくないの?」
「当たり前だ。疲れるだろうが」
「仕方ないわね……」
 ヴィオレッタは棚をガサゴソと漁り、布バッグのようなものを取り出す。
 犬用のキャリーバッグだ。お出かけの際に役立つ優れもの。バッグの中にすっぽりとわんこを入れ、ななめ掛けができるようになっている。
 実際にわんこを入れて装着すると、パッと見はただのショルダーバッグに見える。しかしよく観察すると、わんこの顔だけがひょっこり出ていて、可愛いのだ。
 モネをバッグの中に入れ、忘れ物の包みを持ち、準備万端。ヴィオレッタは、意気揚々と出発した。
 歩く必要がなくなったのに、なぜかモネはブスッとした顔のまま。
「どうかしたの?」
「俺、この犬用バッグ苦手なんだよな」
「あら、なぜ?」
「いかにも犬って感じだろ?」
「そうね」
「しかもこれ、居心地がわるいんだよな。ヴィオレッタが歩くたびに揺れるから酔いそうになるし」
「それじゃあ、歩く?」
 念のため持って来たリードをちらつかせると、モネは無言でバッグの中に頭を引っ込めた。
 ヴィオレッタは苦笑いしながら、テクテクと坂道を下っていく。
 目指すの場所は「謎の社員」がいる香椎社の別館。旧居留地だ。
 旧居留地(神戸外国人居留地)は、三宮の南側一帯に広がる。もともとは、神戸港が開港した際、神戸にやって来た外国人のためのエリアだった。
 今も重厚感のあるビルディングが健在で、海外の街角のような風景を残している。
 モン・プチ・ジャルダンがある北野異人館街からは、歩いて二十分ほどの距離だ。
 しばらく歩くと旧レイン邸が見えてきた。華やかな門構えが特徴で、結婚式が出来る人気スポットでもある。
 今日もウエディングパーティーが催されているようだ。
「モネ、見て。結婚式だわ」
 ヴィオレッタの声掛けに、反応はない。
 バッグの中を覗くと、なんとモネは寝ていた。それも、仰向けになって。かなり気持ち良さそうだ。
 ハンモックでくつろいでいる人間のようにも見える。あれだけ「居心地がわるい」「酔いそう」と文句を言っていたのに……。
 起きる気配がなさそうなので、ヴィオレッタは遠慮なくズンズン歩くことにした。思いっきり揺れているけれど、モネは相変わらずグウグウと寝ている。
 メイン通りに入ると、観光客の姿が一気に増えた。この周辺には、まだ活気が残っている。少し歩くと、重厚なレンガ造りの外観が見えてきた。
 ここは、旧トーマス邸。屋根上にある風見鶏が特徴的なことから「風見鶏の館」と呼ばれている。
 ドイツ人貿易商の住宅として建てられ、今は国の重要文化財に指定されている。北野異人館街で、最も有名なスポットだ。
 街路樹の葉が、風に揺れてサワサワと音を立てる。
 思わず見上げると、濃い緑の葉が太陽の光を浴びて、気持ち良さそうに揺れていた。
 続いてヴィオレッタの目に留まったのは、旧シェー邸。なんと、シアトル系カフェのコーヒーチェーン店になっている。白とグリーンのカラーで有名な、あのチェーン店だ。
 外壁が白とグリーンで、塗り直したのかと思いきや、もともとこの色だったらしい。建物の中は、異国情緒あふれる雰囲気が残っている。
 贅沢な気分でコーヒーを楽しむことができるから、店内はいつも観光客でいっぱいだ。
 北(山側)のほうから、かなり南(海側)のほうにやって来た。坂道が終わると、三宮駅が見えてくる。
 ここまで来ると、旧居留地まであと少し。
「ん……? ここはどこだ?」
 寝ぼけた表情で、モネがひょっこりと頭を出す。
 どうやら、駅前の賑わいで目が覚めたらしい。
「駅前よ。もうすぐ着くわ」
 バッグの中でモネが、ぐいーーっと伸びをする。
「ずいぶん気持ち良さそうに寝てたわね。ゆりかごにでも入ってる気分だったのかしら」
 ヴィオレッタの嫌味に気づくことなく、モネは呑気にあくびをしている。
「そうだな。今日は天気も良いし、最高の昼寝日和だ」
 そんなこんなで、ヴィオレッタとモネは旧居留地に到着した。
 さっそく、例の「謎の社員」がいるという別館を探す。
 ヴィオレッタはマップを確認しながら、重厚な石造りのビルディングが立ち並ぶ通りを進む。しばらくすると、旧居留地の中でも特に印象的な「旧居留地38番館」が見えてきた。
 現在は、百貨店として有効利用されている。建築されたのは昭和四年で、壁面には太い円柱の柱が何本か確認できた。このイオニア式円柱が、レトロさと重厚感を漂わせているのだ。
 国内外のファッションブランドが路面店を構えるエリアを抜けて、少し進んだところ。石造りビルディングの隙間に、ひっそりと佇む二階建ての社屋があった。
 人通りの多いエリアから少し離れているせいか、しんと静まり返っている。
「本当にここなのか?」
 バッグから顔だけ出したモネが訝しそうな表情になる。
「間違いないわ。ほわ、ここに『香椎社・神戸別館』と書かれたプレートがあるもの」
「外から見ると、薄暗くて不気味なビルに思えるな。人間の気配がないぞ。無人じゃないのか?」
「たぶん『謎の社員』以外は、誰もいないのよ」
 ヴィオレッタの足音が、エントランスにコツ、コツ、と響く。
「ごめんください。どなたか、いらっしゃいませんか?」
 カーテンがかかった管理人室に向かって、ヴィオレッタは声をかけてみる。
 返答はない。怖いくらいに、ビル全体が静まり返ったままだ。
「……返事がないんだから、あの方法を試すしかないわね?」
 ヴィオレッタが、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「ずいぶん愉快そうだな。それに『あの方法』とは、一体何のことだ?」 
 モネが不思議そうな顔でヴィオレッタを見上げる。
「あら、あなた忘れたの? 間木様が言っていたでしょう。『謎の社員』を呼び出す、秘密の合図があるって」
 ヴィオレッタの瞳が、キランと光った。
「あ! あの『鍵を開けるベル』のことか?」
 どうやら、思い出したようだ。
「わたし、手動式のエレベーターに乗ったことないのよね。間木様のお話を聞いてから、ずっと乗りたいと思っていたの!」
「ふうん。年寄りのくせに、乗ったことがないのか」
「ちょっと。わたしは魔女の中では、まだ若手なのよ?」
 モネを軽く睨みながら、ヴィオレッタが異を唱える。
「まったく。勝手に年寄り扱いしないでよね……。あ、あった! これだわ!」
 管理人室の窓を開けて、カーテンの向こう。そこに、なんとも古めかしいハンドベルが置いてあった。
「間木様の言った通りね。ベルには繊細な模様が入ってる。とっても綺麗だわ」
 思わずヴィオレッタがうっとりしていると。
「おい、ヴィオレッタ。早く鳴らせよ。というか、俺が鳴らす!」
 バッグの中から身を乗り出して、モネがベルに前足を伸ばす。
「モネに出来るの?」
 ヴィオレッタは、モネにベルを渡しながら訊ねた。
「当たり前だろ。俺はただの犬じゃないんだぞ」
 外見は犬にしか見えないモネが、器用に前足を使ってベルを掴む。そして……。
 チリリリン! リリリーーン! 
 軽やかなベルの音が、ビル全体に響き渡った。
 モネは「どうだ?」と得意気な顔をしている。はいはい上手ですよ、とヴィオレッタが適当にあしらっていたとき。
 薄暗い廊下の奥から、ガチャリと音がした。
「きっと、エレベーターが開錠したのね」
 ベルを元の場所に戻し、ヴィオレッタは廊下を進んだ。昼間とは思えないくらいに暗い。コツン、コツン、という自分の足音さえ、不気味に聞こえてくる。
 廊下の角を曲がると、オレンジ色の光が見えた。
 薄暗い中、そこだけぼんやりと輝くオレンジ色の光に誘われるように、ヴィオレッタは歩いていく。
「手動式のエレベーターだわ……!」
 ヴィオレッタは、思わず声をあげた。
 レトロな蛇腹式の扉に胸がおどる。エレベーターの上部には、半月型の錆びた看板があった。よく見ると、一と二の数字が確認できる。おそらく、これは表示板だ。到達した階を針で指し示す仕組みなのだろう。
 扉をスライドさせて中に入ると、内側にも網の扉がある。動き出すと、古いモーター音がエレベーター内に響く。
「ドキドキするわね……!」
 心臓が高鳴る。ヴィオレッタは古めかしいものが好きだ。レトロなものを見ると興奮する。居ても立っても居られなくなる。だから、旧居留地の街並みが好きだし、北野異人館も愛すべき場所なのだ。
「俺は違う意味でドキドキするぞ。いや、ヒヤヒヤと言ったほうが正しいな」
「あら、どうして?」
 どうやら、モネは怖がっているようだ。
「古いエレベーターだろ? 壊れたりしないかと思ってな」
 キョロキョロと周囲を見まわしながら、バッグの中でモネが小さくなっている。
 モネは心配していたけれど、何の問題もなく目的の階にたどり着いた。
 エレベーターを降りて、左右を確認する。この階も薄暗い。けれど、ひとつだけ光の漏れる扉があった。
「きっと、あそこだわ」
 スタスタと歩き出すヴィオレッタと、そろりそろりと注意深く後に続くモネ。
「こんにちは!」
 扉の前に立ち、ヴィオレッタは明るく声をかける。
「モン・プチ・ジャルダンからまいりました。ご注文いただいた商品を、社員の方がお忘れになられたようで。本日中にお召し上がりいただきたいので、こちらまでお持ちいたしました」
 ヴィオレッタの声に、反応はない。扉の向こうは静まり返っている。
「……入ってみるか?」
 モネが前足で、扉をノックしようとする。
「無駄よ。間木様とのときと同じになるわ」
「誰もいないってことか?」
「ええ。でも、間違いなく気配は感じるから……」
 ヴィオレッタは、その気配に真剣を集中させた。
 そっと目を閉じる。
 しばらくすると、人影が見えた。扉の向こうにある部屋ではない。そこから、さらに壁一枚隔てた場所だ。
「……小さな部屋ね。隠し扉があるみたいだわ」
「隠し扉? なんだそれ。本当に『謎の社員』だな」
 モネが驚いたように、前足を引っ込める。
「わたしの声、その小部屋にも届いていますか? もし聞こえていたら、お返事してくださいませんか。せっかくのケーキがダメになってしまいます。ドライアイスは多めに入れていますけれど、できればすぐに冷蔵庫へ入れていただくか、お召し上がりいただきたいんです」
「ムリだろ。返事なんてないさ」
 モネが諦めたように、首を横に振っている。そのとき。
 カタン……。
 扉の向こうで、かすかに物音がした。
 それから、パタ、パタ、と足音が近づいてくる。
 気配を感じる。扉の向こうに、確実にいる。
「あの……」
 水滴がポタリと落ちたみたいな、そんな不思議な声だった。
 静かなのに、妙にずしりと胸に響くような。艶っぽくて麗しい声だ。
「どうして、小部屋があることをご存知なんですか。どうして、わたしがその小部屋にいると分かったんですか」
「それは……」
 魔法使いなので、それくらい簡単に分かります。
 とは、さすがに言えない。
「秘密です」
「ひ、ひみつ……?」
 扉の向こうにいる相手の声が、驚いたように上擦る。
「あなたも、秘密にしていることがあるでしょう?」
「わたしが、ですか?」
「かなり謎が多いと聞きました」
 ああ、と納得した声を彼女が漏らす。
「わたしが『謎の社員』と呼ばれていることは知っています。でも、秘密にしていることはないんですよ。きっと、気を使われているというか。忖度でしょうね……」
 少しだけ声のトーンが落ちた。
 なんとなく、勇馬から聞いていた人となりと違うような気がする。
 女王様的なタイプかと思っていたけれど、まったくそのような要素を感じない。
「忖度というのは……?」
「……わたし、縁故採用なんです」
「そうなんですか」
「持病のこともあって、就職活動もうまくいかないくて。それで、ツテを頼ってなんと就職させてもらったんです」
 病気……?
 そんな話は、勇馬からは聞いていない。
「ひとごみとか、公共交通機関とか、そういう場所にいると強い恐怖や不安を感じるんです。ひどいときはパニックになってしまって。神戸支社は、大きなフロアにそれぞれの部署がずらりと並んでいて、たくさんの社員が働いているので……」
 どうしても、その中で仕事をすることは困難らしい。
「だから無理を言って、この別館をひとりで使わせてもらっているんです」
 そういう理由だったのかと、ヴィオレッタは納得した。「謎の社員」と聞いて、ちょっとホラーちっくなことを考えていたけれど、理由を知れば「謎」でも何でもない。
「お客様相談室のお仕事をなさっているんですよね? 間木様からうかがいました」
「はい……。間木くんには、いろいろと迷惑をかけてしまっています。わたし、ひとりでは何もできないので。会社にも迷惑ばかりかけて……」
「とても優秀な社員だと聞いていますよ。むずかしいクレームの対応だって、難なくこなしていらっしゃるんでしょう? 迷惑どころか、他の社員の方からすると、とても助かっていると思います」
「そんな……」
「必ず、相手を納得させて電話を終わらせることができるんですよね。すごいと思います」
 これは、まぐれもなくヴィオレッタの本心だ。
 ヴィオレッタも、接客をしているからよく分かる。モン・プチ・ジャルダンのお客様は、ほとんどが素敵なひとたちだけれど、ごくまれに「ちょっと大変だな」と思う場面に遭遇することもあるのだ。
「クレームの対応は……。特に、技術がいることではないんです」
「そうなんですか?」
「ただ話を聞いているだけなんです。ひたすら相手の話を聞いて、そうしていると、皆さん納得してくれるんです。支店のほうで、ご要望は承ります。問題があれば、解決に向けて努めます。それでも納得してくださらない方や、怒りがおさまらない方が、ここに回されてくるんです。そういうお客様は、たいてい寂しいひとたちなんです」
「寂しい……?」
「話を聞いて欲しいんだと思います。声って不思議で、初めは強張っていたものが、少しずつ解れて柔らかくなっていくのが分かるんです。相手の声にトゲがなくなってきたら『ああ、もうすぐ電話が終わるな。このひとと会話するのもあと少しだな』って思うんです」
「声で分かるか……。なんか、プロっぽいな」
 ヴィオレッタの足元にいるモネが、フゴッと鼻を鳴らす。
「まごうことなきプロだもの」
 頭の中で会話をしながら、ヴィオレッタはモネを見下ろした。
「……わたしも同じ。寂しい人間だから分かるんです。ずっと、この部屋に閉じこもって、誰とも会わずに毎日が過ぎていく。カーテンを開けたら、別世界だなって思います。旧居留地の美しい街並みと、通りを軽やかに歩くひとたち。イベントがあると、華やいだ雰囲気になって……。わたしだけが、隔離されたような小さな部屋にひとりでいる。仕方のないことだし、自分が恵まれていることは分かっています。でも、やっぱり『何で』『どうして』っていう感情があります」
「そう、ですか……」
 何と言って良いか分からない。ヴィオレッタが言葉に詰まっていると、それを察したらしい彼女が、明るい声を出す。
「あ、でも! 自分を元気にするとっておきのものが、わたしにはありますから。ぜんぜん平気ですよ! 甘いものを食べることなんですけど。特にケーキが好きなんです!」
「ケーキ……。あ、それで間木様に頼んで、当店のケーキをお買い求めいただいたんですか?」
 はい、と扉の向こうでうなずく気配がした。
「甘いものを食べると、癒されるんです。心がギスギスしているとき、自分のことを嫌だなって思ってしまうとき。そういうときに、甘いケーキを食べるとホッとします。何だか、心がまぁるくなっている気がして。自分を嫌だなって思う気持ちも、いつの間にか消えているんです」
「分かります……!」
 ヴィオレッタは、ケーキが入った包みをそっと取り出した。
「ご注文いただいた桜のシフォンケーキ。ここに置きますね」
 部屋から出てすぐの廊下には、簡易的なテーブルが設置されている。
 ヴィオレッタは、そのテーブルに包みをそっと置いた。
「いつも、そこに書類などを置いてもらうんです」
 クレームのあった商品や問題のある商品を別館に運んでいるのだと、確かに勇馬も言っていた。現物を確認して、クレーム対応に活用するのだ。
「それで、誰もいなくなってからこっそり回収してるんです」
「なるほどーー!」
 ちなみに、 管理人室に隠されているハンドベルは、社員の来訪を彼女に知らせるためのものだった。
 一階は施錠されておらず、ごくまれに部外者がビルに入ってくるらしい。
 二階への経路は、エレベーターのみだ。それ以上の侵入を防ぐため、エレベーターに鍵をつけているとのことだった。
 やはり、あのときヴィオレッタが聞いた「ガチャリ」という音は、鍵の開く音だったのだ。
「ハンドベルの音が聞こえたら、ボタンを押して鍵を開けます。それと同時に、わたしは小部屋に隠れるんです」
「間木様みたいな、不届き者がいるからですね?」
 扉の向こうで、彼女が苦笑いしているのが分かる。
「ときどきいるんです。我慢できなくて、部屋に入ってしまう社員が。そりゃ、気になりますよね。『入るな』と言われたら、余計に」
 モネが「うんうん」と、大きく首を縦に振っている。
「……気持ちは、分かりますね」
 ヴィオレッタも好奇心旺盛なので、さすがに同意せざるを得ない。
 モネと一緒にうなずきながら、彼女とのおしゃべりに夢中になる。たとえ扉越しでも、こんなにも楽しく会話ができるのだ。
「社員さんとも、こんな風におしゃべりできたら良いのに。そうすれば、本当の彼女の姿が皆に伝わると思うのだけれど……」
 心の中で、ヴィオレッタはつぶやいた。
「それは良いな。生意気なクソガキに誤解されることもないし!」
 モネの声が頭の中に響く。
「やっぱり、モネもそう思う?」
「魔法の出番だな」
「余計なお世話だったりしないかしら……?」
 ちょっと心配だ。
「めずらしく弱気だな。ヴィオレッタはお節介な魔女だから、ぜんぜん問題ないぞ」
 知らなかった。自分はお節介だったのか、とヴィオレッタは少し落ち込む。
「……でも、悩んでいても仕方ないものね! 決めたわ! わたし、魔法の力を使う」
 目を閉じて、神経を研ぎ澄ませてる。
 それから人差し指で、くるりと円を描く。
 素直になれる魔法。ちょっとだけ、勇気が持てるおまじない。
「素敵な未来が訪れますように……!」
 そう祈りながら、ヴィオレッタは彼女に魔法をかけたのだった。 



 ヴィオレッタとモネが、旧居留地へ赴いた日からちょうど二週間後。
 勇馬がモン・プチ・ジャルダンにやって来た。
 ヴィオレッタは庭の裏手でハーブの手入れをしていて、店に戻ると大夏が勇馬の接客中だった。
「製菓の世界は、上下関係が厳しいですから」
 真剣な面持ちで、大夏がショーケースからケーキを取り出している。
「マジですか~~!」
「はい」
「意外ですね」
「店舗にもよるのかもしれませんが。自分のいた店では、先輩に『マジですか~~!』はNGだと思います」
「げ。堅苦しいですねーー!」
 丁寧に箱詰めしながら、大夏が厳しい上下関係の逸話を勇馬に明かしている。
 勇馬の愚痴に付き合っているうちに、気づけば大夏自身の話になったようだ。
「じゃあ、製菓はムリっすね。俺は、ゆるーーい感じの職場が合うと思うんで」
 レジ台に寄り掛かりながら、勇馬がヘラヘラと笑う。
「とりあえず、今の会社で良いかなーー」
「不満があるんじゃなかったんですか?」
「ありますよ! でも、普通に良い会社かなとも思って。同族会社だけど、やりにくさを感じたことはないし、そもそも新人は出来る仕事が少ないから、雑用が多くなるよなって、気づいたというか……」
「気づくの遅いな」
 勇馬と大夏の会話を聞きながら、モネがボソリとつぶやく。
「あ、ヴィオレッタさん!」
 勇馬がヴィオレッタに気づいた。
「間木様。いらっしゃいませ」 
「俺の忘れ物、別館に届けてくれたんですよね? ありがとうございました」
 勇馬が、ぺこりと頭を下げる。
「とんでもございません」
「……俺、香椎さんの病気のこと聞きました」
 勇馬が病気のことを知ったのは、つい三日ほど前らしい。どうりで、彼の口から病気のことを聞かなかったわけで。
「広場恐怖症というらしいです」
「そのようですね」
「ヴィオレッタさんよりも、先に知りたかったんですけどね。俺、毎日のように別館に行ってりんですよ? 俺のほうが、ずっと付き合いが長いのに……」
 勇馬の表情が、徐々に曇っていく。
 最終的には駄々っ子のような、かなりの膨れっ面になった。
「思いのほか、話しが弾んでしまったんです。とても楽しい時間でした。でも、間木様のほうが彼女のこと、ご存知だと思いますよ。わたしなんて、お名前を今、知ったくらいですから」
 縁故採用の話は聞いたけれど、だからといって必ずしも香椎姓だとは限らない。
 お互いの名前も知らずに、よく話が続いたなぁとヴィオレッタが苦笑いする。
「同じ名字が多いから、紛らわしいんですよね。だから『謎の社員』って呼ぶのが便利なんです。ただの『香椎さん』だと、誰のことか判別できないんで」
 同族経営ゆえの事象だ。勇馬の部署だけでも、香椎姓の社員が数人在籍しているという。
「他の香椎姓の方は、どんな風に呼ばれているんですか?」
「役職があれば、それで。なければフルネームとかですね。仲が良ければ、下の名前で呼んだりとか」
 なるほど、とヴィオレッタがうなずいていると。
「そういえば香椎さん、同期のひとにはあだ名で呼ばれてましたね」
 勇馬が、思い出したように言う。
「あだ名ですか?」
「彼女、下の名前が『史緒』というんです。それで『かしいしお』を略して『カシオ』って、同期の社員から呼ばれているのを聞いたことがあります」
 カシオ……。
 どこかで聞いたことのある名前だ。
 ヴィオレッタは「う~~ん」と唸った。
 思い出せそうで、思い出せない。
「SNSのヤツだろ」
 モネが、ヴィオレッタを見上げながら「庭のファン」「庭マニア」と言葉を続ける。
「あ!」
 そうだ!
 SNSを更新すると「よき」のハートをくれたり、丁寧なコメント送ってくれるフォロワーの「カシオ」さん。
 そういえば、自由に外出が出来ない事情があるようだった。だから、太陽をいっぱい浴びて元気なハーブを見ていると癒されるって……。
「まさか、同一人物だったなんてね。どうりで、話が弾むはずだわ」
 彼女は、以前からヴィオレッタのことを知っていて、だから病気のことも打ち明けてくれたのだろう。
「ずっと会いたいと思っていたから、たくさんお話できて嬉しいわ!」
 胸が、ぎゅーーっとなる。ドキドキして、そこらじゅうを駆け回りたい気分だった。 
「また、わたしが持って行こうかしら……?」
 ケーキの箱詰めが完了したらしく、大夏の手の中にある包みに視線をやる。彼女とまた、たくさんおしゃべりがしたい。
「でも、お仕事の邪魔になってしまうかしらね」
 ヴィオレッタが考え込んでいると。
「今日は、俺が持って行きますから」
 ヴィオレッタの手中から、勇馬が包みを奪っていく。
「なんかこいつ、ちょっと不機嫌になってないか……?」
 勇馬の顔を見ながらモネがつぶやく。
「やっぱり、モネもそう思う?」
 勇馬の膨れっ面を見ながら、ヴィオレッタがモネに確認する。
「カシオの病気のことをヴィオレッタのほうが先に知ってたから、面白くないんだな」
「それだけで怒るかしら?」
「疎外感だよ。自分のほうが仲が良いと思っていたのに、そうじゃなかったと分かったら辛いだろ。おまけに、ヴィオレッタとしゃべって楽しかったとか、自分の想いを素直に言えたとか。そんな話をカシオから聞いたらさ」
「……素直になれる魔法をかけたの、マズかったかしら」
 良い未来になるよう、祈ったのだけれど……。
「というか、モネ。あなた、やけに事情を知ってるわね?」
 ヴィオレッタにの言葉に、モネが「いけね」と顔を顰める。
「間木様の心の声。聞いてるのね?」
 モネが分かりやすく狼狽える。
「ま、魔法を使わないと、力が錆びるんだよ。だ、だから、たまには使わないと……」
 視線をさまよわせながら言い訳をするモネをヴィオレッタが軽く睨む。
「他にも力の使い道があるでしょ? むやみに他人様の心の内をのぞいたらダメよ」
「分かってるよ……」
 ヴィオレッタに叱られて、モネはしょぼんと肩を落とした。
「じゃあ、俺は帰ります。また来るんで」
 そっけなく言って、勇馬が店を出て行く。
「わたし、嫌われちゃったのかしら……?」
 勇馬の後ろ姿を見ながら、ヴィオレッタはモネにたずねた。
「心配しなくても、どうせ明日には忘れてるだろ。それにしても、お子様なヤツだな」
「ケーキを持って行ったけれど……。険悪な雰囲気にならないかしらね」
 今日も、勇馬は彼女が注文したケーキを受け取っていた。桜のチーズケーキだった。
 ヴィオレッタが心配していると、モネがニタリと笑った。
「……どうしたの?」
 こういう顔をするとき、モネは何か企んでいる。
「ふたりが仲違いしないように、見守ってやらないとな? な?」
 ズンズンと鼻ぺちゃ顔が圧をかけてくる。
「わ、わたしにどうしろと言うの……?」
 あまりにも圧がすごいので、ヴィオレッタは思わずあとずさる。
「見守るんだよ。それで、もしものときに備えるんだ」
 ものすごーーく、したり顔のモネを見て、ヴィオレッタはピンときた。
「なるほど。モネは、ふたりの会話を聞きたいのね」
 近距離にいる相手の心の声は聞き取れるモネだけど、少しでも対象が離れると力が及ばなくなってしまう。だから、ヴィオレッタの力が必要なのだ。
「モネ、あなた。本当は、ふたりが仲違いするのを期待しているみたいね? ちょっと諍いが起こってくれたほうが、面白いと思ってるんでしょう?」
 モネがわるい顔をしている。ヴィオレッタがカマをかけると、モネはあわあわと慌て出した。
「な、な、俺は! ふたりが心配で……!」
 なんとも分かりやすい使い魔だ。
「さっきも言ったでしょ? ダメよ」
「うぅ……」
 モネが、ガクッとうなだれる。
「……と、言いたいところなんだけど。万が一、本当にふたりが仲違いしちゃったらいけないから、様子を見るわ」
「本当か!?」
 パァッとモネの表情が光り輝く。
「魔法をかけたのは、わたしだもの。素直になったせいでふたりの仲がわるくなるなんて……。責任を感じるわ。だから、ほんの少しだけ。本当に、すこーーし、だからね。大丈夫だと判断したら、すぐにやめるわよ?」
「もちろんだ」
 満足そうにうなずくモネを、ヴィオレッタは苦笑いしながら見下ろした。
 目を閉じて、神経を集中させる。
 頭の中に香椎舎の別館が見えた。レトロな社屋。二階に意識を向けると、かすかに話し声が聞こえてきた。
「どうして、俺に言ってくれなかったんですか……。ヴィオレッタさんには言えて、俺に言わなかったのはなぜですか」
 勇馬の声だ。
「……ちょっと、怒ってるな」
 モネの言う通りだった。勇馬の声色には、わずかに怒気が含まれている。
「病気のこと? それなら、間木くんの耳には入っていると思ったから」
 それで、彼女はあえて言わなかったようだ。
「あんまり言うと『配慮しろ』って押し付けているみたいじゃない? それがイヤだから」
 少しずつ、語尾が尻すぼみになっていく。
 ヴィオレッタは、ふたりのやり取りを聞きながらヒヤヒヤした。
 もしもふたりが仲違いして、前よりももっと気まずい関係になってしまったら……。
 自分の魔法のせいだ。やはり魔法というものは、気安く使うものではない。ヴィオレッタは激しく後悔した。
 それなのに、モネは興味津々といった感じで聞いている。瞳を輝かせている鼻ぺちゃ犬。どこか憎めないその風貌に、普段は癒されているけれど。今は、とっても憎らしい。
「それ以外にも、思っていることとか……。これからは、俺に言って欲しいです」
「間木くんに?」
「俺が、運び屋なんですから」
「運び屋って……。なんだか、外国の映画みたい」
 くすりと彼女が笑う。
 ほっとしたのも束の間。カシオは、真面目なトーンで話を続けた。
「……わざわざ、ここまで運んでくれているもんね。面倒な仕事をさせてしまって、間木くんには申し訳ないと思ってる」
「俺は、仕事が出来るひとのサポートをしているだけです」
「仕事が出来る……? そんな、わたしなんて。皆に迷惑をかけてるだけで」
「香椎さんが、サポートを受けてるのは事実ですけど。でも『迷惑をかけてるだけ』なんて、どうやったらそんな認識になるんですか」
「認識もなにも、本当のことだよ」
「卑屈にならないでくださいよ。支店で手に負えないクレームを処理してるのは、香椎さんなんですよ? 迷惑どころか、助かってるに決まってるじゃないですか」
「でも、わたしは縁故採用だし……」
「だから何ですか。きちんと仕事をしているんだし、それで良いじゃないですか。会社だって、香椎さんを雇ってプラスになってますよ」
「プラスに……? ど、どういうこと……?」
 彼女は、信じられないといった感じで勇馬に問う。
「香椎さんに話を聞いてもらったお客様たち、また注文してくれるんですよ。こっちのミスが原因でのクレームもありますから。普通なら、もう二度と香椎舎で買物をしたくないって思うじゃないですか。でも、また注文してくれる。それは香椎さんが、ちゃんと仕事をしているからです」
 カシオが、思わず顔を覆った。
 小刻みに身体が震えている。その映像が、ヴィオレッタには見えた。
「わたし、ここにいてもいいの……?」
 カシオの声が濡れている。
「ここにいる意味が、ちゃんとあるの……?」
 縋るように、カシオが勇馬に問いかける。
「そこにいて良いですし、いてもらわないと困ります。ガチでヤバいクレームの対応できるの、香椎さんしかいないんですから。いや、本当に。ガチのクレームは難易度が高すぎます」
 ちょっとおどけるように、勇馬が言った。 
「……仕方ないわね」
 カシオが流れる涙を拭う。
「間木くん」
「なんですか?」
「辞めないでね」
 カシオの声に、勇馬が息を飲む。
「お客様の気持ちは、いつも声から汲み取っているんだけれど。ちょっと難しいなと思うこともある。でも、ここに来る社員の気持ちはいとも簡単に分かる」
「か、簡単……? どうして分かるんですか」
「足音でね、分かるんだ。歩き方に顕著に出るみたい。ダルそうに歩いているのは、きっと別館に来るのが面倒なんだろうな、とか」
 言い当てられた勇馬は、気まずそうにうつむく。
「間木くんの前の運び屋さんは、いつもやけに急いでいたな」
「……そんなに、忙しくはないはずなんですが」
「たぶん、この別館が怖かったんだと思う。一刻も早くここから出たい! という感じで、書類や商品を置いたら、慌てて逃げて行くのよ」
「……『謎の社員』の話は、ちょっとホラーでもありますから」
 苦笑いしながら、怖がりな社員を勇馬がフォローする。
「辞めそうな社員も、分かるんだ」
「……足音で?」
「うん。イヤなんだろうなって。つまんない仕事だもんね、こんなところに来るのは」
「間木くんも、そうでしょう? ごめんね……」
 ぽつりと、彼女が寂しそうに言った。
「辞めませんよ」
 きっぱりと、勇馬が扉の向こうに向かって宣言する。
「香椎さんの言う通りです。ここに来るの、『めんどくせーー!』って思ってました」
「うん」
「でも、辞めませんよ」
「……本当?」
「俺にしかできない仕事を見つけたんで」
 勇馬が、ちょっと自慢気に胸を張る。
「そんな仕事、この世に存在するのか?」
 モネが首をかしげている。失礼すぎるわんこだ。
「香椎さんにしかできない仕事があるように、俺にしかできない仕事があるんです」
「そうなの? どんな仕事?」
「……秘密です。そのうち教えてあげますよ」
「そのうちね」
 ふたりの声が、とても柔らかい。
 扉越しに会話するふたり。ちょっとだけ名残惜しかったけれど、ヴィオレッタは目を開けた。
 その瞬間、ふたりの声がプツリと切れる。
「あぁ……! もうちょっと聞きたかったのに~~!」
 モネが不満そうな声を漏らす。
「約束したでしょ?」
「そうだけどさ……」
 残念そうに、しょんぼりとモネが肩を落としている。
「盗み見と盗み聞きが好きだなんて、まったく。しょうがない使い魔ね」
 呆れながらヴィオレッタは、モネのふかふかな毛並みをサラリと撫でたのだった。



 モン・プチ・ジャルダンの二階。仕事を終えたヴィオレッタが、ソファでゴロゴロしていると。同じく仰向けでゴロゴロしていたモネが「そういえば」とつぶやいた。
「勇馬が言ってた『俺にしかできない仕事』とは、一体何だったんだろうな? そんな仕事は、この世に存在しないよな?」
「もうっ! さすがに失礼よ」
 太くて短いモネの前足を、ぺんっと叩く。
「あれは、彼女の連絡係としての仕事だと思うわ」
「連絡係?」
「モネには聞こえなかったのかもしれないけど、あのとき間木様の心のが聞こえたの」
 ヴィオレッタは、そのときの声を思い出した。
『クレーム対応したお客様が、また注文してくれてること。香椎さんは知らなかったんだよな……。これからは、俺が逐一報告しよう。そのほうが絶対、香椎さんだって嬉しいだろうし。やる気にもなるよな……。あれ、これってもしかして、俺だけが出来る仕事じゃないか? 別館が怖くて、逃げるように去っていく社員もいるくらいなんだから……』
 勇馬の心の声は、とても嬉しそうだった。
 ヴィオレッタは思い出しながら、じんわりと満たされた気持ちになった。
 魔法を使って、良かった。
 こんがらがった糸を、ちゃんと解くことができた。
「ま、あいつも一ミリくらいは社会人として成長したかもな!」
 上から目線なモネが、ニヒヒと笑っている。
 ふかふかのソファに身を沈めながら、ヴィオレッタは真っ白な物体を見つめた。
 呑気そうな顔つき。丸くて黒い瞳。かなり太めの首回り。短い足。いつ見ても、全身から愛嬌を感じる。
 可愛い。可愛くないけれど、最高に可愛い……!
「モネ」
「なんだ」
「抱っこさせて」
 仕方ないな、という表情でモネが鼻を鳴らす。
 嬉しいことがあると、犬を抱きたくなる。柔らかで、温かくて、そういうものを胸に抱えていると、身体の中の「嬉しい」が逃げていかない気がする。蒸発せずに、ずっと自分の中に留まり続ける気がするのだ。
「モネって、可愛いわね。性格は、ちょっとわるいけど」
「失礼だな。まぁ、俺は愛らしい姿形をしているからな」
 フゴッと満足気に鼻を鳴らす。
「それに、モネの体ってモチモチしているから抱きしめていると癒されるわ」
「俺の存在価値の高さが分かるだろ?」
「そうね。モネの匂いを嗅ぐと、安心するし……」
 こうやってゴロゴロしながらモネを抱きしめる時間は、ヴィオレッタにとって大切なご自愛タイムなのだ。
「俺の匂い……? どんな匂いだ?」
「説明がむずかしいわね。ちょっと香ばしいような……。決して良い匂いじゃないけれど、何度もでも嗅ぎたい感じよ。この匂いがあると妙に落ち着くの」
「そこはお世辞でも素敵な香りですって言うところじゃないか?」
 ヴィオレッタの腕の中で、イヤイヤをするみたいにモネが小さく暴れる。
「ふふ。モネがハリネズミじゃなくて良かったわ」
「なぜだ?」
「こんな風に、顔をうずめて匂いを嗅げないもの。針が刺さってしまうじゃない」
「ときどき針を出したくなるときはあるぞ」
「そうなの?」
「抱き着きが長いときはな」
「あら、良いじゃない」
「俺は使い魔であって、抱き枕じゃないんだからな!」
 フガフガと鼻息を荒くしながら文句を言う。そんなモネを胸に抱いて、ヴィオレッタは目を閉じた。その瞬間、頭の中にイメージが流れ込んできた。
 勇馬と史緒の映像だった。
「あら……!」
 思わず、ヴィオレッタが声が漏れる。
「どうしたんだ?」
 ヴィオレッタの腕の中で、ジタバタしながらモネが訊ねる。
「未来が見えたわ」
「みらい……?」
「ふたりの未来よ」
「どうなってた!?」
 モネが興味津々な表情になる。
「間木様は、ちょっと出世したみたい」
 さんざん愚痴を吐いていたけれど、結局は香椎社を退社することなく、仕事を続けたようだ。
「あいつが出世……?」
 モネは、かなり懐疑的らしい。眉間のあたりをギュッと寄せている。
「東京支社にいる映像が見えるわ。でも、定期的に神戸に来ていて。支社に顔を出しているみたいよ?」
「それって、迷惑な先輩社員になってないか?」
「どうやら、うちにも寄ってくれているみたいよ」
 すっかり、モン・プチ・ジャルダンの常連のお客様になっているようだ。
 さすがに少しは落ち着いたようだ。スーツが馴染んでいるし、大人びた雰囲気を漂わせている。
 庭のハーブを避けながら、店へと続く石畳を歩いている勇馬の姿が確認できた。
「なんか、意外だな。あいつ、そんなに甘いものが好きだったのか……」
「違うわよ。自分で食べるんじゃなくて、手土産ね」
「まさか……」
 モネが驚いた顔で、ヴィオレッタを見上げる。
「そうよ。あの別館に通っているの。相変わらず坂道はキライみたいだから、タクシーに乗ってね」
「運動不足が祟って、スタイルの良さが台無しになって欲しいな」
 ニヒヒ、とモネがわるい顔で笑う。
 けれど残念ながら、ヴィオレッタに見えている勇馬は相変わらずイケメンで、スタイルも良いままだった。
「扉一枚を隔てて、おしゃべりしてるふたりが見えるわ。モン・プチ・ジャルダンのお菓子を食べながら、コーヒーを飲んで。すっごく楽しそうよ」
「ふうん」
「たぶん、もっと先の未来になると、扉を開けられるんじゃないかしら」
「なんだよ。ハッピーエンドかよ」
「とっても、素敵な未来だわ……」
 つまらなさそうに言うモネを抱え直し、ヴィオレッタはうっとりとつぶやいたのだった。