モン・プチ・ジャルダンは、神戸市北野にある洋菓子店だ。
 こぢんまりとした店で、海の見える高台に建っている。敷地は細い路地に面しており、そこから神戸の市街地を望むことができる。
 白い壁と赤い屋根が特徴の洋風建築で、一階が店舗、二階は住居スペースとして活用している。
 店名は「わたしの可愛い庭」という意味。
 その名の通り、季節によって様々な花が咲く。庭全体には、数えきれないほどの種類のハーブが植えられている。
 今は三月の終わり。カモミールやラベンダー、ローズマリーといった春のハーブたちが、さわさわとそよ風に揺れていた。
 北野は、住宅地域であり観光地でもある。明治から大正にかけて建てられた異人館が、今も数多く残存しているからだ。
 街のあちこちで、異国情緒あふれる風景を楽しむことができる。
 大通りから少し離れていることもあり、モン・プチ・ジャルダンの店内には、ゆったりと落ち着いた時間が流れていた。
 店主であるヴィオレッタは、朝から開店の準備に追われている。
 数種類のお菓子を作って、それからサッと店舗をきれいにして。開店準備ひとつとっても、意外にやることがある。
 商品を並べたり、包材の在庫を確かめたり、釣銭を確認したり。毎日の庭の手入れも、ヴィオレッタにとって大切な仕事のうちのひとつだった。
「営業時間が短いのって、お客様にとっては不便よね。オープンは十一時で、クローズドは十七時。もうちょっと長くお店を開けたいんだけど……」
 ショーケースにケーキを並べながら、ヴィオレッタはひっそりとため息を吐いた。
「わたしがひとりで営業しているから、仕方がないんだけれどね」
「おい、ヴィオレッタ。今『わたしがひとりで』と言ったか? ひどいじゃないか。俺の存在を忘れてるぞ」
 低い声がヴィオレッタの頭の中に響く。
 声の主を探すと、ショーケースの反対側にいた。真っ白でツヤツヤした毛並み。首回りはどっしり、顔は鼻ぺちゃ。ペキニーズという犬種だ。名前はモネ。
「あら、何も間違ってないでしょう? モネが手伝ってくれたことなんて、ただの一度もないじゃない」
「手伝ったことはないけど。俺という存在そのものが癒しだろ? 見ろよ、この愛らしい姿を」
 ニカッと笑いながら、モネがゴロンと床に寝転がる。
 短くて太い前足が露わになった。ペキニーズの特徴のひとつだ。この短い足で必死に走る姿は、唯一無二だと思う。がに股で、身体を横に揺らしながらのローリング走行。鈍くさそうに見えるけれど意外と速いその姿は、たしかに癒しかもしれない。
 思わず脱力してしまうのだ。笑顔にもなれる。多少のイヤなことなら、忘れてしまえるくらいの効力が、ペキニーズにはあると思う。
「まぁ、ペキニーズといっても、使い魔なんだけれどね……」
 考えていたことが、そのまま声になっていたらしい。
「ヴィオレッタだって、人間に見えるけど魔女じゃないか」
 モネがぶすっとした顔になる。
「……この会話方法って、便利なんだけど。ときどき面倒ね」
 ヴィオレッタは肩をすくめた。
 魔女と使い魔は、声に出さなくても会話ができる。魔女には秘密が多い。だから他人に聞かれないように、使い魔とのやり取りは、ほとんどがこの会話方法だ。
 頭の中で思うだけで、相手にメッセージが送れる。とても便利で機密性が高い。
 けれど油断していると、今みたいに伝えたくない言葉まで聞かれてしまう。なかなかに厄介だった。
 ヴィオレッタが動く度に、ブロンドベージュの長い髪が揺れる。ゆるくウェーブしているのは、くせっ毛だから。
 シミひとつない真っ白な肌、美しい湖のような青い瞳。ルージュなしでも赤く艶やかなくちびる。
 誰が見ても、ヴィオレッタは二十歳そこそこの容姿をしている。けれど、実年齢はもっと上だ。 
「もう良い年だよな」
 鼻ぺちゃ顔が、目を細めてニヒヒと笑う。
「失礼ね。魔女年齢でいうと、まだ妙齢よ」
 ひらりと靡くワンピースは、淡いグリーンの生地で縫ったもの。白いレースのエプロンも、ヴィオレッタが手縫いした。
 ケーキをすべて並べ終え、ヴィオレッタは正面にまわった。
 ピカピカに磨かれたアンティーク調のショーケース。その中に、キラキラと光る宝石のようなケーキたち。
 イチゴのミルフィーユは、とにかく断面が美しい。パイとカスタードクリームとイチゴ、それぞれの層を見ているだけで心が躍る。
 桃のタルトは、贅沢に桃を半分ほど使用している。ころんとした丸いフォルムが可愛い。桃の表面には、ナパージュをハケで塗っている。ナパージュとは、お菓子の表面をツヤツヤにしてくれる透明なジュレ状のもの。ツヤツヤでおめかしをたおかげで、最高に可愛い桃のタルトが完成している。
 ショートケーキはシンプルで美しい。繊細な生クリームのひだは芸術品だ。アラザンと呼ばれる装飾用の銀色の粒を散りばめ、上品でクラシカルなケーキに仕上がっている。
「美しい? 断面が可愛い? 俺には分からん。意味不明だ」
 寝転がったままのモネが、ヴィオレッタの足元で体を揺すっている。
「手作りするとね、ひとつひとつが愛おしくなるのよ」
「魔法で作ればいいだろ。時短になるぞ」
「分かってないわね。手間をかけるから良いのよ。時間をかけることで、可愛い! 愛おしい! って思うの。魔法を使ってちゃ、こうはいかないわ!」
「変わった魔女だな」
 仰向けの状態で、モネが呆れている。
 ヴィオレッタは、昨日売れた分のマドレーヌとフィナンシェをディスプレイ棚に補充した。
「これで準備完了よ。今日もお店を開けるわ!」
 ヴィオレッタが人差し指を立てる。そして、タクトを振るみたいに小さく円を描く。
 遠くで、カラン、と音がした。
 店舗を出て、庭を抜けて。敷地の入口にある白い門柱には、木製のプレートがかかっている。リバーシブルのプレートだ。さっきまで「CLOSED」だったのが、今は「OPEN」になっている。
「それだけは魔法でやるんだな」
「これだけはね。あとは、ぜ~~んぶ、手仕事よ!」
 腰に手を当てて、ヴィオレッタが自慢げに言う。
「やっぱり、変わった魔女だ……」
 目を細めながら、モネがブシュッと鼻から息を吐く。
 モン・プチ・ジャルダンは、手作りにこだわり抜いた魔女による洋菓子店なのだった。
 魔女は、人間よりも少しだけ寿命が長い。「少しだけ」というのは魔女の主観なので、人間が思う「少し」とはちょっと違う。
「時間がたっぷりあるから、皆それぞれに没頭できる趣味を持っているわね」
「魔女が趣味?」
「そうよ。たとえば、これ」
 ヴィオレッタが、木製の台を指さす。
「レジ台がどうしたんだ?」
 ふかふかボディの白い犬が、ダルそうに顔をあげる。
「この敷物を見て。きれいなレース編みでしょう? クロッシェレースというんだけれどね」
 ごく細かいレース糸で緻密に編みあげられた四十センチほどの敷物は、シックで落ち着いた木目調のレジ台と調和していた。
「これも趣味の一環なの。かぎ針でレースを編むのに凝ってる魔女がいてね。アナベルというんだけれど」
 モン・プチ・ジャルダンを開いたとき、開店のお祝いとして貰ったものだ。
「やたら細いレース糸だな」 
「魔女の暇つぶしには、このくらいがちょうど良いのよ」
 なんといっても魔女は寿命が長い。時間がかかればかかるほど、魔女の趣味にはピッタリなのだ。
 カラン、コロン。
 少しだけ鈍いドアベルの音が、店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
 ヴィオレッタが微笑むと、若い女性客がぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
 常連のお客様だ。週に一度のペースで、モン・プチ・ジャルダンにやって来る。
 朝野(あさの)すみかというこのお客様は、いつもじっくりと吟味しながら商品を選ぶ。
 彼女は小柄だから、上段のケーキはそっと背伸びをする。下段のときは、少し屈んで。
 ショーケースの中をじっと見ているその姿をこそっと眺めるのが、ヴィオレッタは好きだった。
「どれにしようか悩む気持ち、とってもよく分かるわ! どれも美味しそうだし、最高に可愛いんだもの」
 ヴィオレッタが、心の中ではしゃいでいると。
「おい、ヴィオレッタ。自画自賛が過ぎるぞ。それに、あまりチラチラ見るなよ。そんなつもりがなくても、彼女の場合……」
「分かってるわよ」
 頭の中に流れ込んでくるモネの言葉を、ヴィオレッタは制止した。
 彼女は、顔にアザがある。
 顔の右側、頬から耳にかけて。青くなっている部分があるのだ。ひと目で分かるくらいには、目立つアザだった。
 たぶん、かなり気にしているのだと思う。
 モン・プチ・ジャルダンに来店するようになったころ、彼女は帽子を目深に被っていた。大きめのマスクをして、さらにスカーフで覆うという徹底ぶりだった。
「そういえば、当初は完全武装だったな」
「でも、彼女は少しずつ鎧を解いていったわ」
 帽子を取り、スカーフをやめ、最後にマスクをはずした。
「自分にとって、安全な場所だと思えたのね」
「安全?」
「そうよ。心の安全。むやみに傷ついたり、落ち込んだりする心配がない場所だって思ってくれたんだわ」
 自分の大切なお店が、誰かの心安らぐ場所であること。ヴィオレッタにとっては、この上ない喜びだった。
「まぁ、そういう意味ではモン・プチ・ジャルダンは安全な場所だな。悪意を持った人間はいない。悪魔も寄り付かない。ちょっと変わった魔女がいるだけだ」
 舌をのぞかせながら、モネがニヘリと笑う。
「それと、口うるさい使い魔もいるわね」
 肩をすくめながら、ヴィオレッタがちらりとモネを見下ろした。
「あの、すみません」
 すみかが、おずおずとヴィオレッタを呼ぶ。
「はい! ご注文、お決まりですか?」
「いちごのミルフィーユをください。それから、フィナンシェをふたつお願いします」
「かしこまりました。お持ち帰りの時間は、いつもと同じでよろしいですか?」
 すみかがうなずくのを確認して、ヴィオレッタは保冷剤をふたつ箱に入れた。
 保冷剤は、時間に応じて入れる数を変える。三十分程度ならひとつ。彼女の自宅は、ここから一時間ほどと聞いている。
 少しくらいなら傾けても問題がないように、緩衝材でケーキを固定する。それから、封蝋のようなシールで箱を留める。
「いつも、モン・プチ・ジャルダンをご利用くださり誠にありがとうございます」
「い、いえ! こちらこそ、いつも可愛くておいしいお菓子をありがとうございます……! わたし、甘いものを食べると癒されるんです」
「癒しですか?」
 すみかが、ケーキとフィナンシェの入った小箱を大事そうに抱える。
「はい……。仕事を終えて、ひとりになった瞬間。ふと、小さな棘が刺さっていることに気づくんです。不思議ですよね、皆といるときは分からないのに。ひとりになると、急に傷みだしたりして。そういうときに甘いものを食べると、その棘が抜けていく気がするんです」
 繊細に整った顔立ちが、ふわりと緩む。
「分かります。わたしも、甘いものを食べてストレス解消していますから」
 ヴィオレッタが、うなずきながらすみかを見る。
「ストレスって……。ヴィオレッタは、そんなものとは無縁だろ」
 足元にドテッと寝そべったモネが、すみかには聞こえないよう頭の中に語りかけてくる。
 ヴィオレッタは、聞こえないふりをして、モネの声を無視した。今はそれどころではない。
 彼女から、素晴らしい言葉を受け取った。
『棘が抜けていく気がするんです』
 すみかの華奢な背中を見送りながら、ヴィオレッタは胸がいっぱいになった。



「疲れたわね~~! 今日もたくさん働いたわ!」
 モン・プチ・ジャルダンの二階。
 住居スペースのソファに倒れ込みながら、ヴィオレッタは体をぐいっと伸ばした。
「たくさん動き回ったし、もう一歩も歩けないわ」
 エプロンを外して、グリーンのワンピースを脱いで。ルームウェアに身を包んだヴィオレッタは、猫のように丸くなった。
 レースがふんだんにあしらわれたルームウェアは、一見ドレスのようにも見える。しばらく瞼を閉じたあと、ヴィオレッタはパチリと目を開けた。
「さてと。お菓子作りでも始めようかしら」
「……おい、ヴィオレッタ。言動と行動が一致していないぞ。『一歩も歩けない』と言ったばかりじゃないか」
 ソファの下で寝そべっていたどっしり体型の小型犬が、呆れたように顔をあげる。
「それくらい、骨惜しみせず働いたってこと。だからこそ自分へのご褒美が必要なの」
 へとへとで、身体の中が空っぽになってしまった感覚がある。完全なエネルギー不足だ。その不足分を埋めるためには、甘いものが必要になる。
「ありがたいことに、お店で作った分はすべて売り切れてしまったし……。新たに作るしかないわね」
 ソファから下りて、ヴィオレッタはキッチンに向かう。
「ご苦労なことだな」
 モネがフシュッと鼻を鳴らした。
 今夜のご褒美スイーツは、ジェラチーナ・コロリーダ。
 濃厚な甘さの白いゼリーと、さっぱりしたカラフルなゼリーとの組み合わせが、目にも鮮やかな一品だ。
「少し前に教わってね、作るのは初めてだから楽しみなの」
 厚手のスポッと被るタイプのエプロンをして、ヴィオレッタは準備にとりかかる。
「誰に教わったんだ?」
「ブラジルに住んでる魔女よ。いわゆる『魔女友(まじょとも)』というやつね」
「ふーん。それで、そのジェラ? なんとかいうのは、ブラジルのお菓子なのか?」
「ええ、そうよ。わりとポピュラーなデザートみたい。子どもにも大人にも人気なんだって」
 まずは、カラフルなゼリーからこしらえる。
 今日は、イチゴ、メロン、オレンジのゼリーの素を用意した。何味かというより、とにかくカラフルな色のゼリーにすることが重要らしい。
 ボールにゼリーの素を入れ、お湯でよく溶かす。そのあとに水を入れてしっかりと混ぜ合わせる。少し冷ましてから、バットに流し入れる。
 冷蔵庫で冷やして固めたら、取り出して二センチほどにカットする。三色のゼリーを小さい四角形にできたら、カラフルゼリーは完成。軽く混ぜて大きめの容器に入れていおく。
 続いて、ボールにゼラチンを入れ、お湯でよく溶かす。さらに水を加えてしっかりと混ぜたら、コンデンスミルクと生クリームを入れる。これをカラフルゼリーが入った容器に流し入れ、冷蔵庫で冷やし固めたら、ジェラチーナ・コロリーダの出来上がり。
「日本とは違って、ブラジルでは気軽にパーティーを楽しんでるらしいの。週末とかにね。それで、こんな風に大きめの容器からすくって、ジェラチーナ・コロリーダを取り分けて食べるみたい」
 ヴィオレッタは、銀のスプーンで自分の分と、それからモネの分を取り分ける。
「それも、魔女友からの情報か?」
「そうよ。カラフルできれいでしょう?」
 雪の中に、鮮やかな色の宝石が隠れているみたいだ。
「また、無駄に時間のかかるものを作ったな……」
 クンクンと鼻を近づけながら、モネが渋い顔をする。そうして、ぺろりと舐めるようにしてゼリーを舌ですくい取った。
「……甘いな」
 ヴィオレッタも、ぱくりと口に入れる。
「ん~~! おいしい! 白いところはすごく甘いけれど、カラフルゼリーな部分がさっぱりしているから、たくさん食べられるわ!」
 おいしさのあまり、思わず身体を揺すってしまう。
 生クリームとコンデンスミルクが入った白い部分と、カラフルなゼリーでは食感もまるで違う。甘さのコントラストを口の中で存分に味わう。 
 ひと口、ふた口……。スプーンですくうたびに、幸せな気分になれる。
「……彼女の言う通りね」
「昼間の棘の話か?」
「そうよ。言っておくけど、わたしにだってストレスはあるわよ?」
「どうだか」
 愛嬌があり過ぎる顔で、モネが嫌味っぽく笑う。
「魔女には色々あるのよ。でもね、わたしは自分のご機嫌を取るのが上手だから。そのおかげで、いつも上機嫌でいられるの」
「ふうん」
 モネが適当に返事をする。まったく、薄情な使い魔だ。
 気づくと、モネは食べることに夢中だった。ぺちゃぺちゃと音を立て、口のまわりをベタベタにしながら、ジェラチーナ・コロリーダの入った器に顔を突っ込んでいる。
 モネの様子を見ながら、ヴィオレッタは肩をすくめる。
「散々ケチをつけるくせに、結局はたくさん食べるのよね」
「うるさいな」
「……誰か、ひとを雇おうかしら?」
 銀のスプーンを持ったまま、ヴィオレッタがぽつりとつぶやいた。
 営業時間が短いことが、以前から気になっていた。
 新たにひとを雇えば問題解決だ。早々に商品が売り切れてしまうこともないだろう。
「雇うって、人間をか?」
「当たり前じゃない。この辺りに、わたし以外の魔女はいないもの。狼男なら何人か心当たりはあるけれど。でも、満月の日は出勤してくれなさそうじゃない?」
「狂暴になるしな。却下だ」
「ケーキを作れるひとが良いわ。出来たら、キラキラした可愛いケーキが得意なひと。それから、力持ちだと尚良いわね。ハーブのための土とか、肥料の運搬をお願いできるもの」 
「条件が多いな。ちょっと厳しいんじゃないか?」
「あくまで、希望よ」
 ヴィオレッタとモネが、そんな風に相談し合ってから数日後。
 面接希望者が、モン・プチ・ジャルダンにやって来た。
 モネが目をまん丸にしながら、その男を見上げる。
「おい、ヴィオレッタ。こいつ人間だけど、狼男くらいの大きさがあるぞ……」
 モネの言葉が頭の中に流れ込んでくる。モネが言う通り、お店の入口で少し屈まないといけないくらいには大男だった。 
 おまけに筋肉がモリモリで、かなり屈強そう見える。
「やったわ! きっと力持ちよ。見て、このムキムキの肉体! 肥料の袋くらいだったら、一度にふたつくらい担げるんじゃないかしら?」
「……ヴィオレッタ。庭職人を雇うんじゃないんだぞ? 欲しいのは菓子職人なんだからな」
「分かってるわよ!」
 店舗の奥。ヴィオレッタはさっそく面接を開始した。
 受け取った履歴書にざっと目を通す。
 名前は、常盤大夏(ときわたいが)。二十五歳。製菓学校を卒業後、東京のパティスリーで五年ほど勤務していたと書かれている。
「ちょっと! ねぇ、モネ。このお店って、すっごく有名よ」
 雑誌やSNSで頻繁に紹介されている。やたら可愛くて、映えるとかで。
「どの商品も、繊細で美しいの」
「ふーん」
「うちのお店にピッタリじゃない?」
「見た目を重視してるもんな」 
「あら、洋菓子っていうのは見た目も重要なのよ。ご褒美だもの。たくさんのキラキラしたものの中から、自分のお気に入りを見つけるの。選ぶときからドキドキして、大事にそおっと持って帰って。包みを開けたときの感動!」
 目を輝かせるヴィオレッタの足元で、モネが欠伸をする。
「でも、こいつ顔が怖いぞ」
 モネの悪口に、ヴィオレッタはピクリと眉を動かす。
 確かに、大夏は目つきが怖い。一重瞼で眼光が鋭いのだ。
「……モネ。あなた、他人様の顔にケチをつけられるほど、優れた顔面だったかしら?」
 ペキニーズという犬種は、鼻ぺちゃ顔の代表格なのだ。どこから見ても美形とは言い難い。
「顔のことは言うなよ」
 不満そうに、モネがブシュッと鼻を鳴らす。
「あなたが先に言ったんじゃない。……まぁ、この顔はこの顔で、愛らしいんだけれど」
 見ようによっては可愛いし、毎日見ていると可愛くて仕方が無くなるという不思議なフェイスだ。何より癒される。愛すべき鼻ぺちゃ顔なのだった。
 ヴィオレッタとモネの会話は、大夏には一切聞こえていない。
 目の前にいる彼からすれば、ヴィオレッタは無言で履歴書を眺めているだけだし、足元にいる白い犬が時おり鼻を鳴らしているに過ぎない。
「採用するわ」
「えぇ!?」
 モネが焦ったような顔をする。
「何か問題?」
「うちは『可愛い』がウリの洋菓子店なんだぞ」
「そうよ?」
「異人館を改装した店舗で、内装や備品にもこだわってる」
「ええ」
「店頭に並んでる菓子類も、やたらゴテゴテしてる」
「キラキラしてると言って欲しいわね」
「女性客が多い」
「だから?」
「……ちょっと、威圧感が」
「確かに、彼は強面だと思うわ。でも、悪いひとじゃないもの」
 魔女だから、それくらいはすぐに分かる。
「問題ないでしょ?」
「……まぁ」 
 渋々といった感じで、モネがうなずく。
「採用します!」
 今度は人間にも聞こえるように、ヴィオレッタは言った。
 その瞬間、大夏が弾かれたように顔をあげる。
「え、ほ、本当ですか……?」
 どうやら、驚いているらしい。
「何か不満?」
「い、いえ! 違うんです。まさか、採用していただけるとは思っていなかったので」
「あら、それはどうして?」
 ヴィオレッタがたずねると、大夏は大柄な身体を縮こまらせながらつぶやいた。
「見た目が、これなので……」
「あなたが言う『これ』というのは、大きな身体のことよね。何センチあるの?」
「百九十センチは、あります。それに、無駄に筋肉質なものですから」
 特別、鍛えているわけではないらしい。筋肉がつきやすい体質なのだろう。
「顔もこんなですから。女性のお客様からすると、威圧感を感じるみたいで。以前勤めていたパティスリーでも、お客様から『怖い』と言われて……。それで居辛くなったんです」
 なんて悲しい退職理由だろう。ヴィオレッタは、胸が痛くなった。
「自分が、このお店の雰囲気に合わないことは、分かってるんです」
「俺と同じこと言ってる。こいつ、ちゃんと自覚あるんだな」
 モネの声が、頭の中に流れ込んでくる。
 顔をくしゃくしゃにしながら、フヘッと笑うモネをヴィオレッタは軽く睨んだ。
「じゃあ、どうしてうちに応募してきたの?」
「か、可愛いものが好きなんです……!」
 大夏が、意を決したように立ち上がる。
「お店の可愛い感じとか、庭の雰囲気とか、商品のひとつひとつもすごく自分好みで……! めちゃくちゃ可愛いと思いました!」
 まるで演説するみたいに、大夏が「可愛い」を連呼する。
「どうしても、ここで働きたいと思ったんです! それで、ダメ元で応募しました」
「そうだったのね。モン・プチ・ジャルダンを『可愛い』と言ってくれて、とても嬉しいわ! とにかく、あなたは採用です」
「ほ、本当に、俺はここで働けるんですか……」
 気が抜けたように、大夏がソファに腰を下ろす。
「もちろん! それで、いつから働けるのかしら? 今日から? それとも明日?」
「おい、いくらなんでも急過ぎるだろ。長生きのくせに、せっかちだなヴィオレッタは」
 モネが横目でヴィオレッタに視線を送る。
 自分のお気に入りのものたちを褒められて、ヴィオレッタは最高に気分が良かった。
 結局、大夏は面接の翌週からモン・プチ・ジャルダンの一員となった。
 彼の働きぶりは真面目で、ケーキ作りの腕は確かだし、彼を採用して良かったとヴィオレッタは大満足だった。
 大夏の「可愛いもの好き」は、どうやら筋金入りのようだ。
 初日は、店の至るところを見て感動していた。目をキラキラと輝かせながら「アンティーク調のレジ台が素敵ですね」とか「敷物のレースが繊細で美しいです」とか「ショーケースは商品が入っていなくても最高だと思います」とか、とにかく感激しっぱなしだった。
「おまけに力持ちだしね」
 床で寝転がっているだけの、モチモチした犬とは比べ物にならないほど役に立つ人材だ。
「フゴォ……」
 いびきをかきながら気持ち良さそうに昼寝するモネを、ヴィオレッタはため息を吐きながら見下ろす。
「そろそろ休憩にしようかしら」
 ヴィオレッタがちらりと時計を見る。
 モン・プチ・ジャルダンでは毎日、休憩時間を設けている。
 だいたい夕方になる前、お客様が途切れたタイミングでハーブティーを飲むのが習慣だ。
 もちろん、ハーブティーには庭で採れたフレッシュハーブを使う。 
「大夏くん! 悪いんだけど、少しだけ店舗のほうにいてくれない? わたし、庭でハーブを採ってくるから」
 ヴィオレッタは、奥の作業スペースにいる大夏に声をかけた。
「わ、分かりました……!」
 大夏が、ちょっと慌てた様子でうなずく。
 東京で勤めていたパティスリーでのことがあって、彼は接客が苦手なのだ。レジの使い方や保冷剤の説明等、念のため一通りのことは教えたけれど……。
「お客様がいらっしゃったら、わたしを呼んでいいからね」
「はい……!」
 ヴィオレッタがそう声をかけると、大夏はホッと息を吐いた。
 店を出て、庭を歩きながらヴィオレッタは適当なハーブを見繕う。小さめの籐のバスケットを片手に、今日はどのハーブにしよう? とウキウキしながら庭を歩くこの時間が、ヴィオレッタにとっては至福のときだった。
「今日はレモンの気分ね」
 細長く真っすぐ伸びるレモングラスの葉が目についた。それから、レモンバーム、レモンバジル、あとはローズマリーも。カゴの中から、爽やかなハーブの香りが漂ってくる。
「早くハーブティーが飲みたいわ!」
 軽やかな足取りで石畳を歩き、店に戻ると。
「あら、朝野様? ようこそ、いらっしゃいませ」
 店内には、すみかがいた。
「こ、こんにちは」
 大夏はケーキを箱詰め中だ。こちらに背を向け、大きな身体を縮めるようにして、慎重な手つきですみかのケーキを箱に入れている。
 保冷剤はふたつ。封蝋を模したシールで箱を留め、すみかに手渡す。
 どうやら、ヴィオレッタを呼ぶまでもなかったらしい。
「商品です。あ、ありがとうございます……」
「ど、どうも」
 すみかが箱を受け取る。
 ふたりとも微妙に動きがたどたどしい。大夏は背中を丸めながら、もごもごと小声だった。すみかは、それ以上に声が小さかった。そして俯き加減のまま、店をあとにした。
「平気だった?」
 大夏に声をかけると、彼は浮かない顔をしていた。
「は、はい。それが……」
 気まずそうに、大夏が何かを言いかけたとき。奥の作業場から、オーブンの音が聞こえた。出来上がりを知らせるメロディだ。
「いけない! すっかり忘れてたわ」
 ヴィオレッタは、慌てて作業場のほうへ向かう。
 新商品の試作をしていたのだ。休憩のときに皆で味見ができるように、タイマーをセットしていた。
「そろそろ休憩時間か……?」
 太い足でのっしのっしと歩きながら、モネが作業場にやって来る。
 どうやら目が覚めたらしい。完全に覚醒していないのか、目がほとんど閉じたまま。寝ぼけた顔ともともとの鼻ぺちゃ顔があいまって、いつもより余計にぶちゃいくな表情だった。
「ええ。ちょうど良いタイミングよ。今からハーブティーを淹れるわ」
「俺はいつも通り『ぬるめ』で頼む」
 ふわぁっと大きなあくびをしながら、モネが前足で顔を掻く。
 モネは猫舌なのだ。
「ん……? 何か、良い匂いがするな」
 クンクンとモネが鼻を動かす。
「お店でね、ウィークエンドシトロンを出そうと思って。それで今日、初めて試作品を作ってるの」
 ウィークエンドシトロンは、フランスの伝統菓子だ。レモン風味のバターケーキで、たっぷりのアイシングがたまらなくおいしい。
 フランス語でウィークエンドは週末、シトロンはレモンを表す。「週末に食べるお菓子」という意味らしい。
 アイシングは「グラス・オ・シトロン」と呼ばれ、ケーキの表面全体を覆ったり、側面は垂らしたままにしたり、バリエーションは様々だ。
 ヴィオレッタは、側面を垂らしたままの状態が好きだった。ひとつひとつが唯一無二だし、何となくそのほうが美しい感じがする。
 オーブンを開けると、ふわりと甘い匂いが部屋中を満たす。
 両手には、ふかふかのオーブンミトン。慎重に取り出し、型から外す。
 それから、網にのせて十分に冷ましておく。ちなみに、この網はケーキクーラーと呼ばれる。焼き上げたケーキを冷ますための道具だ。
 焼き上がったケーキをじっくりと眺める。
 中央に入れた切り込みの部分が、きれいに盛り上がって割れている。
 この割れ目も唯一無二だ。全て同じ形になることはあり得ない。魔法を使わないからこその芸術品だと、ヴィオレッタはいつも思う。
 ケーキを冷ましているあいだに、レモンアイシングを作る。ボウルに砂糖を入れ、レモンの絞り汁を加える。レモンアイシングは、固さを調節するのがむずかしい。少しずつ慎重に、レモン汁を足していく。
 アイシングは時間が経つと固まってしまうので、手早く塗ることが大切だ。ケーキの上からたっぷりとかけ、アイシングが垂れていく様を確認する。
 真ん中に、刻んだピスタチオとレモンの表皮を散らしたら完成だ。
 ナイフを入れ、好みの厚さに切り分ける。
「モネは、どのくらい食べる?」
 頭の中でモネに確認する。
「たっぷり。分厚めで」
 モネは食いしん坊なのだ。
 ちなみに、ヴィオレッタもよく食べる。
「大夏くんは?」
「え……?」
「これくらい?」
 だいたいの目安でケーキにナイフをあてる。
「あ、はい」
 大夏の元気がない。そっと覗き込むと、浮かない顔をしていた。
 そういえば、彼は何か言いかけていた。
「どうかしたの? 疲れた?」
「いえ、あの。さっきの、俺が接客をした女性のお客様なんですが……」
「彼女が、どうかしたの?」 
「ちょっと、オドオドしているというか、やたら怖がっているような気がしたんです」
 大夏はしょんぼりしている。
「たぶん、知らないひとがいたから緊張しちゃったのね。お店にいるのは、いつもわたしだけだったから」
「おい! 俺を忘れてるぞ!」
 お怒りモードなモネの声が、頭の中に響く。
 大夏には聞こえないように、ヴィオレッタは「わたしと、モネね」と訂正する。
「……知らないひとがいると、ああいう感じになるんですか?」
「彼女の顔にアザがあるの、気づいたでしょ」
 決して、小さくはないアザだ。
「はい」
「初対面のひとだと、気になってしまうじゃないかしら。見られることに対して。見られて、相手がどう思うのか。どんな態度を取られるのか。わたしとは、何度も顔を合わせていて。だから、彼女も慣れてくれたんだと思うの。でも今日は、初めての相手だったから。驚いたというか、つい身構えちゃったのね」
 ヴィオレッタの説明に、大夏は納得していない表情を見せた。
「……あのひとは、綺麗な顔じゃないですか。俺とはぜんぜん違います。確かに、アザはあるかもしれないですけど。あの程度のアザなんて、まったく気にする必要はないと思います」
「こいつ、自分の顔がコンプレックスだと言うわりに鈍いな」
 太めの前足で顔をグシグシと掻きながら、モネが大夏を見る。
 ヴィオレッタは腰に手を当てて、短くため息を吐いた。
「確かに、彼女はきれいよ。顔立ちはもちろん、ちょっとした所作もね。でも『あの程度のアザ』というのは、彼女には言わないほうが良いと思うわ。たとえ励ますつもりの言葉であっても。優しい言葉のつもりでも。あなただって、自分の顔のことを気にしているんでしょう? それなのに、いきなり他人に『その程度』なんて言われたらイヤじゃない?」
 大夏は、ハッとした表情になった。
「彼女は傷つかないために、鎧を纏っているの。それだけなのよ。決して、あなたが怖いわけでも、あなたを傷つけたいわけでもないわ」
「……また、来店してくださるでしょうか」
 しばらく考え込んだあと、大夏がぽつりと言った。
「もちろんよ!」
「俺のことも、少しずつ慣れてもらいたいです」
 大夏が、ゆっくりと顔をあげる。
 ほんの少しだけ、彼の背筋が伸びている気がした。 
「きっと、そうなるはずよ!」
「はい」
 大夏の瞳の中に、何か力強いものを感じた気がして、ヴィオレッタはにっこりと微笑んだ。
「さぁ、ウィークエンドシトロンの味見をしてみて。正直な感想をちょうだい? まだまだ試行錯誤するつもりだから」
 ヴィオレッタはケーキを切り分け、続いてハーブティーを淹れる準備をする。
 庭で収穫したハーブは、サッと水で洗う。キッチンペーパーで水気を拭き取り、ガラス製のポットに入れる。ハーブは千切ったり叩いたりすると、より香りが出る。
「ん~~! 良い香りね」
 手の中でパンッと叩くたびに、ハーブの清涼な香りが強く香る。
 琺瑯のポットで湯を沸かす。沸騰したら、ハーブが入ったガラス製のポットに熱湯を注ぎ入れる。蓋をして、しばらくそのままにしておく。
 四分ほどで、ちょうど飲みごろになる。準備しておいた三つのティーカップに、少しずつハーブティーを注ぐ。それぞれのカップに少量ずつ入れるのは、濃さを均一にするため。
 ウィークエンドシトロンとフレッシュハーブティー。素晴らしいティータイムの完成だ。 
 そっとソーサーごと持ち上げ、香りを楽しむ。爽やかなハーブの香りが、ふわっと漂ってくる。カップに口をつけると、さっぱりとしたレモンの風味を感じた。
「ほっとするわね~~!」
 温かい飲み物を口にすると、心臓のあたりがじんわりする。少しずつ、身体が緩んでいく気がする。
「このウィークエンドシトロン、すごくおいしいです……!」
 大夏がモグモグしながら、目を輝かせている。
「あら、そう?」
 ヴィオレッタは、手にしていたソーサーをテーブルに置いた。そして、取り分けておいたウィークエンドシトロンをフォークで縦に切る。バターケーキとアイシングを同時に味わうためだ。
 アイシングが剥がれ落ちないよう、慎重にすくって。そして、口に入れる。
「甘くて、でもレモンの酸味もあって、おいしい~~!」
 シャリッとしたアイシングと、しっとりした生地の食感。甘酸っぱく爽やかな風味が口いっぱいに広がっていく。
「わたしって、ケーキ作りの天才ね……!」
 心の中でヴィオレッタが自分を褒める。
「天才だと思います! モン・プチ・ジャルダンのケーキは、どれを食べても最高においしいです!」
 何度もうなずきながら、大夏が同意する。
「出たよ、自画自賛。というか、おい! そこの大男! ヴィオレッタが調子に乗るから、それ以上は褒めるなよ」
 もっしゃもっしゃとウィークエンドシトロンを頬張りながら、モネが大夏に忠告する。
「おい! 聞いてるのか!?」
 残念ながら、いくらモネが喚いても大夏には聞こえない。使い魔と人間は会話することが出来ないのだ。
 大夏からお墨付きをもらったウィークエンドシトロンは、次の日から店頭に並ぶことになった。
 ガラス製のケーキスタンドにのせられた結果、まるでおめかしした少女のように可愛くなった。
 ショーケースの中央。一番目立つ場所で、ウィークエンドシトロンはキラキラと輝いていた。



 神戸の市街地は、六甲山と大阪湾に挟まれるような地形になっている。
 北の方角には山があり、南には海がある。地元のひとたちは東西南北というより「山」か「海」かで自分のいる場所や、進みたい方向を確認している。
 百貨店の案内でも「山側」や「海側」と表示されているほどなのだ。
 その市街地から、山の方へ向かって伸びる坂道がある。北野坂と呼ばれるその道を二十分ほど上ったところに、北野異人館街はある。
 おしゃれで、華やかで、大勢のひとでにぎわっている。そんなイメージが、北野にはあるかもしれない。
 けれど実のところ、北野異人館街のにぎわいは最盛期から比べると、ちょっとさみしいものになっている。
 観光客がまばらだったり、テナントが空室のままだったりする。大通りから一歩進むと、廃墟化した異人館や空き地が存在するのだ。
 ヴィオレッタは敷地に面した細い路地をホウキで掃きながら、身体の中にエネルギーが満ちていくのを感じた。路地は、ゆるやかな坂道でもある。周囲には朽ちた異人館や、蔦に覆われ鬱蒼とした物件を確認することができた。 
 ヴィオレッタは、グッと背伸びをした。両手を広げて、グイグイと身体を伸ばす。
「力がみなぎるわねーー!」
 人間が多く集まり、活動をして、そして去った土地というのは、魔女にとっては特別な場所なのだ。
 人々の感情や思念が、ここにはまだ多く留まっている。それが魔女にとってのエネルギーになる。
「魔女というより吸血鬼みたいだよな」
 道路に横たわり、日向ぼっこをしているモネが顔をあげる。
「ぜんぜん違うわよ! 血を吸うわけじゃないんだから」
 ザッザッとホウキを持つ手を動かしながら、ヴィオレッタはモネに反論する。
「人間が残していったエネルギーを貰うだけよ。それって、すごくエコじゃない?」
「エコねぇ……」
「だって、エネルギーがないと魔力が使えなくなっちゃうもの。魔法が使えない魔女なんて、聞いたことがないでしょう?」
「そうだけど。でもヴィオレッタは、ほとんど魔力を使ってないだろ」
「……実を言うと、そんなに使う場面はないのよね」
 ヴィオレッタが茶目っ気たっぷりに舌を出す。
「今だって、魔法を使わずに掃除をしているしな……。って、ちょっと待てヴィオレッタ。そのホウキって、まさか魔道具じゃないよな?」
 モネが真剣な眼差しで、ヴィオレッタが持つホウキを確認している。
「そうだけど?」
 ヴィオレッタがあっさり肯定すると、モネは勢いよく飛び起きた。
「なんて使い方をしてるんだ! 大事な魔道具を……!」
 いつもは陽気な鼻ぺちゃ顔が、めずらしく真面目な表情になっている。
「有効活用してるのよ。だって、放っておいたらもったいないじゃない?」
「使えばいいだろ。本来のホウキとして。空をすいすいっと飛び回ったら良いんだ」
「そんなのダメよ。ホウキで空なんか飛んだら大問題だわ。人間たちに見つかって、大騒ぎになっちゃう」
「そういうときのために黒い服があるんじゃないか。魔女っていうのは、全身黒のコーディネートって相場が決まってるんだよ。頭の先から足の先まで真っ黒になって、闇夜に紛れてだな……」
 ブツブツと「こうあるべき魔女像」を語るモネに、イマドキの魔女であるヴィオレッタはフイッと顔をそむける。
「わたし、黒はあまり好きじゃないのよね。たまに黒を着るくらいだったら、シックで良いかな? って思うんだけれど。いつもそればかりだと、飽きちゃうもの。それに、わたしもともと空を飛ぶのって好きじゃないのよね。急に雨が降ってきたら濡れちゃうし、カラスにぶつかったりするからイヤなの。やっぱり地面を歩くのがいちばん良いわよ。ホウキに乗って移動ばかりしてちゃ、運動不足になるだけだわ」
 身体を動かして、たくさん活動するからこそ、甘いお菓子が最高においしく感じるのだ。
「まったく! 最近の若い魔女はこれだから……!」
 フゴフゴとモネが鼻息を荒くする。
「さてと! お掃除は終わったし、次は庭の様子を見てこようかしらね」
 怒りに震えるを白いわんこを放置して、ヴィオレッタは楽しげに敷地内へと戻っていった。



 ウィークエンドシトロンの発売開始から一週間が経った。
 ショーケースの中で、その輝きは未だ褪せない。見れば見るほど可愛くて、美しい。
「すべてがパーフェクトね。愛らしいわーー! ずっと見てても飽きないんだもの」
 ショーケースの中を眺めながら、ヴィオレッタの心はうきうきと弾んでいる。
「いや、さすがに飽きるだろ。先週からずっとそうやってるじゃないか。そもそもケーキは見るもんじゃなくて、食べるものだよ」
 モネはひたすら冷めた顔をしていた。 
「アイシングが垂れて雫になっている部分が、特に芸術品なのよね。美しいペンダントライトみたいだわ」
 うっとりしていると、背中を向けていた入口のドアが開いた。
 ドアベルの音と同時に「こんにちは」と静かな声が聞こえる。
「いらっしゃいませ!」
 ヴィオレッタが振り向くと、すみかが立っていた。
 いつもより心なしか、俯き加減な気がする。
 でも、彼女はマスクをしていなかった。アザの部分をスカーフで覆うことをせず、帽子も被っていない。
「新商品があるんですけれど、良かったら味見してみませんか?」
 ヴィオレッタは、すみかに笑いかけた。
「え、良いんですか……?」
「もちろん!」
 食べやすい大きさに切り分け、小さなカップに入れて彼女に手渡す。
 すみかは、そっと口に運んだ。
 口に入れた瞬間、パチリと瞬きをした。 
「おいしい……! すごくおいしいです! 甘酸っぱい……。とても甘いのに、とっても爽やかで。これ、なんというケーキですか?」
「ウィークエンドシトロンです。先週からお店に並んでいるんですよ。たくさん試作をして、来月にはお店に出せたら良いなって考えていたんですけど。スタッフに試食をしてもらったら、すごく褒められて。嬉しかったから、すぐ店頭に出しちゃったんです」
「……スタッフさんって、このあいだの男性の方ですか?」
 すみかの声のトーンが、わずかに低くなった。
「ええ、そうです」 
「わたし、前回ここに来たとき、彼にとても失礼な態度をとってしまったんです。一度も目を合わせずに、ずっと下を向いたままで……」
「うちのスタッフも、あなたと同じことを言っていました」
「え?」
 予想外だったのか、すみかは驚いたように顔をあげた。 
「自分のせいで、お客様がイヤな思いをしたんじゃないかって。あなたがいらっしゃった日、彼はあの後、とても落ち込んでいたんです」 
「そんな、どうして……?」
 分からない、といった様子で彼女がかぶりをふる。
「彼、自分の顔が怖いことを気にしてるんです。身体も大きいから、相手に恐怖心を与えてしまったことが、過去にあったみたいで。だから、あなたを怖がらせたんじゃないかって心配しているんです」
「え、そんな。わたし、ぜんぜん気にしていません……! というより、自分のアザのことが気になって、スタッフさんの顔をちゃんと見ていませんでした!」
 必死に言い募るすみかを見て、ヴィオレッタは作業場にいる大夏を呼んだ。
 背中を丸めながら、大夏が店のほうへ姿を現す。
「今ね、朝野様にウィークエンドシトロンをおすすめしているところなのよ。わたし、庭のほうを見てくるから。ちょっとお願いできるかしら」
 にっこりとヴィオレッタが笑うと、大夏はちょっとだけ表情を引きつらせながらも「はい」と返事をした。
「有無を言わせぬ笑顔だな。庭に行く用事なんて、本当はないくせに」
 足元にいるモネが、ボソッと小声でつぶやく。
 そんなモネを抱えて、ヴィオレッタは裏口から庭に出た。
 晴れた空と庭のグリーンの鮮やかさに、ヴィオレッタは目をすがめる。
 庭を歩きまわると、春の陽気の中でハーブたちが、嬉しそうに葉をグングンと伸ばしているのが分かった。ヴィオレッタは深呼吸をして、ハーブの香りを含んだ清涼な風を肺いっぱいに吸い込んだ。
「本当に良い天気ね~~!」 
「ヴィオレッタ、静かにしろよ」
 腕の中にいるモネが、ヴィオレッタを軽く睨む。
「どうしたの?」
 よく見ると、モネの真っ白な耳がピクピクと動いていた。おそらく、魔力を使ってふたりの会話を聞いているのだろう。
「あら、盗み聞き? ずいぶんと趣味が悪いのね」
「人聞きの悪いことを言うなよ。もしものためなんだから」
「もしもって?」
 ふたりきりにしたのは何か問題があったのだろうかと、ヴィオレッタは考え込む。
「ケンカとか」
「するわけないじゃない」
「大夏がレジ操作を誤るとか」
「しっかり使いこなせてたわよ」
「あとは……」
「やっぱり、ただの盗み聞きじゃない」
 ヴィオレッタが、呆れたようにため息を吐く。
「いや、だから! ……もしかしたら、魔法の力が必要かもしれないぞ? ほんの少し手助けしてやるだけで、上手くいくことだってある」
 言い訳に聞こえるけれど、確かにそうかも……? と思う部分もあって。正直、あまり気乗りはしなかったけれど、ヴィオレッタはそっと耳を澄ました。
 かすかに聞こえてくる。ふたりの話す声。
『このあいだは、変な態度を取ってしまってごめんなさい……』
『あ、いや……! 俺のほうこそ、びっくりしましたよね。いきなりこんな大男が現れて。顔も怖いし……』
『いえ……。びっくりしたのは事実ですけど。それは、モン・プチ・ジャルダンにはヴィオレッタさんとモネくんしかいないと思っていたので。予想外にあなたがいて、それで驚いただけで。あなたの身体が平均よりも大きいとか、顔立ちが強面だとか、そういうことではないんです』
 ヴィオレッタが予想していた通りの会話が、頭の中に流れ込んでくる。
『あれから、ずっと考えてて、朝野様のこと。余計なお世話だと思うんですけど……』
 大夏が、ちょっと言い淀む。
『はい。何でしょう……』
『あの、たとえばなんですけど。朝野様が髪の長いひとだったとします。それで、ある日突然、その長い髪を切ったら……。周囲の人間は驚くと思うんです。次の日も、なんとなく慣れない感じがすると思います。でも、しばらくするとそれが当たり前になって。「髪を切った朝野様」という認識ではなくて「ただの朝野様」として見るようになる。……アザのことも、そういうことじゃないかと思うんです』
 たどたどしく、けれど一生懸命に大夏が言葉を紡いでいる。声を聞くだけで、ヴィオレッタにはそれが分かった。
「……こいつ、たとえ話が下手過ぎるだろ」
 モネが腕の中で、渋い顔になっている。
『なくなったわけじゃない。存在しているけれど、見えなくなるというか……。たとえ話が下手ですみません』
「いや、本当だよ。下手だぞ、たとえ話が」
 悪態をつくモネに、ヴィオレッタは「シッ」と口を閉ざすよう合図を送る。
『いえ、よく分かります。本当に、とてもよく分かります……』
 すみかの声が潤んでいる。
 声帯が震えているような声だ。あと、ほんのわずかでも感情が高ぶったら、感情が決壊してしまうような。そんな声が聞こえた。
「泣かせやがったな……」
 モネがムッとしたような顔をする。
「そういう涙じゃないわよ?」
 悲しいではなく、もちろん怒りでもなく。
「ふんっ! それでも、泣かせたことには違いないんだよ」
「はい。もうおしまい」
 どうやら、魔法の力で何かできることはないらしい。
 ヴィオレッタは、モネの両耳をむぎゅっと抑えた。そのとき。
「すみません」
 背後から声がした。落ち着いた男性の声。
 ヴィオレッタが振り返ると、見知った顔が笑顔で会釈をする。
倉知(くらち)様!」
 この倉知という男性も、モン・プチ・ジャルダンの常連のお客様だ。
 確か、年齢は四十代半ばだと聞いた気がする。神戸の乙仲通りで古書店を営んでおり、読書のお供になる焼き菓子を求めて、週に一度のペースで店に足を運んでくれている。
「いらっしゃいませ」
「庭仕事の途中でしたか。邪魔したかな」
「とんでもないです。少し、外の空気を吸いたくなっただけですから」
 ヴィオレッタに抱かれているモネにも、倉知は軽く微笑んで挨拶をする。
「こんにちは」
 モネは、ブシュッと鼻を鳴らして返事をした。
 実際は「胡散臭いくらいに紳士だな、相変わらず」と悪態をついているのだけど……。
「こら、お客様に何てこと言うの」
 倉知に聞こえないように、ヴィオレッタは頭の中でモネを叱る。
「相変わらず、素敵な庭だね」
 庭のあちこちに視線をやりながら、倉知が感嘆している。
「ありがとうございます」
「どのハーブも青々として、元気そうだ」
「毎日、一生懸命にお世話していますから」
 庭に出ない日はない。種類ごとに、微妙に肥料の配合を変えたり、土づくりにこだわったりして、愛情をこめて育てている。
 おかげ様で、どの株もグングンと成長中だ。ちょっと足の踏み場もないくらいに、ハーブたちでいっぱいになっている。
 一面が緑の庭だけれど、よく見ると色んな緑がある。質感もそれぞれ違う。ツヤツヤしていたり、ザラザラしていたりする。表面に産毛が生えている品種もある。
 入口から店へと続く道は、歩きやすいよう石畳になっている。
 庭から店内に戻ると、大夏とすみかが談笑していた。すっかり打ち解けた雰囲気に安堵する。
 どうやら、すみかはウィークエンドシトロンを購入してくれたようだ。
 大夏がていねいに箱に詰めている。
 それを見た倉知が「おや」と反応を見せる。
「ウィークエンドシトロンですか」
「新商品なんです。よろしかったら、試食しませんか?」
「とっても、おいしかったですよ」
 すみかが、遠慮がちに倉知に告げる。
 彼女と倉知は、モン・プチ・ジャルダンで何度か顔を合わせたことがある。
「それは楽しみだな。ぜひ、お願いします」
「かしこまりました」
 ヴィオレッタが、試食の準備をしていると、倉知は少し改まった雰囲気で「実は」と話し始めた。
「少し、ご相談がありまして」
「なんでしょう?」 
「古書店のほうで、子ども向けのおはなし会を開催しようかと考えているんです」
 耳馴染みのない「おはなし会」というワードに、ヴィオレッタは少し首をかしげる。
「えっと、そのおはなし会というのは、いわゆる『読み聞かせ』みたいなものですか?」
「そうです。最近、少しずつ子ども向けの絵本を仕入れるようになりまして。それで、販促もかねて何かイベントをしようと考えていたんです」
 倉知が経営する古書店は、めずらしい古書を多く取り扱っている。
 ベストセラーの初版本や、有名作家のインディーズ作品。詩集や短歌はもちろん、紀行やエッセイ本まで。書籍だけではなく、雑貨まで店頭に並んでいる。こじんまりとした店内に、所狭しと商品が並んでいるのだ。
「素敵なイベントですね」
「ありがとうございます。それで、来てくれた子どもたちにお菓子をプレゼントしたいと思いまして。ぜひ、モン・プチ・ジャルダンのお菓子を渡したいなと考えているんです」
 ヴィオレッタの胸が、ドキンと高鳴った。
 焼き菓子をひとつひとつ袋詰めして、子どもたちに配る計画らしい。
 可愛い焼き菓子を作りたい。受け取ったとき、子どもたちが笑顔になるような。素敵でおいしいお菓子を作りたい。できたら、パッケージにもこだわって……!
 想像するだけで、ヴィオレッタのドキドキは増していく。
「とっても、嬉しいです! ぜひ、お引き受けします!」
「良かったです」
 倉知が、ホッと表情を緩める。
「ただ、少し困ったことになっていまして……」
「困ったこと?」
「実際に絵本を読んでくれる予定だった方が、体調を崩されてしまって。日程がなかなか決まらないんです。毎月一度は開催したいと考えていたんですが……」
 倉知は、すっかり困り果てているようだった。
「そうなんですか」
 日程が決まらなければ、具体的な話合いができない。
 どうしたものかと、ヴィオレッタが頭を悩ませていると……。
 ブシュッと鼻を鳴らしながら、モネが足元にまとわりついてきた。
「どうしたの?」
 頭の中で、モネに語りかける。
「ふたりの様子、見てみろ」
「ふたり……?」
 ぐるりと店内を見わたすと、明らかにソワソワした様子の大夏がいた。すみかのほうに視線をやったり、外したり。また彼女を見たかと思えば、天井を見上げたり。
「明らかに挙動不審ね」
「だろ?」
 すみかは、何かを迷っているような感じだった。言いかけてはやめ、しばらくして意を決したかと思えば、ぎゅっとくちびるを噛み締める。
 ヴィオレッタは、思い切ってすみかに声をかけた。
「朝野様、どうかなさいましたか?」
「え? あ、あの……」
 すみかが、ビクリと大きく肩を揺らす。
「わ、わたし……。その……」
 なかなか次の言葉を言い出せないすみかに代わって、大夏が口を開いた。
「朝野様、以前は図書館に勤務していたそうなんです。それで……」
 大夏が、ちらりとすみかのほうを見る。
「わ、わたし、図書館司書をしていたんです……。」
 すみかが、ポツリとつぶやいた瞬間。
 倉知の表情がパッと明るくなった。
「だったら、ぜひ読み聞かせの代役をお願いできませんか?」
「でも、わ、わたし一度も、やったことはなくて……。だから、う、上手くできないと思います……!」
 すみかが慌てて首を横に振る。
 そんなすみかに、そっと大夏が語りかけた。
「さっき、ふたりで話してたとき、俺に教えてくれたじゃないですか。本当は読み聞かせをしたかったって。出来なかったこと、すごく後悔してるって。他の司書さんみたいに、自分だって読み聞かせをしたかった。でも人前で話すことが怖くて、どうしても勇気が出なくて。逃げてしまって……。それで結局、図書館司書もやめてしまって。大好きな仕事だったのにって……」
 彼女の顔を覗き込むようにして、必死に訴えている。
「小さな子たちに、たくさん絵本を読んであげたかったんですよね……?」
 すみかは口を閉ざしたまま、じっとうつむいている。
「やっぱり、不特定多数の人間に見られるのはダメみたいだな」
 モネの声が、頭の中に流れ込んでくる。
 本当に、そうだろか。
 それが彼女の本心なのだろうか。
 ヴィオレッタは、そっと目を閉じた。
 心を穏やかにして、頭の中を空っぽにする。耳を澄ましながら声を探す。
 しばらくすると、頭の中に音が流れ込んでくる。かすかな音。それは、すみかの声だ。
『わたし、上手にお話できるのかな』
『大夏さんとお話して、怖いっていう気持ちは薄れたけど……』
『ずっと人前に出ること避けてきたから、うまくお話ができる自信がない』
『失敗したらどうしよう』
 不安そうな声。それから、怖がっている声。 
 心の声を聞きながら、すみかの本当の気持ちを探す。
『わたしのせいで、お店に迷惑がかかっちゃうかもしれない』
『せっかく来てくれた子どもたちを、ガッカリさせちゃうかも』
『本当は、本当は、すごくやりたいけど……!』
 見つけた。彼女の気持ち。
 ヴィオレッタは人差し指を立てた。そして、タクトを振るみたいに小さく円を描く。
 うつむいていたすみかが、そっと顔をあげた。そして……。
「わたし、やりたいです。子どもたちの前で絵本を読んでみたい……!」
 はっきりと、すみかが言った。
 大夏が、大きく息を吐いた。ホッとしながら肩で息をしている。
「魔法を使ったな」 
 モネの指摘に、ヴィオレッタは小さくうなずく。
「自分の気持ちを言葉にして伝える魔法よ」
 ごくわずかな魔力の消費で済んだ。
 とても小さな魔法だったのは、彼女の気持ちが強かったから。ヴィオレッタは、ほんの少しだけ背中を押すだけで良かったのだ。
 すみかが引き受けてくれたおかげで、おはなし会の日程が決まった。
 いろいろと準備を重ねて、明日の日曜日、いよいよ本番のおはなし会が開催される。
 ヴィオレッタは、子どもたちのために可愛いクマの形をしたクッキーを作ることにした。素朴だけれど、さっくりとした食感がおいしいクッキーだ。
 そのクマのクッキーをひとつずつ透明な袋に入れて、カラフルなリボンで結ぶ。子どもたちへのプレゼントを、ヴィオレッタは早朝から作業場でこしらえていた。
 今は、ひと段落ついたところ。粗熱がとれたクッキーを、大夏と一緒に袋詰めしている最中だった。
「可愛いわ~~!」
 クッキーを袋に詰めながら、あまりの可愛さにヴィオレッタは悶える。
「子どもたちにプレゼントするのが楽しみですね。きっと喜んでくれますよ」
 大きな手で器用にリボンを結びながら、大夏が笑う。
 明日は、モン・プチ・ジャルダンは臨時休業にする。皆で、すみかのおはなし会に駆けつける予定なのだ。
「ふん! なにがクマのクッキーだよ。クマなんかより、ぜったいに犬のほうが良かった!」
 モネの不満が、ヴィオレッタの頭の中に流れ込んでくる。
「そう? このクッキーすごく可愛いわよ?」
「犬のほうが可愛い」
「まぁ、モネがそこまで言うなら、次はわんこにしようかしら。おはなし会は、定期的に開催するみたいだから」
「よし!」
 モネが舌を出しながら、うれしそうにエヘヘと笑う。
「わんこね……。やっぱり、トイプードルとかかしらね。ふわふわの可愛い感じのクッキーになりそうだわ」
 ヴィオレッタは、頭の中でモネと会話を続ける。
「トイプードル!? そんなのは却下だ。もっと可愛いのが他にいるだろ」
 モネが太めの前足で、ダンッと床を蹴る。
「え、他に……? あっ、そうね。ポメラニアンなんかも可愛いわね」
「違う!」
「じゃあ、マルチーズ?」
「ぜんぜんダメだ!」
 ダンダンダンッと両方の前足で地団駄を踏む。
 ヴィオレッタは仕方なく手を止め、大夏に聞いてみる。
「ね、大夏くん。可愛いわんちゃんでイメージするのって、どの犬種かしらね」
「犬はどの子も可愛いですよ!」
 満面の笑みで答える。
 いかにも大夏らしい答えだ。
「一般的には、小型犬が飼いやすくて人気だと思うんだけれど」
「俺は大型犬が好きですね。思いっきり抱き締めてモフモフしたいです。小さいわんこだと、なんか怖がられそうな気がするので」
「犬は人間の本質をすぐに理解するから、大夏くんを怖がる子はいないと思うわ」
「そうなんですか! 犬って良いですね!」
 ヴィオレッタと大夏が盛り上がっていると……。
「俺だよ!」
 ヴィオレッタの頭の中に、プンプンと怒ったモネの声が響いた。
「え、ペキニーズ……?」
「そうだよ! まったく、薄情な魔女だ。使い魔の姿形を一番に候補として挙げるべきなのに……! よりにもよって、くるくるくせっ毛のトイプードルなんかを真っ先に思い浮かべるなんてな」
 フンフンと鼻息を荒くしながら、モネが憤る。
「モネ、どうしたんだ? 腹が減ったのか?」
 やさしい大夏が、モネの様子を見かねて声をかける。
「おい、大夏! お前ちょっと人間のくせに生意気だぞ! 俺を犬扱いしやがって! 俺は犬の格好をしているだけで、中身は使い魔なんだからな! 魔法だって使えるんだからな」
 フガフガとさらに鼻息が荒くなる。
「大夏くん、大丈夫よ。構ってもらえないから怒ってるだけ。まったく、仕方のないわんちゃんね」
 ヴィオレッタが肩をすくめる。
 ぷんすか怒るモネを放置したまま、ヴィオレッタは大夏と一緒に、引き続き作業を進めたのだった。



 神戸には古書店が多く存在する。
 店ごとに趣が違っており、古書店巡りを楽しむひともいるくらいなのだ。
 レトロなビルの二階に店を構えていたり、まるで迷路みたいな細い路地裏に店があったり。店構えはもちろん、取り扱う商品もそれぞれにも個性が光る。
 糸で閉じられた和綴り本や、版画を置く店。古い映画のパンフレットを取り揃える店。神戸にまつわるありとあらゆる書物を扱う店。カフェを併設している店や、定期的に個展を開催する店など。
 倉知が営む古書店「ツナグ書林」は、乙仲通(おつなかどおり)にある本と雑貨の店だ。
 乙仲通は、神戸市中央区の栄町通と海岸通の間を東西に通っている約八百メートルの道のこと。
 実際に歩いていると、ふいに遠い昔にタイムスリップしたかの様な錯覚に陥る。レトロモダンな町並みが続いているのだ。
 アーチ窓がおしゃれなビルディングや、アクセサリーショップ、ビストロ、コーヒーショップ……。懐かしいような、思わず胸がときめくような通りになっている。
 乙仲通の名前の由来は、「乙仲」と呼ばれた海運貨物取扱業者が、ここに軒を連ねていたから。
 ツナグ書林は、レトロモダンなビルの一階にテナントとして入っている。間口は狭いけれど、奥行きがある。
 棚いっぱいに本と雑貨が並んでいる。おもちゃ箱をひっくり返して、ひとつひとつきれいに並べ直したようなお店だった。
 奥にはキッズスペースが設けられており、子どもたちが自由に本を読めるようになっている。そのキッズスペースに、今日は小さなイスがずらりち並べられていた。
 集まった子どもたちは、すでに着席している。皆がちんまりと座っている様子は、なんとも可愛らしい。
 保護者たちは、少し離れたところに座っている。ヴィオレッタと大夏の席も、大人たちのすぐ近くだ。
「緊張しますね」
 ヴィオレッタの隣で、大夏が落ち着かない様子でつぶやく。
「大夏くんが緊張してどうするの。絵本を読むのは朝野様なのに」
 モネを抱きながら、ヴィオレッタが苦笑いする。
「それは、そうなんですが……」
 かなり落ち着かない様子だ。キョロキョロと店内を見まわしたり、持って来たお菓子の袋を確認したりしている。
「こいつは、関西弁でいう『緊張しい』というやつだろ」
 モネが横目で大夏を見ながら、ブシュッと鼻を鳴らす。
「緊張しい」というのは、「緊張しやすいひと」という意味だ。ささいなことが気になるひとは「気にしい」、余計なことをしがちなひとは「いらんことしい」と呼ばれる。
「おそらくだけど『気にしい』でもあるわよね。大夏くんって」
「間違いない」
 モネが、ニヘッと口角をあげて笑う。
 ちなみに、このお店はペット同伴OKだった。マナーなので、もちろんモネは首輪をしている。リードで繋いで、いかにも「わんこ」という出で立ちだ。首まわりが太いので、ちょっと苦しそうではある。
 そうこうしているうちに、準備が整ったらしい。スタッフルームから、すみかが登場した。
 木製のチェアに腰かけ、ゆっくりと絵本を開く。 
 おはなし会が始まると、子どもたちは真剣な表情になった。落ち着きがなかった子も、今はじっとして、物語に集中している。
 すみかの緊張感が、ヴィオレッタにも伝わってきた。もともと伸びやかできれいな声をしているのに、今日はかなり上擦っている。ページをめくる手が、わずかに震えている。
 ヴィオレッタは、固唾を飲んですみかを見守った。それは大夏も同じらしかった。最初から最後まで、膝の上に置いた拳をぎゅっと固く握りしめていた。
 物語が終わって、子どもたちの拍手に包まれる。
 すみかは、大きくふっと息を吐いた。
 ヴィオレッタも緊張感から解き放たれた。何もしていないのに、ドッと疲れた気がする。
 放心状態になっていると、モネがヴィオレッタを「おい」と呼ぶ。
「なぁに?」
「ヴィオレッタと大夏は、難しい顔をし過ぎだ。せっかくの楽しい話だったのに」
「朝野様が心配だったのよ。モネは楽しめた?」
「もちろんだ!」
 すみかが選んだ絵本は、海の物語だった。魚たちが、楽しく冒険をするお話だ。
「さてと。持って来たお菓子を子どもたちに渡さなくっちゃね」
 ヴィオレッタが、席から立とうとしたとき。
 ひとりの男の子が、すみかのほうへ近づいていく。
「な、なんだ……?」
 トコトコ、と歩いて行くのを見て、モネが訝しげな表情になる
 男の子は、クリッとした大きな瞳ですみかを見た。そうして。
「いたい?」
 舌ったらずな声で、男の子がすみかにたずねる。
「お顔、いたい?」
 男の子の言葉の意味が分かって、周囲の大人は息を飲んだ。
 空気がピシッと張りつめる。
 ヴィオレッタは、心臓が止まりそうになった。
「痛くないよ」
 すみかが、男の子を見ながら微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。痛そうに見えるかもしれないけど、ぜんぜん痛くないんだよ」
 おっとりとした彼女の声に、周囲の人々はホッと胸を撫でおろした。もちろん、ヴィオレッタも。
 安堵していると、ふいにすみかの声が、ヴィオレッタの頭の中に入ってきた。
『昔は、痛かった』
『アザのことを言われると、アザじゃなくて胸が苦しいくらいに痛かった』
『でも、もう大丈夫』
『痛くない』
『本当に、もう痛くない』
 とても優しい、穏やかな声だった。